1
やがて、目的地が見えてきた。アペプの領域だ。
三人は洞窟へと足を踏み入れた。その瞬間、世界が変わったかのように急激に温度が下がった。肌を刺すような冷気は単なる低温ではなく、濃密な元素力が凝縮された重圧だった。
「アペプ」
旅人が闇に向かって呼びかけた。声が、底なしの暗闇へと吸い込まれていく。
しばらくの沈黙。永遠にも感じる静寂の後、大地が呻くように揺れた。
闇の奥から、山脈が動くような気配がする。空気がびりびりと振動し、堆積していた砂が舞い上がった。
巨大な龍の目が、ゆっくりと開く。その瞳には、人類の歴史よりも古い知性と、底知れぬ疲労が宿っていた。
「……何の用だ、旅人よ」
アペプの声は低く、大気を震わせ、内臓に直接響くようだった。
「話がある」
旅人は臆することなく、真っ直ぐに龍王を見上げた。その隣で、パイモンが旅人の肩に隠れるようにしがみつく。
「フン……」
アペプの視線が旅人の背後にいるナブ・マリカッタに移った瞬間、低く唸った。
「花神、ナブ・マリカッタ。よりにもよって、おまえが私に何の用だ」
「お久しぶりです、アペプ様」
ナブ・マリカッタが一歩前に出た。その足取りには迷いがあったが、表情は毅然としていた。
「アペプ様、お願いがあります」
「お願い、だと?」
龍王は嘲笑を交じらせた。
「あの愚かな赤砂の王に連なる者が、今さら私に何を乞う。全く、お前を見るよりは小賢しい草神の方がまだましだ」
アペプの声には、明らかな敵意と侮蔑があった。
ナブ・マリカッタは、アペプの敵意の強さに困惑した。
(どうして? アペプ様との仲は悪くなかったはずなのに……なぜこれほどまでに嫌悪されるの?)
旅人は空気を和らげようと口を開いた。
「過去に何があったかわからないが、我々が来たのはアフマルとは関係ない」
ナブ・マリカッタは静かに、しかし強く言った。
「花神として、個人として、お願いに来ました」
彼女は一度深く息を吸い込み、自分の震えを抑え込んだ。
「禁忌の知識について、教えていただきたいんです」
その瞬間、アペプの瞳孔が細く収縮し、怪しい光を放った。それまでの露骨な敵意と不快感が、一瞬で奇妙な静けさへと変わった。
「……ついて来い」
アペプは何の前触れもなくそう告げた。その声は平坦で、感情が読み取れない。その巨体が闇の奥へとずるりと消えていく。
旅人とパイモン、そしてナブ・マリカッタは顔を見合わせた。
「な、なんだよ急に。あんなに嫌がってたのに……罠じゃないだろうな?」
パイモンが小声で囁いた。
罠かもしれない。だが、「禁忌の知識」というキーワードがアペプの態度を急変させたのは確かだった。三人は警戒心を抱きながらも、その巨大な影を追った。
2
アペプの領域の最奥部。
その中央に、世界を統べるような威圧感を放ちながら、龍王が横たわっていた。
「それで、何を知りたい」
アペプの声には、深い疲労と苛立ちがあった。
ナブ・マリカッタは、遺跡で見つけた記憶の結晶のこと、その人を復活させたいこと、だが記憶には禁忌の知識が含まれていることを、言葉を選びながら説明した。
アペプは黙って聞いていた。その瞳は、ナブ・マリカッタを射抜くように見つめ続けている。
「……それで、私に何を求める」
「禁忌の知識を処理する方法を、教えてください」
ナブ・マリカッタは深く頭を下げた。
「アフマルが使った方法を、あなたは知っているはずです」
アペプは、長い沈黙の後、低く、おぞましい笑い声をあげた。洞窟全体が揺れるほどの哄笑だ。
「アフマルか……」
龍王の声には、憎悪と、それ以上の複雑な感情が渦巻いていた。
「あの男のせいで、私がどれだけ苦しんだと思う」
「え……?」
ナブ・マリカッタが顔を上げた。
「私がアフマルを食べたのは、奴の知識を得るためだ。奪われた大権を取り戻すため……だが、奴は最初からそれを狙っていた」
アペプの声に苦々しさが滲む。
