スメール自己犠牲救済任務:花神譚   作:水鏡ケイ

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第8話

1

 

 聖樹の最上部。ナヒーダの部屋。

 

 アペプのところから戻った翌日、四人は再び集まった。窓から差し込む朝の光が、机の上に広げられた地図を照らしている。スメールの全土が一枚の羊皮紙の上に描かれていた。森、砂漠、村、街、全てが細かく記されている。

 

「花神誕祭は、一ヶ月後よ」

 

 ナヒーダが地図の一点を指差しながら言った。その小さな指先が、スメールシティの印の上で止まる。

 

「今年、スメール中の人々が私たちに祈りを捧げるの。信仰の力が、最も強くなる日ね」

 

「私の力も、その日が一番強くなります。人々の想いが、神の力となって集まる。それが、信仰というものですから」

 

 ナブ・マリカッタが続けた。彼女は窓辺に立ち、朝の街を見下ろしている。

 

「そういえばウェンティもそんなこと言ってたな。自分はあんまり信仰されてないから弱いって」

 

 パイモンが言った。

 

「遺跡を動かすには、それだけの力が必要なのか? それに花神の力も?」

 

 旅人が確認する。腕を組み、真剣な表情で二人を見つめた。

 

「はい」

 

 ナブ・マリカッタは振り向いた。その表情には、確信があった。

 

「あの遺跡は、時間を止める技術で作られています。永遠のオアシスと同じ、アフマルの遺産。それを解除し、動かすには、膨大なエネルギーが必要です」

 

 彼女は自分の手を見た。その手のひらに、淡い光が灯る。

 

「それに、あの遺跡は私をよみがえらせるために作られました。だから、私の力も必要なのです。花神の権能が、遺跡の核心部分に組み込まれていますから」

 

 ナブ・マリカッタは真剣な表情で続けた。

 

「花神誕祭の日なら……草神と花神の信仰を同時に集められる。両方の力を最大限に高めることができます」

 

「一ヶ月……準備期間としては十分ね。でも、油断はできないわ」

 

 ナヒーダは地図を見つめた。その小さな瞳に、決意が宿っている。

 

「今年の花神誕祭は忙しくなりそうだな」

 

 旅人が言った。パイモンも頷いている。

 

「ええ」

 

 ナヒーダは立ち上がった。

 

「まず、遺跡の調査。儀式の詳細な手順を確認します。それから、スメール中に花神誕祭の準備を呼びかけます」

 

 彼女は地図の上を指でなぞった。森から砂漠へ、村から村へ。

 

「私が手配するわ。今年の花神誕祭は、特別なものにしましょう。スメール全土で、花神への祈りも捧げる。森と砂漠、全ての民が」

 

 ナヒーダの声には、強い意志があった。

 

 ナブ・マリカッタは、二人を見て微笑んだ。その笑顔は温かく、でもどこか切なげだった。

 

「ありがとう……二人とも」

 

「礼には及ばない」

 

 旅人は立ち上がった。窓の外を見る。スメールシティが、朝の光に輝いている。

 

「じゃあ、さっそく始めよう」

 

2

 

 その日から、準備が始まった。

 

 旅人とナブ・マリカッタは、毎日遺跡に通った。朝早く出発し、夕方遅くまで作業を続ける。時には食事も忘れるほど、集中して儀式の準備を進めていった。

 

 時間が止まった遺跡で、二人は儀式の手順を一つ一つ確認していく。壁に刻まれた古代文字を解読し、魔法陣の意味を理解し、エネルギーの流れを把握していった。

 

「ここに、開花の受け皿があります」

 

 ナブ・マリカッタが壁の文様を指差す。それは睡蓮を模した、繊細な彫刻だった。花びらの一枚一枚が、丁寧に刻まれている。

 

「開花……元素反応の?」

 

 旅人が尋ねた。

 

「ええ。これは……草元素と水元素を同時に流す回路なんです」

 

 彼女は文様をなぞりながら説明する。

 

「複雑だな」

 

 旅人は壁に近づき、文様を詳しく観察した。確かに、二つの異なる元素のエネルギーが流れるように設計されている。

 

「ええ。でも、理にかなっています」

 

 ナブ・マリカッタは説明を続けた。その声には、知的な興奮が滲んでいる。

 

