スメール自己犠牲救済任務:花神譚   作:水鏡ケイ

5 / 14
第5話

1

 

 聖樹の最上部。ナヒーダの部屋。

 

 四人が戻ると、ナヒーダはすぐに机に向かった。山積みの資料を素早く整理し始めた。その小さな手は迷いなく動いている。

 

「まず、禁忌の知識の処理方法を確立しないといけないわ」

 

 彼女が資料を広げながら言った。古文書や砂漠の構造体の図が、次々と机の上に並べられていく。

 

「記憶の結晶には、ルッカデヴァータの記憶と共に、禁忌の知識が含まれている。これを安全に分離する方法が必要ね」

 

 ナヒーダの指が、ある図面の上で止まった。そこには複雑な砂漠の構造体が描かれている。だが、彼女の眉間には困惑の皺が寄っていた。

 

「ナヒーダはその方法は知らないのか?」

 

 旅人が尋ねた。

 

「いいえ」

 

 ナヒーダは首を横に振った。その動作には、自分への苛立ちが滲んでいる。

 

「世界樹の書き換えか、それとも私がこの姿になった時、その方法も一緒に消えてしまったようだわ」

 

 彼女は窓の外を見た。聖樹の葉が風に揺れ、さらさらと音を立てている。

 

「自分で行ったはずのことを、思い出せない……不思議な感覚ね」

 

 その声には、深い喪失感があった。ナヒーダは少し寂しそうに微笑んだが、その笑顔はすぐに消えた。

 

「でも、方法がないわけではないはずです」

 

 ナブ・マリカッタが一歩前に出た。その声には、確信があった。

 

「アフマルは禁忌の知識を収束させて、自己犠牲を選んだ。その知識を、アペプ様が持っているはずです」

 

「アペプか……確かに。アフマルを食べて、その知識を吸収しているんだったな」

 

 旅人は頷いた。砂漠で出会った、龍王の姿が脳裏に浮かぶ。

 

「では、砂漠へ向かいましょう」

 

 ナヒーダが言った。

 

「ナヒーダも来るのか?」

 

 旅人が心配そうに尋ねた。

 

「いいえ」

 

 ナヒーダは首を横に振った。その表情には、わずかな苦々しさがある。

 

「アペプは草神を……あまり良く思っていないわ。ここは、旅人とマリーに任せるわ」

 

「わかった」

 

 旅人は頷いた。

 

「では、準備を整えて出発しよう」

 

2

 

 出発の準備を整えている間、旅人はナヒーダの部屋に戻った。

 

 小さな草神は窓辺に立ち、スメールシティの街並みを静かに見つめていた。夕暮れが近づき、街は温かなオレンジ色に染まり始めている。人々の声、市場の喧騒、子供たちの笑い声。生命の息吹が、風に乗って聞こえてくる。

 

「ナヒーダ、一つ聞きたい」

 

 旅人が口を開いた。

 

「はい」

 

 ナヒーダは振り向いた。その緑の瞳が、旅人を見つめる。

 

「もし、体が違っても、記憶が同じなら……それは同じ存在と言えるか?」

 

 ナヒーダは、その質問の意味を理解するのに少し時間がかかった。眉をひそめ、自分の胸に手を当てる。

 

「体が違っても……記憶が同じ……」

 

 彼女は呟いた。

 

「ああ。ルッカデヴァータの記憶を、別の体に移すことになる。それは本当に『その人』なのか?」

 

 旅人の声には、切実さがあった。記憶の結晶で見た、あの女性の笑顔。あの涙。あの叫び。それらを本当に取り戻せるのか。

 

 ナヒーダは深く考え始めた。部屋の中を、ゆっくりと歩き出す。その小さな足音が、静かな空間に響いた。

 

「難しい問いね……」

 

 ナヒーダは本棚の前で立ち止まった。そこには、哲学書が並んでいる。

 

「人間の考えでは、きっと納得できないと思うわ……体とは、物理的な連続性とは、それほど重要なものだから」

 

 彼女は一冊の本を手に取り、ページをめくった。

 

「でも、答えは明確よ。少なくとも、アランナラや私たち草神にとっては」

 

 ナヒーダは窓辺に戻り、本を開いたまま空を見上げた。最初の星が、夕暮れの空に瞬き始めている。

 

「アランナラたちを見てきたでしょう? 彼らにとって、記憶は命そのもの」

 

 ナヒーダはゆっくりと説明し始めた。その声は穏やかで、でも確信に満ちている。

 

「体は確かに大切だわ。でも、それは器に過ぎない。その人を『その人』たらしめるのは……」

 

