1
眩い光の渦が収まり、旅人が目を開けると、そこは再び、時が止まった遺跡のオアシスだった。黄金の眠りのあべこべな迷宮での狂騒が嘘のように、冷ややかな静寂がそこにはあった。
目の前には、ナブ・マリカッタであったものが横たわっている。その傍らには、旅人の剣が力なく転がっていた。
黒い霧は完全に霧散し、彼女の体は白磁の美しさを取り戻している。まるで長い旅を終えて深い眠りについたかのような、静かな最期だった。
「……終わったんだな」
旅人は静かに黙祷を捧げた。その胸中には、言いようのない喪失感が渦巻いている。
彼女の魂は救われたのかもしれない。だが、その代償に旅人が支払ったのは、友の命そのものだった。
その時、マリーの遺体から、目も眩むような鮮烈な緑の光が溢れ出した。肉体が粒子へと変わり、一点へと収束していく。
マハールッカデヴァータの復活。それはスメールの夜明けであるはずだったが、旅人の心はまだ、深い夜の底に取り残されていた。
2
光が集まり始めている。無数の光の粒子が、一点に向かって渦を巻いている。そして、それは人の形を取り始めた。最初は曖昧な輪郭だったが、それが徐々に明確になっていく。
白い髪が現れる。柔らかな顔立ちが形作られる。繊細な指先、禁忌の知識の穢れのない体。
マハールッカデヴァータ。
黄金の眠りの迷宮で旅人を導き、共に駆け抜けたあの女神が今、現世にその身を現した。
崩れ落ちそうになる彼女の体を旅人は慌てて支えた。確かな鼓動と生きている証である呼吸が伝わってくる。
「マリー……やり遂げたんだな、あんたは……」
旅人が震える声で呟いたその時、腕の中の女神のまぶたが微かに震えた。ゆっくりと開かれた緑の瞳。それはどこまでも澄み渡り、深い知性を湛えていた。
「あなたは……旅人……」
旅人は頷き、必死に言葉を絞り出す。
「ああ。お帰り、マハールッカデヴァータ」
旅人は頷いた。
「私は……戻ってきたの?」
マハールッカデヴァータは涙を流した。大粒の涙が、頬を伝い落ちる。
「本当に……本当に……」
彼女は自分の手を見た。両手を開いたり閉じたりする。指が動く。感覚がある。そして、自らの神威の変質に気づき、痛切な表情を浮かべた。
「この体……花神の力が……やはり彼女は彼女なりの救済を完遂してしまったのね」
マハールッカデヴァータの声は悲しみと静かな怒りに似た決意に満ちていた。
「……すまない」
旅人は拳を強く握りしめた。
「あんたに約束したはずだ。誰も犠牲にならない結末を、俺が掴み取ってみせるって……なのに、俺は彼女を守れなかった。彼女の犠牲の上に立って、あんたを呼び戻してしまった」
旅人の足元に、マリーを貫いた剣が転がっている。その冷たい金属の感触が、旅人に「友を殺した」という現実を突きつけていた。
だが、マハールッカデヴァータはその旅人の震える肩に手を置いた。
「旅人。あなたはあの子の意志に応えました。それはあの子の望んだことです……でも、私は黄金の眠りであなたに言ったはずです。もう二度と、全のために誰かが欠けることを良しとはしない、と」
彼女は旅人の支えを離れ、ふらつく足取りで床に落ちた剣へと歩み寄った。彼女はそれを拾い上げるとじっと刃を見つめた。そこには、マリーが流した鮮血が、まだ乾かずに残っている。
「何を……?」
旅人が不思議そうに見る中、彼女はオアシスの縁へと歩んでいく。時は動き出していて水が揺れていた。そして水で剣を洗った。
その瞬間、水面に何かが生え始めた。
「あれは……」
旅人が呟く。
睡蓮だ。
青い花が、ゆっくりと開いていく。蕾が膨らみ、花びらが広がる。その美しさは、この世のものとは思えないほどだった。
3
