1
聖樹の最上部。ナヒーダの部屋。
窓から差し込む午後の光が、本棚に並ぶ古文書を優しく照らしている。
三人が到着すると、ナヒーダは窓辺で本を読んでいた。
「旅人さん、マリー! お帰りなさい」
ナヒーダは笑顔で迎えた。
「ナヒーダ、旅人さんには私のことを話したわ」
「そう、良かったわ。マリーは一人で抱え込んでいたから、昔のことを話せる人がいればいいと思っていたの」
ナヒーダは本を閉じ、立ち上がった。
「調査の結果はどうだったかしら」
ナヒーダは旅人たちの様子を見てすぐに表情を変えた。三人の緊張した様子に気づいたのだろう。
「どうしたの? 何かあったようね」
「ナヒーダ、報告がある」
旅人が口を開いた。
「はい」
ナヒーダは真剣な表情で机に向かった。
旅人は、遺跡について報告した。深い森の奥にある構造物。砂漠と森の技術が混ざり合った不思議な建築様式。そして禁忌の知識の気配。
語るにつれ、ナヒーダの表情が徐々に険しくなっていく。眉間に皺が寄り、唇が固く結ばれる。
「禁忌の知識……」
その言葉を呟いた時、ナヒーダの声は震えていた。
ナブ・マリカッタが口を開いた。
「ナヒーダ、遺跡のことを思い出したの」
「思い出した?」
「はい。ナヒーダが私を生き返らせたのがあの遺跡だったの。でも、なぜかずっと忘れていて……今日、旅人さんと一緒に行って、ようやく思い出したの」
「……その遺跡が……マリーが言っていた遺跡……」
ナヒーダは、驚きと混乱の入り混じった表情を浮かべた。彼女は椅子に深く座り直し、考え込み始めた。
「あの遺跡には……禁忌の知識があるわ。それを確認しなければならなかったのに、忘れてたの。そして……」
ナブ・マリカッタの声が震えた。
「奥に、愛おしいものを置いてきた気がする。ルッカデヴァータ……という名前が、頭に浮かぶの」
その瞬間、ナヒーダの体が、わずかに揺れた。
「ルッカデヴァータ……」
彼女は自分の胸に手を当てた。その手が、強く胸を掴む。
「その名前……」
「……どうした?」
旅人が探るように尋ねる。
「わからない……でも……胸が……苦しい。まるで……とても大切な何かを、忘れているような……でも、何を忘れているのか、わからなくて……」
彼女は混乱していた。自分の体に起きていることが、理解できないようだった。
しばらくして、伝えることを伝え終わると、ナブ・マリカッタが静かに立ち上がった。
「ナヒーダ、少し休んでて」
「……ええ。すみません、お二人とも。少し、時間をいただけますか」
三人は部屋を出た。
扉を閉める直前、旅人は振り返った。ナヒーダは窓辺に立ち、外を見つめていた。その背中は、どこか小さく見えた。
2
しばらくして、旅人とパイモンはナヒーダの様子を見に部屋に戻った。
ナヒーダはまだ窓辺に立っていた。でも、その表情は先ほどより落ち着いている。
「旅人、パイモン。心配かけてごめんなさい」
ナヒーダは振り向いた。その目は少し赤い。
「大丈夫か?」
「ええ……少し落ち着いたわ」
ナヒーダは小さく微笑んだ。
でも、その笑顔の奥に、まだ混乱が残っているのが見て取れた。
ナヒーダは顔を上げた。
「そういえば……あれからアランナラの様子が変わっていたわ」
「変わっていた?」
「はい。あの歌……途中で止まっていた歌を、最後まで歌えるようになっていたの」
旅人の目が見開かれた。
「それは……」
「遺跡を開けたことで、何かが変わり始めている……そうなのでしょう?」
ナヒーダは真剣な表情で言った。旅人は少し迷ったが、頷いた。
「……ああ、そうかもしれない」
旅人は窓の外を見た。
「禁忌の知識がある。封印した方がいいかもしれない」
しばらく沈黙が流れた。風が、窓から吹き込んでくる。カーテンが、ゆっくりと揺れた。
そして、彼女は首を横に振った。
「いいえ、もう、止められないわ」
その声は、静かだが、強い意志を秘めていた
「止められない?」
「アランナラが思い出した。遺跡が開かれた。変化はもう始まっているわ」
彼女は窓辺に立ち、遠くを見つめた。
「封印しても、記憶は少しずつ広がっていくでしょう。禁忌の知識を放置する方が危険よ。中途半端に隠すより、最後まで調査して、ちゃんと向き合うべきだわ」
ナヒーダは振り向いた。その瞳には、迷いがなかった。