 ナヒーダは自分の胸に手を当てた。心臓の鼓動が、その手のひらに伝わってくる。

 

「心よ。そして心は、記憶で出来ている」

 

 彼女は旅人を見た。

 

「経験、感情、思考、愛、悲しみ、喜び。あなたが旅で出会った人々。共に戦った仲間たち。見てきた風景。感じてきた風。全ての記憶が、あなたを『あなた』にしているの」

 

 旅人は、ナヒーダの言葉を静かに聞いていた。

 

「だから……体が変わっても、記憶が同じなら、それは同じ存在。本質は変わらないわ」

 

 彼女は確信を持って言った。

 

「彼女の優しさも、強さも、恐怖も、全て。それらを記憶している存在が生まれるなら……それは間違いなく、マハールッカデヴァータよ」

 

 旅人は、その答えに深く安堵した。胸に詰まっていた不安が、ゆっくりと溶けていく。

 

「そうか……ありがとう」

 

「私も安心したわ」

 

 ナヒーダは優しく笑った。

 

「旅人には私たちの考えを理解してほしかったから」

 

 部屋に、温かい沈黙が流れた。窓の外では、街に明かりが灯り始めている。一つ、また一つと、星のように。

 

「じゃあ……明日出発する」

 

 旅人は立ち上がった。

 

「ええ。気をつけて」

 

 ナヒーダは手を振った。その小さな手が、旅人の背中を見送っている。

 

3

 

 翌朝。

 

 旅人、パイモン、ナブ・マリカッタの三人は七天神像を背に、アペプの領域へと歩き始めた。

 

 灼熱の太陽が、容赦なく照りつける。砂が白く輝き、熱が地面から立ち上っている。遠くで陽炎が揺らめき、現実と幻の境界を曖昧にしていた。

 

「暑いぞ……もうダメだ……」

 

 パイモンが文句を言いながら、旅人の後ろでふらふらと浮いている。

 

「もう少しだ。頑張れ」

 

 旅人が励ます。汗が額を伝い、服が肌に張り付いている。

 

 ナブ・マリカッタは黙って歩いていた。その表情には、複雑な感情が浮かんでいる。懐かしさ、悲しみ、そして決意。

 

 しばらく歩いていると、旅人がふと口を開いた。

 

「そういえば、マリー」

 

「はい?」

 

「昨日、ナヒーダと話したんだ。体が違っても、記憶が同じなら同じ存在だって」

 

 旅人は前を向いたまま続けた。

 

「あんたも……記憶を移し替えて生き返ったのか?」

 

 ナブ・マリカッタは少し驚いたような表情を見せた。そして、首を横に振った。

 

「いえ、私の場合は違います」

 

 彼女は静かに答えた。

 

「私の遺体が残っていたので、それを使ってよみがえらせてもらいました。だから、体も記憶も元のままです」

 

「なるほど」

 

 旅人は頷いた。

 

「じゃあ、ルッカデヴァータの場合は?」

 

「彼女の場合は……」

 

 ナブ・マリカッタは少し間を置いて答えた。

 

「記憶の結晶を核にして、体を形成します。だから、体は新しいものになりますが、記憶は完全に彼女のものです」

 

「そうか」

 

 旅人は納得したように頷いた。

 

4

 

(興味深い話だわ……世界から忘れられた彼女は死んでたことになるのかしら)

 

 ナブ・マリカッタは心の中で呟いた。

 

 ナヒーダの考えなら、記憶の結晶で自分の記憶を上書きしたら、ルッカデヴァータが生き返ったことになる。

 

 すでにそうなっていて、記憶改変の影響で、実は自分はルッカデヴァータだったことを忘れている……なんてこともあるかもしれない。

 

 じゃあ、自分は自分を目覚めさせようとしている? 私はルッカデヴァータが見る仮初の夢だった?

 

 面白い。そんなことはあるはずがないけれど。

 

(だって本当は、私も彼女も死んでたわけじゃない……でも……)

 

 ナブ・マリカッタは自分の胸に手を当てた。この胸には二人と過ごした記憶がある。もし私がナヒーダの価値観を受け入れることができるなら……

 

(私は、私と結晶の記憶からルッカデヴァータではなく……三人でいた時の在りし日のアフマルを生き返らせられる)

 

 しかし、それは私のすべきことではない……私の価値観ではアフマルは死んでいるのだから。戻ってほしくても、アフマルがアペプ様のお腹の中から戻ってくることはないのだ。

 

 だから大丈夫。アペプ様の前でも私は普通でいられる。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。