1
静止していたはずの水が、突然動き出す。波紋が広がり、水面が揺れる。
霧が、一箇所に集まり始めた。
淡かった霧が濃くなり、渦を巻き始める。
そして、光り始めた。
「え……?」
ジェイドは息を呑んだ。目を見開き、その場に立ち尽くす。
光が、どんどん強くなっていく。
眩しいが温かい光。
その光が人の形を取っていく。
最初は曖昧な輪郭。それが徐々に明確になる。腕、脚、胴体、そして頭。
旅人とパイモンも、息を呑んで見守っていた。手に汗を握る。
やがて光が収まった。
そこに一人の男性が立っていた。
長身で厳格な顔立ち。砂漠の民特有の引き締まった体つき。でも、その目は優しかった。深い愛情がその瞳に宿っている。
「ジェイド……」
その声が静かに響いた。
「父さん……!」
ジェイドは駆け寄って父を抱きしめた。水を蹴散らしながら、全速力で。
「父さん! 父さん!」
彼女は泣きながら父の胸に顔を埋めた。
「ジェイド……」
ジェブライラは、娘を優しく抱きしめた。
「すまなかった……心配をかけて……」
彼は娘の頭を撫でた。その手は大きく温かい。
「もう大丈夫……もう、大丈夫だから……」
二人はしばらく抱き合っていた。
父と娘の再会。長い別離の後の、奇跡の再会。
旅人はその光景を見て涙を流していた。視界が滲む。でも笑顔だった。
パイモンも声を上げて泣いていた。
「良かった……良かったぞ……」
パイモンは何度も呟いた。
2
しばらくして、ジェブライラがジェイドから離れた。
そして、旅人に向かって深く頭を下げた。その動作は厳粛で、心からの感謝が込められている。
「旅人……」
「ジェブライラ」
旅人は立ち上がった。
「娘を……ここに連れてきてくれて、感謝する」
「礼には及ばない。マハールッカデヴァータが教えてくれたんだ」
旅人は首を横に振った。
「マハールッカデヴァータ様が……」
ジェブライラは驚いた表情をした。目を見開き息を呑む。
「黄金の眠りの一人だった俺を、気にかけていただけるとは……」
「俺がジェブライラのことを話したら、戻ってこれる方法があるかもしれないって。だから、ジェイドをここに連れてきたんだ」
「感謝する」
ジェブライラは、再び深く頭を下げた。
「ありがとう、旅人」
ジェイドも、涙を流しながら旅人を見た。
「どういたしまして」
旅人は優しく微笑んだ。
3
それから四人は、オアシスの中央の島に座った。
三つの席に、旅人、ジェイド、ジェブライラ。パイモンは旅人の隣で浮いている。
「これから、どうするんだ?」
旅人が尋ねた。
「まず、父さんと話すことがたくさんあるわ」
ジェイドが言った。その顔は、今日一番明るかった。
「それから……どうしようかな。まだ決めてない」
「ジェイド」
ジェブライラが優しく言った。
「お前は、傭兵を続けるのか?」
「うーん……」
ジェイドは考え込んだ。少し首を傾げ、空を見上げる。
「まだわからない。でも、父さんがいるなら……もう少しゆっくり考えられるかも」
「そうか」
ジェブライラは優しく微笑んだ。
「なら、一緒に考えよう。ゆっくりと」
二人は微笑み合った。
旅人はその光景を見て思った。
失われたものを取り戻せた。
マハールッカデヴァータも、ナブ・マリカッタも、そしてジェブライラも。
誰も犠牲にならなかった。
4
やがて、旅人が立ち上がった。
「そろそろ、行くよ」
「え? もう?」
ジェイドが驚いた顔で見上げた。
「ああ。二人には話すことがたくさんあるだろう。邪魔しちゃ悪いからな」
「旅人……」
ジェイドが立ち上がった。
「それに、俺も旅を続けなきゃならない」
旅人は天井を見上げた。
「この世界を見て回れって、言われたんだ」
「双子の……」
ジェイドが静かに言った。
「ああ」
「必ず会えると信じてる」
ジェイドは確信を持って言った。
「ありがとう」
旅人は頷いた。
ジェイドが駆け寄ってきて、旅人を抱きしめた。
「本当に、ありがとう」
その声は震えている。涙で濡れた顔で、でも笑顔で。
「父さんを取り戻してくれて。あたしにもう一度家族をくれて」