「それに……私自身が確かめたいの。ルッカデヴァータが何者なのか。なぜこんなにも胸が苦しいのか。何を忘れているのか」
ナヒーダは旅人を真っ直ぐに見つめた。
小さな体。でも、その目には、強い決意が宿っていた。
旅人は、その目を見て思った。ナヒーダは本気だ。止めることはできない。
「……わかった。なら、一緒に行こう」
旅人は頷いた。
ナヒーダの言う通りだと思った。止められないのなら向き合って見届けよう。
「ええ、お願いするわ」
二人は顔を見合わせ、静かに頷いた。
3
数日後。
旅人、パイモン、ナブ・マリカッタ、そしてナヒーダは、再び遺跡へと向かった。
「ナヒーダ、本当に一緒に来て大丈夫なのか?」
旅人が心配そうに尋ねる。
「はい」
ナヒーダは頷いた。
「草神として、この問題に直接向き合う責任があります。それに……私自身が、確かめたいの」
その声には、強い意志があった。
やがて、見覚えのある場所に辿り着いた。
遺跡。石造りの構造物が、木々の間から姿を現す。蔦が絡まり、苔が生え、長い年月を感じさせる。
扉は、開いたままだった。中から、淡い光が漏れ出している。まるで、誰かを待っているかのように。
「入ろう」
旅人が先頭に立つ。一歩、また一歩。石の床を踏む音が、静かに響く。
四人は、最深部へと進んでいった。
通路を進むたびに、空気が変わっていく。
ひんやりとした冷気。でも不快ではなく、神聖な何かを感じさせる。
壁には、複雑な文様が刻まれている。草の蔦と、花の模様が絡み合っている。
ナヒーダは、その文様を見つめながら歩いている。何かを思い出そうとするように。
ナブ・マリカッタも、無言で進んでいる。その表情には、懐かしさと、そして恐れが混ざっている。
そして、ついに到着した。最深部の扉。
「この扉の先で……私は眠ってた……」
ナブ・マリカッタの声が、震えた。
彼女は扉に手を伸ばした。その手が、わずかに震えている。
扉が、ゆっくりと開き始めた。きしむ音が、静寂を破る。中から、さらに強い光が溢れ出す。
そして、その光の中に。時間が完全に停止した空間が現れた。水と緑に覆われた優美な景色が広がっている、しかし水は流れを完全に止めていた。鳥は空中で静止している。
「ここは永遠のオアシス……? どうしてこんなところに?」
パイモンが呆然と呟いた。
目に映るのは永遠のオアシスで見た景色そのものだった。
ナヒーダも驚きの表情で周りを見回している。その瞳が、大きく見開かれている。
「この技術は……確かにキングデシェレトのもの……でも、なぜここに……」
彼女は困惑した表情で壁の文様に触れた。
「この紋章は……私の力の痕跡……? 私が……作った……?」
ナヒーダの声が震えた。
「でも、覚えていない……全く……こんな大規模な力を行使したなら、覚えているはずなのに……」
彼女は膝をつきそうになった。旅人が支える。
ナヒーダの体は小さく、軽い。でも今は震えていた。
「ナヒーダ、大丈夫か?」
「ごめんなさい……少し、混乱して……」
ナヒーダは深呼吸をした。
「ありがとう、旅人。でも自分が作ったものを、全く覚えていないなんて……」
「マリーは覚えてるのか?」
旅人がナブ・マリカッタに尋ねた。
「はい、アフマルの死後、ナヒーダは永遠のオアシスの番人のフェリギスと交渉して、ここにもう一つのオアシスを作ったんです。ここにも天の釘がありますし、ここなら草神の力がよく届きますから」
「なるほど」
旅人は頷きながらフェリギスの言葉を思い出していた。あの時のフェリギスはナブ・マリカッタが生き返ったことを知っていたのだ。そして、主人の秘密をかたくなに守っていた。
「でも、ナヒーダは禁忌の知識と黒潮に対抗するために記憶を消費しただけじゃないか?」
パイモンが口をはさむ。
「そうだな、パイモンの言う通りだ……」
旅人は慎重に言葉を選んだ。記憶改変のことは、まだ明かせない。
「禁忌の知識があるんだったな、調べてみよう」
旅人は話題を変えた。一行は、オアシスの奥へと進んだ。
それはこのオアシスを少し探索すると分かった。五体のアランナラが、円を描いて座っている。彼らは完全に静止している。眠っているようだが、どうやら景色と同じように時が止まっている。
そして、その中央に。緑色に輝く、大きな結晶。
