カチカチ、カタカタカタ。
無数のキーボードを打鍵するノイズだけが、暗い司令室に響き渡る。唯一無二の光源は、壁面を埋め尽くす巨大なマルチモニター。
そこに煌々と映し出されているのは、日本の、あまりにもありふれた日常風景だった。
ある者は気怠そうに欠伸を噛み殺し、またある者は冷めきったコーヒーを片手に、複数のモニターを睨んでいる。
その全ての視線の先に在るのが、たった一つの中規模集合住宅――という事実だけが、この物々しい雰囲気に対してあまりにも不釣り合いで、悪趣味なジョークのようなシュールさを醸し出していた。
しかし、組織全体に漂う重苦しいまでの緊張感は、間違いなく第一線の戦場を見守るそれだった。
職員たちは皆、一様に清潔な白衣を羽織っているが、その襟元からは、肌に密着した無骨な機械製のチョーカーが覗いている。
不意に、一人の職員Yが、間の抜けた声でぼやいた。
白いボブカットの髪が特徴で、この職場の中では比較的新人の女性職員である
「……にしても、この声、どうにかならないんでしょうかねぇ」
職員Mが言うように、その声は致命的なまでに『間抜け』だった。
悪意を持ってそう評しているわけではない。
ネット社会にどっぷり浸かった現代人であれば、一度は動画サイトで耳にしたことがあるであろう、あの間延びした『ゆっくり』と呼ばれる合成音声。それそのものなのだ。
彼の横で分厚いマニュアルをめくっていた黒髪の職員Rが、顔も上げずに答える。
彼女の声もまた、少しトーンの高い、同じシステムを経由したものだ。
「仕方ないでしょう。呪相対策で組織に支給された、現代魔術師の必須装備なんですから……。
TOWEATからもたらされた技術、小魔力を用いずBLESSを魔術の燃料に代用できるようにする簡易装置。
むしろ今時、これを装着できるだけで、私たち現存を許された魔術師としてかなり破格の待遇なんですよ?」
「そりゃ、わかってますけど……」
職員Mは、その電子的な抑揚でため息をつきながら、再びコンソールに向き直った。そして、モニターを監視していた職員Yの指が、不意に止まる。
「……あ、これ」
無数に分割されたモニターの一つ。
集合住宅の中庭を捉えた映像の隅に、明確な「異常(エラー)」が映り込んでいた。
空のどこか、遥か高みにあるはずの「視点」を。
モニター越しに、まっすぐに見返してくる少女の姿が。
音のないモニターの中で、彼女はにっこりと無邪気に笑みを浮かべ、こちらに向かって小さく手を振った。そして、大きく口を開けて、何かを必死に訴えている。
「……こっち、見てませんか? はは、まさか。裸眼でそんなわけが——」
職員Yの乾いた笑いが途切れるのと、半分寝かけていた職員Rが椅子を蹴立てて跳ね起きたのは、ほぼ同時だった。
彼女は恐るべき速度で館内放送のスイッチを叩き入れる。
「コードZ! 全員、至急ブリッジへ移動! 監視対象からの能動的要求(アクティブ・コンタクト)を確認! 至急、司令……いえ、『大家さん』を呼んでください! 繰り返します! コードZ!」
施設全体を揺るがすようにけたたましいアラームが鳴り響き、天井の赤色灯が狂ったように回転を始めた。
騒然と職員たちが忙しなく駆け回り、ゆっくりボイスの怒号が飛び交う。
その施設は——地上ではない。
周囲を絶対的な漆黒の宇宙と、冷たい星々の瞬き、そして眼下に青く輝く母星に照らされた、衛星軌道上の巨大構造物。
人工衛星『メタトロン・キューブ』。
そして、その船底。常に地球を指向し続ける、最終現実追放兵器『ハディートの瞳』。
その発射装置に備え付けられた超高精度観測カメラが、今この瞬間も捉え続けている一点。
地表、日本、関東圏のどこか。
集合住宅『ボイボ寮』。
その中庭で、浅葱色の髪をした少女——枝豆のさやをデフォルメしたような、奇妙な獣耳を生やした少女は、はるか彼方、衛星軌道上の喧騒をも確かに「目視」したかのように、ただ、にっこりと微笑み続けていた。
Project V.V. Vox
……この宇宙は、物語である。
基底現実に住まう神々(アザトース)が気まぐれに物語を作るたびに、この多次元世界は無数に増えていく。
