1
旅人は、どこまでも続く穏やかな黄金の粒子に包まれていた。それはすべてが溶け合い、個が消えゆくような、安らかな眠りの誘いだった。
だが、その静寂は唐突に、耳を裂くような不協和音によって打ち砕かれた。
「――っ!?」
黄金の空が、まるで薄いガラスが割れるようにひび割れる。眩い光は一瞬にして淀んだ煤(すす)色へと変色し、旅人の体は抗いがたい力で下へと引きずり落とされた。着地した場所は、天地が完全にあべこべになった回廊だった。
頭上には底の見えない奈落が広がり、足下には砂の嵐が荒れ狂う天井がある。
そこは神秘的な聖域などではない。理性が崩壊し、怨念だけが結晶化した迷宮だった。
「……裏切ったな……アフマル……我らを、我らを……!」
無数の手が、影の中から伸びてくる。今、現世の遺跡は全と個があいまいな状態にある。現世へと近づいたために、そこにいた「我ら」に襲われたようだった。
精神の集積体「我ら」が、黒い霧となって旅人の意識に直接、牙を剥いた。
その瞬間、旅人の脳内に自分のものではない「記憶」が濁流となって流れ込んできた。
2
目の前に立つのはかつての砂漠の王、アフマル。
彼の前には忠誠を誓い、楽園を夢見た数百の民が跪いている。
「案ずるな。お前たちは永遠の命を得、理想郷で暮らすのだ」
アフマルの声は冷徹なほどに静かだった。
次の瞬間、缶詰知識のように知識を移動収集する装置が起動し、空から黒い知識が降り注ぐ。
それは世界を焼き尽くす禁忌の毒。アフマルは、その毒を消し去るのではなく、ただ一箇所に集めることを選んだ。犠牲者の絶叫が響き渡る。
だが、彼らの魂は逃げることを許されず、強制的に禁忌の知識の廃棄場にされていく。民は禁忌の知識という劇薬をその身に溜め込むための、生きた隔離壁として黄金の眠りに閉じ込められたのだ。
救済の王だと思っていた背中が、ただの非情な管理者として遠ざかっていく。
3
「……う、あ……っ!」
あまりの怒りと絶望に、旅人は呼吸を忘れた。
アフマルが禁忌の知識を収束させた真相。それは、自らの民を永遠に苦しみ続ける毒の器として生贄に捧げるという、残酷極まる合理性によるものだった。
理性を失った「我ら」の怨嗟が、旅人の魂を食い破ろうとしたその時。
「そこまでよ、悲しい亡霊たち」
凛とした声が響き、旅人の周囲をエメラルドグリーンの光の障壁が包み込んだ。黒い霧が弾け飛び、眩い蔦が天地のあべこべな回廊を繋ぎ止める。
「しっかりして、旅人!」
強い力で手を引かれ、旅人は顔を上げた。
そこにいたのは、マハールッカデヴァータだった。
彼女は驚愕する旅人の手を引き、現世へと続く光の出口へと走り出した。
「マハールッカデヴァータ……今の、記憶は……」
「はい、アフマルが遺した、もっとも重い罪の跡です」
二人の後を無数の黒い腕が追いすがる。だが重力が反転する迷宮の中を、彼女は一切の迷いなく駆け抜けていく。
「マリー……ナブ・マリカッタが何を考えていたか、私には分かっていました。あの時、ここに送られる時に」
出口の光が、逆さまになった地平線の向こうに見えてくる。マハールッカデヴァータは旅人の手を握る力を強め、宣言するように言った。
「あの子は自分を犠牲にして、私を救おうとしている……でも、そんな一方的な優しさなんて、私は絶対に認めません」
それはかつて世界のために消えようとした自分自身への皮肉と、それでも譲れないエゴが混ざり合っていた。
「救われる側がこんなに苦しくて、寂しいものだなんて……自分がその立場になるまで、気づかなかった……旅人、現世に帰り着いたら、あの子を光の中へ引き戻すために、あなたの力を貸してください」
旅人は、前を走る彼女の横顔を見た。そこにあるのは完璧な知恵の神ではない。友人を失うことに怯え、必死に手を伸ばそうとする、あまりにも人間らしく温かい一人の女性の姿だった。
「……ああ。俺も、同じ気持ちだ」
