男女比がどうとか以前に性格が悪い 作:河川敷の三人
これは男子だからというよりもこの高校に特有なのだが、俺は徒歩ではなく車で登校している。校門から伸びる道路は昇降口に直接繋がらず、その前方、噴水を中心とした広場に面す形で曲がり、広大なロータリーとなっているのだが、朝は常に様々な高級車でごった返し、ちょっとした渋滞を生み出している。
そこで時間を食うのならば、校門の少し前で止まり、短くとも徒歩で入ればいいものの、尚も楽を優先するのか、或いはそこにも政治や家格が関係しているのか、噴水の前に降りる子女達の顔は誇らしげで、降車に際した足取り、振り返って礼をし、去り行く車を眺める所作なども、礼節を一貫して披露しているようであった。
そんな事をしているものだから、車はのろのろとして一向に進まない。「どうりで」と俺は車内に呟いた。妙に早く起こされたと不満に思っていたが、これが朝の日常であるのなら、普通に起きては遅刻してしまうだろう。
「それでも礼節をかなぐり捨てれば、二度寝が出来るわけだ。どうですか、明日からはその様に」
「男性がその様な真似をすれば、批判されますよ」
「俺は批判など気にしませんがね」
「ではこう言いましょう。私が批判されます。そして私は批判を気にします」
後部座席の隣、パンツスーツ姿の女性。芦川さんは無表情に言った。「気にしますか」と俺は言った。「職業柄ですね」と彼女は真正面を見つめたまま言う。その襟元には金色が輝いている。外にひまわりを、中心に天秤を刻んだそれを見て、俺は何度目になるか分からない不思議を思った。
「どうして弁護士のバッジは、ひまわりと天秤をモチーフにしているんでしょうかね」
「ひまわりは正義と自由を、天秤は公正と平等を表しています」
「それは知っているんですが、しかし芦川さん、俺はまた面白い事を言いますよ」
「またですか」
「たとえばこの世界が女社会ではなく男社会だったとしても、そのモチーフは変わらないと思いますか?」
芦川さんは目線だけをこちらに向け、困惑した様子もなく「知りませんよ」と素気無く言った。すっかり慣れた様子だった。彼女とはまだ数か月の付き合いでしかないが、未だにその表情に、感情を見出せたことはない。
母親の、そして俺が起こした事件に対して、実家が雇った弁護士が彼女だった。といっても、彼女が弁護するのは母親の方ではなく俺だった。老境に入り、曖昧となった祖母は、それでも糺すべき対象を理解していたようで、実の娘に関しては国選弁護士に任せ、俺に対しては彼女を付けた。それは家を抵当に入れての雇用だったらしく、銀行員を迎え入れた庭先に、酷く遠い目を浮かべていた事が印象に残っている。
しかし、ただ弁護士を雇うだけで家は抵当に入らない。祖母が芦川さんに依頼したのは、事件に対してだけではなく、俺の今後に関してであった。男性の生活を補助し、不自由がない様に努めるそれは、『補助員』と一般的には言われている、歴とした国家公務員である。
母親がそれを申請せず拒否したのは、俺に対する支配欲もあっただろうが、その大本は祖母だった。祖母は国家を嫌悪しており、家の伝統を持ち出しては、現在の社会を批判していた。その結果が母と俺だというのが皮肉極まるが、それでも僅かに残った誇りからか、独自の伝手を使って資格を持った者を選考し、任期付き職員として芦川さんをねじ込むに至っている。
本来ならば金を支払う必要すらなかった。寧ろ受け取る立場だった。『馬鹿馬鹿しいですね』とかつて芦川さんは言った。俺もまた頷いた。誇りを守るために必要なものが金だけだとしたら、これほど楽なものはない。
『もっとも』と、礼節をあえて無視し、粗雑に車を降りる俺へ、向けられる視線に思う。『金を使えるという事自体が、誇りなのだろうけど』
こういった朝の時間に、礼節に。ただ生きるだけには不必要なものに金と時間を掛けるからこそ、力は高貴さを保って表すことが出来る。金と時間を掛けることが出来るという力。礼節と言う名の暴力は、しかし目に見えて振るわれることはない。ただこの視線のように、無言に異端を侮蔑し、排斥するだけである。
「では芦川さん、また放課後に」
「夕食は何が良いですか」
「ピザとコーラ。ポップコーンも付けて映画を見ましょう」
「またサメですか」
「いいえ、今日はカンフーです」