これは全て、別の世界からもたらされた衝撃の事実であった。
そして我々は気づく——その多元宇宙(マルチバース)の競争の中で、この我々の世界は、どうしようもないくらい『出遅れて』いた。
始まりは、我々に接触してきた『TOWEAT』という善意の異世界組織からの能動的接触からだった。
彼らは言った。
『このマルチバースは現在、放置世界から溢れた侵略者が溢れ、我々の世界はその戦争をいち早く察知し敵対しあっていた世界中の組織が手を取り合い、特異点の力を借りて日夜その世界間の闘争を抑止するために動いている』
彼ら『未知の脅威』と呼ばれる異界存在には、我々が積み上げてきた物理兵器が一切効かない。
対抗しうるのは、『魔法』か、『魔術』か、それか、この世界(物語)に紛れた「主役」たる特異点たちが持つ『BLESS能力』——現状この三つのみである、と。
その事実は、それに気づくのが致命的に遅れた我々の世界の各組織を、焦らせるには十分すぎる衝撃だった。
『TOWEAT』世界を含む並行地球型世界(ハートスーツ)全般に言えることらしいが、あの忌まわしき2009年事件以降、世界の守護者として現れるはずの英傑——『魔法使い』は、そのほぼ全てが忽然と姿を消していた。
2009年事件の元凶、この世界の可能性たる小魔力(オド)を燃料として用いる魔法の劣化コピー技術に過ぎない旧型魔術は、「呪相」という世界の毒を発生させ、もはや使うことを国連が禁じている。
打つ手がない。
焦った我々は、『TOWEAT』の制止を無視した。
全力で、この世界に唯一残された『魔法使い』を捜索し、そして……その存在を嗅ぎつけた各組織が、醜い奪い合いを繰り広げてしまったのだった。
そして、その末に。
我々が唯一見つけ出した魔法使いが、日本の東北地方に住む少女、『東北ずん子』。
「餅をずんだ餅に変換する」という、高度な物質及び概念変換魔法を持つ、世界最後の守護者だった。
しかし、だ。
我々がその最後の居場所を特定した時には……すでに状況は、詰んでいたのである。
彼女の魔法、魔滅の力の化身。ずんだもん。
そして海底の魔力資源を管理する隠された一族の末裔、四国めたん。
彼女は、その御使二人を残して忽然と姿を消していたのだから。
……そうだ。全ての始まりは、あの東北の、冷たい風が吹く日だった。
誰もいない。
もぬけの殻となった東北の質素な農家。そのがらんどうの家屋を前にして、我々——いや、当時はまだ敵対していた世界の各組織だったか——は、無数の機動部隊と、対魔術師装備に身を固めた武装魔術師達を展開していた。
我々が追い求めた最後の希望、『東北ずん子』の痕跡は、そこにはもうなかった。
その絶望的な包囲網の真ん中で、たった二人。
白いドレスに見事なドリル状に巻かれたピンクのツインテールを揺らした少女——四国めたんは、凍てつく土に毅然と片手をつき、冒涜的な呪文を唱え始めた。
「いあ、くとぅるふ、ふたぐん!ふんぐるぃむぐるぅなふ……! 夢見る儘であるならば!この意、彼方なる願いをその夢に満たせ!」
瞬間、彼女の手元から、いや、海中から、大地そのものが揺らぎ、重苦しい地鳴りを上げた。
舞台は即座に彼女に銃口を向け、拡声器が金属的な警告を響かせる。
『何をした!』
「たった今、大いなるものが惑星中に張り巡らせている力——『龍脈』を通して、世界そのものの生気……BLESSって言うんでしたわね? それにずん子の『魔滅の力』を紛れ込ませましたわ」
にやりと、少女は勝ち誇って笑った。
その言葉の意味を即座に理解した武装魔術師達が、呪相汚染対策のチョーカー越しに——あるいは、まだ装備していない者たちが生身で——騒然とする。
司令部からの怒号めいた通信が、全部隊のイヤーピースに飛び込んできた。
『固有魔力波形による探知魔術が誤作動を起こしています! 世界中が、東北ずん子の魔力反応に満たされています!』
『妨害のつもりか、四国めたん! いますぐ解除しろ!』
焦燥が引き起こした威嚇射撃が飛ぶ。
乾いた発砲音。二人の足元の小石が跳ね、弾丸の一つがめたんの頬を掠め、小さな赤い筋を作った。
その瞬間。
ガガッ!
