地元で聞いた怪談   作:小鯢

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大蝦蟇

戦後すぐの日本。疎開先の田舎は、昼間こそ穏やかに見えたが、夜になると世界が一変した。電柱は道沿いに立っているものの、都市部が米軍の爆撃で破壊され、発電所は止まっていた。電線は空を渡っているのに、そこに灯りはなく、ただ黒い縄のように夜空に溶け込んでいた。

祖父が言うには、あの頃の夜は「目を開けていても閉じていても同じ」だったそうだ。闇が濃すぎて、視界という概念が消える。人の気配も、物の輪郭も、すべてが音と匂いに置き換わる世界。虫の声、遠くで鳴く牛や犬の吠え声、湿った土と肥やしの匂い。それだけが夜を形づくっていた。

便所は家の外にあった。田舎の古い習慣で、木造の小屋が庭の隅にぽつんと建っている。昼間ならまだしも、夜はそこへ行くのが恐ろしかった。祖父は言う。「昼間に壁から便器までの距離を手で測って覚えておかないと、夜は本当に何も見えないんだ。壁に頭をぶつけるほどの暗さだった。」

その暗さを想像してみる。便所の戸を開けると、そこは墨を流したような闇。目を凝らしても何もない。手探りで壁を探し、便器を探し、ようやく腰を下ろす。外からは虫の声が絶え間なく聞こえるが、それが逆に恐怖を煽る。何かが近づいているのか、遠ざかっているのか、わからない。

戦後の生活は不安と隣り合わせだった。食糧難、野犬、盗賊。だから祖父は、夜に外へ出るときは必ずポケットに爆竹を忍ばせていたという。防犯のためだ。鳴らせば音が響いて、近所の人が気づいて「何かあったんか」って駆けつけてくれる。

その夜、祖父は腹の具合が悪く、どうしても外の便所へ行かねばならなかった。囲炉裏の火はすでに落ち、家の中も暗い。戸を開けると、冷たい夜気が頬を撫でた。空には雲が広がり、月明かりはほとんどない。電柱は道沿いに立っているが、電線は黒い縄のように夜空に溶け込み、灯りは一つもない。

祖父は深く息を吸い、庭へ足を踏み出した。土の匂いが濃い。遠くで牛が鳴き、虫の声が耳を埋める。だが、その声が逆に恐怖を煽る。何かが近づいているのか、遠ざかっているのか、わからない。

便所までの道は昼間に覚えた。祖父はその記憶を頼りに、足を運んだ。暗闇の中で、手探りで空気を切る。指先が何かに触れるたび、心臓が跳ねる。

やっと便所の戸に触れた。木の冷たさが指に伝わる。祖父は戸を開け、中へ入った。そこは墨を流したような闇。目を凝らしても何も見えない。壁を探り、便器を探り、ようやく腰を下ろす。

外から虫の声が絶え間なく聞こえる。だが、その中に混じって、低い音がした。「ぐぅ……」腹の鳴き声に似ているが、もっと湿った響き。祖父は耳を澄ませた。音は近い。庭のどこかで、何かが誰かが動いている。

祖父の背筋に冷たいものが走った。便所の戸を閉めているのに、闇の気配がじわじわと迫ってくる。祖父は息を殺し、音を聞いた。ぬるり、ぬるりと、何かが地面を這う音。湿った土を押し分けるような音。

祖父は用を足し終えると、震える手で戸を開けた。外はさらに暗くなっている。虫の声が遠のき、代わりに低い鳴き声が近づいてくる。「ぐぅ……ぐぅ……」その声は、鳥や虫ではない。もっと異様なものの声だった。

祖父は便所を出て、家へ戻ろうとした。足元の土は冷たく、湿り気を帯びている。虫の声が遠のき、代わりに低い鳴き声が近づいてくる。「ぐぅ……ぐぅ……」その声は、牛や腹の鳴き声に似ているが、もっと湿った響きで、どこか底なしの穴から漏れ出すような音だった。