マハールッカデヴァータは睡蓮を見て、何かを確信したようだった。
「マハールッカデヴァータ……これは何をしてるんだ?」
旅人が尋ねた。
「奇跡の準備……」
マハールッカデヴァータは静かに答えた。
そして、水の中に膝をついた。衣が濡れる。でも、気にする様子はない。
水面から淡い光が立ち上り始めた。その光は睡蓮を包み込み、さらに多くの睡蓮を生み出していく。一輪、また一輪。オアシスの水面が、青い花で埋め尽くされていく。
「え? 何を……」
旅人は状況が理解できなかった。
「少しだけ待っていてください」
マハールッカデヴァータは目を閉じた。そして、祈り始めた。その姿は神聖で、美しく、まるで聖母のようだった。
旅人は彼女の足元を見た。水の中で、かすかに血が流れている。彼女は自ら、旅人の剣で傷をつけたのだろう。でも、その表情に苦痛の色はない。ただ、深い祈りだけがあった。
旅人には何が起きているのか完全には分からなかった。でも、これが彼女のすべきことなのだと直感した。だから、見守ることにした。
マハールッカデヴァータは睡蓮の中で静かに祈っている。
そして空から、光の粒子が降りてきた。それは星のように輝き、ゆっくりと降下してくる。
スメール中の人々の祈り。伝承に紐づいた花神への想い。今日、花神誕祭で捧げられた無数の祈り。
それらが集まってくる。睡蓮に注がれていく。
祈りの光が睡蓮に触れた瞬間。
奇跡が起きた。
水面を埋め尽くしていた無数の睡蓮が、一斉に光となって弾けたのだ。
花弁の一枚一枚が光の粒子となり、ふわりと舞い上がる。それはまるで、地上から空へと還る星のようだった。
空から降る祈りの光と、水面から昇る睡蓮の光。二つの光が空中で混ざり合い、螺旋を描きながら中央の一点へと集まっていく。
血と祈りと睡蓮が融合し、眩い輝きとなって渦巻く。その光の中心で、何かが織り上げられていく。光の粒子が寄り集まり、人の輪郭を描き出す。
旅人は息を呑んだ。心臓が早鐘を打つ。
「まさか……」
光の渦が収束し、最後の輝きがその体に吸い込まれていく。
だがその姿はまだ曖昧だった。
光の人型は浮かんでいるが、顔も、声も、何者であるかが定まっていない。
マハールッカデヴァータが目を開けた。
彼女は光の人型を見つめ、それから旅人に視線を向けた。
「彼女はかつてジンニーを誕生させた時、黄金の眠りの魂を吹き込みました、そして旅人さん」
彼女の声は、静かだが確かな響きを持っていた。
「この光に……名前をつけてください」
「名前を……?」
「はい」
彼女は真剣な表情で頷いた。
「名前は、存在を定義します……この光が何者であるか、誰であるべきか……それを決めるのは、あなたです」
旅人は戸惑った。
「なぜ……俺が?」
「あなたは、彼女の最後の日々を共に過ごしました……彼女がどう生き、どう笑い、どう泣いたか……あなたはそれを知っています」
マハールッカデヴァータは光を見つめた。
「記憶が人を作る……ならば、彼女の最期の記憶までを持つあなたが、この光の本質を決めるべきです」
旅人は、その言葉の重みを理解した。
この光を何と呼ぶか。
それが、彼女の在り方を決める。
スカラマシュにも名前をつけたことがあった。彼の名前を考えた時はどんなことを考えて決めただろう。
旅人の心に、様々な記憶が蘇ってくる。
旅人は、ゆっくりと口を開いた。
「……マリー」
その名前を呼んだ瞬間、光が反応した。
「ただの教令院の学者で……俺たちの友達だった、マリー」
旅人の声が、確信に満ちていく。
「過去の罪を背負った花神じゃない……これからを生きる、新しい存在としての、マリー」
光が、さらに強く輝き始めた。
「あんたは、マリーだ。ナブ・マリカッタでも、花神でもない……ただの、マリー」