「これはルッカデヴァータの記憶の結晶……」
ナブ・マリカッタは、結晶を見つめたまま、動けずにいた。そして、涙を流しながら、小さな声で言った。
「私……ここで彼女をよみがえらせようとしていた……」
ナブ・マリカッタの声が震える。
「思い出した……アランナラたちが記憶を守ってくれていて……私はそれを使って……」
旅人は、その結晶から禁忌の知識の気配を感じ取った。
「禁忌の知識に汚染されてる……」
旅人が呟く。
ナヒーダも結晶を見つめ、そして周囲の遺跡を見回した。
「これは……世界樹の協力がないとできないこと……」
彼女は呟いた。
「……アランナラは世界樹から知識を引き出せない……世界樹が協力しない限り……」
部屋に重い沈黙が落ちる。水の流れない音。鳥の鳴かない静寂。時が止まった世界の、不気味な静けさがあった。
やがて、旅人が口を開いた。
「……禁忌の知識がある。慎重に調べるべきだ。今日は休んで、明日また考えよう」
ナヒーダは少し考えてから頷いた。
「そうね。それがいいかもしれないわ」
その声には、疲労が滲んでいた。
「私も賛成です」
ナブ・マリカッタが言った。
「では、野営の準備をしましょう」
4
ナブ・マリカッタが慣れた手つきで野営の準備を始めた。オアシスの近くに寝床を作り、小さな焚き火を起こす。簡単な夕食の用意をする音が聞こえる。
「マリー、手伝おうか?」
旅人が声をかける。
「いいえ、大丈夫です」
ナブ・マリカッタは穏やかに微笑んだ。その笑顔には、かつて多くの人々に愛された花神の面影が宿っている。
「最近は、一人でこういうことばかりしていましたから。慣れているんです」
オアシスの女主人が……時間の移り変わりを感じつつ旅人は頷いて、少し離れた岩に腰を下ろした。ナヒーダもそっとそばに座った。小さな草神の姿は、焚き火の光に照らされて、どこか儚げに見えた。二人は、しばらく黙って結晶を見つめていた。パイモンは長い一日に疲れたのか、旅人の隣で目を閉じ、規則正しい寝息を立てている。
「旅人」
ナヒーダが静かに口を開いた。その声は、普段の明るさを失い、深い思索に沈んでいるようだった。
「あの結晶……世界樹の協力がなければ、あんなものは作れないわ」
「そうなのか」
「ええ、世界樹がマハールッカデヴァータの記憶をアランナラに与えたのでしょう」
ナヒーダは真剣な表情で言った。
「そして彼らは記憶を守り続けた」
彼女は続けた。
「世界樹はどうしてそんなことを?」
「世界樹はすべての記憶が詰まっている。その記憶達がルッカデヴァータをよみがえらせようとしている……そういうことだと思うわ」
「じゃあ……世界の意思……ってことか」
旅人が呟いた。
「ええ、世界樹に個々の意思はないのだけれど……」
ナヒーダは頷いた。
「個人の願いではなく、世界そのものが彼女を必要としている。だから、これだけの奇跡が起きているのかもしれないわ」
旅人は、ナヒーダの言葉を静かに聞いていた。
「でも……」
ナヒーダは少し表情を曇らせた。
「それでも、慎重にならなければいけないわ。禁忌の知識の問題もあるし……」
彼女は言葉を選ぶように続けた。
「ああ、そうだな」
旅人は頷いた。二人の間に、重い沈黙が落ちた。
夜が、深い闇と共にゆっくりと訪れていた。遺跡の外では森が眠りにつき、内側では時が止まったままだ。この境界の曖昧な空間で、旅人たちはそれぞれの想いを抱えて夜を過ごした。
5
翌朝。
旅人が目を覚ますと、ナブ・マリカッタが朝食の準備をしていた。
「おはようございます」
彼女の声は明るく、昨夜の重苦しい雰囲気を払拭するかのようだった。
「おはよう」
旅人は立ち上がり、体を伸ばした。ナヒーダもすでに起きていて、結晶の方を静かに見つめている。その小さな背中には、昨夜から抱え続けている悩みの重さが感じられた。
「少し待っていてくださいね」
ナブ・マリカッタは、オアシスの中央に浮かぶ小さな島を指差した。
「あそこで食べましょう」
島まで石造りの橋がかかっていた。だが四人は水の上を歩いて島へと向かった。
そこには、テーブルと三つの椅子があった。
「ここは……」
ナヒーダが呟く。
「昔、こんな風に三人で座って食事をしたんです。アフマル、ナヒーダ、そして私」