「草元素で生命を呼び覚まし、水元素で浄化する。そして、開花反応の膨大なエネルギーを一気に流すことで、時間停止を解除する」

 

 彼女は回路全体を指し示した。

 

「アフマルの技術と、私の力と、草神の権能。全てが組み合わさって、初めて機能する仕組みです」

 

「その時、アランナラたちは?」

 

 旅人は、部屋の中央で眠っているアランナラたちを見た。五体の小さな体が、円を描いて座っている。数百年間、ずっとこの姿勢で。

 

「目覚めます」

 

 ナブ・マリカッタは優しい目でアランナラたちを見た。

 

「そして、記憶を解放します。彼らが守ってきた、マハールッカデヴァータの記憶を」

 

 旅人は、眠っているアランナラたちに近づいた。その小さな顔は、穏やかな眠りについている。苦しんでいる様子はない。ただ、静かに、使命を果たし続けている。

 

「ありがとう」

 

 旅人は、彼らに向かって呟いた。

 

「もう少しだけ、待っていてくれ」

 

 アランナラたちは答えない。ただ、眠り続けている。でも、旅人には分かる気がした。彼らに届いている、と。

 

3

 

 一週間が経つ頃には、儀式の準備はほぼ完了していた。

 

 ナヒーダも、スメール全土への呼びかけを進めていた。花神誕祭を盛大に祝うこと。今年は特別な年であること。全ての民に、心からの祈りを捧げてほしいこと。

 

 草神の言葉は、スメール中に広がっていった。

 

 森の村々では、人々が赤紫の花を飾り始めた。砂漠の集落でも、花神への感謝の準備が進められている。絶滅したはずのパティサラを教令院の学者が見つけたことで彼らは協力的になってくれた。教令院の学者たちは、花神の歴史を研究し、語り継ぐ準備をしていた。

 

 スメール全体が、一つの目的に向かって動き始めていた。

 

 もちろん、人々は知らない。この花神誕祭が、失われた神を取り戻すための儀式になることを。でも、それでいい。彼らの純粋な祈りが、最も強い力となるのだから。

 

4

 

 一週間が過ぎた頃。

 

 旅人は一人で遺跡を訪れていた。ナブ・マリカッタは今日、ナヒーダと最終的な打ち合わせをしている。パイモンは疲れて、宿で休んでいた。

 

 時間が止まった部屋。旅人は記憶の結晶の前に座った。

 

 緑色の結晶が、静かにたたずんでいる。その光は優しく、温かい。まるで、中にいる存在が呼びかけているかのようだった。

 

「……もう一度、話がしたい」

 

 旅人は結晶に手を伸ばした。指先が表面に触れる。温かい。

 

 光が、溢れ出した。

 

5

 

 記憶の空間。

 

 白い霧の中に、マハールッカデヴァータが立っていた。大人の姿。でも、その表情は前よりも明るかった。

 

「旅人……また来てくれたのね」

 

 彼女は微笑んだ。

 

「ああ」

 

 旅人は彼女に近づいた。霧の中を歩く感覚は不思議だが、もう慣れた。

 

「報告があるんだ。準備は順調に進んでる。一ヶ月後……いや、もう三週間後には全てが整う」

 

「本当に……?」

 

 マハールッカデヴァータの目が輝いた。

 

「ああ。ナヒーダが手配してくれて、スメール中が協力してくれてる。ナブ・マリカッタも一生懸命だ。アランナラたちも準備万端だ」

 

 旅人は彼女の目を見た。

 

「必ず、あんたを連れて帰る」

 

「ありがとう……本当に、ありがとう」

 

 マハールッカデヴァータは涙を浮かべた。でも、それは悲しみの涙ではなく、喜びの涙だった。

 

 旅人は彼女を見つめた。優しい顔立ち。知的な瞳。そして、その笑顔には、子供のような無垢さがあった。

 

「寂しくないか? ここで、一人で」

 

 旅人は尋ねた。

 

「……いいえ」

 

 マハールッカデヴァータは首を横に振った。

 

「アランナラたちが守ってくれているから。私のために、500年も……それを思うと、寂しいなんて言えません」

 

 彼女は少し言葉を選ぶように間を置いた。

 

「それに……」

 

「それに?」

 

「あなたも、ここに来てくれるから」

 