旅人は、はっきりと告げた。
その瞬間。
光が爆発的に輝いた。
睡蓮の光、祈りの光、そして旅人が呼んだ名前。
三つが完全に融合し、一つの命へと結晶化していく。
光の渦が収まった時、そこに浮かんでいたのは大人の女性ではなかった。
ナヒーダのように小さく、愛らしい、生まれたてのジンニーの子供だった。
4
幼い少女の姿となったマリーは、ゆっくりと目を開けた。
彼女は困惑した表情で短い手を動かし、自分の掌をじっと見つめた。その瞳には、かつて彼女の心を苛んでいた深い憂いも、重い記憶も、何一つ残っていなかった。
「わたし……だれ……?」
その声は幼く、震えていた。
旅人は水を蹴散らしながら駆け寄り、その小さな体をそっと抱きとめた。
「マリー……」
「マリー……? それが、わたしのなまえ?」
少女は無邪気な瞳で旅人を見上げた。記憶を失くしたその姿に、旅人は胸を締め付けられるような切なさを覚えたが、同時に、彼女を縛っていた茨の冠が完全に消え去ったことを確信した。
マハールッカデヴァータが、二人のそばへと歩み寄った。彼女は膝をつき、幼いマリーを大人の優しい腕で包み込んだ。
「ええ。あなたの名前はマリー。あなたは人々の祈りと、新しい祝福から生まれたのよ」
「いままですごくくるしかったきがする……おねえちゃん、だれ……? お姉ちゃん達が助けてくれたの? なんだか、とっても、あったかい……」
マリーは小さな手でルッカデヴァータの頬に触れた。ナブ・マリカッタだったころのことは残滓としてほんのごくわずかに残っているようだった。
マハールッカデヴァータは愛おしそうに目を細め、それから旅人へと視線を向けた。その瞳には、神としての厳粛な覚悟が宿っていた。
「旅人。彼女の過去の記憶と『花神としての罪』は、すべて私がこの身に引き受けました。かつて彼女が砂漠の民に背負わせてしまった業も、禁忌に触れた咎も、大人の姿で生きる私がすべてを背負って償います」
ルッカデヴァータはマリーの頭を優しく撫でた。
「だから、この子はもう何も背負う必要はありません。過去を忘れ、ただ一人の子供として、この世界をもう一度愛するために生きるのです。それがあの子の犯した罪に対する、私たちの答えです」
「……ああ」
旅人は深く頷いた。罪をうやむやにするのではなく、片方が引き受け、片方が新しくやり直す。これこそが、誰も犠牲にせず、かつ世界の理を違えないための結末だった。
「おなかすいたなぁ……」
マリーがふにゃりと笑顔を浮かべると、旅人は自嘲気味に、けれど心からの安堵を込めて笑った。
「……これから、美味しいものをたくさん食べに行こう」
5
その時だった。
部屋の隅から、小さな声が聞こえてきた。
「んん……」
三人は顔を見合わせた。
「アランナラたち……」
旅人が呟く。
五体のアランナラが目を覚まし始めていた。500年ぶりに。
一体が体を動かす。小さな手を伸ばし、目をこする。
「あれ……ここは……?」
アランナラが目を開けた。周りを見回す。
「僕たち、確か……」
記憶を辿ろうとする。でも、混乱している。
そして、目の前に立っているマハールッカデヴァータを見た。
アランナラの動きが止まった。
「あ……」
その目が大きく開かれる。
「草神様!」
その叫び声に、他のアランナラたちも目を覚ました。
「え? 草神様?」
「どこどこ!?」
四体のアランナラが次々と起き上がる。
「草神様!」
「草神様なのだ!」
五体のアランナラは飛び上がって、マハールッカデヴァータの周りに集まった。小さな体が、嬉しさで震えている。
「生き返ったのだ!」
「本当に生き返った!」
「僕たち、ずっと守ってたのだ!」