祖父は立ち止まった。心臓が耳の奥で鳴る。暗闇の中で、何かが動いた。ぬるり、ぬるりと、地面を這う音。湿った土を押し分けるような音が、すぐ近くから聞こえる。

雲間から、わずかな月明かりが差し込んだ。その光が、庭の隅にある黒い塊を照らした。祖父は息を呑んだ。

蛙だった。だが、普通の蛙ではない。牛ほどの大きさで、背中は泥にまみれ、茶色の肌には無数のブツブツが浮き出ていた。皮膚はぬめりとした光沢を帯び、ところどころに黒い斑点が散っている。まるで腐った木の皮が生きているかのような質感だった。

その目は異様だった。丸く膨らみ、ぎらりと光る黄色の虹彩が、祖父をじっと射抜いている。目の奥には、冷たい水底のような暗さが広がっていた。口がゆっくりと開き、奥の闇が祖父を吸い込もうとするように見えた。口の縁には、ぬるりとした糸のようなものが垂れ、土に落ちて消えた。

「ぐぅ……」蛙が鳴いた。低く、湿った声が夜を震わせる。祖父は声も出せず、ただ後ずさりした。足が土を踏みしめる音がやけに大きく響く。蛙は動かない。ただ、じっと見ている。その目は、月の様に綺麗だった。

祖父は蛙の姿を見た瞬間、反射的に便所へ駆け戻った。戸を閉めると、木の板が震え、外の闇が遮断された。だが、ぬめりとした気配はすぐそこにある。戸の向こうで、湿った音がじわじわと近づいてくる。「ぐぅ……ぐぅ……」低い鳴き声が、木の隙間から漏れ、祖父の耳に絡みついた。

便所の中は墨を流したような闇。目を開けても何も見えない。祖父は震える手でポケットを探った。指先がマッチ箱に触れ、次に爆竹を掴む。防犯のためにいつも持ち歩いていた命綱。鳴らせば近所の人が気づいて助けてくれる。だが、今はそれ以上の意味を持っていた。

「頼む……」祖父は歯を食いしばり、マッチを一本抜き取った。シュッ――赤い火花が闇を裂き、便所の中を一瞬だけ照らす。木の壁、土間、祖父の手。それだけだ。戸の外はなお闇に沈み、ぬめりとした音だけが生き物の存在を告げている。

祖父は爆竹に火をつけた。火花がじりじりと紙を焼き、煙の匂いが鼻を刺す。祖父は息を止め、便所の戸の隙間から爆竹を外へ投げた。

「パンッ!」

乾いた破裂音が夜を裂いた。火花が散り、煙が立ち上る。次の瞬間、低い鳴き声が変わった。「ぐぅ……ぐぅぅ……」それは怒りとも恐怖ともつかない響きだった。ぬめる音が遠ざかる。湿った土を押し分ける音が、庭の奥へと消えていく。

祖父はしばらく息を殺し、耳を澄ませた。静寂が戻ったとき、祖父は走って家に戻った。

夜が明けた。祖父はほとんど眠れぬまま、朝の光を迎えた。囲炉裏の火は消え、冷たい空気が家の中を満たしている。外からは鶏の声が聞こえ、村の朝が始まっていた。だが、祖父の胸には重いものが残っていた。

恐る恐る庭へ出る。昨夜、爆竹を投げた便所の前。そこに、異様なものがあった。

土の上に、ぬめりとした跡が残っている。幅は人の肩ほどもあり、長く、庭の奥へと続いていた。泥と混じった粘液が朝日に光り、ところどころに小さな泡が浮いている。まるで小さな小川の様な痕跡だった。

祖父はしゃがみ込み、指先で土を触れた。冷たい。だが、その冷たさは普通ではない。水の冷たさではなく、夜そのものの冷たさが染み込んでいるようだった。鼻を近づけると、異様な匂いがした。湿った土と腐った草の匂いに、何か生臭いものが混じっている。

祖父は背筋に寒気を覚え、立ち上がった。庭の奥へ続くぬめり跡は、畑の方へ消えている。だが、その先を追う気にはなれなかった。

祖父は近所の大人たちに話した。「昨夜、牛ほどの蛙を見た。」最初は笑われたが、ぬめり跡を見せると、顔色が変わった。村の男たちは猟銃や棒を持ち、山狩りを始めた。畑から山へ、谷へ、隅々まで探した。だが、何も見つからなかった。

「猪の見間違いだろ。」最後はそういうことになった。ぬめり跡も、昼の陽射しで乾いて消えた。

 

と言う話を祖父から聞いた。

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