スメール自己犠牲救済任務:花神譚   作:水鏡ケイ

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第1話

 月光が降り注ぐ宮殿の奥底、沈香とパティサラの香りが混じり合う静寂の中で、私は彼女といた。

 リルパァール。誇り高く、そして誰よりも苛烈な運命を背負った我が愛しきジンニー。

 

 私は、遠い未来の残影を視ていた。

 それは予知であり、黒潮の危機を見たのと同じ力だ。いつかリルパァールが経験する未来の出来事……その転機に旅人が現れた。

 

 その風景の中で私は「彼」と目が合った。

 

 金色の髪。どこか遠い世界を思わせる瞳。

 彼はリルパァールの古い記憶を覗き、そこに映る私の姿を、ただ見つめている。

 

 彼にとっては、これは過ぎ去った過去の残像に過ぎないのだろう。

 自身の視線が、数千年の時を逆流し、今この瞬間を生きる私の現在と交差していることなど、彼は露ほども知らない。

 彼はただ、記憶の中の私を見ているつもりでいる。

 

 だが、私は違う。

 重なった視線の奥、私は彼の「運命」を読み取ろうとした。神の権能を振るい、彼がこの地に何をもたらすのかを。

 

「……っ」

 

 不意に、視界が白く弾けた。

 見えない。

 彼の背後に広がるはずの因果の糸は、一本も存在しなかった。

 

 彼は私を見て無に直面したと感じたようだ。だがそうじゃない。彼が私の視線から見ていたのは彼自身の未来だ。

 

 テイワットに生きるあらゆる存在、魔神も、ジンニーも、アランナラも、その未来には軌跡が見える。

 しかし、私の瞳を見る彼の目の前には、ただ果てしない「空白」だけが広がっていた。

 それは虚無ではない。

 この世界の理(ことわり)が、一行たりとも書き込むことのできない、真っ白な頁だった。

 

(ああ……)

 

 私は理解した。

 彼こそが、綻びだ。

 数千年にわたり、私たちが積み上げることになる自己犠牲の物語。彼女の残酷な結末を書き換え、因果の連鎖を終わらせられるのは、この「空白」を背負った旅人だけなのだ。

 彼でなければ世界の理を変えることはできない。彼女を忘れたとしても、彼のことを覚えていれば……

 

 光が遠ざかる。視線が切れる。

 

「どうしたのですか?」

 

 現世の宮殿で、隣にいたジンニーの娘が不思議そうに私を覗き込んだ。

 私はそっと目を閉じ、今しがた感じた「無」の感触を、消えない熱として胸に刻んだ。

 

「……何でもないわ。ただ、面白い未来が見えたの」

 

 私は彼女の髪を優しく撫で、独り言のように囁いた。

 

「リルパァール。いつかすべてが砂に消え、物語が絶望に染まった時……誰にも予知できない『無』が、あなたの前に現れるわ」

 

「何か見えたのですね」

 

「ええ、こうしてはいられないわ。飢え、身分、差別、分断……すべての問題が些細な犠牲で解決するの」

 

1

 

 スメールシティの朝はいつも賑やかだ。

 

 市場では商人たちが声を張り上げ、香辛料と焼きたてのパンの匂いが入り混じる。教令院への坂道では、学者たちが重そうな書物を抱えて急ぎ足で登っていく。路地からは子供たちの笑い声が響き、追いかけっこをする足音が石畳を叩いている。

 

 この国の活気は、草神ナヒーダの統治が始まってから、より一層増したように思える。

 旅人は市内の聖樹の下、木陰のベンチに腰を下ろしていた。朝の光が木の葉の隙間から差し込み、地面に複雑な影の模様を描いている。風が吹くたびに、その模様がゆらゆらと揺れた。

 

「なぁ、ナヒーダから連絡があったぞ! すぐ来てほしいって」

 

 パイモンが小さな両手をぶんぶん振りながら、空中で揺れる。

 

「何かあったのか?」

 

「詳しくは聞いてないけど、困ってるみたいだぞ」

 

 旅人は立ち上がり、服についた埃を払った

 

 二人は聖樹の坂を上っていく。

 最上部。ナヒーダの部屋。

 小さな草神は窓辺に立ち、朝の光を受けて静かに外を見つめていた。その背中は、世界の重みを一人で背負っているかのように小さく見えた。

 

「旅人さん」

 

 ナヒーダはゆっくりと振り向いた。その表情には、心配と、そして何か言いづらそうな影がある。眉間にわずかな皺が寄っていた。

 

「どうした? 何かあったのか?」

 

「ええ……実は、困ったことがあって」

 

 ナヒーダは窓辺から離れ、机の上に並べられた資料を指し示した。そこには手書きの譜面や、緑色の花弁を模した印がいくつも押されている。

 

「三ヶ月くらい前から、ヴァナラーナのアランナラたちの様子がおかしいの」

 

「おかしい?」

 

 旅人は机に近づき、資料を覗き込んだ。知らない言語で書かれた何かと、それを翻訳したらしいメモ。

 