 マハールッカデヴァータは微笑んだ。

 

「あなたが私のことを覚えていてくれて、気にかけてくれる。それがとても嬉しいの」

 

 彼女の声は柔らかく、でも確かな響きを持っていた。

 

 旅人は少し驚いたような表情を見せた。そして、ゆっくりと頷いた。

 

「そっか……それは良かった」

 

 旅人は素直に言った。

 

 二人の間に静かな時間が流れた。白い霧が、ゆっくりと流れている。時間のない空間。永遠と一瞬が同時に存在する場所。

 

「もうすぐ、外に出られる」

 

 旅人が言った。

 

「ええ……」

 

 マハールッカデヴァータは目を閉じた。その顔には、期待と不安が混ざっている。

 

「ナヒーダに会えるのが、楽しみです。どんな子になっているのか……マリカッタにも。彼女、元気にしているかしら……」

 

 彼女は微笑んだ。

 

「アランナラたちとは、たくさん遊んであげなくちゃ。500年も守ってくれたんですもの」

 

 マハールッカデヴァータは希望を胸に抱いている。その姿を見ると、旅人も嬉しくなった。

 

「なあ」

 

 旅人が口を開いた。

 

「俺、スメールを旅してて気づいたんだ」

 

「何をですか?」

 

 マハールッカデヴァータが興味深そうに尋ねた。

 

「スメールは、自己犠牲の物語だった」

 

 旅人は熱を込めて話し始めた。

 

「あんたは、世界を守るために自分の存在を消した。アフマルは、民を守るために死を選んだ。ナブ・マリカッタも、人々のためと信じて禁忌の知識をこの世界にもたらして死んだ」

 

 旅人は彼女を真っ直ぐに見た。

 

「誰もが、誰かのために犠牲になった。自分を捨てて、大切なものを守ろうとした」

 

「……」

 

 マハールッカデヴァータは静かに聞いていた。

 

「そして、その全ての物語が、今、あんたを生き返らせるところで交差してる」

 

 旅人の目が輝いていた。

 

「アフマルの技術、ナブ・マリカッタの想い、ナヒーダの願い、アランナラたちの忠誠……全部が、あんたのために集まってる」

 

 旅人は拳を握った。

 

「あのアペプですら、協力してくれた。かつて天理と敵対した龍王が、あんたのために動いてくれた」

 

 マハールッカデヴァータは、目を見開いていた。

 

「今度こそ、誰も犠牲にならない結末にできる」

 

 旅人の声が力強くなった。

 

「あんたが生き返って、みんなが幸せになる。誰も失わない。誰も悲しまない。そういう結末に」

 

 マハールッカデヴァータは、大粒の涙を流しながら旅人の言葉を聞いていた。その涙は頬を伝い、霧の中に消えていく。

 

「本当に……そんな結末が……?」

 

 その声は震えていた。

 

「ああ」

 

 旅人は強く言った。

 

「必ず、そうする。俺が約束する」

 

 マハールッカデヴァータは、両手で顔を覆って泣いた。肩が震えている。

 

「ありがとう……あなたのような人がいてくれて……本当に良かった……」

 

「俺も……あんたに会えて良かった」

 

 旅人は正直に言った。

 

「あんたは、生きるべき人だ。世界に必要な人だ」

 

 マハールッカデヴァータは顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃの顔で、でも心からの笑顔で。

 

「待っていてくれ。必ず迎えに来る」

 

「はい……待っています」

 

 彼女は微笑んだ。

 

 光が満ちてきた。記憶の空間から、旅人の意識が戻されていく。

 

 最後に見えたのは、マハールッカデヴァータの笑顔だった。

 

6

 

 遺跡を出ると、もう夕方だった。

 

 旅人は森の中を歩きながら、考えていた。マハールッカデヴァータの笑顔。彼女の涙。彼女の希望。

 

 全てを、必ず叶えてみせる。

 

 そう決意を新たにしながら、旅人はスメールシティへと戻った。

 

 道すがら、村を通りかかった。そこでは、人々が花を飾っている。赤紫の花、パティサラの花。花神の象徴。

 

「今年の花神誕祭は、特別らしいね」

 

 ある村人が言っていた。

 

「ああ。草神様が直々に呼びかけられた」

 

「何か大切なことがあるんだろう」

 

