大学のB棟一階にある食堂は、昼間は学生たちの笑い声で満ちている。
だが、夜になると、その空間はまるで別の世界に変わる。蛍光灯の白い光が、やけに冷たく、床に落ちる影は深く沈んでいた。
加藤は、その夜、食堂に一人残っていた。
レポートの締め切りが迫り、図書館が閉まった後、静かな場所を求めてここに来たのだ。
食堂の奥の窓際に座り、ノートパソコンを開く。外は真っ暗で、窓ガラスには自分の顔だけが映っている。
キーボードを叩く音が、やけに大きく響いた。
「静かすぎる。」
昼間の喧騒を知っているからこそ、この沈黙は不自然に思えた。
ふと、加藤は思い出す。
この大学は、かつて養殖場だった土地を埋め立てて建てられたという話を。
タイやカレイ、アナゴ、ウナギ――そんな魚たちが育てられていた広大な水面が、今はコンクリートに覆われている。
「水音がする」なんて噂も、入学した頃に聞いたことがある。
もちろん、漏水や笑い話だと思っていた。
その時までは。
加藤はレポートに集中しようと、画面に視線を固定した。
だが、何度も同じ文章を読み返してしまう。理由はわかっていた。
空気が変わった。
食堂の蛍光灯は、さっきまで均一に光っていたはずだ。
それが今、どこか不安定に見える。光がわずかに揺れているような、そんな錯覚。
加藤は首を振り、気のせいだと自分に言い聞かせる。
だが、次の瞬間、耳に届いた音がその思いを打ち消した。
「ちゃぷ…ちゃぷ…」
水をかくような音。
加藤は手を止めた。食堂に水などあるはずがない。床は乾いているし、シンクも遠い。
それなのに、確かに聞こえた。
「ちゃぷ…ちゃぷ…」
間隔を置いて、ゆっくりと。
加藤は立ち上がり、音のする方へ視線を向ける。
食堂の奥、厨房の方だろうか。
だが、そこには何もない。蛍光灯の白い光が、冷たくステンレスの調理台を照らしているだけだ。
匂いだ。
加藤は鼻をひくつかせた。
潮の匂い。海の匂いだ。
ここは埋め立て地だ。しかし周りは工場地帯で磯の香りなど入学してから嗅いだこともないのである。
なのに、確かに漂っている。生臭さと、わずかな塩気を含んだ匂いが。
加藤の心臓が、ゆっくりと速くなる。
「……気のせいだ」
声に出してみるが、響いた自分の声がやけに小さく感じられた。
その時、もう一度音がした。
「ちゃぷ…ちゃぷ…」
今度は、もっと近くから。
加藤は音のする方へ、ゆっくりと歩みを進めた。
蛍光灯の光が、足元を白く照らす。だが、その光の中に、何かが揺れているように見えた。
水面の反射だ。
そんなはずはない。床は乾いている。
だが、確かに光が揺れている。
「ちゃぷ…ちゃぷ…」
音が、さらに近くなる。
加藤は息を止めた。
視線の先、テーブルの間にそれはいた。
最初に目に入ったのは、赤い影だった。
タイだ。宙に浮かんでいる。水はない。だが、タイはゆったりと尾を揺らし、まるで海の中を泳ぐように進んでいた。
鱗が蛍光灯の光を受けて、鈍く赤く光る。
その姿は、図鑑やスーパーで見るタイと何も変わらない。
ただ、ここにあるはずがないという事実だけが、異様だった。
加藤は後ずさった。
だが、次の瞬間、別の影が視界に入る。床近くを、平たい影が滑っていた。
カレイがいた。その体は、まるで床に貼り付くように、静かに動いている。
だが、床に触れてはいない。
わずかに浮いている。
その目が、片側に寄って、ぎょろりと加藤を見上げた。
普通のカレイがいた。だが、ここにいることが、普通ではない。
さらに、長い影が現れた。
アナゴだ。その体は、テーブルの脚の間を、蛇のようにくねらせて進む。
ぬめるような質感が、光を鈍く反射する。
口がわずかに開き、呼吸するように動いている。
生きている。
そして最後に、最も異様な影が現れた。
ウナギだ。その体は太く、黒く、まるで闇そのもののようだった。
ゆっくりと宙を泳ぎ、加藤の目の前で止まる。
その目が、深い穴のように黒く、何も映していない。
だが、加藤は確かに感じた。
覗かれている。そんな気がした。
その時、加藤は遠くのテーブルに目をやった。
そこを、一つの魚群が通り過ぎていった。
サバの銀色の体が蛍光灯の光を反射し、まるで水面のきらめきのように揺れている。
