地方都市の外れにあるこの駅は、朝と夕方だけが賑わう典型的なベッドタウンの玄関口だ。昼間は人影もまばらで、風がホームを抜ける音ばかりが耳に残る。二面二線のホームは古びていて、端の方には小さな待合室がぽつんと置かれている。鉄骨の枠はところどころ錆び、ガラスには細かな傷が走り、雨の日には湿った匂いがこもる。
私はこの駅で十年以上、駅員として働いている。毎日の業務は単調だが、こういう静けさに慣れると、逆に少しの変化が妙に目につくようになる。
その日も、私は待合室の掲示板に貼られた自治体の案内や地域イベントのポスターを貼り替えるために、古い紙を剥がしていた。指先に紙のざらつきが残る。剥がした下から現れたのは、見覚えのない一枚のチラシだった。
「**魚の尻尾を買い取ります**
松原町三丁目 酒見商店」
一瞬、目を疑った。魚の尻尾? そんな奇妙な買い取りをする店など聞いたことがない。しかも、松原町三丁目という住所は、この町には存在しない。私は思わず声に出してしまった。
「……何だ、これ」
紙は黄ばんでいて、印刷も古めかしい。だが、最近貼られたように端はきれいで、埃もない。誰が、いつ、こんなものを貼ったのか。私は周囲を見回したが、ホームには誰もいない。遠くで電車の走行音が微かに響くだけだった。
翌朝、私は同僚の佐伯に声をかけた。彼はこの駅で二十年近く働いているベテランだ。待合室の掲示板を指差しながら、昨日見つけたチラシのことを話すと、佐伯は眉をひそめた。
「そんなの、俺は知らんぞ。最近貼った覚えもないし、見たこともないな」
彼の言葉は率直で、嘘をついている様子はない。私はさらに問い詰めたが、佐伯は肩をすくめるだけだった。結局、誰が貼ったのかは分からないままだった。
その日の午後、私は市役所に電話をかけた。掲示物の管理は自治体と鉄道会社の協定で厳格に行われている。勝手に貼ることはできないし、貼る場合は必ず申請が必要だ。担当者の声は淡々としていた。
「そのような広告は、こちらでは一切把握しておりません。掲示物はすべて申請書類と照合していますので、紛れ込むことはあり得ません」
あり得ない。だが、現にそこにあった。私は電話を切った後、妙な寒気を覚えた。管理体制が厳格であるほど、この異物感は際立つ。
数日後、再び待合室を訪れたとき、私は息を呑んだ。掲示板には、また別の奇妙なチラシが貼られていた。
「\空から切り取った絵の具を売ります/
鶴岡町六丁目 伏堂画材店」
紙の質感は前回と同じく古びているが、貼り方は整然としている。まるで公式の掲示物のように。私は指でなぞりながら、印刷のインクの匂いを嗅いだ。普通の印刷物のように感じた。
鶴岡町六丁目――そんな町名も、この地域には存在しない。私はスマートフォンで検索したが、結果はゼロだった。伏堂画材店という店名も、どこにもない。
私は机に座り、メモ帳に広告の文面を書き写す。魚の尻尾、空から切り取った絵の具……意味が分からない。
翌週、さらにチラシが現れた。
「これで貴方も天才に
睡眠学習機材V-13
販売はお近くの店舗から
環輪工業」
また翌週も…
「ビールが五十円!
明府町七丁目 蝦媄屋」
私はもう笑えなかった。睡眠学習機材? そんなものは昭和の雑誌広告でしか見たことがない。ビールが五十円というのも、時代錯誤だ。だが、印刷は妙に鮮明で、現代の技術で作られたように見える。
私は決意した。次に何か貼られたら、必ず誰が貼っているのか突き止める。夜勤の日、終電後のホームで待合室を監視することにした。
終電が過ぎ、ホームは完全に静まり返った。風が鉄骨を鳴らす音だけが響く。私は待合室の前に立ち、掲示板をじっと見つめていた。そこには、昼間剥がした広告の跡が付いているだけだ私はあの奇妙なチラシを思い出していた。魚の尻尾、空から切り取った絵の具、睡眠学習機材、五十円のビール――どれも現実離れした文言だ。
私は腕時計を見た。午前一時。誰も来ない。誰かが貼っているなら、この時間しかないはずだ。私はベンチに腰を下ろし、視線を掲示板に固定した。眠気がじわじわと襲ってくる。だが、目を閉じるわけにはいかない。
どれくらい経っただろう。ふと、時間を確認した後、掲示板を見ると。
そこに、見覚えのない一枚のチラシが貼ってあった。
「どんな物も一色に!
塗装なら崇野!
東清河原町二丁目 崇野工務店」
私は息を呑んだ。貼られた音も気配もなかった。誰かが通ったなら、必ず気づくはずだ。だが、私が一瞬視線を外している間に貼られてしまった。
紙は他のものと同じく古びているが、端は整然と揃っている。まるで、そこにずっとあったかのように自然だ。私は立ち上がり、掲示板に近づいた。指先で触れる。前のチラシと同じだ。
「……どういうことだ」
声が震えた。東清河原町二丁目――そんな町名も、この地域には存在しない。崇野工務店という名前も、検索しても出てこないだろう。私はスマートフォンを取り出し、画面を開いた。名前を検索したがやはり無かった。
そのとき、背後で何かが動いた気がした。振り返る。ホームは静まり返っている。ベンチ、柱、線路、すべてが夜の闇に沈んでいる。だが、待合室のガラスに映る自分の影が、わずかに揺れたように見えた。
私は再び掲示板に目を戻した。そこに貼られた不可解なチラシ。魚の尻尾、絵の具、睡眠学習機材、五十円のビール、そして塗装屋。
私は何か別のものが、ここにいる。そう思わずにはいられなかった。
と言う話を昔駅員をやってた近所のおじさんから聞いた