男女比がどうとか以前に性格が悪い 作:河川敷の三人
椿京奈という少女は猫のような目をしていた。野良猫の目だ。気品を有していながらも眼光鋭く、気高さと入り混じった飢えがある。それは偏に実績と評価に由来するものだろう。そういった目が最も向けられたのは、或いは唯一向けられたのが俺だったに違いない。
椿は室内に踏み入ると、憚ることなく俺の右手を見つめ、笑った。
「治りますか、それ」
「君にとっては残念な事に」
「ええ、とても残念です。起こした事が事ですもの。復活劇が望まれているとは思えませんよ」
「率直に言う」
「こうやって男性の気を引こうと考えているんですよ。阿りや美辞麗句では、埋没しますから」
椿は全く思っていないだろう事を言って、「しかし」と俺の顔に目を向けた。推し量るように瞳が動く。
「歪んだと、それが指だけでないのは確かなようで。以前の蔭木様は、それはそれで気が狂っていましたが、今も狂っているのは同じですね」
「その評価は相対的なものでしかないな。以前は狂気で今は正気だ。それが俺自身の判断だ」
「ふうん」
椿は辺りを見回して、他に椅子がないことを悟ると、教壇の上に座った。「演奏を続けて?」とこちらに向けて微笑む。
「それは得がたい体験だったのかしら。左手しか使っていないのが泣きたくなるくらい、良い曲。私も母親を殴り殺せば、そんな曲が作れるのかしら」
「殺してはいない。刑務所に送っただけだ」
「あの人の気の狂いようを思えば、それは殺したも同じでしょう」
「完璧な男性、ねえ」と椿はせせら笑うように言った。「劣等種の完璧を?」
鍵盤を叩こうとした指先が思わず止まった。目を向ける。「こうやって、気を引こうと」嘯くように椿は言って、しかし嗜虐的な笑みを浮かべた。
「言葉にしないだけで、こう考えている女は多いでしょう。社会を支えているのは女であり、男とはその付属物に過ぎない。もっとも、その殆どは酸っぱい葡萄を羨んでいるに過ぎないけれど。手に入らないからこそ輝かしく、そして手に入らないからこそ苛立ち、攻撃的になる」
「君は違うと?」
「安心して、処女だから。つまり私の言葉もまた、下らない僻みでしかない」
言いながら、椿の眉間は神経質に皺を刻んだ。肩口にカールする黒髪が揺れる。口元は震え、弧を描き、目を閉じた。
「見下す男に、男というだけで功績を掻っ攫われ、しかし確かに勝ちきれないとも思っていて……」椿はそこで苦笑した。「そして今、その男が素晴らしいものを生み出した瞬間に立ち会っただけの、無様な女の言葉よ」
「無様か」
「そう無様。それが自己紹介。私の名前は椿京奈。どうかこれから、よろしくしないでね」
唇は閉じられた。椿の精神性を示すように固く締まり、薄らと開けられた目が俺の反応を伺っていた。『自傷か』と俺は思った。彼女の言葉が今に作られたものではないことは自明だったが、しかしそれを言葉として形にした切っ掛けは今この瞬間だったに違いない。
俺は鍵盤を叩いた。椿の目がゆっくりと開かれる。「それは、殴るようなものよ」紡がれた音に顔を顰めた。「殴るより酷いわね」
俺が紡いだものは断片に過ぎず、一つのフレーズに過ぎなかった。それを次々と並べ立て、ジャンルさえも節操なく変えていき、出来上がったものは歪なメドレーだった。
「片手落ちだ」指を止め、俺は言った。しかし気が付いて顔を上げた。
「ああいや、冗談ではなく」
膝に置いていた右手を振って苦笑する。それでも椿は憮然とした顔を崩さなかった。
「冗談じゃない、と言いたいのはこちらの方だけど。なに、貴方の天才は、既存を打ち破ることにあったって? だから母親を殴った。だから私の言葉を無視する。うんざりね」
「これも既存の範疇だとしたらどうする」
「私、現代音楽に興味はないの。既存を逸脱する事を目的とした逸脱なんて、意味を履き違えてない?」