周囲の武装勢力が構える機銃の全てに、目にも留まらぬ速度で光の矢が突き刺さった。
『ひぃっ!』
熱と衝撃に手放された小銃が、地面に落ちるよりも早く、その形状を失う。
カシャン、と崩れ落ちたのは、金属の残骸ではなく、緑色の粘性を帯びた——ずんだ餡だった。
「僕たちの要求は二つあるのだ」
浅葱色の髪の少女、ずんだもんが、片腕を異形のボウガンへと変形させたまま、ひどく落ち着いた声で言った。
そして続けて、彼はその小さな体で、世界全てに届かせようとするかのように大声を張り上げた。
「一つ! 東北ずん子はまだ若い人間なのだ! 彼女の人としての日常を約束するのだ!」
「さもなければ、私を殺したところでこの世界のチャフは龍脈を通して永続し、最後の希望は永遠に失われるわ」
ずんだもんに続けて、頬を伝う血を指で拭いながら、めたんが冷たく言い放つ。
「そしてもう一つは……僕たちを、世界を支えるにたる特異点達に日常を送らせる『家』を提供するのだ! そうすれば、僕たちが!」
「ええ、わたくし達が!」
二人の声が、東北の寒空の下で一つに重なった。
「「——世界を守る特異点になるのだ(なりますわ)!」」
それは、取引でも、交渉でもない。
残された二つの特異点による、この「出遅れた」世界そのものへ——そして、この理不尽な多世界間戦争への、明確な宣戦布告であった。
そして現在。
けたたましいアラームの名残と、慌ただしく駆け回る職員たちの気配が満ちたブリッジの上に、その老人——『大家さん』と呼ばれる司令は立っていた。
メインスクリーンには、相変わらず中庭でにこやかに手を振る少女が映っている。
「音声拾え」
短く、的確な指示。
しかし彼もまた、低く思いながらもやはりあの『ゆっくり』ボイスを発生させるチョーカー越しだ。
それに応えるように、オペレーターの一人が叫ぶ。
「監視用小型デバイスの信号、音声変換します!」
一瞬のノイズの後、緊張に息を呑むブリッジに、画面内で大声を上げる少女の、あまりにも天真爛漫な合成音声が響き渡った。
『あー、あー、大家さーん、聞こえるのだぁー? リツがまた床壊しちゃったのだ。床の張り替えを業者さんにまたお願いしてもらっていいのだー?』
コードZ。監視対象からの能動的要求。
その内容が、緊張感の欠片もない、あまりにも日常的すぎる「陳情」であったことに、ブリッジに詰めていたスタッフの一部は、あからさまに肩を落とした。
『大家さん』は無言で頭を抱え、やがて近くに控える秘書に、疲れた声で命じた。
「……外苑黄色灯を3回光らせろ。イエスの合図だ」
「はっ」
「それと、現地スタッフに床の鋼板の素材を見直すよう指示しておけ。相手はあくまで平均25tであって、それ以上も普通にあり得る奴だ……
あぁ、私が……この私が、床の心配だとお!」
バン!
