地元で聞いた怪談   作:小鯢

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怪火

1960年代の九州、私の住む町はまだ都市化の波に呑まれる前の静けさを保っていた。昼間は稲穂が風に揺れ、夜になれば虫の声が一面に広がる。舗装されていない道を歩くと、足元から土の匂いが立ち上る。電灯は少なく、闇は濃く、星空だけが頼りだった。

その夜、私は友人と二人で、町外れの田園地帯を歩いていた。理由は特にない。若者らしい退屈しのぎだった。遠くで犬が吠え、風が稲を撫でる音が耳に心地よい。友人が煙草に火をつけ、オレンジ色の火が一瞬だけ闇を裂いた。

「静かだな」と友人がぼそりと言った。

私は頷き、夜空を見上げた。星がやけに近く感じる。都会では決して見られない光景だ。

その時だった。視界の端に、淡い光が浮かんだ。最初は星の反射かと思った。しかし、それは地面から離れ、ゆらゆらと漂っていた。青白い炎のようなものが、稲の間を滑るように動いている。

「……見えるか?」私は声を潜めた。

友人が煙草を落とし、目を凝らした。「あれ……火か?」

火にしては奇妙だった。燃えるものがない場所で、炎だけが宙に浮いている。風に煽られる様子もない。ただ、ゆっくりと、まるで意思を持つかのように動いていた。

私たちは立ち尽くした。足が動かない。恐怖というより、理解できないものを前にした時の硬直だった。光はしばらく漂い、やがて田の奥へと消えていった。

「……なんだったんだ、今の」と友人が震える声で言った。

私は答えられなかった。ただ、胸の奥に妙なざわめきが残った。

その夜、家に帰っても眠れなかった。あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。火の正体は何だったのか。狐火か、誰かの悪戯か。

家に帰った後も私はあの夜の出来事を、誰にも話さなかった。話せば笑われると思ったし、何より自分でも説明できなかったからだ。しかし、数日後、町に奇妙な噂が広がり始めた。田んぼで火が浮かんでいたという話だ。私と友人が見たものと同じだろうか。噂は瞬く間に広がり、やがて新聞の片隅に小さな記事が載った。

「町の郊外で怪火目撃原因不明」

記事には、夜間に青白い光が漂うのを複数人が見たと書かれていた。私たちだけではなかったのだ。その事実に、胸の奥がホッとした。

やがて、隣町の老人が語る話が新聞に取り上げられた。川で火が浮かぶことがあるという伝承だ。昔から「川火」と呼ばれ、死者の魂が彷徨う兆しだと恐れられてきたという。しかし、科学的な説明も添えられていた。メタンガスの自然発火それが有力な説だと専門家は語った。

その言葉が、町の空気を一変させた。メタンガスがあるなら、地下にはガス田が眠っているかもしれない。ガス田が見つかれば、町は豊かになる。都市化の波に乗れる。高度経済成長期の熱気が、地方の小さな町にも届いていた時代だ。人々は夢を見始めた。

「ガス田があるかもしれんぞ」

「そうなりゃ、この町も変わるな」

噂は期待に変わり、期待は熱狂に変わった。町役場はガス鉱会に調査を依頼し、専門家がやって来た。スーツ姿の男たちが田んぼを歩き、地質を調べ、試掘の計画を立てる。新聞には「〇〇町、資源調査へ」と大きな見出しが躍った。

私はその様子を浮かれながら見ていた。あの夜の光景が、町を動かしている。

調査は数ヶ月間続いた。町の人々は期待に胸を膨らませ、商店街では「ガス田発見で〇〇町発展!」と書かれた張り紙まで出た。土地の値段が上がると囁かれ、農家はそわそわし始めた。誰もが未来を語り、怪火は希望の象徴になっていた。

しかし、その熱狂の裏で、私は再び怪火を見た。あの夜と同じ場所で、同じように青白い光が漂っていた。友人と一緒だった。二人で黙って見つめた。光はゆらゆらと動き、やがて闇に溶けるように消えた。