「ある古い歌を歌おうとするのだけど、途中で混乱して止まってしまうの。でもみんなが思い出したがってる。まるで、彼らの心から大切な一片が欠け落ちてしまったかのように」

 

 旅人は眉をひそめた。アランナラたちの記憶は、彼らの命と深く結びついている。彼らが何かを忘れるというのは、尋常なことではない。

 

「それで、アランナラと仲が良い教令院の研究員に調査を依頼したのだけど」

 

 ナヒーダは少し言葉を選ぶように続けた。

 

「マリーという研究員が、とても熱心に取り組んでくれてるわ。古代言語の専門家で……」

 

 彼女は一瞬、言葉を濁した。その沈黙は短いが、旅人の心に引っかかりを残した。

 

「ただ……」

 

「ただ?」

 

「いえ、何でもないわ。でも彼女一人では大変でしょう? アランナラと話せる人は多くないし……」

 

 ナヒーダの小さな瞳が、旅人を見つめた。

 

「お願いできる? マリーに協力して、この謎を解いてくれないかしら」

 

 旅人は、ナヒーダの様子に何か引っかかるものを感じた。まるで何か言いたいことがあるのに、言えないような。

 しかし、草神の依頼を断る理由はない。

 

「場所は?」

 

「今日の午後、彼女が図書館であなたを待っているわ。詳しくはマリーから聞いて」

 

「わかった」

 

「ありがとう、旅人」

 

 ナヒーダは少し安堵の表情を見せたが、その目にはまだ言い尽くせない複雑な感情が残っていた。

 

「彼女は長い間、人とのかかわりを避けてきたから、何かあってもおおめに見てあげてほしいわ」

 

 そうナヒーダは言っていた。その時は、旅人はただ彼女の対人面を心配しているのだと納得し、深く追求することはしなかった。

 

2

 

 午後、教令院の図書館。

 旅人とパイモンは、古文書の並ぶ薄暗く静かな空間で、古書の匂いに包まれながら待っていた。

 

「ねえ、どんな人なのかなあ、そのマリーって」

 

 パイモンが周りを見回しながら言う。

 その時、図書館の奥、古文書の書架の隙間から足音が聞こえた。靴音が静かな床に響き、近づいてくる。

 

 振り向くと、若い女性が抱えきれないほどの資料を胸に歩いてきた。

 旅人は一瞬息を呑んだ。

 

 長い髪が柔らかく揺れている。眼鏡の奥の瞳は知的で、でもどこか掴みどころのない憂いを帯びている。学者の服を着ているが、その立ち姿には気品があった。

 

 そして何より、その顔立ち。

 砂漠を冒険していた時に見た映像が蘇る。

 まさか……いや、でも、ありえない。 旅人は、自身の推測を即座に否定しようとしたが、心臓は早鐘を打つのを止めなかった。

 

「あの……旅人さんですか?」

 

 女性が近づいてきて、丁寧にお辞儀をした。

 

「マリーと申します。お会いできて光栄です」

 

「ああ。旅人だ」

 

 旅人は努めて冷静に答え、その女性の顔を観察した。彼女の肌の色や髪の色は、知っている物とは異なる。だが、顔の輪郭、目の形が、あまりにも似すぎている。

 

「おいらはパイモン!」

 

 マリーは微笑んだ。その笑顔は優しく、でもどこか寂しげだった。

 

「ナヒーダ様から、協力していただけると伺いました。本当にありがとうございます」

 

 彼女は机に資料を広げ始めた。資料が机に触れる音が、静かな図書館で大きく響く。

 

「早速ですが、調査結果をお見せします」

 

 マリーが広げたのは、楽譜のような紙。アランナラの方言と古代スメール語が複雑に混在していた。

 

「これが、アランナラたちが歌おうとしている歌です」

 

「アランナラがこんな暗号みたいな歌を……?」

 

 パイモンが驚く。

 

「はい。三つの言語が混ざっています」

 

マリーは資料を指差しながら説明する。

 

「アランナラの方言、古代スメール語、そして砂漠の古語も少し」

 

「砂漠の?」

 

 旅人は聞き返す。砂漠の言葉が森林の深い記憶と混ざっていることに、大きな違和感を覚えた。

 

「はい。キングデシェレト時代の言語です」

 

マリーは別の資料を取り出した。

 

「この歌は、ただの歌ではありません。何かの場所を示唆しているんです」

 

「場所?」

 

「はい。歌詞を分析すると……」

 

 彼女は書き込みだらけのメモを見せる。その情熱は、ナヒーダが語った「熱心さ」を遥かに超え、ほとんど強迫観念に近いものに感じられた。

 

「『深き森の、さらに奥』『時が止まる場所』『守るべきもの』……こういった言葉が繰り返し出てきます。でも……」

 

 マリーはふと困惑した表情を見せた。知的で確信的だった目から、一瞬、迷いがよぎる。

 

「具体的にどこなのかが、わからないんです」

 

彼女は申し訳なさそうに続けた。

 

「記録にも残っていないんです。まるで意図的に消されているかのように」

 

 旅人はマリーの苦悩に満ちた顔を静かに見つめた。

 

