川上にあるダムは、村にとって観光資源のひとつだった。
午前十一時になると、決まって放流が行われる。轟音とともに水が吐き出され、白い飛沫が太陽にきらめく様子は、観光客にとって格好の撮影スポットだ。村の人間にとっても、それは日常の一部であり、季節の移ろいを感じる風物詩でもあった。
放流の時間は厳密に決まっている。毎月10日の午前十一時。それ以外の時間に水門が開くことはない。警報が鳴り、事前に告知される。それがこの村で長年守られてきた規則だった。
だからこそ、その夜の出来事は、私の記憶に深く刻まれることになる。
十一月の終わり、冷え込みが一段と厳しくなった深夜。
私は布団にくるまり、眠りに落ちていた。時計の針は午前零時を指していたはずだ。
そのときだった。
ドドドドドッ
腹の底に響くような重低音が、闇の中から押し寄せてきた。
最初は夢の中の音かと思った。だが、次第に耳が覚醒し、現実の音だと理解する。
川上からだ。ダムの放流の音に違いない。
だが、そんなはずはない。警報は鳴っていない。事前の告知もなかった。
私は布団の中で息を潜め、音に耳を澄ませた。
ドドドドドッ……
水が岩を叩き、空気を震わせるあの独特の響き。
間違いない。放流の音だ。
だが、零時だ。こんな時間に放流する理由があるだろうか。
不安が胸を締めつける。
やがて音は遠ざかり、夜の静寂が戻った。
私はしばらく動けずにいた。
何かがおかしい。
そう思いながらも、結局その夜は布団に潜り込み、眠りに落ちた。
翌朝、私は昨夜のことを近所の人に話した。
「聞いた? 夜中に放流の音がしたよな」
私の言葉に、相手は目を見開いた。
「やっぱりあんたも聞いたか。俺もだ。あれは間違いなく放流の音だった」
さらに話を聞くと、村のほとんどの人が同じ音を聞いていたらしい。
不思議なことに、誰も警報を聞いていない。
「管理事務所に電話したんだよ」
一人が言った。
「そしたらな、『その時間に放流はしていません』って返事だった」
私たちは顔を見合わせた。
その日はそれで終わった。
それから二、三ヶ月が過ぎた。
冬の寒さはさらに深まり、夜の空気は凍りつくように冷たい。
私はあの夜のことを、半ば忘れかけていた。村の人々も同じだっただろう。あの不可解な放流音は、奇妙な出来事として語られたが、やがて日常の雑音に埋もれていった。
人は不安を抱えたままでは生きられない。理由がわからないことは、やがて「そういうこともある」と片付けられる。
私もそうだった。
だが、その夜再び、あの音が闇を裂いた。
午前零時を少し過ぎた頃だった。
布団の中で浅い眠りに沈んでいた私は、腹の底に響く重低音で目を覚ました。
ドドドドドッ
あの音だ。
耳が覚えている。忘れようとしても、忘れられない音。
川上から、ダムの方向から響いてくる。
私は跳ね起き、息を呑んだ。
警報は鳴っていない。窓の外は静まり返っている。
なのに、音だけが確かに存在していた。
ドドドドドッ……
水が吐き出される轟音。岩を砕き、空気を震わせる圧力。
間違いない。放流の音だ。
だが、なぜ? なぜまた零時に?
胸の奥で、冷たいものがじわじわと広がっていく。
私は布団を蹴り飛ばし、立ち上がった。
今度こそ確かめてやる。
本当に放流していないのか。
懐中電灯を手に取り、厚手のコートを羽織る。
玄関を開けると、夜の冷気が肌を刺した。
吐く息が白く、闇に溶けていく。
音はまだ続いている。
ドドドドドッ……
川上から、確かに響いてくる。
私は足を速めた。
家の前の道を歩いていると、暗闇の中から声がした。
「やっぱり、あんたも聞いたか」
振り向くと、隣の家の男が懐中電灯を手に立っていた。
彼の顔は蒼白で、目がぎらついている。
「放流の音だよな。警報、鳴ってないよな」
私はうなずいた。
「確かめに行くんだろ」
「一緒に行こう」
言葉は短く、互いの胸に同じ疑念が渦巻いていた。
二人で川へ向かう。
遠くで、まだ音が続いている。
ドドドドドッ……
近づくにつれ、音はさらに重く、地面を震わせるように感じられた。
だが、奇妙なことに、冷たい風の中に水の匂いがなかった。
放流が行われているなら、湿った空気が漂うはずだ。
なのに、鼻を刺すのは乾いた冬の匂いだけ。
私は胸騒ぎを覚えながら、懐中電灯を握りしめた。
やがて川辺に着いた。
音はすぐそこから聞こえる。
だが――川は、静まり返っていた。
水面は黒い鏡のように凍りつき、月明かりを鈍く反射している。
増水どころか、流れさえほとんどない。