「なら、精一杯祈らないとな」

 

 旅人は、その会話を聞きながら通り過ぎた。

 

 みんな、マハールッカデヴァータのために動いてくれている。もちろん、彼らはそれを知らない。でも、その祈りが、彼女を取り戻す力になる。

 

「ありがとう」

 

 旅人は、街の人々に向かって心の中で言った。

 

7

 

 日々が過ぎていく。

 

 スメール中が花神誕祭の準備に動き始めた。

 

 旅人は街の様子を見ながら歩いていた。市場では、花を売る声が響いている。パン屋からは、花神誕祭の特別なパンの香りが漂ってくる。

 

「パティサラの花、いかがですか!」

 

「花神様への供物に!」

 

 活気に満ちた声が、街中に響いていた。

 

 旅人は、その光景を見て微笑んだ。この賑わいが、この活気が、全てマハールッカデヴァータを取り戻す力になる。

 

 人々の想いが、神を呼び戻す。

 

8

 

 花神誕祭の一週間前。

 

 ヴァナラーナで、アランナラたちが集まっていた。いつもより多くのアランナラが、聖樹の下に円を描いて座っている。

 

「花神誕祭なのだ!」

 

「お祭りなのだ!」

 

 彼らは嬉しそうに飛び跳ねている。小さな体が、あちこちで跳ねていた。

 

 旅人とナヒーダが、そこを訪れた。

 

 アランナラたちは、二人を見つけると一斉に駆け寄ってきた。

 

「ナラヴァルナ(旅人)!」

 

「草神様!」

 

「みんな、集まってくれてありがとう」

 

 ナヒーダが優しく言った。その小さな声は、でもしっかりとアランナラたち全員に届いている。

 

「花神誕祭の日、特別なお願いがあるの」

 

「お願い?」

 

 アランナラたちが首を傾げた。

 

「森の奥の遺跡で、儀式をします。そこで、みんなにも歌ってほしいの」

 

「歌?」

 

「ええ。あの歌を」

 

 ナヒーダはアランナラたちを見た。

 

「途中までしか思い出せなかった、あの大切な歌を」

 

 アランナラたちは顔を見合わせた。その表情には、困惑と期待が混ざっている。

 

「あの歌……?」

 

「でも、まだ全部は思い出せないのだ……」

 

「名前も……誰のための歌だったのかも……」

 

「大丈夫」

 

 旅人が言った。その声には、確信があった。

 

「その日、きっと思い出せる。いや思い出そうとしてくれるだけでいい」

 

 旅人は膝をつき、アランナラたちと同じ目線になった。

 

「あんたたちが守ってきたものが、その日、帰ってくる。だから、きっと思い出せる」

 

 アランナラたちは、旅人とナヒーダの真剣な表情を見て、ゆっくりと頷いた。

 

「わかった!」

 

「一生懸命歌うのだ!」

 

「草神様とナラヴァルナが言うなら、きっと大丈夫なのだ!」

 

「ありがとう」

 

 ナヒーダは微笑んだ。その笑顔は、母親のように温かかった。

 

「みんな、本当にありがとう」

 

 アランナラたちは嬉しそうに飛び跳ね始めた。

 

9

 

 花神誕祭の三日前。

 

 聖樹の部屋で、最終確認が行われていた。机の上には、儀式の手順を記した資料が山積みになっている。地図、構造体の図、古代文字の翻訳、タイムスケジュール。全てが、綿密に計画されていた。

 

「儀式の手順は完璧です」

 

 ナブ・マリカッタが資料を見ながら言った。その目は集中していて、一切の迷いがない。

 

「一つ一つ確認しました。間違いはありません」

 

「スメール全土の準備も整ったわ」

 

 ナヒーダが報告する。

 

「森も砂漠も、みんな協力してくれています。花神誕祭への期待が、かつてないほど高まっているわ」

 

「アランナラたちも準備ができた」

 

 旅人が付け加える。

 

「あの歌を歌う準備も万端だ」

 

 三人は顔を見合わせた。緊張と期待が、空気を満たしている。

 

「あとは……」

 

「花神誕祭の日を待つだけね」

 

 ナヒーダが言った。その声には、静かな決意があった。

 

「ルッカデヴァータを取り戻す日」

 