群れは一つの塊となり、テーブルの上を音もなく、ただ泳いでいく。
水はない。空中だ。
だが、魚たちは確かに泳いでいた。
その動きは、海の中と何一つ変わらない。
ただ、ここには海がないという事実だけが、恐怖を際立たせていた。
「ちゃぷ……ちゃぷ……」
音が、食堂全体に広がった。
魚たちは、宙を泳ぎながら、加藤を囲むように動いている。
水の匂いが濃くなる。
潮の匂い、生臭さ、そして腐敗の匂い。
加藤の足が動かない。
声も出ない。
ただ、魚たちの黒い目が、自分を見ている。
そんな気がした。
加藤は、焦りながら、しかし、必死に息を整えようとした。
魚たちの姿が、蛍光灯の明滅に合わせて浮かび上がったり、闇に溶けたりする。
その光景を見ながら、加藤の脳裏に、ある記憶がよみがえった。
社会学の講義で、教授が話していたことだ。
「この大学の敷地は、昔、養殖場だったんだ。タイやカレイ、アナゴ、ウナギ……それにサバも大量に育てられていた。埋め立てられたのは高度経済成長期、工場用地としてだ。当時は海辺の養殖場が次々に消えていった」
その時は、ただの雑学として聞き流した。
だが、今、その言葉が重くのしかかる。
さらに、加藤は思い出す。
地誌学のフィールドワークで、実際に古い資料を調べたことを。
主要な埠頭ではなかったため、多くの人に忘れられており、史料もほとんど残っていなかった。
だからこそ、調べるのは骨が折れた。
郷土史コーナーで古い新聞記事を探し、やっと見つけた一枚の紙。
「養殖場閉鎖、魚大量餓死」
記事には、こう書かれていた。
閉鎖の決定後、管理者が水を抜き、餌の供給を止めた。
取り残された魚は、数日間、必死に泳ぎ続け、やがて力尽きて沈んだ。
腐敗した水面、浮かぶ魚の死骸、悪臭に覆われた土地その記述が、今の匂いと重なる。
あの時の苦労と衝撃を、加藤は今でも鮮明に覚えている。
加藤の背筋に冷たいものが走る。
ここにいる魚たちは、あの時死んだ魚なのか?
だが、そんなはずはない。
死んだ魚が、なぜ今、空中を泳いでいる?
「ちゃぷ……ちゃぷ……」
音が、再び近づいてくる。
加藤は、闇の中で魚たちの群れを見た。
サバの群れが、テーブルの上を滑るように泳ぎ、蛍光灯の光を銀色に反射させる。
その動きは、海の中と何一つ変わらない。
あれから、何年も経った。
加藤は今、大学院生として研究室に籠る日々を送っている。
テーマは情報科学、特に機械学習のブラックボックス問題だ。
「なぜ、モデルはその判断を下したのか」その謎を解き明かす研究。
だが、加藤自身が抱える謎は、あの夜から始まっている。
時折、ふとした瞬間に、あの匂いが蘇る。
潮の匂い、生臭さ、そして腐敗の気配。
鼻先をかすめるだけで、心臓が冷たくなる。
あの夜、食堂で見た光景。あれは、脳のブラックボックスが見せた幻影なのか。
タイが宙を泳ぎ、カレイが床すれすれを滑り、アナゴがテーブルの脚をくねり、ウナギが闇の中で静かに漂っていた。
そして、銀色のサバの群れが、テーブルの上を音もなく通り過ぎていった。
水はなかった。
それなのに、魚たちは確かに泳いでいた。
その動きは、海の中と何一つ変わらなかった。
加藤は、あの後、誰にも話さなかった。
いや、一度だけ話した。
研究室の仲間に、酒の席でぽつりと。
「大学の食堂で、魚が泳いでいるのを見たことがある」
仲間は笑った。
「疲れてたんだろ」
「幻覚だよ」
それで終わった。
それ以上、誰も聞こうとしなかった。
加藤自身も、幻覚だと思いその時は笑い話にした。
あれは幻だったのか?
疲れとストレスが見せた、脳の悪戯だったのか?
そう思おうとした。
だが、あの冷たい目ぬめる魚の目だけは、今も脳裏に残っている。
研究室の窓から、夕暮れのキャンパスを眺める。
B棟の食堂は、今もそこにある。
昼間は学生たちで賑わい、夜は静まり返る。
加藤は何度も足を運んだ。
もう一度、あの光景を見たいと思った。
だが、何も起きなかった。
ただの静かな食堂。
ただの蛍光灯の光。
加藤は、ノートの端に小さく書き込む。
「あれは幻だったのか」
その文字を見つめながら、深く息を吐いた。
の匂いが、ほんの一瞬、鼻先をかすめた気がした。
そんな話を今年卒業する先輩から聞いた。