スメール自己犠牲救済任務:花神譚   作:水鏡ケイ

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第9話

1

 

 遺跡の最深部。

 

 時が止まった部屋に、朝の光が差し込んでいた。外では花神誕祭が始まっている。人々の祈りの声が、遠く微かに聞こえてくる。その声は波のように重なり合い、見えない力となって集まっていく。

 

 五体のアランナラは、まだ眠ったまま円を描いて座っている。数百年間、一度も動くことなく、ただ使命を果たし続けてきた小さな守護者たち。

 

 その中央に、緑色に輝く記憶の結晶。

 

 ナブ・マリカッタは結晶を見つめた。

 

「ついに……この時が……」

 

 彼女の声は震えていた。

 

「準備はいいか?」

 

 旅人が尋ねる。旅人の声にも、わずかな緊張が滲んでいた。

 

 ナブ・マリカッタはゆっくりと頷いた。

 

「はい。始めましょう」

 

2

 

 ナブ・マリカッタは、結晶の周りに複雑な陣形を描き始めた。地面は時が止まって固まっている。

 

 花神の力を込めながら、一つ一つ丁寧に。旅人はその様子を見守っていた。

 

 旅人は、その様子を静かに見守っていた。ナブ・マリカッタの動きは迷いがなく、まるで何度も練習したかのように正確だった。

 

「この陣形が、記憶を安定させます」

 

 ナブ・マリカッタが説明する。

 

「そして、禁忌の知識を分離しやすくします」

 

「分離?」

 

 旅人が尋ねた。

 

「はい」

 

 ナブ・マリカッタは手を止めずに答えた。

 

「記憶と禁忌の知識は、完全には混ざっていません。油と水のように、本質的に異なるものです」

 

 彼女は陣形の一部を丁寧になぞりながら続けた。

 

「きちんと処理すれば、分けることができます。記憶は記憶として、禁忌の知識は禁忌の知識として」

 

 ナブ・マリカッタは真剣な表情で作業を続けた。汗が額に浮かんでいる。

 

「旅人さんが禁忌の知識を引き受ける瞬間、私が花神の力で記憶を安定させます。そうすれば、マハールッカデヴァータの記憶は無事に残ります。彼女の全てが、損なわれることなく」

 

「わかった」

 

 旅人は頷いた。

 やがて、陣形が完成した。

 

「では……始めます」

 

 彼女は陣形の一点、北の方角に立ち、両手を天に向かって掲げた。

 

 花神の力が、彼女の全身から溢れ出す。

 

 外では花神誕祭の儀式が続いている。スメール中の人々が祈りを捧げている。その想いが、見えない糸となってナブ・マリカッタに集まってくる。

 

 光が陣形を伝って広がっていく。一本の線が光り、次の線が光り、やがて陣形全体が輝き始めた。

 

 結晶が、それに呼応するように、より強く輝き始めた。

 

「旅人さん、準備を!」

 

 ナブ・マリカッタの声が響いた。

 

 旅人は結晶の前に立った。深呼吸をする。冷たい空気が肺に入り、心を落ち着かせる。そして、ゆっくりと手を伸ばした。

 

3

 

 旅人の手が結晶に触れた瞬間。激しい光が部屋を満たした。

 目を開けていられないほどの眩い光。禁忌の知識が奔流のように流れ込んでくる。

 

「くっ……!」

 

 旅人は歯を食いしばった。

 禁忌の知識が、まるで鋭い針のように意識に刺さってくる。

 

 痛い。頭が裂けそうだ。目の奥が焼けるように熱い。

 

 世界の外から来た存在だから、汚染されない。でもそれでも苦しい。体が拒絶している。魂が悲鳴を上げている。

 

 旅人は必死に禁忌の知識を自分の中に引き込もうとした。

 

 だが、禁忌の知識は想像以上に強力だった。

 

 まるで生きているかのように、旅人の意識の中で暴れている。侵食しようとしている。支配しようとしている。

 

 旅人の体が震える。膝が崩れそうになる。

 

「うっ……!」

 

 視界が歪む。世界が回転する。意識が遠のきそうになる。

 

 その時だった。

 

「もう充分です」

 

 ナブ・マリカッタの声が、遠くから聞こえた。

 

 旅人は彼女を見ようとしたが、体が動かない。結晶に手が吸い付いたように離れない。

 

 足音が近づいてくる。ナブ・マリカッタが、陣形を崩して結晶に駆け寄ってきた。

 

「マリー……何を……」

 

