1
黒い羽根が、鋭い刃となって旅人に襲いかかった。
旅人は反射的に剣で防ぐ。金属音が響く。羽根はまるで無限に湧き出るように次から次へと生えてくる。
「くっ!」
旅人は横に跳び、回避しながら距離を取る。
ナブ・マリカッタは宙に少し浮遊していた。その周りを黒い霧が渦巻き、まるで生き物のように蠢いている。
「ああああ……!」
不気味な叫び声が部屋中に響く。それは一つの声ではない。無数の声が重なり合った、耳をつんざくような音。
旅人は元素を解放した。風元素が体から溢れ出し、嵐を起こす。突風が部屋を吹き抜け、黒い羽根を吹き飛ばした。壁に叩きつけられた羽根が、黒い染みとなって消えていく。
隙ができた。
旅人は一気に接近した。地面を蹴り、全速力で。剣を構え、振り下ろす。
しかし黒い霧が壁となって防いだ。
剣が霧に阻まれ、それ以上進めない。まるでゼリーのような感触。押しても、切っても、霧は再生していく。
「ちっ!」
旅人は舌打ちをした。
その瞬間、カウンターが来た。
黒い触手のような腕が、四方八方から旅人を襲う。それは霧が固まったもの。鞭のように、槍のように、旅人に向かって伸びてくる。
旅人はギリギリで回避した。体を捻り、転がり、跳ぶ。
しかし一本が、腕を掠めた。
激痛が走る。
「ぐっ……!」
禁忌の知識の力が、傷口から侵入しようとする。黒い染みが皮膚を這い上がり、血管に潜り込もうとする。体が拒絶反応を示す。吐き気がこみ上げてくる。
「くそ……!」
旅人はすぐに浄化する。だが傷口がずきずきとうずく。
「このままじゃ……」
旅人は考えた。息が荒い。汗が額を伝う。花神に集合意識? 創神計画の時にしたってスメール中の知恵が味方してくれたから倒せたのに。
どうすれば、あの霧を突破できる? どうすれば、ナブ・マリカッタを解放できる?
力ずくでは無理だ。霧は無限に再生する。切っても、吹き飛ばしても、すぐに元に戻る。
なら……その時、旅人の心にある記憶が蘇った。砂漠で聞いた話。永遠のオアシスの伝承。
ここは永遠のオアシスを模した遺跡。
「我ら」は元は赤砂の王の伝承を信じた砂漠の人々だった。
伝承には永遠の夢境の他にも永遠のオアシスがある。死んだら永遠のオアシスに行く。そこで永遠に眠る。それが、彼らの信じていたこと。
なら……旅人は大きく息を吸い込んだ。そして、全力で叫んだ。
「亡者たちよ! これ以上この場を汚すな!」
その声は、部屋中に響き渡った。
「ここは永遠のオアシス! ここがあんたらの還るべき場所だ!」
黒い霧が、わずかに揺らいだ。
動きが止まる。まるで、何かを思い出そうとしているかのように。
旅人はその隙を見逃さなかった。
全速力で突進する。足が床を蹴る。剣に全ての元素を込める。旅してきた全ての土地の力を。
そして叫んだ。
「だから……ここで眠れ!」
剣が黒い霧を貫いた。
そして剣は、ナブ・マリカッタの胸に届いた。
「……っ」
ナブ・マリカッタの体から力が抜ける。彼女が発した最後の手応えは、あまりにも儚いものだった。
黒い霧が霧散し、彼女の体が崩れ落ちる。その瞬間、旅人の視界もまた、底知れぬ黄金の光に飲み込まれていった。
2
気がつくと、旅人は黄金の光が降り注ぐ壮麗な大広間に立っていた。
そこは、伝説に謳われた「黄金の眠り」の宮殿。
外には、どこまでも続く砂丘が沈まぬ太陽に照らされて宝石のように輝いている。
風は花の香りを運び、静寂さえもが心地よい音楽のように響く世界。
見上げるほど高い天井は緻密な金細工で飾られ、壁一面に描かれた睡蓮の文様が淡く発光している。広間の中心には、どこまでも続くような長い白亜のテーブルが置かれ、その上には溢れんばかりの果実、芳醇な香りを放つ酒、そして今まさに摘んできたかのように瑞々しいパティサラの花々が並べられていた。
そこは、かつて彼女とアフマルが夢見た「永遠の夢境」。
差別も、飢えも、身分の隔たりも、そしていまや「禁忌の知識」による汚染も存在しない、完璧な理想郷。
上座に座っていた彼女が、静かに立ち上がった。
黒い文様も、歪な角も、まがまがしい羽根もない。全盛期の、もっとも美しかった頃の花神、ナブ・マリカッタの姿だった。
「……ようこそ。私にとっての、最初で最後のお客様」
彼女は穏やかに微笑み、隣の席を指し示した。
数百人、数千人を招くことができるその壮大な宴席にいたのは、ナブ・マリカッタただ一人だった。