「あの男は私を利用したのだ。自分を食べさせることで、禁忌の知識を私に押し付けた。そして……私を暴走させようとした。最後には、この体を乗っ取り、再び自らの理想を実現するための器にするつもりだった」
「そんな……まさか……」
ナブ・マリカッタの顔が青ざめた。
「私は理性を保つのに必死だった。禁忌の知識と奴が私を狂わせようとするのを、何百年もの間、ずっと際どいところで抑え込んできたのだ」
龍王の声が震えた。それは、想像を絶する闘いの告白だった。
「この身を焼く苦痛が、お前たちごときにわかるか」
旅人は拳を握りしめた。アペプの痛みと、その精神力の凄まじさが伝わってくる。
「それでも……あんたは暴走しなかった」
旅人はアペプを真っ直ぐに見つめた。
「誇り高き龍王として、理性を保ち続けたんだな」
「当然だ」
アペプは鼻を鳴らした。
「私は龍王だ。奴の思惑通りに狂気に身を任せるなど、できるはずもない。たとえ……どれほど身が裂けようともな」
龍王の目が、どこか遠くを見た気がした。
「だが……」
次にアペプが二人を見た時、その瞳の光が変わっていた。
「お前たちの話を聞いて、少し興味が湧いた」
「興味……?」
ナブ・マリカッタが戸惑う。
「ふふ、まぁすぐにわかる……」
アペプは意味深げに言った。
「教えてやってもいい。そうすれば、我を縛る楔もなくなるだろうからな」
「本当ですか! 教えていただけるのですね!」
ナブ・マリカッタの表情が明るくなった。
アペプは少しの間、沈黙した。まるで、体内の何者かと対話するかのように。
「では、教えてやろう。だが……」
その時、アペプの声の調子が、完全に変わった。
地響きのような低音が消え、理知的で、どこか傲慢さを秘めた、しかし透き通るような男の声が響いた。
「お前たちを相手にするのは、この声がふさわしい」
ナブ・マリカッタは息を呑んだ。全身が硬直し、目が見開かれる。その声を、忘れるはずがなかった。
「この声……アフマル……?」
「久しいな、ナブ・マリカッタ」
それはアフマル、赤砂の王の声だった。かつて砂漠を統べた王の威厳と、懐かしい響き。
「まさか……アペプ様の中に、意識が残って……」
「我々は融合し、溶け合っている。だが、禁忌の知識を封じる方法を教えるには、私が直接語るのが早かろう」
アフマルの声は淡々としていた。
ナブ・マリカッタは口元を押さえ、よろめいた。信じられないものを見るように、ただ呆然とアペプを見つめている。
ポロポロと大粒の涙が彼女の頬を伝い始めた。
「アフマル……本当に……あなたなの……? 夢じゃ……ないの?」
「ああ」
アフマルの声は、どこまでも優しかった。
「ずっと……ずっと会いたかった……!」
「私もだ」
アフマルの声にも、万感の想いが滲んでいた。
「だが、すまない。時間がないんだ。まず、禁忌の知識を封じる方法を伝えなければならない」
彼は事務的に、しかし真剣な口調で続けた。
「生きている容器の中では、禁忌の知識は活性化し、広がる。生命力を糧として、増殖していくからだ。だが、容器が死ねば、知識は不活性化する」
アフマルは説明を続けた。
「私はかつて、スメール中の禁忌の知識をこの一つの体に集めた。そして、自らを破壊することで、知識の拡散を止めたのだ」
その声には、悲愴なまでの決意があった。
そして、アフマルの視線が旅人に向けられた。
「だが、我々にも俗世の情報は流れてくる。旅人よ。お前は降臨者らしいな。世界の外から来たお前は、テイワットの法則に完全に縛られているわけではない。ならば……」
アフマルは核心を告げた。
「お前なら、禁忌の知識を引き受けても、汚染されずに耐えられる可能性がある。お前が禁忌の知識を引き受け、保持し続けるのだ」
その提案に、場の空気が凍りついた。
旅人は言葉を失った。禁忌の知識、それは神さえも狂わせ、世界を滅ぼしかけた猛毒だ。それを、自分の体に入れるということ。
想像しただけで、背筋に悪寒が走る。もし失敗すれば? もし理性を失ったら?