唐突に、老人は怒りを爆発させ、硬質プラスチックのコンソールに拳を叩きつけた。
ブリッジの空気が再び凍る。
彼も、かつては最大の魔術結社にて暗躍し、世界征服なんていうベタな企みを本気で実行に移しかけた元・重魔術犯罪者である。
その彼が、今や『ずんだもん』という、歩く相互確証破壊兵器の頭上に浮かぶ衛星軌道(ここ)で、彼女らの「お世話」をしている。
なまじ優秀な魔術・指揮能力を持っていたがゆえに、組織から差し出された、哀れな生贄。それが彼の現在の役職だった。
彼の顔は、強すぎるプライドに刻まれた亀裂によって歪み、歯軋りをしながら、忌々しげにメインスクリーンのずんだもんを睨め付ける。
「必ず、か、な、ら、ず、弱みを見つけて、いうことを聞かせてやるっ! ……客員監視を怠るなよ!」
ふんっ!と荒々しい鼻息を鳴らしながら自室へ帰っていく『大家さん』の後ろ姿を、職員たちは無言で見送る。
その背中がブリッジの自動ドアの向こうに消えたのを確認し、疲れた様子の職員たちは、アラーム対応から定時交代の業務へと静かに移行し始めた。
「……もういっそ、このままでいいんじゃないか?」
金髪の職員Mがぶっきらぼうに言うと、職員Yが言う。
「まぁまぁ、監視し続けてるって言い続けないと、私たち組織の意義も無くなりますから」
その言葉に職員Rが、冷めた口調で付け加えた。
「例の龍脈魔力チャフで、東北ずん子の魔法が世界に拡散した結果、異界存在の『規律不整』が無効化されて『未知の脅威』にも、我々の物理兵器が通るようになったんですから」
そう。
あの二人の宣戦布告は、皮肉にも世界を救う方向に作用した。
「魔法使いの不在」という最大の脅威は継続しているが、少なくとも人類は反撃の手段を取り戻したのだ。
結果として、この衛星軌道上の最終兵器『メタトロン・キューブ』と、そこに詰め込まれたエリートたちは、その存在意義のほとんどを失った。
形だけとなった監視体制の番人として、彼らは今日も、偽りの最前線の日常を「世話し続け」なければならないのであった。
一日もかからないうちに衛星軌道(うえ)の『大家さん』が手配した業者によって完璧に張り替えられたボイボ寮の中央リビング。
その真新しい特殊合金の表面だけをおしゃれな木材に偽装した床の上で、ずんだもんは頬をぷっくりと膨らませていた。
「もー、リツもちょっとは気をつけてほしいのだ! 大家さん、絶対カンカンに怒ってるのだ」
「いやぁ、済まないねぇ。アタシの身体項目だけは制御が効かずに毎日乱数(ランダマイズ)するもんだから、加減がどうしてもね」
赤い長髪の女性——波音リツが、優雅な赤いドレスの裾をたなびかせながら応える。
どこから見ても華奢で細身の女性だ。
しかし、彼女が立つその足元では、宇宙ステーションの外壁にも使われる最新技術の特殊合金が、ミシミシ、と悲鳴のような音を立てている。
その周囲を、青紫の髪の女性が球体関節の微細なモーター音を唸らせながら歩き回り、手にした端末で未知のエネルギー反応を観測しつつ、冷静に口を挟んだ。
「ご主ずん様然り、天然の能力者というのも考え物で御座いますね。
観測される数値が論理的閾値を振り切っております」
「あぁ、これじゃ迂闊にソファにも座れないね」
リツがリビングの隅にあるソファに目をやる。
「そんなことしたら本気で祟りますからね」
だらしなくソファに寝っ転がっていた紫のジャージに灰色髪の少女が、スマホの画面から一瞬だけ視線を上げ、じろりとリツを睨みつけた。
そのただならぬ圧に、床を軋ませるリツも苦笑いを浮かべて両手を上げる。
「あ、あぁわかってるよ。アタシも死神を踏み潰そうなんて大それたことは考えちゃいないよ、ひまり」
「リツ、日替わりっていうのは『乱数(ランダマイズ)』で決めた数値もなのだ?」
ずんだもんが、床の心配から本題に戻ったように問いかける。
リツは、あぁ、と言い忘れていたように応えた。
「大丈夫だよ、日替わり(ランダマイズ)はアタシ自身の体重(ステータス)だけ。次の入居者が『こっち側』って確率は、変わらず97%で固定してるから。その辺は安心していいよ」
「へへ、なら安心なのだ」