「どういたしまして」
旅人は彼女の背中を軽く叩いた。
「元気でな、ジェイド」
「君も」
ジェイドは旅人から離れた。
「いつか、また会おうね」
「ああ、必ず」
旅人とパイモンは島から石の橋を渡り始めた。
振り返るとジェイドとジェブライラが並んで立ち、手を振っていた。
旅人も手を振り返した。パイモンも大きく手を振る。
そして二人はオアシスを後にした。
5
森のなかばまで来た時、旅人は振り返った。
遺跡は木々の向こうに静かに佇んでいる。
「良かったな、旅人」
パイモンが言った。
「ああ」
旅人は頷いた。
「これからどうするんだ?」
「次の国に行こう」
旅人は前を向いた。
「まだ見ぬ世界が待ってる」
「おお! じゃあ、次はどこに行くんだ?」
パイモンが興奮した声で尋ねた。
「そうだな……」
二人は歩きながら次の旅について話し合った。
その時、スメールシティの方角から、柔らかな風が吹き抜けた。 それは花の香りと、深い森の匂いを運んでくる風だった。
まるで、「行ってらっしゃい」と誰かが囁いたかのように。 旅人は微笑んで、前を向いた。
6
オアシスに静かな風が吹いた。
父と娘は並んで座っていた。
ジェイドは父の肩に頭を預け、ジェブライラは娘の髪を不器用に、けれど慈しむように撫でている。
その大きな手のひらの温もりが、これが夢ではないことをジェイドに教えていた。
二人は何も言わない。ただ、そこに一緒にいる。それだけで十分だった。
「ジェイド」
やがて、ジェブライラが口を開いた。
「なに、父さん」
「これから、どうしたい?」
「うーん……」
ジェイドは少し考えてから、キラキラと光る水面を見つめた。
「まず、父さんと一緒にいたい」
「ああ」
「それから……マハールッカデヴァータ様に、お礼を言いたい」
「そうだな」
ジェブライラは頷いた。
「それから……」
ジェイドはまるで子供の頃に戻ったような、屈託のない笑顔で微笑んだ。
「考える。ゆっくり、父さんと一緒に」
「いいな、それは」
ジェブライラは娘の頭を撫でた。
「ゆっくり考えよう。急ぐ必要はない」
二人の間に、また沈黙が落ちる。
だが、それはかつてジェイドを苦しめた孤独な沈黙ではない。満ち足りた、温かい沈黙だった。
失われたものは取り戻され、止まっていた二人の時間は、ここからまた動き出す。
7
スメールシティ。
聖樹の最上部、スラサタンナ聖処のテラス。
ナヒーダが一人、夕暮れに染まりゆく街と、その遥か先にある巨大な防砂壁を見つめていた。
眼下には、平和な日常が広がっている。行き交う人々の笑顔、遊び回る子供たち、市場から響く活気ある声。
「綺麗ね」
ナヒーダは呟いた。風が彼女の緑の髪を優しく揺らす。
隣に、もう一人の草神の姿はない。彼女は今、ナヒーダの指導の下で今は別の場所にいる。
「行ってらっしゃい、マハールッカデヴァータ」
ナヒーダは砂漠の方角を見つめ、誇らしげに微笑んだ。
彼女には彼女の、ナヒーダにはナヒーダの役割がある。
マハールッカデヴァータは今、一人の学者として、忘れ去られた砂の海へ向かっている。かつて自分がスメールのすべてを賭けて遺した防砂壁による「大いなる計画」の続きを、その手で進めるために。
8
ヴァナラーナ。
夢の森では、アランナラたちが楽しそうに歌い、踊っていた。
「元草神様、また来てくれるかな?」
「来るよ! 砂漠から帰ってきたら、絶対に来るよ!」
「楽しみなのだ! 待ってる間にゲームをするのだ!」
一匹のアランナラが、得意げに提案した。
「早口言葉なのだ! 『マハールッカデヴァータ』って、十回言ってみて!」
「簡単だよ! マハールッカデヴァータ、マハールッカデヴァータ、マハールッカ……」
「マハールッカ……デ……デバ……?」
「マハールッカ……噛んだのだ!」
小さな友人たちは、長い名前を言おうとして、あちこちで舌を回している。
「マハールッカ……デバ……ベタ……?」
「難しいのだ! 長すぎるのだ!」
「舌がこんがらがる!」
