男女比がどうとか以前に性格が悪い 作:河川敷の三人
一年一組の学級委員は錦城優香につつがなく決まり、その他の細々とした役割も軋轢なく振り分けられた。尻込みし、最後まで挙手しない者はいなかった。この学校に入学する時点で積極性は約束されており、各々が各々の性格や特性を確認するための場であったと言えるだろう。
しかし男子足る俺に振り分けられた役割はない。それは男子という役割を全うせよという無言の示唆なのだろうが、そこに落ち着くにせよ阿るつもりはなかった。
放課後になり、俺は教室を出た。昼間にあった部活動紹介の延長として、廊下には色取り取りの看板を掲げた生徒達で犇めいている。野球、サッカー、テニスにと、その全てに女子と枕詞は付くが、それが常識であるためにわざわざ書き加えることもない。ただ、そういった熱狂が、女子特有の穏健さを含んでいたのは目に優しかった。前世の記憶ではこういった場合、声を張り上げ笑みを浮かべ、時にはおどけたように新入生を獲得しようとするものだが、廊下の雰囲気は競争なく調和していて、たとえそれが運動系の部活であろうとも、さながら花園へと誘うように手製のビラを配っていた。
その中には男子の顔もある。その全てが教室の女子を引き連れて、守られるようにしながら辺りに目を向けている。看板を掲げた生徒達は直ちにそこへ群がった。女子を獲得することは大事だが、男子のそれに優先されるものではないだろう。寧ろ男子を獲得出来たならば、自然と女子は入ってくる。しかしそういった勘案は副次的なものでしかないようで、新品の詰め襟に向ける顔は紅潮し、熱狂も相まって調和と礼節は外れ掛けている。
俺もまた、その中にいくつかのビラを受け取った。三歩も歩まぬ内に十数枚が押し付けられ、丁寧な、しかし熱量のある文句が重なって向けられた。
対して俺は何も言わず、笑みだけを浮かべ、右手を掲げた。視線が集まる。「この様なものでして」包帯が巻かれた特徴的な指先に、思い当たった者は多かったのだろう。「あっ」と声があげられ、ばつが悪そうな表情が見えた。しかしその変化も直ちに覆い隠されて、「怪我が治ってから一緒に」と、尚も確保しようと声が重なる。
「蔭木様は、運動も得意ですものね」
いつの間にか、背後に錦城が立っていた。「格闘技も柔道も、男子に敵なしだとか」俺は振り向かず言った。「女子にもだ」いくら数が少ないとは言え、身体能力で言えば女子より男子の方が上である。勿論、貴重な男子を実戦に向かわせることはまずなく、俺が中学時代に優勝した大会も、殆どお遊びと言って良いものだったが、この拳の強さは折れ曲がった指先が何よりも象徴しているだろう。
その会話に剣呑なものを見て取ったのか、勧誘の声はお辞儀と共に去って行き、代わって錦城と、追従するクラスメイト達が俺を囲んだ。
「男子が部活動に参加することは、義務として課せられていますが、蔭木様のお眼鏡に適った部活はありましたか?」
「色々と考えはあるね。しかし錦城、俺に構っていて大丈夫なのか?」
「何を仰いますか。蔭木様は我がクラスの男子であるからには、学級委員足る私こそが率先して行動すべきでしょう」
「ああ、勿論」と錦城は笑みを浮かべた。「蔭木様がお望みでないのならば、今すぐに去りますとも」
その言葉に、他のクラスメイト達の反応は二つに分かれた。柔らかに微笑む者と、戸惑ったように俺と錦城とを見比べる者である。恐らく前者は錦城の意を汲んでいて、既に見切りを付けているのだろう。だからこそ、廊下に姿を見せた男子に向ける目線にも熱はなく、打算的な微笑みだけが浮かべられている。
「悪いとは思っているんだ」と俺は言った。
「政治的栄達、それこそ大統領になりたいのなら、ステイタスとしての男が重要だというのは分かっている。そこに関してはよくよく躾けられたからな。確かそこの彼女」俺は二組の男子の傍に立つ少女を指し示した。「君に並ぶほどではないが、それでも良いところの家柄だろう。つまり君は追い抜かれた形となる。別クラスの男子と仲良くすることは、通常あり得ないからな。しかし君はその通常ではやっていけないと判断したわけだ」
「差し出がましい事ですが、見当が外れていますよ、蔭木様。私は依然、我がクラスの男子である蔭木様を第一に思い、行動していく所存です」