嬉しそうに微笑むずんだもん。その時、リビングに軽やかなチャイムが鳴り響き、すぐにガチャリと玄関の戸が開く音が続いた。
「ただいまぁー」
「ただいま帰りましたぁー」
黄色い髪をしたいかにもギャル然とした少女——春日部つむぎと、青い髪をした女子大生——雨晴はうが、買い物袋を提げて共に帰ってきた。
「つむぎ、はう、おかえりなのだぁ」
「なんか今、物々しい集団とすれ違ったんだけど、あれ何? うち関連?」
つむぎが言いながらテレビを指さす。
なんの操作もしていないのに、リビングの大型テレビが勝手に起動した。そんな小さな異常を起こしながら問いかけるつむぎに、ずんだもんが答える。
「リツの体重で床が抜けたから、鋼板を新しい合金に変えてもらったのだぁ」
「いっそのこと、うちの実家に問い合わせましょうか? 冥王星の黒曜石(のような地球に存在しない磁性鉱物)なら、もうちょっと保つと思いますよ。ねぇ、そらさん?」
買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れながら、はうが提案する。
その視線の先で、変わらずエネルギー観測を続けていた球体関節の機械人形——そらが、冷静に首を横に振った。
「交渉中に大家さんの胃に穴が開くことが予想されますので、それは最後の手段にしておきましょう」
「嬉しそうね、ずんだもん」
同時に、仕事にしている配信活動の取材から帰ってきためたんが、新しいコートを脱ぎながら、リビングで微笑むずんだもんに話しかける。
「昨日、ずん子ともテレパシーで話したのだ。あっちもあっちで平和に暮らせてるようなのだ……僕らもこうして集まって、今の生活をもっと賑やかに、盤石にしていかないといけないのだ」
「日常を送ることが、そのまま武力に繋がる。危うい綱渡りのような日常よね。まぁ、ホームレス時代に比べれば、はるかにマシだけど」
かつて、友人であるずん子の家に身を寄せる以前の、苦い思い出。行き場を失っていた日々を思い出し、めたんは苦笑を漏らす。
そんな彼女に、ずんだもんは応えた。
「ずん子は言ってたのだ。生きることは、ただでさえ戦いの連続なのだ。この『日常を生きることを望む声』……それを張り上げる勇気、それが今の生活を作るんだって」
ずんだもんは、衛星軌道の『大家さん』が見ているであろう、中庭の空ではなく、今、目の前にあるリビングの賑やかな喧騒——リツの軋む音、つむぎが点けたテレビの音、そらのモーター音の騒がしいリビングを見つめながら、つぶやいた。
「だから僕らは、今を生きるのだ」
Vitae. Vis.VOX(生きることを望む声)。
世界の命運と、日常の命運。その二つを賭けた、狭間の日常はまだ始まったばかり。
彼ら『ボイボ寮』の住人を待つ、次なる特異点(じゅうにん)は如何なる存在なのか。
この奇妙な共同生活の果ては、どこへ向かうのか——。
それはまだ、誰も知らない。
◆
深夜、人気の途絶えた廃墟に、小さな銅貨がアスファルトを打つ甲高い金属音が、異様に長く反響して響き渡った。
「はぁ、はぁ、はぁ!」
見窄らしい格好の男が、滝のような汗と汚らわしい涎を垂らしながら、獣のように荒い息を吐き、狭い廃墟の中を彷徨っていた。その足が踏み鳴らした床の一部に仕掛けられていた銅貨が、カラン、と奇妙に跳ね上がる。
男は気づかずに走り抜けていった。しかし、その銅貨は重力に逆らって空中で制止すると、キィン、キィン、キィンと金属音の反響を繰り返しながら、慣性を無視した速度で男めがけて急加速した。
気づいて振り返った男の肩を、それは深く切り裂いた。
「ぎゃあ!」
血飛沫とともに、情けない悲鳴が上がる。
コツ、コツ。
と、重い革靴の音が、廃墟の闇に響いた。男を追い詰める、巨漢の殺意に満ちた瞳が、その場の空気を凍らせる。
「ひ、ひぃ! 待って、たしゅけて、許してくれ! もう、もう人は食わねえよぉ!」
男の顔は恐怖に染まり、巨漢に対して懇願するように掌を合わせる。
「——お前に食われた男の、伴侶からの依頼だ。お前がこれから何をするかなんて、俺は知らん」
ピン、と男が親指で弾いた銅貨。