アランナラたちは嬉しそうに飛び跳ねている。
マハールッカデヴァータは微笑みながら、少し首を横に振った。
「もう草神ではないのよ」
「え……?」
アランナラたちが戸惑った表情をする。飛び跳ねるのを止めて、彼女を見上げた。
「私は世界樹との繋がりを失いました」
マハールッカデヴァータは自分の胸に手を当てた。
「草神としての力も、残っていません。もう、世界樹の声は聞こえないの」
彼女は優しく説明した。その声には、一切の後悔がなかった。
「今の私は、ただのルッカデヴァータ。もう、草神ではないわ」
「じゃあ……」
一体のアランナラが考え込んだ。そして、パッと顔を上げた。
「元草神様!」
「元草神様が帰ってきたのだ!」
別のアランナラが叫んだ。
「やった!」
「元草神様、おかえりなさいなのだ!」
アランナラたちは再び嬉しそうに飛び跳ね始めた。その喜びは、純粋で、無邪気で、美しかった。
「みんな……」
マハールッカデヴァータは涙を浮かべた。
彼女は膝をつき、アランナラたちを一人ずつ優しく抱きしめた。
「ありがとう。何百年も、私を守ってくれて」
「当然なのだ!」
一体のアランナラが胸を張った。
「元草神様は大切な友達なのだ!」
「絶対に忘れないって決めたのだ!」
「ずっとずっと守るって約束した!」
アランナラたちは誇らしげに言った。
マハールッカデヴァータは微笑んだ。その笑顔は、太陽のように明るかった。
「でも、長かったのだ」
一体のアランナラが言った。
「ずっと眠っていたのだ。退屈だったのだ」
「でも守れた! 元草神様の記憶、ちゃんと守れた!」
旅人は、その光景を見て胸が熱くなった。
アランナラたちは忘れなかった。
長い、長い時間、彼らは守り続けた。
そして今、その想いが報われた。
「みんな」
マハールッカデヴァータが優しく言った。
「これからは、もう眠らなくていいのよ」
「本当に!?」
アランナラたちの目が輝いた。
「もう守らなくていいの!?」
「ええ、私はもう、ここにいるから。だから、もう守らなくていいの」
「やったのだ!」
アランナラたちが一斉に飛び上がった。
「やっと帰れるのだ!」
「ヴァナラーナに帰れる!」
「でもでも!」
一体のアランナラが言った。その小さな声には、期待が満ちている。
「元草神様も一緒に来るのだ?」
「そうなのだ! 一緒に遊ぶのだ!」
他のアランナラたちも一斉に声を上げた。
マハールッカデヴァータは少し考えてから、優しく答えた。
「一緒に来てくれる? スメールシティまで」
「本当に!?」
「元草神様と一緒に行けるのだ!?」
アランナラたちは大喜びで手を繋いで踊り始めた。円を描いて、くるくると回る。その姿は、まるで子供たちのようだった。
「ええ」
マハールッカデヴァータは頷いた。
「スメールは今、混乱しているかもしれない。私のことを思い出した人たちが、戸惑っているはず」
彼女は窓の外を見た。遺跡の外には、スメールの森が広がっている。
「だから、ちゃんと説明しなければ。私が戻ってきたこと。そして、これからのこと」
アランナラたちは嬉しそうに飛び跳ね続けた。その喜びは、部屋全体を明るくしているようだった。
「一緒に行くのだ!」
「元草神様と一緒なのだ!」
「ナラヴァルナ(旅人)も一緒なのだ!」
旅人とマハールッカデヴァータは、その様子を微笑ましく見守った。
マハールッカデヴァータは、いつの間にか涙を流していた。
「ありがとう……本当にありがとう……」
その涙は、悲しみではなく、喜びのものだった。数百年ぶりに彼女は、愛する者たちに囲まれている。
全てが終わった。失われたものが取り戻された。新しい時代が、始まろうとしていた。