1990年代のある日、父は中学生だった。季節は梅雨の終わり、空は朝から重たい雲に覆われていた。湿った風が吹き、街全体が灰色の膜に包まれているようだった。学校の帰り道、父は傘を忘れたことに気づいた。家までまだ数キロ残っている。舗装された道の両脇には田んぼが広がり、遠くに工場の煙突が霞んで見える。湿った風が頬を撫で、空気は雨の匂いを含んでいた。
やがて、ぽつりと雨粒が落ちてきた。父は小走りで近くの商店の軒先に駆け込み、雨宿りをした。雨脚はすぐに強まり、アスファルトに水の模様が広がっていく。父はランドセルを抱え、しばらく空を見上げていた。灰色の雲が幾重にも重なり、空は低く、圧し掛かるようだった。
十分ほど経った頃、雨が弱まった。走れば家までたどり着けるかもしれない。そう思って空を仰いだ瞬間、父は息を呑んだ。
曇天の空、その雲の間を、巨大な影がゆっくりと泳いでいた。それは、龍だった。
鱗のような模様が雲に溶け込み、長い体が空をうねりながら進んでいく。角のような突起が一瞬、雲間から覗き、尾が霞に消える。音はない。ただ、雲がわずかに揺れ、龍が空を渡っていく。
その姿は、絵巻物の中から抜け出したようだった。雲と一体化しながらも、確かに生きている。父は立ち尽くした。雨の冷たさも忘れ、ただその光景を目に焼き付けた。数十秒か、数分か、時間の感覚は消えていた。やがて龍は雲の奥へと消え、空は再び灰色の静けさに戻った。
父は、胸の奥に奇妙な感覚を抱えたまま家へ走った。濡れた服が肌に張り付き、靴の中で水が音を立てる。それでも、心は軽かった。何か特別なものを見たという確信と喜びがあった。
家に帰ると、父はその話を家族にした。
「龍を見たんだ。雲の間を泳いでた」
弟は笑って言った。「風船の見間違いじゃないか?」
父は首を振った。「違う。風船じゃない。あれは生きてた」
母は少し驚いた顔をして、「龍を見たなら、良いことがあるかもしれないね」と言った。祖父も「昔から龍は縁起物だから良い事があるはずだ」と微笑んだ。
その夜、父は布団に入りながら、もう一度あの光景を思い出した。雲を裂いて進む龍の姿。あれは幻だったのか。それとも、本当に空を泳いでいたのか。
しかし、その後、特別な幸運が訪れることはなかった。日々は淡々と過ぎ、龍の姿は記憶の中で遠ざかっていった。それでも、父は今も言う。
「もう一度、あの龍が見たい」と。
と言う話を従兄から聞いた。