ナブ・マリカッタは懐かしそうに言った。その目は遠い過去を見つめ、失われた日々への郷愁に満ちている。
「まず座りましょう」
ナブ・マリカッタが椅子を勧めた。その動作は丁寧で、まるでかつての宴の主人として客人を迎えるようだった。
「旅人さん、ここに」
彼女は一つの椅子を指した。
「ナヒーダと私はいるから、あなたはアフマルの席です」
旅人は少し躊躇したが、座った。
ナブ・マリカッタが朝食を運んできた。野菜のスープ、焼いたパン、フルーツのサラダ。そして、小さなデザート。
「これは……」
「フルーツは外になっているところを知っていたの。ナヒーダが好きなデザートです。今日はみなさんとこの席で朝食を食べたかったから」
ナブ・マリカッタは微笑んだ。
ナヒーダは腑に落ちない様子だった。
「そして、これはお茶になる草を今朝摘んで淹れたもの。昔、アフマルが『これを飲むと頭が冴える』って言って、よく飲んでいたんです」
彼女の瞳には、かけがえのない思い出が映っているようだった。彼女は遠くを見るような目をした。
「昔は、召使が料理を作ってくれました。味はその時のようにはいかないかもしれませんが……」
ナブ・マリカッタは、まるで幸福な夢を語るように、楽しそうに話し始めた。
「アフマルは辛いものが好きでした。ナヒーダは甘いものが好きでした。二人の好みが全然違うから、召使たちは献立を考えるのが大変だったみたいです」
彼女はくすくすと笑った。その笑い声は、まるで少女のように無邪気だった。
「でも、二人とも美味しそうに食べてくれて……私も嬉しかった」
ナヒーダは、その話を静かに聞いていた。
マリーの表情は、本当に幸せそうだった。
「あの頃のナヒーダはね、人々の知識をまとめることに忙しくて……」
ナブ・マリカッタは続けた。
「でも、こうしてると、本当にリラックスしてくれたんです。アフマルも、王ではなく、ただの友人として……」
彼女の目が、潤んでいた。それは悲しみの涙ではなく、美しい記憶への感謝の涙だった。
「三人で、本当に楽しかったんです」
ナヒーダは、自分の胸に手を当てた。心臓が、早鐘を打っている。マリーが語る、温かい思い出。でも、自分には……その記憶がない。
ナヒーダは、テーブルの上の料理を見た。昔のナヒーダが好きだったデザート。アフマルが座っていた席。三人で過ごした、幸せな時間。でも、自分の記憶の中には、何もない。
そして、ナヒーダの中で、様々な断片が繋がり始めた。
アランナラたちが突然、途切れていた歌を思い出したこと。マリーがこれほど重要な遺跡を忘れていたこと。自分も、大規模な力を行使した痕跡があるのに、全く覚えていないこと。世界樹の協力の痕跡。そして、旅人の微妙な態度。まるで何か、言えない真実を知っているような。
全てが、一つの結論へと収束していく。
「マリー」
ナヒーダが口を開いた。
「あなたは……この遺跡を忘れてたわね」
「ええ……」
ナブ・マリカッタは困惑した表情を見せた。その目には、自分でも理解できない違和感が浮かんでいる。
「なぜか、ずっと忘れていたの」
「それは……前からおかしいと思っていたの」
ナヒーダは真剣な表情で言った。
「これだけ大切な場所を、これだけ重要なことを、あなたが忘れるはずがない」
ナヒーダは結晶のある方を見た。
「世界樹の協力の痕跡がある。そして、誰もがこの場所を忘れていた」
彼女は二人を見た。
「これは……世界樹による、記憶の書き換えだわ」
旅人は、ナヒーダを見た。小さな草神が、ついに真実に辿り着いてしまった。
「ナヒーダ……! それは違う!」
旅人の声には、動揺が滲んでいた。
「旅人は何か知っているのね……いいえ、あなたは覚えているのね?」
ナヒーダの声は穏やかだが、確信に満ちている。
旅人は次の言葉が出なかった。否定することも、肯定することもできない。ただ、ナヒーダの鋭い視線を受け止めるしかなかった。
「昨夜、考えていたの。これだけの規模で誰もが忘れている……それは自然なことではないわ」
「何のためにそんなことを……」
ナブ・マリカッタは、驚いた表情をしていた。
「おそらく、禁忌の知識と共に、記憶の結晶の主、ルッカデヴァータを世界から消すために」
「世界樹が……彼女を……」
「この遺跡内の時間が停止していることで、記憶の結晶とアランナラたちの記憶が、世界の書き換えの影響から物理的に隔離され、温存されてきた」
