玄関の扉を押し開けると、冷たい空気が頬に触れた。十一月の午後、陽はまだ高いが、空気には冬の匂いが混じっている。
小さな靴がコンクリートに触れる音が、静かに響いた。
ポケットには小さな財布。中には千円札が一枚。母が渡してくれたものだ。
頼まれたのは玉ねぎと醤油。スーパーまでは歩いて五分。何度も母と一緒に歩いた道。
今日は一人。初めてのお使い。
道はいつも通りだった。電線に止まるカラスの声、遠くで聞こえる車の音、近所の家から漂う夕飯の匂い。
その匂いに、私の小さなお腹が鳴った。
スーパーに着くと、店内は賑やかだった。レジの音、店員の声、買い物かごを引く音。
私は玉ねぎを一つ選び、醤油の棚を探す。少し迷ったが、赤いキャップの醤油を見つけた。
かごに入れ、レジに並ぶ。財布を握りしめる小さな手が、少し汗ばんでいた。
袋に玉ねぎと醤油を入れ、スーパーを出る。
夕陽が傾き始め、街をオレンジ色に染めている。
私は歩き出した。
初めてのお使い、成功だ。
あとは帰るだけ。
帰っている途中である事に気が付いた。
夕陽はまだ街を染めているのに、音が消えていた。
車の走る音も、遠くの犬の鳴き声も、何もない。
風の音すら、なかった。
私は歩きながら、耳を澄ませた。
自分の靴がアスファルトを踏む音だけが、世界に残っている。
それがやけに大きく響く。
道はいつもの道だった。電柱も、並ぶ家も、変わらない。
けれど、人がいない。
さっきまでスーパーにはたくさんいたのに、外には誰もいない。
家の窓も閉じられ、カーテンが揺れもしない。
私は袋を握りしめた。玉ねぎの重みが、やけに冷たい。
角を曲がる。公園が見える。
ブランコは止まっている。砂場も静かだ。
いつもなら誰かが遊んでいる時間。
今日は、誰もいない。
私は足を止めた。
胸の奥で、何かが小さく鳴った。
怖い、という言葉が形になる前に、足が動き出した。
家まであと少し。
私は走った。袋が揺れ、玉ねぎがぶつかる音だけが響く。
その音が、世界で唯一の音だった。
家の前に着いた。
扉は閉じている。窓も閉じている。
私は袋を握りしめたまま、玄関に立った。
鍵はかかっていない。ドアノブを回すと、静かに開いた。
中は暗かった。
電気はついていない。
靴箱の上に置かれたカレンダーが、薄暗い中で白く浮かんでいる。
家の匂いはする。けれど、人の気配がない。
私は靴を脱ぎ、袋を持ったまま廊下を進んだ。
居間の扉を開ける。
誰もいない。
テーブルの上には朝のままの新聞。
椅子はきちんと並んでいる。
音がない。時計の針の音すら、聞こえない。
私は奥の部屋を覗いた。
布団は整えられている。
誰もいない。
家全体が、止まっているようだった。
私は外に出た。
公園まで走った。
ブランコは止まっている。
砂場も静かだ。
ベンチの上に落ち葉が積もっている。
誰もいない。
街全体が、空っぽになったようだった。
胸が苦しくなった。
袋を抱えたまま、走った。
スーパーへ戻る。
足音だけが響く。
それが世界で唯一の音だった。
スーパーの前に着いた。
ガラス越しに光が見える。
中には人がいた。
レジの音が聞こえる。声が聞こえる。
世界が戻っていた。
私は立ち尽くした。
袋を握りしめた手が震えていた。
息が乱れていた。
けれど、音がある。人がいる。
それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。
スーパーの前で立ち尽くしていた。
ガラス越しに見える光が、現実を取り戻したように感じられた。
中には人がいた。レジの音が響き、誰かが笑っていた。
その音が、胸の奥に溜まっていた重さを少しだけ溶かした。
深く息を吸った。
袋を握りしめた手はまだ震えていたが、足は動いた。
もう一度、家に帰ろう。
そう思った瞬間、世界が普通に見えた。
道を歩くと、遠くで車の音がした。
風が木の葉を揺らし、カラスが鳴いた。
公園に近づくと、子供たちの声が聞こえた。
ブランコが揺れている。砂場には小さな山が作られている。
さっきまでの静けさが嘘のようだった。
家に着くと、窓から灯りが漏れていた。
玄関を開けると、温かい匂いが広がった。
居間には家族がいた。
テーブルの上には湯気の立つ鍋。
時計の針が音を立てて進んでいる。
世界は、元に戻っていた。
袋を置いた。
胸の奥に残る冷たい感覚は消えなかった。
あの静かな世界は、何だったのだろう。
袋をテーブルに置いた。
湯気の立つ鍋の匂いが広がっている。
家族はそこにいた。
父も母も、いつものように座っていた。
テレビの音が流れている。
時計の針が進む音が聞こえる。
世界は、完全に戻っていた。
胸の奥に残る冷たい感覚は消えなかった。
あの静かな世界は、何だったのだろう。
誰もいない街。止まった家。音のない空気。
あれは夢だったのか。
それとも、ほんの一瞬、世界が消えたのか。
私は口を開いた。
声が震えていた。
「……どこかに行ってた?」
父と母がこちらを見た。
母は首をかしげ、父は笑った。
「ずっと家にいたよ」
その言葉が、静かに落ちた。
私は黙った。
視線をテーブルに落とした。
玉ねぎの皮が、袋の中で乾いた音を立てていた。
その音が、やけに大きく響いた。
世界は普通に動いている。
けれど、あの空白は確かにあった。
誰もいない世界。
あれは何だったのだろう。
答えは、どこにもなかった。
という話をボランティア先の子供から聞いた。