スメール自己犠牲救済任務:花神譚   作:水鏡ケイ

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第6話

1

 

 やがて、目的地が見えてきた。アペプの領域だ。

 

 三人は洞窟へと足を踏み入れた。その瞬間、世界が変わったかのように急激に温度が下がった。肌を刺すような冷気は単なる低温ではなく、濃密な元素力が凝縮された重圧だった。

 

「アペプ」

 

 旅人が闇に向かって呼びかけた。声が、底なしの暗闇へと吸い込まれていく。

 

 しばらくの沈黙。永遠にも感じる静寂の後、大地が呻くように揺れた。

 

 闇の奥から、山脈が動くような気配がする。空気がびりびりと振動し、堆積していた砂が舞い上がった。

 巨大な龍の目が、ゆっくりと開く。その瞳には、人類の歴史よりも古い知性と、底知れぬ疲労が宿っていた。

 

「……何の用だ、旅人よ」

 

 アペプの声は低く、大気を震わせ、内臓に直接響くようだった。

 

「話がある」

 

 旅人は臆することなく、真っ直ぐに龍王を見上げた。その隣で、パイモンが旅人の肩に隠れるようにしがみつく。

 

「フン……」

 

アペプの視線が旅人の背後にいるナブ・マリカッタに移った瞬間、低く唸った。

 

「花神、ナブ・マリカッタ。よりにもよって、おまえが私に何の用だ」

 

「お久しぶりです、アペプ様」

 

 ナブ・マリカッタが一歩前に出た。その足取りには迷いがあったが、表情は毅然としていた。

 

「アペプ様、お願いがあります」

 

「お願い、だと?」

 

 龍王は嘲笑を交じらせた。

 

「あの愚かな赤砂の王に連なる者が、今さら私に何を乞う。全く、お前を見るよりは小賢しい草神の方がまだましだ」

 

 アペプの声には、明らかな敵意と侮蔑があった。

 

 ナブ・マリカッタは、アペプの敵意の強さに困惑した。

 

(どうして? アペプ様との仲は悪くなかったはずなのに……なぜこれほどまでに嫌悪されるの?)

 

 旅人は空気を和らげようと口を開いた。

 

「過去に何があったかわからないが、我々が来たのはアフマルとは関係ない」

 

 ナブ・マリカッタは静かに、しかし強く言った。

 

「花神として、個人として、お願いに来ました」

 

 彼女は一度深く息を吸い込み、自分の震えを抑え込んだ。

 

「禁忌の知識について、教えていただきたいんです」

 

 その瞬間、アペプの瞳孔が細く収縮し、怪しい光を放った。それまでの露骨な敵意と不快感が、一瞬で奇妙な静けさへと変わった。

 

「……ついて来い」

 

 アペプは何の前触れもなくそう告げた。その声は平坦で、感情が読み取れない。その巨体が闇の奥へとずるりと消えていく。

 

 旅人とパイモン、そしてナブ・マリカッタは顔を見合わせた。

 

「な、なんだよ急に。あんなに嫌がってたのに……罠じゃないだろうな?」

 

 パイモンが小声で囁いた。

 

 罠かもしれない。だが、「禁忌の知識」というキーワードがアペプの態度を急変させたのは確かだった。三人は警戒心を抱きながらも、その巨大な影を追った。

 

2

 

 アペプの領域の最奥部。

 その中央に、世界を統べるような威圧感を放ちながら、龍王が横たわっていた。

 

「それで、何を知りたい」

 

 アペプの声には、深い疲労と苛立ちがあった。

 

 ナブ・マリカッタは、遺跡で見つけた記憶の結晶のこと、その人を復活させたいこと、だが記憶には禁忌の知識が含まれていることを、言葉を選びながら説明した。

 

 アペプは黙って聞いていた。その瞳は、ナブ・マリカッタを射抜くように見つめ続けている。

 

「……それで、私に何を求める」

 

「禁忌の知識を処理する方法を、教えてください」

 

 ナブ・マリカッタは深く頭を下げた。

 

「アフマルが使った方法を、あなたは知っているはずです」

 

 アペプは、長い沈黙の後、低く、おぞましい笑い声をあげた。洞窟全体が揺れるほどの哄笑だ。

 

「アフマルか……」

 

 龍王の声には、憎悪と、それ以上の複雑な感情が渦巻いていた。

 

「あの男のせいで、私がどれだけ苦しんだと思う」

 

「え……?」

 

 ナブ・マリカッタが顔を上げた。

 

「私がアフマルを食べたのは、奴の知識を得るためだ。奪われた大権を取り戻すため……だが、奴は最初からそれを狙っていた」

 

 アペプの声に苦々しさが滲む。

 

「あの男は私を利用したのだ。自分を食べさせることで、禁忌の知識を私に押し付けた。そして……私を暴走させようとした。最後には、この体を乗っ取り、再び自らの理想を実現するための器にするつもりだった」

 

「そんな……まさか……」

 

 ナブ・マリカッタの顔が青ざめた。

 

