1
道なき道を進む。森はどんどん深くなり、古い木々が空を覆っていく。光が少なくなり、薄暗い。
しばらく進むと、一行は行く手を阻む険しい崖に直面した。旅人は足を止め、ルートを確認するために背負い袋から地図を取り出す。
「この先は、本当に人が来ない場所です」
マリーは冷静に言う。その背中には、大きな荷物が背負われたままだ。
旅人が崖の状況を観察していると、パイモンが不思議そうに首を傾げた。
「おい、旅人。どうしたんだ? 旅人は崖があっても迂回するのが大嫌いじゃないか。いつもは猪みたいに崖に直進する癖に!」
「パイモンこそ、人がこなそうなところに来ると、壊れたマシナリーみたいに引き返そうとするじゃないか。そろそろ引き返さなくていいのか?」
二人が言いあっていると、マリーはまるで散歩道でも見つけたかのように前へ一歩進み、大荷物を背負ったまま崖の岩肌に手を添えた。
「よっと」
マリーは、驚くほど軽やかな動作で岩を掴み、あっという間に垂直に近い斜面を登り始めた。その姿は、重力を感じていないかのように自然で、優雅ですらあった。
パイモンが再び驚いて声を上げた。
「ええっ!? マリー、すごいぞ! そんな荷物を持って、いつも旅人が登ってるみたいじゃないか!」
旅人はパイモンを制止し、静かにマリーを見つめた。旅人の異世界の視点から見ても、その登攀技術はただの学者のレベルを遥かに超えている。
「マリー、あんた……」
問いかけようとした瞬間、マリーが崖の上から振り返り、太陽の光を浴びたような穏やかで無邪気な笑顔を向けてきた。
「どうかしましたか、旅人さん?」
「……あんた、遺跡調査の専門家とは聞いていたが、思っていた以上に動けるんだな」
「ふふふ、旅人さんのようにとはいかないかもしれませんがこれくらい普通ですよ。遺跡調査が専門なので、こういう旅は慣れてるんです」
その言葉には、裏表がないように見えた。
(人付き合いを避けてきたから何かあってもおおめに見てほしいってこういうことだったのか?)
旅人はナヒーダに言われていたことを思い出した。だが旅人は直感した。“慣れ”だけで説明できる身体能力ではない。
旅人の心にこの女性は、明らかにただの人間ではないという強い確信が芽生え始めた。
2
さらに奥へ進むと、突然、雰囲気が変わった。空気が、重くなる。
「……何か感じる」
旅人が警戒する。
「危ないのか?」
パイモンが旅人の後ろに隠れる。でも、敵の気配ではない。何か別のもの。そして木々の間に何かが見えた。石造りの構造物。
「あれは……!」
マリーが息を呑む。それは古代の遺跡だった。
近づいてみると、不思議な建築様式をしていた。砂漠の様式と、森の様式が混ざったような。入口には、複雑な紋章が刻まれている。
「これは……」
マリーが紋章に触れる。その手が、わずかに震えている。そして、その下に刻まれた文字。マリーがそれを読み上げる。
「『おかえり、マリー。ここは時の外よ』」
「え、どうしてマリーの名前が遺跡に!?」
パイモンが驚いた。
マリーは読み上げた直後、体が硬直した。彼女の全身を、一瞬、耐えきれないほどの感情の波が通り過ぎたように見えた。
マリーはハッと我に返り、すぐに視線を逸らして、学者の冷静な顔を取り繕おうとする。
「わ、わかりません……どういう意味かは。この書体の年代はキングデシェレト時代と特定できますが……なぜ私の名が……」
彼女は言葉を濁し、指先で『時の外』という文字を強く押さえた。
(彼女は、知っている。そして、今、ここで何か決定的なものを思い出した。だが、隠そうとしている……? いや、それどころか、彼女自身もこの遺跡の何かを忘れていた?)