「……やっぱり、あれはガスなのか?」友人が呟いた。

私は「ガスだといいなぁ…」と言った。

調査が始まってから一か月後、隣町でガス田が発見されたという報せが入った。新聞の一面に「△〇町で天然ガス確認、採掘計画へ」という見出しが躍り、町はさらに熱狂した。隣町とは地質が似ている。ならば、こちらにも眠っているはずだ――誰もがそう信じた。

商店街では「ウチも次だ」と声が飛び交い、農家は土地の価値を語り合った。町役場には問い合わせが殺到し、役人たちは笑顔で「期待してください」と答えた。未来は明るいと誰もが思っていた。

しかし、現実は違った。ガス鉱会の調査報告は、冷たい一文で町の夢を打ち砕いた。

「〇〇町にガス田は確認されず」

その言葉は、新聞の隅に小さく載っただけだった。熱狂は一瞬で冷め、町には重い沈黙が落ちた。商店街の張り紙は剥がされ、役場の窓口は閑散とした。人々は肩を落とし、話題を変えようとした。

だが、怪火は消えなかった。むしろ、報告が出た後も、夜の田んぼで光を見たという話が相次いだ。青白い炎が浮かび、ゆらゆらと漂う。誰かが写真を撮ろうとしたが、光は必ず消えてしまう。証拠は残らない。ただ、目撃談だけが積み重なっていった。

「ガス田がないのに、なぜ火が出るんだ」

「やっぱり、あれは……普通じゃない」

科学で説明できない現象は、人々の心に不安を植え付ける。最初は笑い話だった怪火が、次第に恐れの対象になっていった。老人たちは昔の伝承を語り始める。「あれは魂だ」「死者の灯だ」。若者たちは面白半分で見に行き、そして怯えて帰ってきた。

私も再び怪火を見た。あの夜と同じように、田んぼの奥で光が漂っていた。風はない。炎は稲を避けるように動き、やがて闇に溶けた。私は息を呑み、背筋に冷たいものが走った。メタンガスの発火なら、なぜ隣町のようにガス田が見つからないのか。なぜ、こんな動きをするのか。

町では、こんな言葉が囁かれるようになった。

「怪火を見たら、逃げろ」

理由は誰も説明できない。ただ、見た者が体調を崩したとか、家に不幸があったとか、そんな噂が重なっていった。科学の言葉は消え、怪異という言葉が残った。

夜の田んぼに近づく者は減った。若者たちの肝試しもなくなり、農家は日が暮れる前に作業を終えるようになった。怪火は依然として目撃されていたが、その報告は小声で語られるだけになった。誰も大きな声で話したがらない。まるで、言葉にすれば災いを呼ぶかのように。

私も、あれから何度か怪火を見た。遠くに、青白い光が漂っている。以前よりも弱々しく、揺らぎながら消えていく。あの光に近づこうとは思わなかった。理由はない。ただ、体が拒んだ。背筋に冷たいものが走り、足が動かなくなる。友人も同じだった。二人で黙って立ち尽くし、やがて背を向けて歩き出す。それが精一杯だった。田んぼの奥に広がる闇は、誰も近づかない場所になった。

やがて、怪火の頻度は減っていった。目撃談は年に数回、そして数年に一度になった。最後に怪火を見たという話を聞いたのは、もう何十年も前のことだ。町は都市化の波に乗り損ねたまま、静かに時を重ねた。高度経済成長の熱気は遠い過去になり、怪火の記憶もまた、薄れていった。

今では、誰も怪火のことを話さない。たまに老人が「昔は田んぼに火が浮かんだ」と語ることがあるが、それは笑い話として流される。「そんなこともあったな」と、誰もが軽く笑うだけだ。

しかし、私は気になって仕方がない。あの夜、初めて怪火を見た時の感覚が、今も胸の奥に残っている。あれは何だったのか。メタンガスの発火ではない。科学でも説明できない何か。

怪火は消えた。だが、あの光の正体は、今もわからない。

 

という話を床屋で聞いた。

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