「私は理性を保つのに必死だった。禁忌の知識と奴が私を狂わせようとするのを、何百年もの間、ずっと際どいところで抑え込んできたのだ」

 

 龍王の声が震えた。それは、想像を絶する闘いの告白だった。

 

「この身を焼く苦痛が、お前たちごときにわかるか」

 

 旅人は拳を握りしめた。アペプの痛みと、その精神力の凄まじさが伝わってくる。

 

「それでも……あんたは暴走しなかった」

 

 旅人はアペプを真っ直ぐに見つめた。

 

「誇り高き龍王として、理性を保ち続けたんだな」

 

「当然だ」

 

 アペプは鼻を鳴らした。

 

「私は龍王だ。奴の思惑通りに狂気に身を任せるなど、できるはずもない。たとえ……どれほど身が裂けようともな」

 

 龍王の目が、どこか遠くを見た気がした。

 

「だが……」

 

 次にアペプが二人を見た時、その瞳の光が変わっていた。

 

「お前たちの話を聞いて、少し興味が湧いた」

 

「興味……?」

 

 ナブ・マリカッタが戸惑う。

 

「ふふ、まぁすぐにわかる……」

 

 アペプは意味深げに言った。

 

「教えてやってもいい。そうすれば、我を縛る楔もなくなるだろうからな」

 

「本当ですか! 教えていただけるのですね!」

 

 ナブ・マリカッタの表情が明るくなった。

 アペプは少しの間、沈黙した。まるで、体内の何者かと対話するかのように。

 

「では、教えてやろう。だが……」

 

 その時、アペプの声の調子が、完全に変わった。

 地響きのような低音が消え、理知的で、どこか傲慢さを秘めた、しかし透き通るような男の声が響いた。

 

「お前たちを相手にするのは、この声がふさわしい」

 

 ナブ・マリカッタは息を呑んだ。全身が硬直し、目が見開かれる。その声を、忘れるはずがなかった。

 

「この声……アフマル……?」

 

「久しいな、ナブ・マリカッタ」

 

 それはアフマル、赤砂の王の声だった。かつて砂漠を統べた王の威厳と、懐かしい響き。

 

「まさか……アペプ様の中に、意識が残って……」

 

「我々は融合し、溶け合っている。だが、禁忌の知識を封じる方法を教えるには、私が直接語るのが早かろう」

 

 アフマルの声は淡々としていた。

 

 ナブ・マリカッタは口元を押さえ、よろめいた。信じられないものを見るように、ただ呆然とアペプを見つめている。

 ポロポロと大粒の涙が彼女の頬を伝い始めた。

 

「アフマル……本当に……あなたなの……? 夢じゃ……ないの?」

 

「ああ」

 

 アフマルの声は、どこまでも優しかった。

 

「ずっと……ずっと会いたかった……!」

 

「私もだ」

 

 アフマルの声にも、万感の想いが滲んでいた。

 

「だが、すまない。時間がないんだ。まず、禁忌の知識を封じる方法を伝えなければならない」

 

 彼は事務的に、しかし真剣な口調で続けた。

 

「生きている容器の中では、禁忌の知識は活性化し、広がる。生命力を糧として、増殖していくからだ。だが、容器が死ねば、知識は不活性化する」

 

 アフマルは説明を続けた。

 

「私はかつて、スメール中の禁忌の知識をこの一つの体に集めた。そして、自らを破壊することで、知識の拡散を止めたのだ」

 

 その声には、悲愴なまでの決意があった。

 そして、アフマルの視線が旅人に向けられた。

 

「だが、我々にも俗世の情報は流れてくる。旅人よ。お前は降臨者らしいな。世界の外から来たお前は、テイワットの法則に完全に縛られているわけではない。ならば……」

 

 アフマルは核心を告げた。

 

「お前なら、禁忌の知識を引き受けても、汚染されずに耐えられる可能性がある。お前が禁忌の知識を引き受け、保持し続けるのだ」

 

 その提案に、場の空気が凍りついた。

 旅人は言葉を失った。禁忌の知識、それは神さえも狂わせ、世界を滅ぼしかけた猛毒だ。それを、自分の体に入れるということ。

 

 想像しただけで、背筋に悪寒が走る。もし失敗すれば? もし理性を失ったら?

 

「おい! ちょっと待てよ!」

 

 パイモンが慌てて旅人の前に飛び出した。

 

「そんなの危険すぎるぞ! 禁忌の知識って、あのやばいやつだろ!? 旅人が無事でいられる保証なんてないじゃないか!」

 

「確かに保証はない」

 

 アフマルは冷徹に答えた。

 

「深淵に由来する力だ。浄化の力を持つお前でも、一時的には激しい苦痛を伴うだろう。精神を蝕まれる可能性もゼロではない」

 

「だったらダメだ! オイラは反対だぞ! 旅人を危険な目にあわせられない!」

 

 パイモンは必死に訴え、旅人の顔を覗き込んだ。

 

「なぁ、やめようぜ……他に方法があるかもしれないだろ?」

 

 旅人はパイモンの震える瞳を見た。彼女の心配はもっともだ。恐怖はある。

 だが、ここで引けば、ナブ・マリカッタの願いも、マハールッカデヴァータを救う道も閉ざされる。

 