旅人は彼女の手を握り返し、決意を込めて頷く。
「誰も犠牲にしない。それが、俺たちがここへ来た理由だ……マリーを、必ず連れ戻そう」
その瞬間だった。二人の強い意志、その個としての輝きに反発するように、周囲の闇が激しく波打った。
旅人の足がもつれ、膝をつきそうになる。その肌の表面からは、どろりとした黒い霧が染み出し始めていた。「我ら」の怨嗟が、旅人の意識を集合体の深淵へと引きずり込もうと、内側から魂を食い破ろうとしているのだ。
彼らは遺跡で旅人に貫かれ、霧散していく途中だった。その道連れを求めていた。
「旅人、ダメよ! 飲み込まれないで!」
マハールッカデヴァータが叫び、必死に旅人の肩を支える。しかし旅人は、溢れ出す黒い霧を振り払うように、震える手で剣の柄を握りしめた。その瞳には、霧に侵食されながらも、消えることのない強い光が宿っていた。
「……わかるんだ。彼らが、どうしてこんなに苦しいのか。アフマルも、ナブ・マリカッタも……そして、あんたも」
旅人は、自分を飲み込もうとする「我ら」の奔流に向かって一歩踏み出した。戦いたいわけではないが、彼らと向き合うためにそうする必要があると思った。彼らをその絶望から引きずり出すために、旅人は剣を構えた。
「あんたたちは、いつも『全』のために『個』を捨ててきた。スメールを守るために、民を救うために……目の前の一人の痛みや、自分自身の命を、計算の天秤に乗せて切り捨ててきたんだ」
その思想は集団意識になる黄金の眠りを理想郷としているほど強力なものだ。
アフマルが民を収束の犠牲にしたのも、彼なりに全滅を防ぐための合理的な判断だったのかもしれない。マハールッカデヴァータたちが自己犠牲を繰り返してきたのも、世界のすべてを維持するためだった。
「全を想うからこそ、取り返しのつかない犠牲を許容してしまった……でも、そんなのはもう、終わりにしよう。俺はあんたたちを、全のまま終わらせたりしない! あんたたち一人一人が気が済むまで相手をしてやる!」
旅人が叫び、剣を地に突き立てる。その衝撃波が黒い霧を押し返した。
その背中を見ていたマハールッカデヴァータの瞳に、激しい衝撃が走る。彼女は旅人の震える肩に手を置き、自らの内にあった古い神としての理を、今ここで自ら踏み潰した。
「……ええ、そうね。旅人、あなたの言う通りです」
彼女の声から、迷いが消えた。マハールッカデヴァータは旅人の隣に並び、あべこべの空へと力強く宣言した。
「もう二度と、全のために誰かが欠けることを良しとはしない。現世に戻れたら、誰もが部品として死ななくていい、ただの個として生きていけるスメールにします……神も、民も、そして私自身も! 誰かのためにではなく、自分として笑える国を!」
その神の誓いが、あべこべの迷宮に響き渡った瞬間。
旅人を襲っていた黒い霧の動きが、ぴたりと止まった。
無数の囁きが、風のように吹き抜けていく。
彼らが求めていたのは、復讐でも破壊でもなかった。ただ、一人の旅人が命懸けで自分たちと向き合い、一人の個として自分たちを認め、神がそれを保証してくれる……その言葉を待っていたのだ。
旅人が示した「個への共感」と、神が誓った「未来の在り方」。その二つが、魂に宿っていた永い渇きを完全に潤した。
黒い霧は旅人の体から離れ、静かな黄金の粒子へと還っていった。あべこべだった迷宮の天地が、ゆっくりと正しい位置へと戻り始め、出口の光が、穏やかな夜明けの色へと変わる。
「……行きましょう、旅人。まだ私たちには現世でできることがあります」
マハールッカデヴァータは、強く旅人の手を握りしめた。背後を追っていた亡霊たちの気配は、もうない。ただ、祝福するような静かな風が、二人の背中を現世へと押し出していた。
光の渦が二人を包み込み、現世の、確かな土の感触が足裏に戻ってくる。目を開けると、そこには、旅人がその個を認めたことで救われた、スメールの景色が広がっていた。