数回繰り返したところで、アランナラたちは顔を見合わせた。そして、一斉に首を振った。
「名前で遊ぶのは良くないのだ!」
「一回ならもういつでも言えるのだ!」
彼らは屈託なく笑い合い、また元気に走り回る。長きにわたる守護の務めを終え、彼らは再び自由な風の中で遊んでいる。名前の呼び方がどうであれ、その親愛の情は変わらないのだから。
9
砂漠。アアル村の近く、小高い砂丘の上。夕日が、砂漠を燃えるような赤に染め上げていた。
幼い少女の姿となったマリーと、大人のマハールッカデヴァータは、並んでその景色を見ていた。二人の前には羊皮紙が広げられ、これからの砂漠の復興計画が記されている。
「ねえ、ルッカおねえちゃん。さばくのひとたち、まだこまってるの?」
マリーが短い指で地図を指さしながら、無邪気な瞳で見上げた。過去の記憶も、花神としての重い罪も失った今の彼女は、純粋なジンニーの子供だった。けれど、その魂の根底にある「人々を愛する本質」だけは変わっていなかった。
「ええ。拠り所を失って、どう前を向いていいか分からないのよ……マリー、あなたなら、この砂の海をどうしてあげたい?」
マリーは少し小首を傾げ、それから自分の小さな掌をじっと見つめた。
「わたし、むずかしいことはわからない。でもね、みんながひとつの大きな夢のなかに隠れちゃうのは、なんだかさびしいとおもうの。ひとりずつ、ちゃんとここに生きてて、みんなでいっしょにわらえたほうが、きっとあったかいよ」
「……ええ、その通りね」
マハールッカデヴァータは愛おしそうに目を細め、小さなマリーの手をそっと握った。
かつて花神が目指した「全のために個を消す」救済は間違っていたと、記憶を失った本人の純粋な言葉が証明していた。一人が一人として人生を全うできる世界こそが、本当の理想郷なのだ。
「だから今度は、みんなを一つの夢に閉じ込めるのではなく、それぞれの足で歩ける大地を作りましょう。私がこれまでの知恵を貸し、あなたがその純粋な心で人々の笑顔を守るの……あの頃と同じように、一緒にね」
「うん! いっぱいお花をさかせようね!」
幼いマリーは、晴れやかな笑顔で元気よく頷いた。
10
それから、季節が巡った。
スメールは、確かな変化の中にある。
マハールッカデヴァータとナブ・マリカッタは、主に砂漠を拠点として活動を続けていた。
ジェイドとジェブライラは、二番目の眷属として彼女たちの下で働き、砂漠の部族をまとめる大きな力となっていた。皮肉なことにバベルが目指した地位にジェイドは一番近いところにいる。
マハールッカデヴァータが砂漠の民に受け入れられていることに一つの大きな理由があった。
というのもナヒーダと教令院は、スメールの歴史を覆す「ある真実」を公表した。
それは、森と砂漠を隔てる巨大な『防砂壁』の真実だった。
かつて砂漠の民から「自分たちを切り捨て、分断するための壁」と忌み嫌われていたその巨壁。だが、マハールッカデヴァータがこれを創った本当の目的は、分断ではなかった。
教令院側の肥沃な土壌が砂漠の容赦ない嵐で吹き飛ばされるのを防ぎつつ、同時に、砂漠側から流れ込む「地表の栄養ある砂」の流失を食い止めるためのものだったのだ。
防砂壁はスメール全土を横断するものではない。しかし壁によって風と砂の循環をコントロールし、何千年もかけて、砂漠側の土壌を底上げして豊かにしていく……それこそが、先代草神が遥か未来に遺した、あまりにも壮大な土地改革のロジックだった。
今、その数千年の仕込みが、ついに実を結びつつある。
防砂壁の境界線を越えて、砂漠の集落には井戸が掘られ、パティサラの花が咲き乱れるオアシスが次々と再生していた。人々は自由に行き来し、かつての怨恨を忘れたように笑い合っている。
旅人は、そんなスメールの様子を遠くから見届け、安堵の息をついた。
誰も犠牲にならなかった物語。それは、旅人がこの世界で勝ち取った、かけがえのない宝物だ。
「行こう、パイモン」
「おう!」
二人は、新しい夜明けを迎えたスメールを背に、次の旅路へと力強く踏み出した。