「別にこの先を目指しているわけじゃない。素晴らしいフレーズを聴かせて、それが無意味だと言いたいわけでもない。俺が言いたいのは、これが既に存在しているという意味だ」
「分かるか」と俺は言った。「分からない」と彼女は言った。教壇から腰を上げ、椅子の近くに佇む。見下げる形を取りながらも、遠くを見るような目を浮かべている。
「俺は自分を正気だと思うが、しかしその正気の証明は、狂気を以てしか行われないだろう。社会に対する狂気だ。そこに妥協点を見つけることが当面の目標だが、しかし譲れない部分もあってね」
「そんな事を言う時点で狂人でしょう」
「この音楽は、俺が正気なら俺のものじゃない。しかし俺が狂気ならば俺のものとなる。だから俺は、どうしても自分が正気だと、証明しなければならないわけだ。妥協点を探りながらね」
「分かるか」と再び俺は言った。彼女は何も言わなかった。沈黙が続く。
俺は左手を動かした。一つの音楽が始まった。
それはこの世界の、子供が弾く曲だった。左手と、右手の三本指だけでも弾けるような、今となってはとても懐かしい曲だ。鍵盤の上を行き来する指先はゆっくりとしていて落ち着いて、しかし感情を込める余地は多分にある。余地があるからこそ技巧を見せびらかすことのないように努め、奥底から掬い上げるように、音の一つ一つを立てていく。
椿がピアノからそっと離れ、俺の背後に立ったのが分かった。その目に何が見えているのかは分からない。しかし俺の正気は音に響いているだろう。或いは陽気、心身の充足と呼び変えても良かった。抑圧を撥ね除けるのではなく、抑圧そのものが存在しない世界。見晴るかす大平原と巡る太陽に月。空。陰影は翳りではなく色彩だった。陰陽は互いを分断せず、混じり合って豊かになる。
それがとても楽しくて、俺はつい指先の心地に囚われた。包帯が巻かれた指先を叩き付けようとした。しかし、直ちに手首が掴まれた。
音が止まった。振り返れば、椿は酷く厳しい表情で俺の指先を見つめている。手首は強く握られて、しかし「あっ」と撥ね除けるような声と共に離された。
椿は三歩下がった。それでも足らず、更に下がった。真っ赤な顔で右手首を握り締め、睨むようにこちらを見つめている。
皮肉っぽい笑みを見せて、彼女は言った。
「所詮、女なんて、こんなものね」
「ねえ」と椿は右方、音楽室に繋がる扉へ向けて言った。「覗き見とは、趣味が悪いじゃない。何か言いたいなら、最初から言えば良いのよ。私みたいに」
覗き見。果たしてその言葉は真実だった。椿が閉めたはずの扉は僅かに開かれて、そこから学生服の黒色が見えている。少女と思しき肩が跳ねて、ばつが悪そうに扉を開けた。
見覚えがある顔だった。しかし常の朗らかさを繕おうとして、致命的に失敗している。口元は締まりなく、頬は紅潮し、視線は右往左往として定まらない。
そんな、何時にない様子の錦城に対し、椿はせせら笑うように言った。
「あら、ストーカーじゃない。宗旨替えしたのかと思ったら、性根は変わらないのね」
「ストーカーとは、随分な物言いではないですか、椿さん?」
真っ赤な顔は、しかし怒りから来るものではないようで、錦城の言葉は弱々しく、単なる文句に留まった。
俺は自然と、物珍しく錦城を見つめた。彼女は回る目の中にもその視線に気が付いたようで、「申し訳ありません」と何時ものようにお辞儀をしたものの、やはり形になってはいなかった。それが何に対する謝罪なのか、彼女は口にすることなく視線を切って、椿を睨むように見つめた。
「聞き耳と、そう誤解されてしまうような行為をしてしまった事は、誠に申し訳ございません。蔭木様、及び椿さんのお二方へ、深く謝罪いたします。しかし、先程の発言はどういうことでしょうか? 男性を、口にする事すら憚れるような呼び方で呼称するなど、これは学内だけの問題に留まりません。即刻警察機関へと通報し、沙汰を下すべきでしょう」
「ああ、そこから聞いていたのね。流石、出待ちには慣れている」