 旅人は目を閉じ、覚悟を決めた。

 

「……パイモン、大丈夫だ」

 

「大丈夫なわけないだろ!」

 

「俺なら耐えられる。それに、これしか方法がないなら、やるしかない」

 

 旅人の声は静かだったが、揺るぎない意志が込められていた。パイモンはその目を見て、唇を噛みしめ、やがて諦めたように肩を落とした。

 

「……わかったよ。お前がそう言うなら……でも、絶対に無理はしないでくれよな」

 

 旅人は頷き、再びアペプを見上げた。

 

「ああ。俺がやる」

 

「……そうか」

 

 アフマルは、わずかに声音を緩め、満足そうに呟いた。

 

 それから、彼は具体的な術式と手順を語り始めた。旅人は一言一句を聞き漏らさぬよう、精神を研ぎ澄ませて記憶に刻み込んだ。

 

3

 

「……以上だ」

 

 すべてを伝え終えた時、アフマルの声から力が抜けた。輪郭がぼやけるように、存在感が希薄になっていく。

 

「もはや、ここまでか……」

 

「アフマル……!」

 

 ナブ・マリカッタが叫んだ。ずっと堪えていた感情が堰を切って溢れ出した。

 

「待って……まだ……話したいことがたくさんあるの……!」

 

「ナブ・マリカッタ」

 

 アフマルの声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように優しかった。

 

「私は……お前のことを、ずっと案じていた」

 

 その言葉に、ナブ・マリカッタの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。

 

「ごめんなさい……私のせいで……あなたがこんな姿に……」

 

「謝る必要はない。これは私が選んだ道だ。王としての理想、永遠の夢境を築くための……」

 

 アフマルは自嘲気味に笑った。

 

「だが、皮肉なものだな。アペプの中で再起の時を虎視眈々と狙っていた私だが、おまえの頼みを聞きたいと思ってしまった。そこをアペプに利用された」

 

「え……?」

 

「お前と再会し、お前の悲しみを見て……私が黙したままでいることなどできるはずもない。私の妄執の行き先は逸れた。このうえは王としての野望よりも、ただの友として、お前に言葉を残そう」

 

 アフマルの声が、優しく空間を満たす。

 

「過去を悔いるな。砂漠の記憶に囚われるな。お前はもう十分に苦しんだ」

 

「でも……私は……」

 

「過去は過ぎ去った夢だ。だが、お前にはまだ未来がある」

 

 アフマルの声が、遠ざかっていく。まるで風に溶けるように。

 

「これからは、自分のために生きろ。過去の亡霊である私や、古い誓いに縛られることなく……ただ、幸せに」

 

「アフマル……嫌よ、行かないで……!」

 

「お前はもう一人ではない。心強い仲間もいる。それに……」

 

 かすかな笑い声が聞こえた気がした。

 

「彼女が、戻ってくるのだろう? なら、何も心配はいらない」

 

「アフマル……っ!」

 

 ナブ・マリカッタは虚空に手を伸ばした。だが、そこにはもう誰の気配もない。

 

「幸せになれ、ナブ・マリカッタ」

 

 最期の囁きは、誰の耳にも届いたか定かではないほど微かだった。

 だが、その想いは確かに彼女の心に届いた。

 

 声が、完全に消えた。

 

 直後、アペプの声が戻ってきた。地響きのような、重苦しい声が。

 

「……やれやれ」

 

 龍王は深く、長くため息をついた。その息吹は、憑き物が落ちたような安堵を含んでいた。

 

「あの男の狂気に身をやつすのも、これで最後だ」

 

「アペプ様……アフマルは……今……」

 

 ナブ・マリカッタが震える声で尋ねる。

 

「消滅した。だが私がやったわけではない」

 

 アペプは淡々と告げた。

 

「奴は今まで、強靭な意志で『個』を保ち、隙あらば私の主導権を奪おうと暴風のように吹き荒れていた。だが……今、奴は自らその意志を手放した」

 

 龍王は少しだけ呆れたように、しかしどこか名残を惜しむように言った。

 

「スメールへの妄執が奴を支えていたが、お前を案じ、お前の未来を願った瞬間に、その妄執が解けたのだ。もはや奴の意識は、私の深淵の中に霧散し、二度と戻ることはない」

 

「アフマル……」

 

 ナブ・マリカッタはその場に崩れ落ちた。砂の上に膝をつき、声を上げて泣いた。

 彼は最後まで王であり、そして最後まで彼女を想っていた。

 

 旅人は静かに彼女の肩に手を置こうとして、止めた。今は、彼女が哀悼に浸る時間が必要だ。

 

「……アペプ、わかった。礼を言う」

 

 旅人は泣き崩れるナブ・マリカッタの代わりに会話を打ち切った。これ以上、彼女をアペプの前に晒しておくのは酷だった。

 

 偉大な使命を持った砂漠の王は、世界への野望よりも、ただ一人の幸福を願い、その想いゆえに消え去ったのだった。

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