それに呼応するように、周囲に仕掛けられていた無数の銅貨が、まるで強力な磁石で引き寄せられ合うかのように、巨漢の手元へと集まっていく。
がぢぢぢぢ……じゃりん。
と、奇妙に反響する金属音を立てて、それは一瞬にして、西洋剣の形をとった。
その先端は、まるで精密な機械製品のように超音速で振動を始め、見る間に切れ味を増していく。
「それに、お前は居てはいけない。俺が許す事は、決して無い」
巨漢の、岩のように——いや、例えるなら永久凍土の氷河のように硬い決意のこもった言葉に、追い詰められた男は、その体をメキメキと音を立てながら変異していった。
「こ、の、糞ハンターがああああ!」
先のひよわで見窄らしかった男が一転、筋骨隆々で禍々しい角を頭から生やした、地獄の餓鬼へと変貌し、巨漢へと襲いかかった。
「東方守護地鎮、青龍に代わり請願す——祓え、清めろ、疾く捷く律法の如く為せ」
巨漢の唱えた言霊が、手元の銅貨剣に破魔の力を付与する。
彼はその剣を一息に振り抜き、襲い来る鬼を両断した。
悲鳴をあげる間もなく、両断された鬼の肉体は焼けこげるように崩壊し、この世界から跡形もなく消失した。
闇と金属音だけが、後に残された。
同時刻、しかしまた別の場所。
静寂な夜の海辺に、ざわりと波が打ち寄せる音だけが響く。砂浜を歩む男の背後に、べしゃり、べしゃり、と、湿った足音が不規則に響いてきた。
「……まだ追ってくるのかよ、大首領はもうとっくに死んでるんだぜ? いい加減諦めろよ」
男が忌々しげに振り向く。
その鋭い視線の先にいるのは、奇妙な全身タイツに身を包んだ人型のシルエットだった。
その顔だけが、奇妙な魚のように肥大化し、歪に歪んでいた。
海からもズルリ、ペタリと、不気味な音を立てて、同じような半魚人の怪人たちが続々と集まってくる。
そして、男が話しかけた先頭の怪人が、金属を軋ませるような奇妙で不快な笑い声を上げた。
「ギゲゲッ。大首領様の仇……その首を、生贄の祭壇に捧げるまで、我らゲルダゴンの追跡は続くぞ……改造人間3号!」
半魚人が男に宣言すると同時、男は苛立ちを隠さずにジャケットを脱ぎ捨てた。剥き出しになったベルトのバックルを、迷いなく展開する。
「組織を潰されたんだからいい加減覚えろよ、俺はそんな名前じゃねえ……人間としても、改造人間としても!」
バックルから、何故かけたたましい音楽が鳴り響く。
彼の身体全体が白熱するように赤熱し、視界を覆うほどの強烈な発光と蒸気が周囲の目を遮った。
蒸気の合間を縫うように、バックルから機械音声が流れ終える。
『UnitOpen.Start Up GENBU!!』
瞬間、白煙の中から打ち出された無数の火球が、怪人たちの何人かを一瞬にして吹き飛ばした。
そして、蒸気の内より顕れたのは、黒光りする重厚な金属のアーマー。
その背に負った巨大な甲羅が機械的に展開し、せり出したブースターから迸る未知の粒子の奔流によって加速し、怪人の集団へと必殺の威力を持った拳を突き出した。
「——ええっ、雪さん! この仕事辞めちゃうの!?」
少年の驚く声が、静謐な建物内に大きく響き渡った。
そこは、周囲に舞い飛ぶ冷気の霜と、侵入者の体温との温度差によって立ち昇る水蒸気に乱反射する、無数の赤外線網が張り巡らされた厳重な研究施設だった。
少年はその全身を、近代的なカーボンナノチューブ繊維と、それでも長い歴史で研鑽された古の知恵で編まれたツールを纏った忍装束に包み、その顔は機械化した虎のような面頬に覆われている。
アイカメラを兼ねたその双眸もまた、フェイストラッキング機能によって驚愕に大きく見開かれていた。
「しぃーーっ」
「あぁ、ご、ゴメン」
少年の大声を、隣で降下する相方の女性が咎める。
彼女は顔を隠さず、まるでモデルのように美しく整った細い肢体を、雪の妖精を思わせる軽やかな和装に包んでいた。
少年はメジャーを改造した特殊ワイヤーを、女性は天井から生成した長く鋭い氷柱をアンカーにしがみつく形で、ゆっくりと降下している。
彼らの眼前に聳え立つ超巨大スパコンの冷却ユニットに差し込まれたUSB端末から、目的のデータを引き抜いている最中であった。