 ナブ・マリカッタは窓の外を見た。夜空に星が輝いている。満天の星が、スメールを見守っているようだった。

 

「ルッカデヴァータ……」

 

 彼女はその名前を呟いた。その声は優しく、でもどこか切なげだった。

 

「待っていて。もうすぐ、あなたを……」

 

10

 

 出発の前夜。

 

 ナヒーダの部屋に、三人が集まっていた。明日に備えて、最後の打ち合わせをするためだ。

 

 でも、話すべきことは全て話し終えていた。あとは、実行するだけ。

 

 部屋には、重い沈黙が流れていた。緊張ではない。期待と、そしてわずかな不安が混ざり合った、複雑な沈黙。

 

「明日、遺跡の最深部に行く」

 

 旅人が口を開いた。

 

「必ず成功させる」

 

 ナヒーダは頷いた。その小さな顔には、草神としての威厳があった。

 

「気をつけて。何かあったら、すぐに知らせて」

 

「大丈夫だ!」

 

 パイモンが元気よく言った。いつもの明るさで、場の緊張を和らげようとしている。

 

「旅人がいれば、なんとかなる! 今までだって、ずっとそうだったし!」

 

 その時、ナブ・マリカッタが立ち上がった。

 

「あの……みなさんに、踊りを見せたいんです」

 

「踊り?」

 

 三人が驚いた表情で彼女を見た。

 

「はい。花神の踊りです」

 

 ナブ・マリカッタは微笑んだ。その笑顔には、懐かしさが滲んでいる。

 

「花神誕祭でいわれているように、昔は踊りが好きでした」

 

 彼女は遠くを見るような目をした。

 

「明日はそんな暇はないから、踊りたいんです。みなさんに、見ていただきたくて」

 

「おお、いいな! マリーの踊りなんて楽しみだぞ!」

 

 パイモンが目を輝かせた。

 

 準備を終えた後、ナブ・マリカッタは部屋の中央に立った。深呼吸をする。その胸が、大きく上下した。

 

 そして、目を閉じた。

 

 静寂。

 

 そして、彼女は踊り始めた。

 

11

 

 最初は、ゆっくりとした動き。

 

 手を広げ、体を揺らす。まるで風に揺れる花のように。優雅で、柔らかい動き。

 

 そして、徐々にテンポが上がっていく。

 

 回転し、跳び、舞う。彼女の体から、淡い光が溢れ出す。優しい光だった。

 

 部屋の中に、パティサラの花びらが舞い始めた。幻なのか、本物なのか。白い花びらが、光を纏って空中に浮かんでいる。

 

 美しかった。

 

 言葉では表現できないほど、美しかった。

 

 ナヒーダは、息を呑んで見つめていた。その小さな目に、涙が浮かんでいる。理由は分からない。でも、胸が締め付けられる。懐かしさと、切なさと、愛おしさが、一度に押し寄せてくる。

 

 旅人も、その優雅な動きに見入っていた。

 

 ナブ・マリカッタは、笑顔で踊っている。楽しそうに。幸せそうに。まるで、かつて砂漠で踊っていた時のように。友人たちに囲まれ、音楽に合わせて、心の底から喜びを表現していた時のように。

 

 彼女の動きは流れるように滑らかで、一つ一つの所作に意味があるようだった。

 

 手を上げれば花が咲き、回転すれば風が吹く。足を踏み出せば大地が応え、微笑めば光が輝く。

 

 これは、生命の踊りだ。花神が人々に教えた、命を讃える踊り。

 

 そして、踊りは最高潮に達した。

 

 ナブ・マリカッタは大きく回転し、両腕を広げた。その瞬間、花びらが部屋中に舞い散る。まるで、花吹雪のように。光が渦を巻き、部屋全体が幻想的な光景に包まれた。

 

 そして、静かに止まった。

 

 彼女は両腕を胸の前で交差させ、深くお辞儀をした。

 

 部屋に静寂が戻る。

 

 花びらは、ゆっくりと消えていった。光の粒子となって、空中に溶けていく。

 

 しばらく、誰も何も言えなかった。

 

「すごい……とてもきれいだったわ……」

 

 ナヒーダがようやく呟いた。

 

「ありがとう」

 

 ナブ・マリカッタは、少し息を切らしながら微笑んだ。頬が紅潮し、額に汗が浮いている。

 