「おい! ちょっと待てよ!」
パイモンが慌てて旅人の前に飛び出した。
「そんなの危険すぎるぞ! 禁忌の知識って、あのやばいやつだろ!? 旅人が無事でいられる保証なんてないじゃないか!」
「確かに保証はない」
アフマルは冷徹に答えた。
「深淵に由来する力だ。浄化の力を持つお前でも、一時的には激しい苦痛を伴うだろう。精神を蝕まれる可能性もゼロではない」
「だったらダメだ! オイラは反対だぞ! 旅人を危険な目にあわせられない!」
パイモンは必死に訴え、旅人の顔を覗き込んだ。
「なぁ、やめようぜ……他に方法があるかもしれないだろ?」
旅人はパイモンの震える瞳を見た。彼女の心配はもっともだ。恐怖はある。
だが、ここで引けば、ナブ・マリカッタの願いも、マハールッカデヴァータを救う道も閉ざされる。
旅人は目を閉じ、覚悟を決めた。
「……パイモン、大丈夫だ」
「大丈夫なわけないだろ!」
「俺なら耐えられる。それに、これしか方法がないなら、やるしかない」
旅人の声は静かだったが、揺るぎない意志が込められていた。パイモンはその目を見て、唇を噛みしめ、やがて諦めたように肩を落とした。
「……わかったよ。お前がそう言うなら……でも、絶対に無理はしないでくれよな」
旅人は頷き、再びアペプを見上げた。
「ああ。俺がやる」
「……そうか」
アフマルは、わずかに声音を緩め、満足そうに呟いた。
それから、彼は具体的な術式と手順を語り始めた。旅人は一言一句を聞き漏らさぬよう、精神を研ぎ澄ませて記憶に刻み込んだ。
3
「……以上だ」
すべてを伝え終えた時、アフマルの声から力が抜けた。輪郭がぼやけるように、存在感が希薄になっていく。
「もはや、ここまでか……」
「アフマル……!」
ナブ・マリカッタが叫んだ。ずっと堪えていた感情が堰を切って溢れ出した。
「待って……まだ……話したいことがたくさんあるの……!」
「ナブ・マリカッタ」
アフマルの声は、先ほどまでの冷徹さが嘘のように優しかった。
「私は……お前のことを、ずっと案じていた」
その言葉に、ナブ・マリカッタの瞳から大粒の涙が零れ落ちる。
「ごめんなさい……私のせいで……あなたがこんな姿に……」
「謝る必要はない。これは私が選んだ道だ。王としての理想、永遠の夢境を築くための……」
アフマルは自嘲気味に笑った。
「だが、皮肉なものだな。アペプの中で再起の時を虎視眈々と狙っていた私だが、おまえの頼みを聞きたいと思ってしまった。そこをアペプに利用された」
「え……?」
「お前と再会し、お前の悲しみを見て……私が黙したままでいることなどできるはずもない。私の妄執の行き先は逸れた。このうえは王としての野望よりも、ただの友として、お前に言葉を残そう」
アフマルの声が、優しく空間を満たす。
「過去を悔いるな。砂漠の記憶に囚われるな。お前はもう十分に苦しんだ」
「でも……私は……」
「過去は過ぎ去った夢だ。だが、お前にはまだ未来がある」
アフマルの声が、遠ざかっていく。まるで風に溶けるように。
「これからは、自分のために生きろ。過去の亡霊である私や、古い誓いに縛られることなく……ただ、幸せに」
「アフマル……嫌よ、行かないで……!」
「お前はもう一人ではない。心強い仲間もいる。それに……」
かすかな笑い声が聞こえた気がした。
「彼女が、戻ってくるのだろう? なら、何も心配はいらない」
「アフマル……っ!」
ナブ・マリカッタは虚空に手を伸ばした。だが、そこにはもう誰の気配もない。
「幸せになれ、ナブ・マリカッタ」
最期の囁きは、誰の耳にも届いたか定かではないほど微かだった。
だが、その想いは確かに彼女の心に届いた。
声が、完全に消えた。
直後、アペプの声が戻ってきた。地響きのような、重苦しい声が。
「……やれやれ」
龍王は深く、長くため息をついた。その息吹は、憑き物が落ちたような安堵を含んでいた。
「あの男の狂気に身をやつすのも、これで最後だ」
「アペプ様……アフマルは……今……」
ナブ・マリカッタが震える声で尋ねる。
「消滅した。だが私がやったわけではない」
アペプは淡々と告げた。
「奴は今まで、強靭な意志で『個』を保ち、隙あらば私の主導権を奪おうと暴風のように吹き荒れていた。だが……今、奴は自らその意志を手放した」
龍王は少しだけ呆れたように、しかしどこか名残を惜しむように言った。
「スメールへの妄執が奴を支えていたが、お前を案じ、お前の未来を願った瞬間に、その妄執が解けたのだ。もはや奴の意識は、私の深淵の中に霧散し、二度と戻ることはない」
「アフマル……」
ナブ・マリカッタはその場に崩れ落ちた。砂の上に膝をつき、声を上げて泣いた。
彼は最後まで王であり、そして最後まで彼女を想っていた。
旅人は静かに彼女の肩に手を置こうとして、止めた。今は、彼女が哀悼に浸る時間が必要だ。
「……アペプ、わかった。礼を言う」
旅人は泣き崩れるナブ・マリカッタの代わりに会話を打ち切った。これ以上、彼女をアペプの前に晒しておくのは酷だった。
偉大な使命を持った砂漠の王は、世界への野望よりも、ただ一人の幸福を願い、その想いゆえに消え去ったのだった。