私は言葉を失った。
隣の男が低くつぶやいた。
「……まだ水が来てないんじゃないか」
その声は震えていた。
「放流の音がしてるんだ。もうすぐ増水するはずだ」
私たちは川を見つめたまま、音に耳を澄ませた。
ドドドドドッ……。
確かに聞こえる。
だが、川は静かに流れている。
時間だけが過ぎていく。
やがて音が止んだ。
闇が、再び完全な静寂を取り戻した。
私たちは十分ほど待った。
だが、水は増えなかった。
川は、ただそこにあった。
何も変わらず、何も起きなかった。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、男と顔を見合わせた。
言葉は出なかった。
やがて、無言のまま家路についた。
翌朝、私は管理事務所に電話をかけた。
受話器の向こうから、眠たげな声が返ってくる。
「昨夜、放流はありましたか?」
「いいえ、行っていません」
その答えは、前回と同じだった。
「間違いありませんか? 零時過ぎに、放流の音がしたんです」
「そんな時間に放流することはありません。規則ですから」
淡々とした声。
私は礼を言い、電話を切った。
胸の奥で、何かが冷たく固まっていくのを感じた。
それから私は川へ足を運んだ。
昼間の川は、何の変哲もない。
澄んだ水が静かに流れ、冬の陽光を反射している。
私は決意した。
次に音がしたら、もっと奥まで行こう。
川辺だけではなく、川上へ。
音の正体を、この目で確かめる。
5月の深夜、再び音が鳴った。
ドドドドドッ……
私は懐中電灯を握りしめ、家を飛び出した。
冷たい空気が肺を刺す。
音は前よりも近く、重く響いていた。
隣の男も現れた。
「まただな」
彼の声はかすれていた。
「今度は、もっと奥まで行こう」
私はうなずいた。
二人で川辺を越え、川上へ向かう。
音は確かにそこにある。
だが、近づくほどに、奇妙なことに気づいた。
地面は乾いている。
水が流れた痕跡がない。
それなのに、轟音だけが、闇を震わせている。
やがて、木々の間からダムの影が見えた。
月明かりに浮かぶ巨大な壁。
その向こうから、音が響いている。
ドドドドドッ……
だが、水の飛沫は見えない。
空気は乾いている。
私は懐中電灯を向けた。
光が闇を切り裂き、ダムの表面を照らす。
そこには、何もなかった。
水門は閉じている。
放流は行われていない。
なのに、音だけが、確かに存在していた。
私は息を呑み、隣の男を見た。
彼の顔は蒼白で、目が見開かれている。
「……聞こえるよな」
彼の声は震えていた。
私はうなずいた。
その瞬間、音が止んだ。
闇が、完全な静寂を取り戻した。
耳が痛いほどの沈黙。
風さえも止まったように感じられた。
私は背筋に冷たいものが走るのを感じながら、懐中電灯を握りしめた。
その夜、私たちは川辺に立ち尽くしていた。
音は止み、闇が静寂を取り戻していた。
だが、私の心臓はまだ激しく脈打っていた。
「……帰ろう」
隣人が低く言った。
私はうなずき、懐中電灯を握りしめたまま、川辺を離れた。
背後の闇が、何かを孕んでいるような気配を感じながら。
家に戻った後も、胸が高まり眠れなかった。
放流していないのに、なぜあの音が鳴るのか。
管理事務所は否定した。
だが、私たちは確かに聞いた。
しかも、川は増水していなかった。
音だけが存在し、現実は静まり返っていた。
その矛盾が、私の心をじわじわと侵食していく。
翌日、私は再び管理事務所に電話した。
「昨夜、放流はありましたか?」
「いいえ、行っていません」
その答えは、前回と同じだった。
村の人々も、昨夜の音を聞いていた。
朝の集まりで、誰もが同じことを口にした。
「また鳴ったな」
「警報は鳴ってなかった」
「管理事務所は否定してる」
その場に漂う空気は、重く、冷たかった。
だが、誰も深く追及しようとはしなかった。
不安を抱えたままでは、生きられない。
理由がわからないことは、やがて「そういうこともある」と片付けられる。
人はそうやって、恐怖を遠ざける。
私は家に戻り、窓の外を見つめた。
川上の方角に、白い霧が立ち込めている。
その奥に、ダムがある。
巨大な壁が、闇を孕んで立っている。
あの音は、また鳴るのだろう。
世の中には、不思議なことがあるものだ。
そう自分に言い聞かせながら、私は今日も一日を生きるのだった。
という話を分家の方から聞いた。
一旦お休みです。
色々な人から話を聞いてある程度お話が貯まったらまた投稿します。