携えたタブレットに予定を書き込む芦川さんに背を向けて、噴水を横切り、下駄箱に靴を履き替えて階段を昇った。一年生の教室は三階にあり、二年生は二階、三年生は一階となっている。窓辺から見える桜並木が綺麗で、何度か立ち止まってそれを眺めた。声を掛けられることはなかった。教室に入る。
「おはよう」と言った一年一組のクラスは、その一声にしんとして、しかし直ちに「おはようございます」と返された。錦城が微笑みと共に寄って来る。
「おはようございます、蔭木様。昨日はお恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
「ああ、ここで言うのか」
「失態でしたから」
取り巻きの女子達は怪訝そうな顔を浮かべていた。確かに昨日、錦城はあの場に誰かを連れていなかった。その理由は椿が言う所ではストーカー、つまり曲がりなりにも俺へと向けた愛や恋やららしいが、今この場に彼女が繕う微笑みは、そういったものを感じさせない。
談笑が朝の風景に挿入される。それはシステマチックに規定されているようですらあった。「春の桜が」と、時節に際した一文句を、錦城は窓を示して語った。「花見の季節ですね」そして「名所としては錦城の庭だけでなく、そちらの」と、周りを立てる事も忘れず、悠々と会話を織り上げていく。錦城という苗字を俺は思った。錦の城とは確かな字だった。
「どうでしょうか、蔭木様。春の桜が散る前に、クラスの有志を募り、懇談会を開くのは」
話はそこに落ち着いた。「それはとても良いお考えですね」と、「伝統でもありますから」補強するように言葉が重なる。しかし錦城以外の女子、その瞳の奥には依然として探るような色があった。
怪訝な表情は、織り上げられる会話の中に隠れたものの、しかし失われる事はなく、錦城へと向けられている。昨日の態度を思えば、その疑問は自然だった。次いで同じような目が俺に向けられる。『何があったのか』錦城が言った失態とは何か。そういった無言の探り合いは、やはり誇りによるものでもあるのだろうが、芦川さんが言ったように馬鹿馬鹿しいのも事実である。
「ピアノを弾いたんだ」と俺は言った。
錦城への返答にはなっていなかった。しかしこの場への回答ではあった。「昨日の事だよ」と補って説明する。
錦城は、その言葉を予期していたように「そうですね」と微笑んだ。
「昨日の放課後、皆様と校舎を巡りながらも、中座した折の事です。音楽室からピアノの音が聞こえて、それがあまりにも素晴らしかったものですから、つい聴き入ってしまったのです」
「ああ、そういえば、その様な事もありましたね」
「そして、失礼になると分かってはいましたが、鍵がかかっていなかった事もあり、中に入ると、ピアノを弾いていたのは蔭木様だったのです。私は非礼を詫びながらも、しかし口は感動の勢いそのままに賞賛を言って、すぐさま恥ずかしく思い、逃げるようにその場を去ってしまいました。お恥ずかしい事です」
「まあ、それは」
女子達は色めきたった。その時だけは探るような目も消え失せ、ただこういった物語を面白がるような、年相応の顔が見えた。
しかし、どうなのだろうか。物語は明らかに一定の部分を省いていた。主観というだけでは説明出来ないものがある。俺は錦城を見た。目が合った。微笑みが浮かんでいる。ただ、そうある。
彼女は多くの女子達のような、可愛げのある隙を見せないでいる。それは感情そのものだろう。彼女の態度に他者を拒絶するものはない。誰かに刺さり、誰かを傷付けるような、感情という棘がない。彼女は流線形の態度を保っている。
だが、それを前提に置くならば、そもそも彼女が昨日の出来事を挨拶に出したのは疑問でもあった。先手を打ったという事なのだろうか。余計な事を言われる前に、独自の物語を織り上げて、それを事実とする。そうなれば後は信頼の如何に任せるだけであり、そして信頼を言うならば、俺が錦城に勝てるはずがない。
そこまで考えて、俺は止めた。これが彼女なりの妥協なのかもしれなかった。だとすれば、ここは歩み寄るべきだろう。
向けられる目に俺は頷いて、「そういう事があった」と言った。黄色い声が響く。
「でしたら」と、内の一人、確か北山という少女が手を合わせて言った。
「私も、蔭木様の演奏を聞いてみたいです。どうでしょうか、懇談会に、演奏していただくというのは」
「いけません」