「その通りだ。君はその通りに言わなきゃならない。そして本来、俺もその通りにすべきなんだろうが、しかし俺の行動指針は言った通りだ」
「妥協とは、少し悲しい言い方ではありますが、蔭木様がお望みになられる通りに、私は振る舞いましょう」
「素晴らしいね。頑張れ。勝手ながら応援するよ。君なら学生から男を寝取ることなど簡単だろう。例えばそこの……」
そう言って目を向けた先、三組の男子と会話している少女を見て、「おや」と俺は呟いた。
「椿か。彼女も安良滝高校に入学していたとは」
「あら、お知り合いですか?」
「顔見知り程度のものだがね」
椿京奈という少女は、知り合いと言えば知り合いで、しかし親しくはなかった。言葉を交わしたことも二、三回を数える程度である。それでも前世の記憶を思い出す前の俺が印象的に思っていたのは、彼女のピアノが上手かったからだ。
運動競技は明確に男女で分けられているが、芸術においてはその限りではない。男女共に同じコンクールへ参加し、その中に賞を決めるのである。
椿は小学校時代から中学時代まで、共に全国のコンクールで競った相手だった。しかし競ったとは言っても、その全てに勝利したのは俺である。ここに男子という性別が関係していたかどうかは定かではない。だが、個人的な考えを述べるならば、彼女の方が圧倒的に勝っていると言うことはないが、延々と順位を固定化させるほど、俺と彼女の技量がかけ離れているわけではなかった。
それでも天才の名誉は、男子の上でという文句に拍車が付き、俺個人に独占されていた。万年二位とは賞賛にもならないが、しかし彼女が同年代、いやさ少女ピアニストの中において、隔絶した力量を誇っていたことは確かである。
椿もまた俺に気が付いたのか、目を留めて、細めた後、軽くお辞儀をしてから去って行った。三組の男子の名は、確か工藤と言ったか。彼は男子に珍しく闊達な質のようで、同じクラスの女子達を引き連れて校内を巡る腹積もりのようである。
「椿さんは、工藤様に気に入られているようですね。よろしければ、便宜を図りましょうか?」
錦城はあくまで善意の体を成して言った。しかしそれは尋常の振る舞いではないだろう。他クラスの女子を自らのクラスの男子と引き合わせようとするとは、ここに彼女の失望はまざまざと表われている。
「いや、結構」と俺は言った。執着があるわけではなかった。「それよりも、思い出したよ」
俺は錦城の目を見た。あの時は、全く違った感情が浮かべられていた。
「君が言った、二年前の冬、国立劇場での事。君とは確かに会話したな。それをたった今思い出した。懐かしいね」
「……覚えていただけたとは、光栄です! しかし、あれは良くありませんでしたね。二年前の出来事ではありますが、若気の過ちを恥じ入るばかりです」
その時分の俺は、未だ完璧な男という概念に囚われていて、同じく対峙する女もまた、概念的なものとしか捉えていなかった。その中に対処した女性の顔は、今思い返しても朧気で、どうにも記憶に残っていない。それでも錦城という名前を記憶していたのは、その名前に母親が喜んでいたためである。
二年前、中学二年生の俺に、彼女は確か、熱烈な言葉を発したはずだった。俺自身は良く覚えていないが、母親が熱烈と言っていたのだから熱烈だろう。
見世物染みたコンサート──事実見世物なのだが──を済ませた楽屋に、本来訪れるべきではない客として錦城は現れた。彼女は紅潮した顔で熱っぽく賞賛の言葉を捲し立て、抱えるほどの花束を俺に押し付けた。警備員に引き摺られる様にして彼女が去った後、母親が息巻いていたのが印象的だった。『あれはとても良い』のだと、目指すべき一つとして語られたのを覚えている。
「カシミヤのコートを脇に抱えていたね。あれは白色だった。花束にあったのはバラとカーネーション、それとダリアに、後は何だったか。目を引くような赤色だったことは覚えている」
俺は独りごちるように言った。錦城のことを言うのではなかった。あの時、花束と共に贈られた言葉の仔細を思い出すことはなかった。彼女は困ったように苦笑して、「記憶力に優れていますね」と言った。それは皮肉かもしれなかった。女一人の顔さえ忘れていたというのに、花のことは覚えている。しかしその責任は今の俺にはなく、かつての俺にあるだろう。そう思えば奇妙なことでもあった。
