V.V.VOX   作:EMM@苗床星人

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Log03 看護師と妖刀のジレンマ

 

 

 此処は緋穂葉(ひほば)医療大学。

 町一番の総合病院を併設する、そこそこ大きな規模を誇る医療系大学のキャンパスは、昼休み特有の喧騒に包まれていた。

 その学食の一角、ガラス張りの明るいビュッフェコーナーで、青い髪の女子大生——雨晴はうは、トングを片手に真剣な眼差しで料理を吟味していた。

 

「……見て、あれ雨晴さんよ」

 

 数人の学生グループが、ひそひそと声を潜める。しかし、はうの耳——正確には、髪の下に隠された聴覚器官の『長距離収音モード』には、その囁きはクリアな音声データとして届いていた。

 

「噂の? ほら、大学入試の成績ダントツ一位で、医療博士課程の成績第一位候補っていう……あの天才」

 

 はうは、周囲の視線に気づかないふりをして、彩り豊かな野菜サラダを小鉢に盛り付ける。

 レタスの瑞々しさをセンサーで確認し、ドレッシングはノンオイルを選択。

 完璧な栄養計算だ。

 

「あの子、なんで医師課程じゃなくて看護師課程受けてるのかしら……意味わかんなくない?」

 

「あくまで憧れてるのは『白衣の天使(ナース)』であって、医者じゃないんだそうよ? 変なこだわりよねぇ」

 

 学生たちの疑問ももっともだ。

 だが、はうにとっては人類のヒエラルキーなど些末な問題であることを彼女達は知らない。

 

「勿体なぁい。日本の損失じゃない?」

 

「でも聞いた? あの子、この前手違いで紛れ込んじゃった外科課程の手術実習、教授が止める前にメス握って一発で成功させたそうよ」

 

「ええっ、嘘でしょ?」

 

 はうはトレーを滑らせ、メインディッシュの棚へ。

 唐揚げか、ハンバーグか。少し悩んで、今日は手軽に食べられるミックスサンドイッチを選び、トレーに乗せる。

 

「嘘じゃないって。それに噂じゃ、本院の難しい手術も手伝いに行って、こっそり全部雨晴さんに任せて成功させてるとか……」

 

「あっはっは! 流石にそれは尾ひれがついた噂でしょ? 学生が本院の手術執刀なんて、漫画じゃないんだから」

 

 レジの前に立つ。

 

「450円になります」

 

 パートの女性の声に、はうはにっこりと微笑んでICカードをかざした。

 ピッ、という軽快な電子音が鳴る。

 その背後で、学生たちの噂話は「まさかね」「ありえないよ」という笑い声で締めくくられた。

 

(……本当なんだよなぁ、それ)

 

 窓際の席に腰を下ろしたはうは、ふわりとしたパンの感触を楽しみながらサンドイッチを頬張る。

  もとより彼女達ミ=ゴは自分の肉体すら整体機械工学で簡単に創造し、そのメンテナンスを行っている。

 人間の身体構造など、彼女にとっては組み立て式のちょっと複雑めな機械玩具も同然なのだ。

 あながち間違いではない自身の噂を咀嚼しながら、はうは今日も平和な——正体を隠した学生としてのランチタイムを過ごすのであった。

 

 

 

 

 

 

 暗黒の宇宙空間に浮かぶ、氷と岩の惑星——冥王星(ユゴス)。

 地球人類の一握りの探索者達とミ=ゴが出会った恐怖の歴史的遭遇より100年余り、当時からユゴスの文化は大きく変化していた。

 それは多種族との交流の中で多くの動物的特性や文化をそのバイオスーツに取り入れてきたミ=ゴであるからこその文化に対する寛容な流動性であった。

 この時代、ユゴスはボクシングをはじめとした地球文化ブームに燃え上がっていた。

 その地表には、人類の常識では到底理解し得ない、生きた建築技術によって蠢く巨大な「ドーム」が形成されていた。

 外気の絶対零度を遮断するのは、分厚い甲殻とあらゆる文明圏が協力して編み上げた絶対的な防御魔術技術——地球でいうBLESSを用いるクリーンな現代型魔術もすでに彼らは実用化していた——による粘液の膜。