ナヒーダは静かに、しかし確実に真実を紡いでいく。
「でも、今、その書き換えが解けかけている」
「……俺がこの遺跡にたどり着いてしまったから……」
旅人の声には、自責の念が滲んでいた。
「いいえ、準備が整ったからじゃないかしら」
ナヒーダは旅人を見た。その目は優しく、責めるような色は全くない。
「準備?」
「記憶をなくさない者が、スメールを旅して、現状を深く知った」
彼女は続けた。
「旅人、あなたは砂漠も森も見てきた。人々の暮らしを知り、歴史を学び、この国のことを想うようになった」
ナヒーダは微笑んだ。それは、深い信頼に満ちた笑顔だった。
「だから、あなたの言葉で手がかりから遺跡の場所を見つけられた。世界が、あなたを導いた」
旅人は、ナヒーダの言葉を聞いて、胸が熱くなった。確かに、自分はスメールを旅してきた。砂漠の人々の想い。森の人々の願い。そして、失われた神々の痕跡。その全てを見て、感じて、考えてきた。
「だから……」
ナヒーダは真剣な表情で言った。その小さな姿に、草神としての威厳が宿っている。
「旅人さん、あなたはどうしたらいいと思うかしら?」
「どうしたらって……」
ナヒーダは結晶を見た。
「彼女をよみがえらせるべき?」
「……まだ判断できない」
「それなら、記憶の結晶があるわ。記憶を覗いて確かめてください。そして、判断してください」
ナブ・マリカッタが言った。
「えええ!? 禁忌の知識があるんだろ!? 旅人は大丈夫なのか?」
パイモンは飛び上がって叫んだ。
「……俺は大丈夫だ。何かあってもナヒーダもいるしな」
旅人は頷いた。
「わかった、俺が見てくる」
6
そして朝食が終わると、旅人は結晶の前に立った。緑色の結晶は、パイモンより一回り小さいくらいの大きさだった。近づくと、微かに温かさを感じる。そして、懐かしいような、切ないような、不思議な感覚が胸に広がった。
「準備はいい?」
ナヒーダが尋ねる。
「ああ」
旅人は深呼吸をした。冷たい空気が肺を満たし、心を落ち着かせる。
「では……行ってくる」
旅人は、ゆっくりと手を伸ばした。結晶の表面は滑らかで、触れた瞬間、温かさが指先から全身へと広がっていく。
瞬間、世界が変わった。光が溢れ、音が消え、全てが白く染まっていく
7
結晶に触れる旅人の背中を見つめながら、ナヒーダは胸の奥を騒がせる奇妙な違和感と戦っていた。
(……旅人に調査を任せたけれど、確かにまだ判断材料が少なすぎるわ)
目の前にあるのは、間違いなく先代の記憶が詰まった結晶。そして隣にいるのは、自らを花神と名乗る女性、マリー。
状況証拠は揃っている。けれど世界樹の権能を持つナヒーダの知性が、一つの残酷な仮説を弾き出していた。
(もし、世界樹による記憶の改変が私たちが想像するよりもずっと徹底したものだとしたら?)
ナヒーダは隣に立つマリーの横顔を盗み見た。
彼女は、自分をナブ・マリカッタだと思い込んでいる。けれど、もし本当は彼女こそが……記憶を書き換えられ、親友になりきらされたマハールッカデヴァータ自身なのだとしたら?
だとしたら、今目の前で輝くこの結晶は、その事実を隠蔽するために世界樹が用意した空虚なバックアップに過ぎないのではないか。あるいは、本当の自分を取り戻すために、彼女がかつて用意した仕掛けの一つなのではないか。
もしそうなら、今ここで行われていることは、自分を忘れた神が自分自身の断片を拾い上げるだけの虚しい通過儀礼にすぎない。
だがナヒーダの知恵はさらにその先の不穏な予感を捉えていた。
(……いいえ、それすら私の誤解だとしたら? この結晶も、このオアシスも、彼女を呼び戻すための本質ですらないのだとしたら……)
マリーがふと、ナヒーダの方を振り返った。その微笑みはあまりにも完璧で、だからこそナヒーダの背筋を冷たい何かが通り抜けた。
目の前のマリーが「本物の友人」なのか、それとも「友人のフリをさせられている親友」なのか。その答えは、結晶の奥に沈んだ記憶にしか存在しない。
(これからのことは、記憶を見た旅人の話を聞いてからだわ……考えすぎなら、いいのだけれど)
知恵の神ですら正解に辿り着けないその予感は、遺跡の静寂の中に、長く不気味な影を落としていた。