八月の終わり、太平洋の海はまだ夏の匂いを残していた。底曳網を引き終えた船は、魚倉に詰め込んだ獲物の重みでわずかに沈み、甲板には潮と魚の匂いが濃く漂っている。戦後の漁業はまだ不安定で、マッカーサーラインの第一次許可が出てから数年、ようやく沖に出られるようになったばかりだ。無線などという便利なものはまだ高嶺の花で、俺たちの船にはない。天気の変わり目を読むのは、結局、空と海の匂いだけだった。
水平線の向こうに、黒い雲がじわりと広がっていた。南から押し寄せるその影は、まだ遠いが嫌な色をしている。海面は不自然に静まり返り、波のうねりが重く鈍くなっていた。風はまだ弱いが、湿った匂いが鼻を刺す。嵐の前触れだと、長年の勘が告げていた。
船員たちは黙々と作業を続けていた。甲板に立つ石川の煙草の煙が、風に流れず真っ直ぐに立ち上っているのを見て、胸の奥に重しが乗るような感覚があった。佐野は網の片付けを終え、魚倉の蓋を閉めている。山下は無言で空を見上げ、眉間に皺を寄せていた。小林だけが落ち着かない様子で、視線を雲と海の間に泳がせている。若い彼には、この海の変化がまだ読めないのだろう。
俺は舵を握り、港へ向けて船首を振った。だが、海は簡単に人間の思い通りにはならない。一時間もしないうちに、風が唸り始めた。波が高くなり、船体が軋む。雨粒が甲板を叩き、視界が白く煙る。嵐だ。空は鉛色に沈み、雷鳴が遠くで腹を鳴らしている。海面は狂ったように盛り上がり、船底を叩きつける。舵を握る手に力を込めても、船は思うように進まない。
甲板に打ち付ける雨が、銃声のような音を立てる。風は獣のように吠え、船体を揺さぶる。エンジンの唸りが頼りなく感じられ、船全体が海に呑まれそうな錯覚に襲われる。視界は闇に閉ざされ、世界は波と風と雨だけになった。
その時だった。
雷光が海を裂き、暗闇を一瞬だけ昼に変えた。
その光の中で、俺は見た。
船影だ。
俺たちの船のすぐ先、波間に、灯りひとつない船が浮かんでいた。
雷光が消えると、世界は再び闇に閉ざされた。だが、目に焼き付いた船影は幻ではなかった。波間に、灯りひとつない船が浮かんでいた。距離は百メートルほどか。嵐の中でその姿を保っているのが不自然に思えるほど、船体は揺れず、静止しているように見えた。
俺は舵を握り直し、視線を逸らさずにいた。雨が顔を叩き、視界はすぐに滲む。次の雷光が海を裂いた瞬間、船影はまだそこにあった。古びた貨物船のような形だ。だが、甲板に灯りはなく、人影もない。波に呑まれそうな嵐の中で、あまりに静かすぎる。
風が唸り、船体が軋む音が耳を満たす。だが、その船からは何の音も聞こえない。エンジンの鼓動も、金属の軋みも、波を裂く音さえも。まるで、そこだけ海の音が消えているようだった。
俺は舵を切り、距離を取ろうとした。だが、次の雷光が海を照らした時、視界の端に別の影が浮かんだ。もう一隻。さらにもう一隻。闇の中に、船影が増えていく。灯りのない船が、波間に並んでいた。
数を数える余裕はなかった。だが、十隻を超えたあたりで、背筋に冷たいものが走った。嵐の海に、灯りもなく、音もなく、船だけが群れを成している。貨物船、トロール船、そして一瞬、雷光が鋼鉄の艦影を照らした。艦首が鋭く、砲座の影が見えた。駆逐艦だ。俺たちが戦時中に見慣れた、あの形。
胸の奥で何かが凍りついた。戦争の亡霊が海に戻ってきたのか。嵐の中で、三十隻近い船が、灯りもなく、音もなく、ただ浮かんでいる。波に揺れず、風に逆らうように、静止している。
雨が甲板を叩き、視界は闇に閉ざされる。だが、雷光が走るたび、船影は増えていく。海は生き物のようにうねり、俺たちの船を呑み込もうとする。舵を握る手に力を込めても、船は思うように進まない。嵐の中で、幽霊船の群れが取り囲むように広がっていた。
その光景に、言葉はなかった。声を出せば、何かが崩れる気がした。俺たちはただ、舵を握り、波に抗いながら、闇の中で増え続ける船影を見ていた。
雷光が走るたび、艦影が浮かび上がる。砲座の影、艦橋の輪郭、甲板に並ぶはずの人影――だが、そこには誰もいない。灯りもない。音もない。嵐の海で、命の気配が完全に消えた船が、群れを成している。その静けさが、嵐の轟きよりも恐ろしかった。
俺は思った。これは嵐が見せる幻なのか。それとも、集団幻覚なのか。沈んだ船が、台風の日にだけ浮かび上がるそんな話を、昔、港の古い漁師がしていたことを思い出した。笑い話のはずだった。だが、今、俺の目の前にあるのは、笑えない現実だった。
嵐は吠え続け、海は牙を剥き続ける。だが、幽霊船の群れは、ただそこにあった。俺たちの船を取り囲むように、闇の中で静止していた。
嵐は夜明けとともに力を失い始めた。風の唸りが遠ざかり、波の牙が鈍くなる。雨は細い糸に変わり、灰色の空に淡い光が滲んだ。海はまだ荒れていたが、先ほどまでの狂気は消えていた。
幽霊船の群れも、消えていた。
嵐が弱まるにつれ、闇の中に浮かんでいた船影は一隻ずつ溶けるように消え、最後には何も残らなかった。海はただ、嵐の残骸を抱えてうねっているだけだった。あの光景が幻だったのか、現実だったのか、確かめる術はない。ただ、俺たち五人の目に焼き付いた影だけが、重く残っていた。
港に戻るまで、誰も言葉を発しなかった。エンジンの唸りと波の音だけが、沈黙を埋めていた。甲板に散った魚の鱗が、朝の光を受けて鈍く光る。嵐の夜に見た艦影が、脳裏にこびりついて離れない。砲座の影、灯りのない甲板、音のない群れあれは、戦争の亡霊だったのか。
港に着くと、漁師たちが集まっていた。嵐を避けて戻った船の話で賑わっている。俺たちの船が無事に戻ったことに、誰もが安堵の笑みを浮かべた。だが、その笑みを見た瞬間、俺は口を閉ざした。話すわけにはいかない。あの光景を言葉にしたら、何かが壊れる気がした。
戦後の世の中は、まだ不安定だ。仕事を失えば、家族を養えない。海で見た幻を語れば、気が狂ったと思われるだろう。俺たちは黙っていた。小林も、石川も、佐野も、山下も。誰も口を開かなかった。嵐の夜に見た三十隻の船影は、五人だけの記憶になった。
夜、家に戻っても眠れなかった。波の音が耳に残り、雷光に照らされた艦影が瞼の裏に浮かぶ。あれは幻だったのか、それとも現実だったのか。
沈んだ船が、台風の日にだけ浮かび上がる港の古い漁師が語った笑い話が、今は笑えない。
俺は思う。海はすべてを呑み込む。命も、記憶も、声も。だが、呑み込んだものを、時折吐き出すことがあるのかもしれない。
嵐の夜にだけ。
と言う話を又聞きした