 その内部、有機的な壁面が脈動するボクシング用にあつらえられた大闘技場『ユゴス・リング』は今、爆発的な熱狂の坩堝にあった。

 

『決まったぁーー! まさに選手とセコンドの人馬一体! 会場は大盛り上がりだぁー!!』

 

 実況席に座るミ=ゴが、興奮のあまり複眼を激しく点滅させながら絶叫する。

 その声はマイクを通じた物理音声だけでなく、増幅されたテレパシー波となってドーム内の全観客の脳髄へと直接叩きつけられた。

 

「「「うおおおおおおおおおお!!」」」

 

 ドームを埋め尽くすのは、ミ=ゴ、蛇人間、そして名状しがたい神話生物の群れ。

 彼らが発する興奮のテレパシーに反応し、天井に張り巡らされた発光粘菌の胞子が、赤、青、紫と激しく色彩を変えながら降り注ぐ。

 それはまるで、狂気で演出された紙吹雪のようだった。

 リングの中央。

 激闘の末に満足したように沈んだのは、サイボーグ手術で腕を4本に増やした巨体の深きもの。

 そして、彼を見下ろし、勝鬨を上げるのは——たった一人の、地球人であった。

 

「勝者、ハンク=グリフィィィィィン!」

 

 彼の右腕は、肩に埋め込まれた——『ショゴス細胞』によって補強され、万色の機械回路のような力強い光を放っている、それが彼の魂の輝きだった。

 地球では再起不能とされた古傷を、冥王星の超科学と魔術的縫合で克服した「魂の拳」だ。

 

「わぁぁ……!」

 

 観客席の最前列。

 幼い身体を守るための『幼体用甲殻類型バイオスーツ』にちょこんと包まれた小さなミ=ゴ——幼き日の雨晴はうは、厳格な両親から「下等な発声器官を使うな」と躾けられていたことも忘れ、思わず声を上げていた。

 彼女の大きな触角センサーが捉えていたのは、勝利したハンクだけではない。

 ゴングが鳴った瞬間、リングに飛び込み、ボロボロになったハンクの肩を抱きかかえて涙を流す、一人のミ=ゴの女性——彼の専属セコンドであり、彼を改造・治療した技師の姿だった。

 

(すごい……なんて綺麗な情報の流れなんだろう……)

 

 はうの視界には、拡張現実的に二人の間の通信ログが見えていた。

 試合中、ハンクの筋肉の収縮、心拍、痛み、その全てをセコンドの彼女がリアルタイムで受信。

 即座に彼女はショゴスアームの細胞密度を調整し、衝撃を分散させ、彼の折れかけた心を励ますテレパシーを送り続けていたのだ。

 それは単なる「修理」ではない。

 魂という情報熱量を、狂気という炎で燃焼させ合う、この冥王星ボクシングという野蛮なスポーツの中で、二人の命は確かに一つのシステムとして循環していた。

 合理的でありながら、どこまでも感情的で、愛というノイズもまたその色を添える美しい数式の一部であった。

 冷徹なユゴスの科学が、熱い命を支えている。

 幼いはうは、その光景に震えた。

 ミ=ゴとしての生物的本能と、地球文化への憧れが脳内で化学反応を起こし、冥王星から太陽系中を網羅するテレパシーネットワークへ勝手にアクセスする。

 そして己の抱いたたった一つの憧れを顕す事に最も適した一つの語彙(コード)を、彼女の菌糸は掬い上げた。

 

(怪我を治すだけじゃない。その人が、その人らしく輝けるように、一番近くで支え続ける技術……)

 

「……『看護』」

 

 はうは、ぽつりと呟いた。 降り注ぐ七色の胞子の光の中で、彼女は強く拳を握りしめる。

 あのセコンドのお姉さんのように、誰かの命を一番近くで支えたい。 その為なら、たとえ遠く離れた青い星へ行くことになっても——。

 

「パパ、ママ! ぼく、地球に行きたい! あそこで『かんご』を勉強するの!」

 

 それが、後にボイボ寮で「清楚な(?)看護学生」として暮らすことになる、雨晴はうの原点。

 冥王星の冷たい風すらも熱く燃やす、少女の夢の始まりであった。

 

 

 

 

 

 