 旅人はかすれた声で言った。喉が、まるで砂で満たされているかのように乾いている。

 

「ごめんなさい!」

 

 その言葉とともに旅人は跳ね飛ばされて、静止した水の上に倒れこんだ。

 

 ナブ・マリカッタは手をかざす。

 

 禁忌の知識は旅人のかわりに、ナブ・マリカッタに流れ込み始めた。

 

「やめろ……マリー……!」

 

 旅人が叫ぶ。

 だが足が水にめり込んで静止していて、動かなかった。

 

「マリーがこれを……?」

 

「これは……私が決めたことです……ずっと……こうすると……決めていました……」

 

 彼女の声が震えている。

 

「待て……何を……するつもりだ……」

 

 旅人は必死に体を動かそうとした。禁忌の知識の影響で力は出なかったし、静止した水は足をつかんで離さなかった。

 

 ナブ・マリカッタの体が光り始めた。

 

 禁忌の知識が、どんどん流れ込んでくる。結晶からも、旅人からも、全てが彼女に集まっていく。

 

 そして、結晶そのものも、彼女の体の中に吸い込まれ始めた。緑の光が細い糸となって、彼女の胸に流れ込んでいく。

 

「マリー!」

 

 ナブ・マリカッタは、その場に膝をついた。

 

4

 

 ナブ・マリカッタはゆっくりと顔を上げた。

 

「ごめんなさい……旅人さん……騙すような真似をして……」

 

「なぜだ! なぜこんなことを!」

 

 ナブ・マリカッタは震える声で話し始めた。

 

「私は禁忌の知識をもたらしました……予知によると禁忌の知識によって痛みを知ることはこれからのスメールに必要なことだったけれど、それが世界を苦しめた……それが彼女を死に追いやった……」

 

「それは……!」

 

「私の罪です」

 

 ナブ・マリカッタは自分の胸に手を当てた。

 

「だから……私が償わなければならない……ずっと……そう決めていました……」

 

 彼女は立ち上がろうとした。体が震えている。でも、強い意志で立ち上がる。

 

「少し……時間をください……まだ……やることがあるんです……私には……通路を開く力があります……永遠の夢境、黄金の眠りへの……」

 

「黄金の眠り……?」

 

「……禁忌の知識がもともとあった禁書庫への通路……かつて私がアフマルを案内し、禁忌の知識を手にしたアフマルをそこから送り返した場所」

 

 ナブ・マリカッタは続けた。

 

「つまり禁忌の知識が世界樹に影響を及ぼさずに保管されていた場所……そこに……死ぬ寸前のマハールッカデヴァータを、私が送りました」

 

 ナブ・マリカッタは部屋の奥を見た。

 

「マハールッカデヴァータは死んでいなかったのか? 今までずっと黄金の眠りにいたのか?」

 

「はい、だから今から……『我ら』を呼びます……『我ら』の中には……マハールッカデヴァータもいます……」

 

「『我ら』……? あの集団意識……あの中に彼女がいたのか……」

 

 旅人の目が見開かれた。以前、ジェイドたちとともに集合意識に襲われたときのことを思い出していた。

 

「ずっと昔……私が黄金の眠りに入っていた時……マハールッカデヴァータが……目覚めさせてくれた……」

 

 ナブ・マリカッタは苦しそうに声を途切れさせながら続けた。

 

「今回は記憶の結晶で……私の中で『我ら』をろ過します……記憶によってマハールッカデヴァータだけを……『我ら』から取り出せます……」

 

 ナブ・マリカッタは一瞬言葉を切り、旅人の目を見た。

 

「今回は……遺体を使うわけにはいきません。器には私がなります。彼女が強い力をもってスメールを導いていくためには神と呼ばれた私が器になる必要があるんです」

 

「待て! それじゃあんたは……」

 

「いいんです……これは……私の贖罪……私の選択……私の体を器として彼女を目覚めさせます」

 

 ナブ・マリカッタはかすれた声で祈祷文を唱えながら歩き始めた。ふらつきながらも、確かな足取りで。かすかに聞こえるのはビルキースの哀歌だった。

 

 俗世の苦しみから抜け出そうとする歌が彼女の口から紡ぎだされる。

 

 彼女は文様が描かれた場所で歩みを止めた。

 

 歌の主は悲しみも苦しみも存在しない楽土にたどりついた。

 

 ナブ・マリカッタはそこに手を当てた。

 

「そう、ここからは……」

 

 彼女は祈るように呟いた。

 

「……アフマル……ごめんなさい」

 