「私がどこから聞いていたかなど、どうでもいい話です」
「そうかしら。確かに侮辱罪には当たるだろうけど、この場合、本人が被害届を出さなければ立件できないでしょう?」
「だって貴方が証言するなら、自分のストーカー行為も自白しなければならないもの」椿は笑うように言って、「そして、蔭木は被害届なんか出さないわ」と俺を見た。
俺は頷いた。錦城が問い質すような目を向ける。「ここに関しては妥協しない。何せ椿には殴られなかった」そう言った。
「錦城、君が聞いていたというのなら、少しは分かったかもしれない。俺の信条とは、あれだ。空だよ。世界だよ。それを思ってくれ」
「……確かに、以前にも増して、素晴らしい演奏でした」
「分かったつもり? 手元よりも顔を見ているくせに」
「蔭木様の内心を、完全に分かった気になるなど、それこそ不遜でしかありませんが、しかし、思い感じるところはありました」
ほうと息を吐き、錦城は微笑みを繕った。やはり不完全で、唇は緩んでいる。しかしその緩みこそが彼女自身の感情だろう。
「蔭木様が、そう判断されたのであれば、私は何も言いません。此度の事は、私の胸内に留めておく事にしましょう」
錦城はそう言って、お辞儀をした。「では」と背を向ける。しかし俺は気になって言った。
「それはそうと、君がストーカーとはどういう意味なんだろうか」
「う」
露骨に肩を跳ねさせて、錦城は立ち止まった。椿の口元が弧を描く。「何を勝手に纏めようとして」その言葉に錦城は振り返り、収まり掛けた紅潮を耳まで広げて言った。
「それは、椿さんの勝手な物言いです。たとえ女性に対するものであろうとも、侮辱が罰せられるのは道理でしょう。そうでなくとも人道に、倫理に欠けた発言です。そうですね、撤回を要求します。私が蔭木様のストーカーなど、事実無根の発言を撤回して下さい」
「私は一言も、蔭木に対するストーカーだとは言ってないけどね」
「状況を考えれば、そう捉えるのは自然でしょう。男性と女性とでは、どちらにその言葉が相応しいか。悲しいことではありますが、ままある例として取り上げられるのは事実です。その上で椿さんが、私を指して、自分のストーカーだと仰ったのならば、失礼ではありますが、それは少々自意識過剰ではないでしょうか?」
「噛み付くわね、本当に。一々長ったらしい」
「ねえ」と椿は俺に目を向けた。「蔭木様」と錦城もまた訴えかけるように俺を見る。俺はゆるゆると首を振った。諍いはどうでも良く、ただ不思議に思っただけである。元より覗き見をしていた事もそうだが、錦城は俺に見切りを付けていたのではなかったか。
そこで椿は意地の悪い笑みを浮かべ、錦城に言った。
「まあ、何だかんだ言おうとね。そちらはどうか知らないけど、私にとって貴方は四十七人目でしかないから」
「……四十七人目、ですか?」
「『貴方は蔭木様に相応しくない』と、面と向かってそう言ってきたのは、貴方で四十七人目よ」
「万年二位でも、目立つものね」と椿は笑って言った。錦城は唇を閉じた。深く耐えるように唇を噛んでいた。今この瞬間に激しい運動をしたかのように、首筋まで赤色に染まっている。
それは恥辱なのか怒りなのか、恐らくは両方であろう感情の行き場を、しかし錦城は言葉に投げ付ける事なく、ただ踵を返し、扉の前に立ち止まって、振り返ってお辞儀をした。
「また明日、教室にてお目にかかれます事を、心より楽しみにしております」
言葉遣いは依然変わらず丁寧だったが、語気強く、最後は殆ど投げ捨てるようにして、錦城は去って行った。
椿はその背をけらけら笑って見送り、「じゃあ、私も帰るから」とふらふら外に向かっていった。「ああそれと」思い付いたように振り返る。
「今日みたいな事を言うのは、私の前だけにしときなさいよ」
俺は少し考えて「まあな」と言った。椿は嬉しそうに頷いて、ひらひらと手を振って去って行った。