「久しぶりに踊ったけど……楽しかった」

 

「すごく上手だったぞ!」

 

 パイモンが拍手をした。その小さな手が、パチパチと音を立てる。

 

 旅人も拍手をした。

 

「ありがとう。素晴らしかった」

 

 ナブ・マリカッタは嬉しそうに頷いた。

 

 その表情には、やり遂げたような満足感があった。そして、深い感謝。みんなを、この部屋を、この瞬間を、しっかりと目に焼き付けているような。

 

 でも同時に、どこか寂しげでもあった。

 

 旅人はその複雑な表情を見て、胸に何かが引っかかった。でも、それが何なのか、言葉にはできなかった。

 

12

 

 ナブ・マリカッタは自分の部屋で一人座っていた。窓から月が見える。

 

 (これまで、あまりにも多くのことがあった。旅人さんのおかげね)

 

 旅人のことは、ずっと昔から知っていた。

 いいや、「知っていた」というより……見ていた、と言うべきかもしれない。

 

 リルパァールの記憶の中で、彼が彼女の姿を見ている場面を、彼女は確かに“見た”。

 記憶と予知の中で、互いの視線が重なった。

 

 あのとき旅人は、彼女の視線にさらされて“無”に直面したと感じた。

 だが、それは違う。

 

 無が広がっていたのは、彼女の中ではない。

 旅人の未来だった。

 

 彼の行く先を覗こうとした彼女の前には、ただ果てしない空白だけがあった。

 テイワットに属さぬ存在……彼の未来は、花神である彼女にも見通せなかった。リルパァールを覗いて姿を見るだけがやっとだった。

 だからこそ、彼女は覚えていた。

 あの感触を。あの不確かさを。

 

 テイワットに縛られぬ者ならば、記憶の改変を破れるかもしれない。

 どんなに些細な綻びでも、それを引き裂く引き金を引けるのは、旅人だけだと。あれは誰だったのか、リルパァールの動向に注視することを心に刻み込んでいた。

 

 ……その予感は、正しかった。

 

 明日は花神誕祭。

 

 ナブ・マリカッタの目には決意があった。もう迷いはない。明日、何をすべきか。誰のために。そしてどうなるのか。全てがわかっている。

 

「ルッカデヴァータ……いえ……マハールッカデヴァータ……」

 

 彼女は星空を見上げた。

 

「あなたは私を眠りから覚ましてくれた。でも、ごめんなさい……スメールには、もっと強い力が必要なの……」

 

 彼女は自分の胸に手を当てた。心臓が静かに鳴っている。

 

「世界には痛みが必要だった……」

 

---

 

 翌朝。

 

 花神誕祭の朝。

 

 スメールシティは、いつもより早く目覚めた。街中が花で溢れている。赤紫のパティサラの花が、至る所に飾られていた。建物の窓、街路樹、広場、全てが、花で彩られている。

 

 人々は笑顔で、祈りを捧げている。

 

「今年も、豊かな実りを」

 

「そして、草神様も。この地を守ってくださって」

 

 人々の祈りが、空へ昇っていく。見えない力となって、集まっていく。

 

 市場では、特別な供物が売られている。花で作った冠、香草で作った飾り、花の蜜で作った菓子。

 

 活気に満ちた声が、街中に響いていた。

 

---

 

 旅人、パイモン、ナヒーダ、ナブ・マリカッタが集まっていた。

 

「準備はいい? 私はここで信仰の力を集めているわ」

 

 ナヒーダが尋ねた。

 

「ああ」

 

 旅人が頷いた。

 

「私も」

 

 ナブ・マリカッタも頷く。

 

 旅人は彼女を見た。どこか晴れやかな表情をしている。まるで、何か大きな決断をした後のような。

 

「マリー……?」

 

 旅人が声をかけようとした瞬間、ナブ・マリカッタは微笑んだ。

 

「行きましょう」

 

 彼女は明るく言った。

 

「ルッカデヴァータを、取り戻しに」

 

 その声には、迷いがなかった。

 

 三人は、遺跡へと向かった。

 

 スメール中の祈りを背に受けて。

 

 人々の想いを力に変えて。

 

 失われた神を取り戻すために。

 

 花神誕祭の朝日が、三人の背中を照らしていた。

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