 消毒液と、微かな血の鉄錆びた匂い。

 それらをシャワーと滅菌エアで念入りに洗い流し、雨晴はうは病院の裏口にある、関係者以外立ち入り禁止の重い鉄扉を押し開けた。

 夕暮れの風が、少し火照った頬を撫でる。 その背後から、白衣を着た中年の男性医師が深々と頭を下げて追いかけてきた。

 

「執刀お疲れ様です、はうさん」

 

「もう、あんまり学生の私に頼るのも良くないですよぉ? あなた達自身の技術の発展の妨げにもなりますから」

 

 はうは困ったように眉を下げ、少し咎めるような口調で振り返る。

 彼女が行ったのは、現代地球の医学では成功率が極めて低い、複雑な脳神経の接合手術だった。

 だが、冥王星の生体工学と、ほんの少しの物理的干渉を行う触手を持つ彼女にとっては、壊れたプラモデルを直すのとさほど変わらない作業だった。

 

「外来宇宙生物である僕を無条件で大学に迎える代わりに、その技術を医療の発展のために教えられるだけ共有する……とは契約しましたけど、本来やっちゃいけない事なのはわかってるでしょう?」

 

 学生鞄を背負い直しながら、はうは呆れたように言う。

 表向きは優秀な看護学生。

 しかしその実態は、地球の医療レベルを数世紀飛び越えた技術を持つ異星人。

 大学側との密約により、彼女はこうして「どうしても手の施しようがない」患者の影の執刀医となっていた。

 医師はバツが悪そうに頭をかきながらも、その瞳には真剣な色が宿っていた。

 

「グレーゾーンなのは確かですが……それでも我々には、助かる命が多い事に越したことはないんです。それに、ご安心ください。あなたの技術は病院総出で観察し、盗ませてもらっていますから」

 

「あはは……」

 

 はうは苦笑いを浮かべた。

 手術室には最新鋭の8Kカメラが数十台設置され、別室では精鋭の外科医たちが、彼女の人間離れした速度に至る手つきをフレーム単位で解析しているのだ。

 

「日本語って、たまにすっごい皮肉な言い回ししますね。『盗む』なんて、堂々と言うことじゃないですよぉ」

 

「技術者への最高の賛辞ですよ。……我々も、いつまでも宇宙の奇跡に甘えているつもりはありません」

 

 そう言ってニヤリと笑う医師に、はうもまた、少し嬉しそうに微笑んだ。

 人間は脆く、未熟だ。けれど、その貪欲な向上心だけは、冷たい冥王星にはない熱を持っていた。

 ふと、はうは手元の腕時計に視線を落とし、小さな悲鳴を上げた。

 

「……っと、いけない! 看護課程の授業に遅れちゃいますので、私はこれで!」

 

「あ、おい! まだ術後のカンファレンスが……」

 

「それは先生たちでやってください! 僕はあくまで『学生』なんですー!」

 

 言うが早いか、はうはペコリと一礼し、人間離れした脚力で大学キャンパスの方へと駆け出していった。

 その背中にあるのは、天才外科医の威厳ではなく、単位と出席日数を気にするただの女子大生の哀愁だった。

 残された医師は、嵐のように去っていった彼女の後ろ姿を見送りながら、深くため息をついた。

 

「全く……本気なのかそうでないのかわからない相手というのは、敵わんな」

 

 彼はポケットから煙草を取り出し、火をつけないまま口に咥える。

 その脳裏には、先ほどの手術で見せた、神業とも悪魔的とも言える彼女のメスさばきが焼き付いていた。

 いつか人類が、あの領域に辿り着く日は来るのだろうか。

 紫煙の代わりに白い息を吐き出し、医師は再び消毒液の匂いのする病院へと戻っていった。

 

「はぁ、はぁ、はぁ……!」

 

 本院の裏口から大学のキャンパスまでは、徒歩で行けるかと言えば行ける距離。

 しかし、授業開始までの残り時間を考慮して走るとなると、それは絶望的な長距離走へと変貌する。

 

(地球人型バイオスーツ、便利ですけど『基本モード』だと酸素交換効率まで人間と同じにしなくてもいいじゃないですかぁ……!)