旅人がその推測を深めるより早く、マリーは旅人を真っ直ぐに見据え、強い意志を込めて言った。
「時の外……この言葉が、アランナラたちの歌の核心と関連しています。今、立ち止まっている場合ではありません。とにかく中を調べなくては!」
旅人は、マリーの動揺と、遺跡の持つ異様な空気を交互に見比べた。
(彼女の様子はおかしいけど、この場所はそれ以上に危険だ。立ち止まって話し合うより、今すぐこの異変の核心を確認すべきだ)
旅人は追及を飲み込んだ。この遺跡を、このまま放置すべきではないという、旅人自身の強い直感に従ったからだ。
旅人は文字を見た。古代スメール語のようだ。時の外……旅人は永遠のオアシスのことを思い出した。あそこには時に関する技術があった。
旅人は扉を見つめた。
扉には砂漠でよく見たギミックが使われていた。権能によって開くようだ。
古代の砂漠の技術が森の中にある。その事実こそが、この場所の異様さを物語っていた。
「中を調べてみよう。マリー、ここを開けるには権能が必要だ」
「権能……? さすがは旅人さん、権能のことを知っているんですね」
「ああ、下がっていてくれ」
旅人が扉に手を当てた瞬間、扉が光を放ち始めた。重厚な石の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開いていく。中から、淡い光が溢れ出す。時間が、止まっている。そんな感覚が、三人を包んだ。
「行きましょう」
マリーが一歩を踏み出す。旅人とパイモンが続く。
遺跡の内部は、外から想像していたよりも広かった。淡い光が空間を満たしている。光源は見当たらないのに、全てが柔らかく照らされている。壁には、複雑な文様が刻まれている。緑の蔦と、赤砂の華やかな花の模様が絡み合っている。
「凄い……」
パイモンが感嘆の声を上げる。マリーは壁の文様を、愛おしむように見つめていた。
「これは……森林の草……そして、砂漠の花……二つが、融合しています」
彼女は奥へと進む。その足取りは、まるで何かに導かれているかのように確かだ。通路を進むと、いくつもの部屋があった。古代の文献、保存された植物、様々なものが収められている。
旅人は、ある部屋の壁画に目を留めた。
「これは……」
砂漠の風景。巨大な建造物。そして、三人の人影。
「砂漠の遺跡にあったものと同じものだ」
旅人は呟いた。
マリーが振り向いた。
「ご存知なんですか?」
「ああ。アフマル……キングデシェレトの遺跡を、いくつか調査したことがある」
旅人は壁画を指差した。
「これと同じ壁画が使われている場所があった」
マリーの目が見開かれた。
「……そんなことまで……」
「興味があってな。いろんなことを見てきたよ。そこに生きている人のことも」
旅人は別の壁画を見た。
「赤砂の王の時代、この国には二人の賢神がいた。キングデシェレト、花神ナブ・マリカッタ、そしてナヒーダ。彼らは協力して、この地を守っていた」
旅人は振り向いてマリーを見た。
「永遠のオアシスにはなぜかナブ・マリカッタの遺体はなかった」
マリーは、旅人をじっと見つめていた。
しばらくの沈黙の後、彼女は小さく微笑んだ。
「正直に、お話しします」
マリーは深呼吸をした。
「私の本当の名前は、ナブ・マリカッタです」
3
パイモンが驚いて声を上げた。
「えええっ!? 花神!? 死んだはずの!?」
旅人は、驚きよりも納得の表情を見せた。
「やっぱり、そうか」
「……お気づきでしたか」
ナブ・マリカッタは少し照れくさそうに笑った。
「なんとなくな」
旅人は答えた。
「顔立ちが花神と似ていたし、この遺跡のことを知っているような素振りがあった」
旅人はリルパァールと探索していた時に花神の顔を映像で見ていた。
「でも、角も羽もないし今まで確信はなかった。ナヒーダには何かあっても大目に見てほしいとしか言われなかったしな」
ナブ・マリカッタは頷いた。
「隠していて、ごめんなさい。ナヒーダにも黙っていてもらっていました……私はもう死んだ存在なので……こんな形で人々の前にいるべきではない、と」
「どうして正体を明かした?」
「あなたは砂に埋もれた記憶をたくさん日の下に戻してくれたのですね。ナブ・マリカッタとしてお礼が言いたかったんです」
遺跡の薄暗い通路で、ナブ・マリカッタは静かに佇んでいた。
「それにあなたが砂漠のことを、アフマルのことをこんなに詳しく知っていると分かって」