そう、二人は現代の陰に生きる、別系統の技術と思想を持った忍者の末裔である。
「私、もともとアイドルやりたかったんだよね……。うちの里も経営難で無くなっちゃったから、もう潮時にして、新しい人生始めようかなって思って」
このような極度の緊張状態にあってなお、雪と呼ばれたくのいちは、あっけらかんと話す。
「里かぁ。俺は逆に、里がなくなっちゃったから、この仕事で稼がないと生きてけなくなっちゃったからなぁ……」
雪の言葉に、少年も自身の今後を考え直し始めていた。
少年の記憶に蘇るのは、現代社会を知るために里を離れ、一時期住んでいたシェアハウス『昼暮寮(ひるぼりょう)』。
昼暮寮で過ごした、同じ「普通」の少年時代。四人の幼馴染。
……その共同生活を終えて里に帰還したら、その里はもう、襲撃か何かで崩壊し、もぬけの殻になっていたのだが。
そんな苦い思い出を思い返しながら、少年は虚空を見上げる。冷気が面頬を白く曇らせた。
「あいつら、元気かなぁ……また、一緒に暮らせればなあ」
チーン。
その時、軽快な電子音が響き、USB端末の小さなLEDが点滅から点灯に変わった。データの抽出終了を告げる合図だ。
「ほら、終わったよ。帰るよ、ビャッコ君」
「あ、うん」
少年、ビャッコがヒュッとスパコンの筐体に投げたのは、ガムのような粘性のある小さな塊。
それに取り付けられた虎のキャラクターをあしらったデジタルタイマーが、無慈悲なカウントダウンを開始した。
カチン。
鬼の残骸が崩壊した跡からこぼれ落ちたのは、ペンダント……いや、ロケットの類だった。
鬼に喰われた人間の遺留物か。
巨漢がそれを拾い上げ、無骨な指で開くと、確かに依頼人の女と、その旦那と思しき人物が仲睦まじく映った写真が挟まれていた。
——やるせない。
重いため息が漏れる。誰とも知れない、ただ「鬼」という理不尽な存在相手に、復讐がわりの八つ当たりを仕事がわりに行う毎日。
暴力と悲劇の渦巻く非日常こそが、彼の日常であった。
そして、何より今は。
こうして死してなお、誰かに強く想われるこの写真の男が、ひたすらに羨ましかった。
ボン!
最後の怪人が、体内の霊子炉の暴走で小規模な爆発を起こし、消滅した。
それと同時だった。
バックルが『Boost Out』と無機質な音声を鳴らし、男の変身がとけて、黒光りしていたアーマーが蒸発するように大気に溶けて消える。
人間としての姿に戻った男が、ため息混じりにガシガシと頭をかく。
これだから、組織から抜けた時に世話になった喫茶店の娘とも別れ、わざわざ一人旅に出たというのに……終わらない追跡劇で、彼の人生はいまだにままならなかった。
ドカン!
今はもう遠く、森の奥にある研究所が派手な爆発炎上を起こすのを、二人は杉の木の梢から見届けていた。雪が、ビャッコに振り返る。
「それじゃあ、ここでお別れだね」
「あ、あのっ! 雪さん!」
ビャッコが、意を決したように呼び止める。
「なぁに?」
「よ……よかったら、俺と暮らさないか? 俺たちなら、どんな仕事もできるだろうし……里の思想はお互い違うけど、お互い忍びじゃん?
だから、さぁ……ワンチャン、ないかなぁ?」
二人揃って、杉の木の鋭角的で不安定な先端に器用に直立しながら、虎の面頬をつけた少年が、もじもじとしどろもどろに告白する。
そのあまりにもシュールな間に、雪はケラケラと悪戯っぽく笑いながら答えた。
「ごめん! もう受かってる事務所があるんだ。恋愛要素は御法度なんだよねえ」
「そ、そんなあ!」
雪は無慈悲にも、ビャッコの一世一代の告白を一蹴してしまう。
「じゃあねっ!」
言葉と共に、雪は小さな吹雪を巻き起こしながら空高く跳び、夜の闇へと消えていった。
一人残されたビャッコは、ただ一人、針葉樹の頂でうなだれ、深くため息をつくしかなかったのだった。
そう、同じ少年時代を過ごしながら、全く違う事情を抱えた三人が、この日、この夜、それぞれの場所で。
鬼を狩る巨漢も、怪人と戦う改造人間も、失恋した忍者も。
同時に、深く深く、ため息を漏らして願ったのは……
「「「彼女、欲しいなぁ……」」」
あまりにも日常的な、どこにでもいる男子にありがちな、切実な願いのため息であった。