 

 はうは恨めし気に、自身の肺(として機能している循環器)に酸素を送り込みながら、アスファルトを蹴った。

 本来の彼女——ミ=ゴの生態であれば、真空空間だろうが平気で活動できる。

だが、この擬態用バイオスーツは、極めて精巧に「ひ弱な女子大生の肉体」をシミュレートしているため、酸素が足りなければ息も切れるし、乳酸が溜まれば足も重くなるのだ。

 そんな、科学的すぎる不便さに悪態をつきながら走っていた、その時だった。

 

「……はう?」

 

 視界の端。

 いつも通っているはずの建物の陰に、ふと違和感を覚えて、はうはキキっとブレーキをかけて足を止めた。

 呼吸を整えながら、彼女はその正体をまじまじと見つめる。

 それは、コンクリートの古びた塀の一部を、無理やりくり抜いたような隙間に建てられた——小さな『祠』だった。

 

「病院に、祠? 慰霊碑とかだったらあるのは知ってましたけど……祠、ねぇ……?」

 

 はうは首を傾げる。

 風化してボロボロになった木製の扉。注連縄は千切れかけ、供えられた水は干上がっている。

 誰からも忘れ去られたようなその場所に、彼女はスッと表情を改め、居住まいを正した。

 余談ではあるが、彼女たちミ=ゴという種族は、高度に発展しすぎた科学力を持つがゆえに、逆説的に新人深く神を信仰している。

 それは迷信や非科学的なすがりではない。

 彼女たちはその知性で宇宙の深淵を覗き込み、『混沌』や『秩序』といった概念そのものである「実在する神々」を観測し、理解しているからだ。

 ゆえに、彼女たちは「見えざるもの」に対して、決して無礼を働かない。

 

「どこのどういう神様かは存じ上げませんが……ご挨拶が遅れました、雨晴はうと申します」

 

 はうは静かに目を閉じ、パン、パン、と乾いた音を立てて柏手を打つ。

 その作法は、彼女が地球の書物で学んだ、現地の礼儀そのものだ。

 

「この土地を守っていただき、ありがとうございます。そして僕が『ボイボ寮』のみんなに出会えた幸運も含めて、感謝します」

 

 この不可解で賑やかな日常。

 危険と隣り合わせだが、冥王星よりも温かいあの場所へ導いてくれた運命(あるいは神)への感謝を込めて、彼女は深く頭を下げた。

 

「……っと、いけない!」

 

 数秒の祈りの後、はうはハッと目を開けて腕時計を確認する。

 

「遅刻しちゃいます! それでは失礼しますね、神様!」

 

 すっくと立ち上がった彼女は、遅れた時間を取り戻すように、再びバイオスーツの脚力を唸らせて駆け出した。

 タッタッタッ、と軽やかな足音が遠ざかっていく。

 周囲には再び、路地裏の静寂だけが残された。

 ……だが。

 

ビキッ。

 

 乾いた音が、祠から響いた。

 はうの視界から外れ、無人となったその祠。

 固く閉じられていたはずの木の扉に、ビシリと亀裂が走る。

 その隙間から漏れ出したのは、聖なる気配などではない。

 ドロリと澱んだ、どす黒い紫色のオーラ。

 ミ=ゴという、高位の神話的存在からの純粋な信仰(エネルギー)。

 それを注がれたことによって、忘れ去られていた「何か」が、長い眠りから覚醒しようとしていることに——今はまだ、誰も気づくことはなかった。

 

 

 

 一方、それは抜けるような青空の下。

 平和な昼下がりのボイボ寮の屋上で、風に揺れる洗濯物の陰に、小さな影があった。

 ずんだもんは、太陽の光を遮るように小さな手でひさしを作り、遥か彼方、空の向こう側——あるいは次元の綻びを眺めていた。

 その愛らしい顔立ちとは裏腹に、開かれた金色の瞳は物理的な距離を超越し、深淵すらも映し出すような「観測者の目」をしていた。

 

「……見つけたのだ」

 

 呟きと共に、彼女が虚空へ手を伸ばす。

 掌に、浅葱色の光の粒子が渦を巻き、急速に収束していく。

 現れたのは、彼女の背丈ほどもある巨大な弓——『ずんだアロー』。

 それは武器であり、彼女自身の半身であり、彼女という妖精の本体でもある概念武装だ。

 彼女は自身の身体よりも巨大な弓を軽々と構え、光で編まれた弦を引き絞る。

 きりきり、と大気が悲鳴を上げ、周囲の空間が魔力密度の上昇によって歪み始めた。

 