「マリー。俺は専門家じゃないからどこまでできるかわからないけど、俺は未発見のスメールの遺跡を探索してきた。この手掛かりをみて何かわからないか考えてみるよ」

 

「ええ、そうですね……あなたが最後の希望なんです。どうしても解明しなくてはならなくて……」

 

「そんなに抱え込むなって。アランナラが心配なのはわかるけど根を詰めるのは良くないぞ」

 

「パイモンの言う通りだ。そうだな……温かいものでも飲んで一息ついたらどうだ。その間に資料に目を通しておくよ」

 

 旅人は、純粋な気遣いから、ごくありふれた提案をした。

 

 マリーは、旅人の言葉を聞き、資料から視線を外した。そして、微かに瞳が揺らぎ、遠い記憶を探るような色を帯びる。

 

「……温かいもの……。そう、お茶……」

 

 マリーは自問するように呟いた。

 

 次の瞬間、彼女の纏う空気が完全に変わった。その瞳は、静かで深い確信によって光っている。旅人は、その唐突な豹変に、なぜか取り返しのつかないことをしてしまった気がした。

 

「旅人さん、ありがとうございます」

 

 マリーは冷静で、揺るぎないトーンで言った。

 

「論理に囚われて、最も重要な前提を見落としていました!」

 

 彼女は地図上の、人が立ち入らない深い空白地帯を、強い意志を込めて指し示した。

 

「この三つの情報が、この一点を指している。間違いありません。ここがアランナラの異常の原因となる場所です!」

 

 旅人は、マリーが指差す地図と、彼女の顔を交互に見た。

 

「え、どうしてそれだけでわかったんだ?」

 

 パイモンが戸惑いながら尋ねた。

 旅人もまた、マリーの論理の飛躍を理解できなかった。しかし、マリーの眼差しには、問答無用の確信が宿っていた。

 彼女自身がこの場所に強く引き寄せられているという危機感だけが、旅人の全身を覆った。

 

「一緒に行っていただけますか? その場所に」

 

「ああ」

 

「本当ですか!」

 

マリーの表情が明るくなった。

 

「では、明日の早朝に出発しましょう。準備は全て整えます」

 

 旅人は思った。アランナラにとって記憶は大切なものだ。マリーのことはよくわからないが、アランナラが心配だ……マリーの言う通り、その場所に行ってみよう。

 それに先ほどから胸騒ぎがする。

 

3

 

 翌朝、スメールシティの門。旅人とパイモンは、マリーと待ち合わせていた。

 

「おはようございます!」

 

 マリーは大きな荷物を背負って現れた。調査道具や食料が詰まっているらしい。

 

「準備はいいか?」

 

「はい! 万全です」

 

 三人は森へと向かう道を歩き始めた。

 

 朝の森は美しかった。木漏れ日が地面に模様を作り、鳥たちが歌っている。

 

「マリー、学者なのに荷物持ち慣れてるな」

 

 パイモンが感心したように言う。

 

「ああ、遺跡調査が専門なので、こういう旅は慣れてるんです」

 

 マリーは笑顔で答える。

 

 旅人は横目でマリーを見た。その横顔は本当に美しい。そして、やはり見覚えがある。

 

「旅人さん、どうかしましたか?」

 

 マリーが不思議そうに旅人を見た。

 

「いや、何でもない」

 

 旅人は視線を逸らした。

 

4

 

 目的地へ向かう途中、ヴァナラーナを通ることになった。

 アランナラたちの歌に異変があると聞いた以上、彼らの様子を直接確かめないわけにはいかない。

 古樹と花の香りが混ざり合い、どこか懐かしい、夢の世界にいるような空気が漂っている。

 

「ナラヴァルナ(旅人)! 久しぶりだね!」

 

 アランナラたちが小さな手を振りながら、喜びを全身で表して駆け寄ってくる。

 

「久しぶり、思ったより元気そうだな」

 

 旅人はアランナラたちと挨拶を交わす。マリーも丁寧に、そして優しさに満ちた眼差しで彼らにお辞儀をした。

 

「アランナラさんたち、あの歌を聞かせていただけますか?」

 

 マリーが尋ねると、アランナラたちは顔を見合わせ、不安げに葉っぱを揺らした。

 

「あの歌……? うん、歌うのだ」

 

「でも……ところどころ忘れてしまって歌えないんだ……」

 

 アランナラたちは歌い始めた。不思議な旋律。古い言葉が織り交ぜられている。マリーは真剣な表情で聞いている。時々、メモを取っている。

 

 しかし、歌は途中で、不協和音のように途切れてしまう。

 

「……思い出せない……」

 

「大切な歌なのはわかるのだ……でも……何が大切だったのかが、わからないのだ」

 

 アランナラたちは、困惑と喪失感に苛まれている。その感情が、旅人の心にも痛いほど伝わってきた。

 

「マリー、行こう」

 

 旅人は決断した。このままここで立ち止まっていても、アランナラたちの苦悩は増すばかりだ。

 

「はい」

 

 三人はアランナラたちに別れを告げ、森のさらに奥へと進む。

 アランナラ達はまるで彼らの背中に何かを託すように見送っていた。

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