彼女の目が、懐かしそうに、そして深い後悔を滲ませて遠くを見た。
「話したくなったんです。あなたは……どう思ったんだろう、と」
「思ったって?」
「アフマルのこと」
ナブ・マリカッタは微笑んだ。
「彼は……私の大切な友人でした。砂漠で、共に過ごした日々。人々を守るために、共に戦った日々」
その言葉には、深い愛情と懐かしさが込められていた。
だがその姿にはどこか寂しさのようなものが感じられる気がした
「そして……」
彼女の表情が、少し暗くなった。
「私は禁忌の知識をこの世界にもたらした……」
旅人は、静かに聞いていた。
「私は罪人だけれども、アフマルは、自らを犠牲にして、砂漠の人々を守りました」
ナブ・マリカッタの声が震えた。
「アフマルはこの世界から苦しみを取り除きたかったんです……」
涙が、彼女の頬を伝った。それは、何百年も封印されていた悲しみの結晶だった。旅人は、彼女の肩に手を置いた。
「砂漠の人々の話を聞けばわかる。アフマルは英明な王だ」
「でも……」
「……俺はスメールを見て回ってそう思ったよ」
旅人は真っ直ぐに彼女を見た。ナブ・マリカッタは、涙をぬぐいながら、心からの感謝を込めて微笑んだ。
「ありがとう……」
4
少し落ち着いた後、ナブ・マリカッタは、この遺跡の核心へと話を向けた。
「私は、500年以上前に眠りにつきました。だけど……」
彼女は自分の手を見た。
「ナヒーダが、私をよみがえらせてくれたんです」
「ナヒーダが?」
旅人は少し驚いた。囚われていたナヒーダがそんなことをできるわけがない。それは世界樹の改変によるものだろう。彼女を生き返らせたのはマハールッカデヴァータだと旅人は考えた。
「はい。おそらくこの遺跡で」
ナブ・マリカッタの口調は穏やかだった。
「目覚めた時、ナヒーダが側にいました。彼女は、とても優しかった。私のことを、また友人として迎えてくれた。でも、違和感があるんです……」
彼女は困惑した表情を見せた。
「そんなナヒーダの危機に私は死域の解決法を探すことを優先してました……そもそもあれは本当にナヒーダ……?」
ナブ・マリカッタは独り言を言うようにつぶやいた。旅人は黙って聞いていた。
「この場所のことも、なぜか忘れていたんです。ここに来るまで、全く思い出せなかったんです」
旅人はその理由の見当がついた。これも世界樹の記憶改変だ。だがそうだとするとこの遺跡には世界が隠さなければならない何かがある?
「でも、今は……」
ナブ・マリカッタは遺跡の奥を見た。
「思い出しました。ここには……禁忌の知識があります」
旅人の表情が、緊張した。
「思い出した……?」
「はい。私は、ここに来て、それを確認しなければならなかったんです」
ナブ・マリカッタは続けた。
「ずっと、心のどこかで引っかかっていたのに、思い出せなかった」
彼女は旅人を見た。
「でも、あなたの言葉をトリガーにして、ここまで来られました。そして……」
ナブ・マリカッタは奥を指差した。
「あそこに、何かがあります。愛おしいものが……待っています……」
「愛おしいもの? 奥には禁忌の知識があるのに?」
「はい……ルッカデヴァータ……」
ナブ・マリカッタは、その名前を、最も大切な友人の名前を口にするかのように、優しく、しかし確信を持って呟いた。
「誰かはまだわからないけどルッカデヴァータが……待っている……」
旅人は、その名前に激しく反応した。
ルッカデヴァータ。
旅人の心臓が、警告の鐘のように、早鐘を打ち始めた。
まさか……彼女は世界樹の改変を超えて、思い出そうとしている? マハールッカデヴァータのことを?
「旅人さん?」
ナブ・マリカッタが心配そうに見る。
「顔色が悪いですよ」
「いや……大丈夫だ。でも、一旦戻ろう」
「え?」
「ナヒーダに報告すべきだ」
旅人は真剣な表情で言った。
「禁忌の知識があるなら、慎重に調査しないと。それに……」
旅人は視線をそらした。その心は、この遺跡の探索は打ち切るべきかもしれない、という強い焦燥感で満ちていた。
「準備が必要だ」
ナブ・マリカッタは少し迷ったが、頷いた。
「そう……ですね。では、戻りましょう」
旅人は世界樹の記憶の改変が崩れ始めているという、恐るべき真実を抱え、遺跡を後にした。
旅人の心は、もしナブ・マリカッタが完全にマハールッカデヴァータを思い出してしまったら、世界はどうなるのかという、計り知れない不安で一杯だった。