『——ずん子。3割本気のずんだアローの発射要請なのだ。対象は住人から懸念されていた敵神話性組織残党アジト。

詳細情報を圧縮情報で送信するのだ』

 

 彼女の唇は動かない。

 その言葉は、遥か遠く東北にいる主、東北ずん子へと霊的ラインを通じて送られる。

 

『……了解。出力良好、座標固定完了なのだ』

 

 返答にずんだもんは一度、目を細めた。

 その脳裏に浮かぶのは、先日この寮に転がり込んできた、三人の新しい男たちの顔だ。

 忍者、改造人間、怪異ハンター。 それぞれに傷を負い、それでもここでの平穏を求めた、不器用な新しい「家族」たち。

 

『新しく増えた住人さんの平穏のため、一日一善からなのだ』

 

 彼らの安住を妨げるモノは、この寮長が許さない。

 ずんだもんは、すぅ、と深く息を吸い込み、肺腑に満ちた魔力を言霊へと変換する。

 

「ずんだぁ……アロー!!」

 

 弦が弾かれた。

 

ドシュ!!

 

 一瞬にして音速を超えた光の矢が、白い衝撃波のリング——ヴェイパーコーンを置き去りにして、天高く突き抜ける。

 それは成層圏を越え、衛星軌道すら掠め、遥か彼方に蠢こうとしていた「何か」めがけて急加速していった。

 空には、飛行機雲のような、しかし鮮やかな緑色の光の筋が一本、美しく残された。

 

「……ふぅ。今日の仕事は終わりなのだ」

 

 ずんだもんは、手の中で粒子となって霧散する弓を見届けると、着弾を確認することなく何事もなかったかのように踵を返す。

 屋上のドアノブに手をかけ、彼女は「最強の守護者」の顔から、いつもの「可愛いマスコット」の顔へと戻り、賑やかなリビングへと帰っていった。

 

「きーらーりーとー輝く翡翠色ー♪」

 

 屋上でひと仕事を終えたずんだもんは、鼻歌混じりの軽いスキップでリビングへと戻ってきた。

 平和な午後。いつものようにソファで怠惰な昼寝を貪っているであろう、同居人の死神——の皮を被った原初の神を起こすため、彼女は明るい声をかける。

 

「ひまりー、またそんな変な体勢で寝てたら、体がバキバキになっちゃ……」

 

「あだだだだだだ!!!」

 

 その呑気な忠告は、リビングに響き渡る悲鳴によって遮られた。

 ずんだもんの足がピタリと止まる。 目の前で繰り広げられていたのは、神話的恐怖など微塵も感じさせない、純粋な暴力……いや、医療行為であった。

 

「いっ、ぎ、ギブ! ギブギブギブぅ!!」

 

 ソファの上で、冥鳴ひまりが白目を剥いて悶絶している。

 彼女は今、うつ伏せの状態で両腕を後ろに強く引き絞られ、背中の中心に容赦なく男の足裏をねじ込まれるという、完璧な『逆サバ折り』……あるいは拷問技『キャメルクラッチ』の体勢に固められていた。

 

ご、ごり、ばき、メキョ。

 

「ひぎいいいい!!」

 

 背骨から、生物として発してはいけない音が重奏を奏でるたび、ひまりの目から滝のような涙が噴き出す。

 その技をかけているのは、長身痩躯の男だった。

 清潔な白衣を羽織り、一見すれば医師のように見えるその男は、しかし、患者に対する態度とは思えないドスの効いた怒号を浴びせかけていた。

 

「あぁん!? 抵抗すんなてめえ! 背中と全身にそんなでっけえ『病魔』抱えやがって、日頃どんだけ姿勢悪くして寝てやがんだ!! 殺すぞゴラァ!!」

 

「死っ! 死ぬ!! 今あんたに殺されかけてるの! 痛死んじゃうからやめあだだだだ!!」

 

「うるせぇ! 荒療治だ、歯ぁ食い縛れ!!」

 

ボキィ!!

