地元で聞いた怪談   作:小鯢

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飛行船

1929年の夏、日本の空はまだ飛行船という存在に夢を抱かせる時代だった。霞ヶ浦に飛来したツエ號の話題は、子供たちの間で一大ニュースとなり、夏休みの終盤までその興奮は冷めることがなかった。八月十九日に日本へ飛来し、二十三日に出航したその巨大な飛行船は、新聞や雑誌で大きく取り上げられ、写真を見た者も、実際に遠くからその姿を目にした者も、皆が口を揃えて「君はツェッペリンを見たか!」と言った。

九月に入り、二学期が始まった頃。夏の熱気はまだ地面に残っていたが、空には秋の気配が漂い始めていた。曇天の広がる午後、校庭の隅に近い空き地で、子供たちが集まる約束をしていた。だが、約束の時間より少し早く来ていた二人は、他の仲間が現れるまでの間、何気ない遊びに興じていた。小石を蹴り、草を踏み、時折空を見上げては、雲の流れを追う。雲は厚く、ところどころに切れ間があり、そこから淡い光が地面に落ちていた。

そのうちの一人は、裕福な家の子供だった。八月に霞ヶ浦まで連れて行ってもらい、実際にツエ號を見たという自慢話を何度もしていた。彼の語る飛行船の姿は、他の子供たちにとって想像の世界に近かった。銀色に輝く巨大な船体、ゆっくりと空を進む様子、そして低く響くプロペラの音。彼の話は、夏休みの間、何度も繰り返され、そのたびに皆の心を遠い空へと誘った。

その日も、二人はそんな話をしていたわけではない。ただ、夏休みが終わり、再び学校に通う日々が始まったことを、どこか名残惜しく感じながら、曇り空の下で時間を過ごしていた。空は重く、雲は低く垂れ込めていたが、風は穏やかで、遠くで鳥の声が聞こえる程度の静けさだった。

その瞬間は、何の前触れもなく訪れた。曇り空の切れ間から、鈍い銀色の巨大な物体が姿を現したのである。雲の間に覗いたその船体は、まるで空に浮かぶ金属の塊のようで、光を鈍く反射しながら、静かに、しかし確かにそこに存在していた。

最初に気づいたのは、二人のうちの一人だった。彼は空を指差し、言葉にならない声を漏らした。もう一人も視線を上げ、その異様な光景を目にした瞬間、息を呑んだ。雲の切れ間は狭く、船体の全貌は見えない。それでも、見えている部分だけで、常識を超えた大きさを感じさせた。霞ヶ浦で見たツエ號の話を何度も聞いていた彼らには、その比較は容易だった。これは、あの飛行船よりもはるかに大きい。

銀色の表面は、雲の白と灰色を映し込み、輪郭を曖昧にしていた。船体の細部は遠すぎて分からない。ただ、確かなのは、その存在感と、耳に届く低いプロペラの音だった。風に乗って届くその音は、地上の静けさを破り、空のどこかで巨大な機械が動いていることを告げていた。

二人は言葉を交わすことも忘れ、ただ見上げていた。雲はゆっくりと流れ、切れ間は広がったり狭まったりする。そのたびに、銀色の船体がわずかに姿を変えるように見えた。まるで雲と一体になり、空の奥へ溶け込もうとしているかのようだった。

「ツエ號より大きい……」裕福な家の子供が、ようやく声を絞り出した。彼の声には、驚きと、わずかな恐れが混じっていた。実際にツエ號を見た彼だからこそ、その比較は確信に近かった。だが、なぜこんなものがここにあるのか、二人には理解できなかった。霞ヶ浦に飛来したツエ號は、八月の終わりに日本を離れたはずだ。新聞にもそう書かれていた。では、これは何なのか。

その疑問が言葉になる前に、彼は駆け出した。他の仲間に知らせなければならないという衝動が、彼を動かしたのだ。残された一人は、まだ空を見上げていた。銀色の巨体は、雲の奥へとゆっくり進んでいるように見えた。だが、その速度は掴めない。遠すぎて、現実感が薄い。まるで幻を見ているような、不確かな感覚だけが残った。

駆け出した友達の足音が遠ざかる中、残された一人はまだ空を見上げていた。雲の切れ間は完全に閉じ、先ほどまでそこにあった銀色の巨体は、跡形もなく消えていた。空は再び灰色の幕を広げ、何事もなかったかのように静まり返っている。耳を澄ませても、あの低いプロペラ音はもう聞こえない。風の音と、遠くの鳥の声だけが戻ってきていた。

やがて、駆けていった友達が数人の仲間を連れて戻ってきた。彼らは息を弾ませながら、期待に満ちた目で空を仰ぐ。だが、そこにはただ曇天が広がるばかりだった。雲は厚く、切れ間はどこにもない。銀色の船体も、音も、何一つ残っていない。

「どこだ?」「本当に見たのか?」仲間たちの声が飛び交う。知らせに走った子供は必死に説明する。「さっきまであったんだ、雲の間に!ツエ號よりずっと大きかった!」その言葉には確信があった。だが、空は沈黙を保ち、証拠は何も示さない。

残された一人も、うなずきながら同じことを言った。「本当にあったんだ。銀色で、音も聞こえた。」しかし、その説明は、曇り空を前にして力を失っていく。仲間たちは顔を見合わせ、半信半疑の表情を浮かべた。中には笑い出す者もいた。「そんな馬鹿な。飛行船はもう日本にないって新聞に書いてあったじゃないか。」

だが、知らせに走った子供は引き下がらない。彼は八月に霞ヶ浦でツエ號を見た経験を持っている。その記憶が、今の光景を幻ではないと告げていた。「あれはツエ號じゃない。もっと大きかった。雲の間に浮かんでいたんだ。」声は震えていたが、必死さが伝わる。

仲間たちは再び空を見上げた。誰もが、何かの痕跡を探そうとした。だが、雲は厚く、ただ灰色の広がりがあるだけだった。風が少し強まり、草が揺れる。空は変わらず、何も語らない。

やがて、子供たちの間に沈黙が落ちた。説明を繰り返す二人と、信じきれない仲間たち。その間に、奇妙な緊張が漂っていた。何かが起きたことは確かだ。だが、それを証明するものは何もない。空は、ただ曇り続けていた。

その日の出来事は、やがて子供たちの間で小さな噂になった。「飛行船を見た」という話は、信じる者と笑う者に分かれ、二学期の始まりを彩る一つの話題となった。しかし、誰もその謎を解くことはできなかった。新聞には何も書かれていない。霞ヶ浦に飛来したツエ號は、八月二十三日に日本を離れたと報じられている。ならば、あの空に浮かんでいたものは何だったのか。

当時の日本には、ツエ號ほどの巨大飛行船を建造する技術はなかった。世界を見渡しても、そんな規模の飛行船は限られていた。しかも、あれはツエ號よりも大きかった。雲間に見えた銀色の巨体は、既知のどの飛行船とも異なる存在感を放っていた。子供たちの目の錯覚だったのか、それとも、説明のつかない何かが本当に空を漂っていたのか。

答えは出ないまま、日々は過ぎていった。曇天の午後に見えた銀色の影は、記憶の奥に沈み、やがて語られることもなくなった。ただ、一度でもそれを目にした者にとって、その光景は忘れられない。雲の切れ間から現れ、音を残し、そして消えた巨大な飛行船それは、時代の夢と謎を象徴する幻のような存在だった。

 

と言う話を友達から聞いた。

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