3
「ここは……黄金の眠り……「永遠の夢境」の中か?」
旅人は席に座ることなく尋ね、ナブ・マリカッタは頷いた。
「はい。現実の私は、今まさにあなたの手によって終わりを迎えました。これは、絶命の瞬間に私たちが共有した一瞬の、けれど永遠の夢です」
彼女は自分のために用意された贅沢な食事を、慈しむように見つめた。
「見てください。ここには苦しみも、争いもありません。あるのは、満ち足りた静寂だけ……あんなに私を責め続けていた『声』たちが、ここではみんな、安らかに眠っています」
彼女の声は、水晶のように澄んでいた。その声にはもう苦痛の欠片も混じっていなかった。
「マリー、あんたは一人で……ここに残るつもりなのか? こんなに広い場所で、たった一人で」
「いいえ……孤独だとは思いません。ここはすべてが一つに溶け合う場所。私もまた、この流れの一部になるだけです」
彼女は旅人の元へ歩み寄り、その手をそっと取った。彼女の手は温かく、確かな体温を感じさせた。
「旅人さん……あなたが私の願いを叶えてくれたおかげで、ようやくこの重い罪の衣を脱ぐことができました。この夢の宮殿は、私が長い旅の果てにようやくたどり着いた『魂の安息所』なんです」
彼女の瞳には、一切の迷いがなかった。
「……あちらに残った私の体は、もう『毒』ではありません……ルッカデヴァータを受け入れるための、清らかな器……三人で夢見た理想は、私でもアフマルでもなく……彼女とナヒーダとアペプ様によって形になります」
彼女の体が、端から少しずつ金色の光に溶け始めていた。
夢の終わりが近づいている。
「……ナヒーダに、伝えてください……未来は、彼女たちのものです……過去の神が遺した傷跡は、私がすべて持っていきますから……彼女はただ、新しい種を蒔けばいい」
「マリー。あんたは……これでいいのか?」
彼女は旅人の瞳をじっと見つめ、深く、愛しむように微笑んだ。
「……私のために悲しまないで……これは、私が自ら選んだ最高の幕引きなのですから」
黄金の宮殿に、沈まぬ太陽の光が強く差し込む。
独りきりの豪華な宴席で、彼女は最期に、旅人というこの夢境で唯一の友人に心からの感謝を伝えた。
「……ありがとう。さようなら、私の心優しい友人……ここから先は、私が用意した『贈り物』を、どうか見届けてください」
4
黄金の宮殿に、一際強い風が吹き抜けた。
ナブ・マリカッタの体は、すでに半分ほどが金色の粒子となって風に舞っている。しかし、その表情に悲しみはなく、ただ大切な贈り物を届ける直前の子供のような、晴れやかな光を宿していた。
「旅人さん、この光があなたを現世まで案内します」
彼女が両手をゆっくりと広げた。
すると、壮麗な黄金の宮殿が、端からサラサラと音を立てて砂のように崩れ始めた。
「……マリー? 宮殿が……」
「ここは、かつて私たちが現実から逃れるために作った閉ざされた箱庭……でも、もう避難所は必要ありません……私が消える今、禁書庫以外のこの夢の全てを、愛するスメールへと返しましょう」
崩れ去った宮殿の欠片は、砂ではなく、輝く「生命の種」へと姿を変えていった。
テーブルに並んでいた果実、美しく咲き誇っていた花々、そして彼女が数千年間抱き続けてきた思い出……それら全てが、目も眩むような光の奔流となって、夢境の空へと舞い上がっていく。
「私の記憶は、スメールの土になります。私の祈りは、大地を潤す風になります……これからは、どこか遠い場所で一人で眠るのではなく、スメールのいたるところで、みんなと一緒に生き続けるのです」
彼女の魂そのものである黄金の光が、現実世界へと染み出していく。
「……いいや。俺にとっては、大地や風の一部じゃない……ここにいた、あんたっていう一人の人間を覚えてるよ……生きている記憶として」
「……ナヒーダの言葉……今ではその考えが私の希望だわ。さようなら、旅人さん、ナヒーダ。どうか私を……覚えて……いて……」
ナブ・マリカッタの姿が、最後にひときわ強く輝いた。
彼女の全ての記憶と想いが、一つの巨大な光の渦となってスメールの大地へと還元されていく。その光はかつて彼女がもたらした負の遺産の傷跡を上書きし、全く新しい生命のエネルギーへと変換されていった。
黄金の光が爆発するように広がり、旅人の意識を現実へと押し戻されていくのを感じた。
黄金の眠り……永遠の夢境は終わりを迎え、目覚めの時がやってきた。