 花神の力が、紋章に流れ込む。紋章が輝き始めた。

 そして空間が、扉が開いた。

 

5

 

 何もなかった空間に暗い通路が現れた。

 

 その奥から何かが近づいてくる。

 姿はないが確かに何かがいる。

 

 周囲が、黒く染まり始めた。

 壁が、床が、天井が……全てが黒く侵食されていく。その黒が、じわじわと近づいてくる。

 

「『我ら』……また見ることになるなんて」

 

 旅人は息を呑んだ。

 圧倒的な存在感。無数の意識が混ざり合った、恐ろしい何か。

 ナブ・マリカッタは、その黒に向かって手を伸ばした。

 

「来なさい……この手の先が……あなたたちの還る場所…」

 

 黒が、彼女に触れた。

 

 瞬間、ナブ・マリカッタの体が痙攣した。

 

「あ……ああ……!」

 

 彼女の声が変わる。

 黒が、どんどん彼女の体に流れ込んでいく。

 禁忌の知識。記憶の結晶。そして「我ら」。全てが、ナブ・マリカッタに集まっていく。

 

「マリー!」

 

 旅人が叫ぶ。

 水の枷が解けていた。しかし間に合わなかった。

 

 黒い通路が閉じる。部屋に、静寂が戻った。

 

 全てが、彼女の中に消えた。部屋に、重い静寂が戻った。

 

6

 

 ナブ・マリカッタの体から、黒い霧が溢れ出していた。それは生き物のように蠢き、彼女の周りを渦巻いている。

 

 そして、変化が始まった。彼女頭から角が、背中から黒い羽根が現れ始める。

 

 それはかつて全盛期の花神の名残。でも今は違う。禁忌の知識と「我ら」に汚染されている。

 

「あ……ああ……」

 

 ナブ・マリカッタの表情が苦痛に歪む。その顔が蒼白になり、唇が震えている。

 

 黒い血管のような線が、首筋から顔に這い上がっていく。

 

「旅人……さん……」

 

 彼女の声が、かすかに聞こえた。

 

 まだ、彼女の意識が残っている。必死に、自我を保とうとしている。

 

「マリー!」

 

 旅人がようやく駆け寄った。

 でもナブ・マリカッタは手を上げて、旅人を制した。

 

「来ないで……! まだ……伝えることが……」

 

 彼女は必死に言葉を紡ぐ。

 

「私の中に……全てがあります……禁忌の知識……『我ら』……そして……記憶の結晶……」

 

「マリー……」

 

「結晶が……ろ過機になります……『我ら』から……純粋な記憶だけを……ルッカデヴァータだけを……取り出せます……」

 

 ナブ・マリカッタは震える手で、自分の胸を指した。

 

「私を……殺してください……禁忌の知識を浄化して『我ら』を霧散させてください……そうすれば……」

 

 彼女の声が途切れそうになる。

 

「そうすれば……この体が……器になります……ルッカデヴァータの……」

 

 旅人は、ようやく全てを理解した。これが、ナブ・マリカッタの計画。

 

「マリーが犠牲になることは……必要だったのか……?」

 

「……彼女はこれからのために神と呼ばれた私の器の力がいります……そうすればスメールの人々を彼女は導いていけます」

 

「見たのか?」

 

「はい、スメールは一つになり、ルッカデヴァータとナヒーダとアペプ様が語らっていました」

 

 ナブ・マリカッタは微笑んだ。それは彼女が砂漠の帰りに語っていたことだった。その話の中に花神ルッカデヴァータはいたが、ナブ・マリカッタはいなかった。

 

「これは……私の贖罪……私の選択……だから……お願い……」

 

 その時、彼女の体が大きく震えた。

 

「もう……意識が……持たない……早く……!」

 

 黒い霧が爆発的に広がった。

 ナブ・マリカッタの姿が変貌していく。

 黒い羽根が無数に生える。目は完全に黒く染まった。

 

「お、おい旅人! まさか本当にマリーを傷つけたりしないよな!」

 

 パイモンが旅人の腕を掴んだ。

 

「俺だってそんなことはしたくない……」

 

「ああ……ああああ……!」

 

 ナブ・マリカッタの口から苦しむ声が漏れる。

 彼女は禁忌の知識と「我ら」に支配されていた。

 

 ナブ・マリカッタの周りの地面が黒く染まっていく。

 

 旅人は拳を握りしめた。

 

「マリー……わかった。あんたの願いをかなえる」

 

 旅人は剣を抜いた。

 

「……すまない、今のあんたをこのままにはしておけないんだ」

 

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