世に完璧と称されし男は、他者を漠然としか捉えていなかったのだ。その心の動きの一切を表に出していなかっただけで、今と昔とを比べれば、今の方が女性に対して誠実だろう。俺は俺自身を表すと共に、相手を見ようとも努めている。女性というものを、対応すべき社会そのものとして見るのではなく、一個人として見ることが出来ている。しかし世が望むのはかつての俺であることは間違いない。
かつての優しき、微笑みだけを浮かべた、偶像のような少年を思う。完璧な男性とは、何を以て完璧とするのだろうか。或いはそれが母親の幻想に過ぎなかったとしても、その幻想に共感した者が多くいたことは事実だろう。万事容易に物事をこなし、執着を見せず、面倒を掛けず、手にするだけで自らの地位を高めるような所有物。箱の中に収められるのが男性だとするならば、たとえ如何に輝こうとも、その輝きは家庭という蓋によって閉じられるべきものである。
「確かに、宝石がものを言うのは気持ちが悪い」
「蔭木様?」
「しかし、宝石がそうであるように、男性という価値もまた、社会が漠然と保証しているために魅力的に見えているだけだ。その漠然とした保証が、全体主義的な支配構造によって法的に規定されているからこそ、錦城、君は手を伸ばさなければならなくなる。君自身の好悪もまた、社会としてはどうでも良いわけだ。そういったポーズを取らなければ、社会が君を認めることはない」
「……私は、確かに立派な人間になる事を目標としていますが、何もそれだけが第一というわけではありませんよ」
「そうだ。それはその通り。君はとても優しいね」
俺は頷いた。思わず語り過ぎてしまった後悔があった。弁明するように付け加える。
「君の優しさは、配慮という形で表われている。それは礼節と保身を多分に含んでいるかもしれないが、察することが出来なければ十分に優しさだろう」
「言外に、お察ししていると。悲しいことを仰いますね」
「そして驕りでもある。もう良いだろう。俺は行くよ」
見飽きたお辞儀を横目にし、雑沓の中を掻き分けて、俺は校内を一人歩んだ。三組の工藤のようにぶらぶらと巡るのではなかった。目指す場所はとうに決まっていて、階段を二つ上り、廊下を進んだ後、第二音楽準備室と書かれたプレートの下に立ち止まった。
鍵は既に借りていた。古めかしいドアノブに差し込み、しかしこちら側からの出入りは少ないのだろうか、少し軋んだ音を立てて扉は開かれた。
室内は綺麗に掃除されており、教壇の他、椅子と机はなかった。部屋の中央に置かれたグランドピアノに埃はなく、窓辺から差し込む日差しと暗色のカーペットの対比が穏やかだった。部屋の中にはピアノの他、バイオリンやチェロなどもケースに入った状態で置かれており、本棚には学生向けの指南書の他、より高度な技術書、歴史書、楽譜集が楽器ごとに分類されて並べられている。俺はぐるりと辺りを見回した後、真っ直ぐにピアノへと向かった。
絹のピアノカバーを、少し迷ってから教壇の上に置いて、俺は鍵盤蓋を開いた。背もたれのない椅子に座り、ペダルに足を掛ける。
左手を鍵盤の上に置き、右手は膝の上に置いた。指先を手繰るように動かす。記憶の中にある断片を、一つの音から確かめるように響かせた。
それは悦楽だった。深く潜り、浮上しては指を動かす。水の中の記憶が蘇る。暖かな、管理された室温の中、初めて二十五メートルを泳ぎ切った記憶だった。その記憶に付随すべき母親の顔も今や消えていた。ただ楽しみだけが思い起こされて、頭部に当たる水の感覚。掻き分ける掌の動き。呼吸は苦しくなく、地上よりもずっと身体が軽かった。
しかしふと、硬い音が混じった。こん、と扉を叩く音。廊下に面した扉ではなく、音楽室から続く扉からノックが響いている。
鍵は開いていたのか、指先を止めた事を合図として、扉は開けられた。思わず笑みを浮かべる。つい先程、見つめ合った顔があった。
「椿か」
「こんにちは、蔭木様。お顔を覚えて下さっていたようで何より」
何よりと言うには、錦城のようにお辞儀をするでもなく、皮肉っぽい笑みを浮かべて椿は言った。