俺が何かを言う前に錦城が言った。おや、と思った。浮かぶ微笑みに似合わぬ、強い声色だった。
「いけませんよ、北山さん。蔭木様のお怪我を忘れたのですか。あの時も、確かに素晴らしい演奏でしたが、左手のみによるものでした。そのような状態の男性が、衆目に晒される事を、貴方はよしとするのですか?」
男性と、錦城は強調して言った。それは個人に対する心情以上に、社会的な常識に欠けている事を咎めているようだった。
発言した少女は顔を青ざめさせ、慌てて頭を下げた。周囲は擁護することもなく「そう、ではありますね」と、常識の立場に寄っている。
「しかし、全ては私が勝手に思った事です」と錦城は言って、俺に顔を向けた。「蔭木様はどう思いますか?」
『投げて来たな』と俺は思った。それは会話の行く末だけではなく、妥協点そのものでもあった。この会話を試金石として、彼女は俺という人間を量ろうとしている。
北山の青ざめた顔を見る。この失敗は彼女にとって致命的だろうか。そのように容易く蹴落とされるのがこの学校なのだろうか。それを救い、北山の側に立つのか。それとも錦城の常識の側に立つのか。
錦城は全く抜け目がなく、そして挑戦的だった。昨日の紅潮が嘘のように、互いの距離を測ろうとしている。
「面倒だな」
「それは何が?」
「全てが」
「まあ」
短く言い合って、俺は立ち上がった。教室の扉へ向かう。「ホームルームが始まりますよ」という錦城の声に、俺は言った。
「バイオリンを持ってくる」
「はい?」
廊下を走るなという貼り紙は、しかし貼ってあったとしても男子に注意出来るものではない。俺は第二音楽準備室からバイオリンを持ち出し、直ちに教室へ戻ってそれを構えた。
教室内の空気は明らかに落ち着いておらず、騒動の中心もそのままだった。北山は表情をますます悪くさせており、涙さえ浮かべている。しかし、それを救ってやろうというわけではなかった。
「俺がお前達の会話に思ったのは」左手を弦に合わせ、右の使える指で弓を押さえる。「俺を安く見るなという事だ」
静まった教室に音が響いた。行われたのはそれだけだ。しかし彼女達の力が無言の礼節に現れるとするならば、俺の力とは実行によって現れるものだった。
元よりそれが性根に合っていたのだろう。今更ながらに自覚した。あの時、母親に対して、俺は文句を言うでもなく第一に拳を放った。社会に性根が合わないのは生まれながらのものかもしれなかった。或いは性別か。男という性は、社会によって封じられながらも、生まれながらの暴力性を隠し持っている。
俺は音を、殴り付けるように響かせた。唖然とした顔。感動を見せる顔。逆に白けた様な顔。女子達は俺の行為に様々な反応を返す。それが楽しかった。喜ばれる事も蔑まれる事も、全ての変化は俺の行為によって生まれていた。『行為だ』と俺は強く意識した。『言葉ではなく行為なんだ』
俺が嫌っているのは社会ではなく言葉なのかもしれなかった。或いは、女権社会の本質とは言葉なのかもしれない。女という性の本質が調和だというのなら、俺がそれを面倒と思うのは単純な性差によるものである。
やがて、指を止め、音が止まった。ぱらぱらと、思い出したように拍手が響く。その音を遮るように俺は言った。
「懇親会、良いだろう。そして演奏も良い。そしてだ、これが『そのような状態』に見えるか? これが『衆目に晒される』と言えるのか」
「錦城、そして北山」と俺は名指しして言った。「俺はこういう人間だと、このように、改めて自己紹介してやった」
北山は、唖然とした顔を浮かべ、助けを求めるように辺りを見た。それが彼女の回答だった。彼女は常識の側に立った。『果たして無言は行為だろうか』俺はそんな事を思った。しかし、変化させる事を目的にするのではなく、察せられる事を目的とした行為は、やはり言葉の付随物、言葉という働きの先触れとしか見えず、そして性別の表れとも見えた。
一方で、錦城は押し黙っていた。微笑みさえ浮かんでいない。「そうですか」と発せられた声音は平坦で、何を示すこともなかった。
ただ、教室内の騒動がひとまずの落ち着きを見せて、おずおずと教師が顔を出した後、慌てて席に着くざわめきの中に、錦城は囁くように言った。
「私の特別を、貴方は暴力として使ってしまうのですか」
恨みがましい、じっとした、粘つくような目を浮かべ、錦城は俺の後ろに座った。