 

「ふぎゃっ!?」

 

 あまりの光景に、ずんだもんはその場に立ち尽くした。

 視覚情報と音声情報が全く噛み合っていない。

 助けるべきか、それともこれは高度なスキンシップなのか。

 困惑した表情を浮かべながら、ずんだもんは恐る恐る声をかけた。

 

「ひ、ひまりー? 何やってるのだ……? 嫌なら、そんな奴『退化』させればいつでも抜け出せるのだ?」

 

 ひまりの正体は『ウボ=サスラ』、寧ろ死神は職業である。

 全ての生命の源であり、触れたものを原初のタンパク質へと還元・退化させる権能を持つ神だ。

 人間ごとき、その気になれば一瞬でアメーバに変えられるはずだが——。

 

「それがっ! こいつ、退化させようにも『退化させる先』がないんですぅ!!

全身から噴出させる血もない、生き物ですらないあだだだあふん」

 

 ひまりは涙と涎で顔をぐしゃぐしゃにしながら叫ぶ。

 

ぽぐっ

 

「あダァッ! 肩! 今肩とれた! 外れた絶対!!」

 

「甘えてんじゃねえ、ハマったんだよ!!」

 

 男がさらに腕を引く。

 その異様な言葉——退化させる先がない——にずんだもんが首を傾げた、その時だった。

 

「ぁあ?」

 

 不機嫌そうに、男がゆっくりと振り返る。 その首から上を見た瞬間、ずんだもんは息を呑んだ。

 そこに「人の顔」はなかった。

 あるのは、鋭利に研ぎ澄まされた、無機質な輝きを放つ『刃物』。

 巨大なメスか、あるいは包丁か。

 その鋭利な金属の平たい面に、直接、目と口がついたような——奇怪極まる造形が、ギラリとずんだもんを睨みつけたのである。

 

 

 

「隕石から作られたメス……ですか?」

 

 はうの問いに、大学の図書室の司書——黒聡鵜月は、手元の分厚い民俗学資料を開きながら静かに頷いた。

 

「ええ。流星刀(りゅうせいとう)という刀がありましてね。

あの病院裏の祠に祀られているものも、元はと言えば宮崎県で鍛造された、その一種だそうです」

 

 鵜月がはめている黒い手袋が、古びた資料のページをめくる。

 カサリ、という乾いた音が、誰もいない放課後の清澄な図書室に響き渡った。

 

「といっても、元になった隕石からは少量しか鉄が取れず、それでなんとか出来上がった刀は武器として振るうにはあまりに小さすぎた。

使い道もなく、ただ『星空から燃えて落ちてきた』という起源の不気味さだけが独り歩きし、妖刀として人々の手を渡り歩いたそうです」

 

「妖刀……」

 

「ですが、それが明治期に日本に渡来し、この街に住んでいたある外国人医師の手に渡ったことで運命が変わりました。

それはその人間離れした切れ味と、錆びない特性に目をつけ、医療用メスとして加工し、重宝したのです」

 

 鵜月の指が、資料にある古い挿絵——奇妙な形状の短刀の絵——をなぞる。

 

「しかし、その名医も志半ばで流行り病に倒れ……主を失ったそのメスは、再び『持ち主を呪う妖刀』として恐れられ、あの祠に厳重に封印されるに至ったとか」

 

「はう……」

 

 その話を聞いて、はうは言いようのない感情に胸を締め付けられ、大きな瞳を揺らがせた。

 道具として生まれたのに、正しく使われることなく、ただ恐怖の対象として閉じ込められる孤独。

 

「まぁ、この国は良いものも怖いものも、とりあえず祀って神様にしてしまう稀有な民族です。

祈ってしまっても、御利益がないわけではないでしょう? そんなに気にするほどのことでもないのでは?」

 

 鵜月は、はうの沈痛な面持ちを見て、慰めるように優しく微笑んだ。

 だが、はうはゆっくりと首を横に振る。

 

「いえ、そうではなく……なんとなく、無念だったろうなって思って」

 

「無念、ですか」

 

「はい。妖刀として人を切ることもなく、かといって医療用メスとして人を救う道も閉ざされた。

その妖刀は、怨念を向ける相手すらいないまま、ただ孤独に恐れられただけ……」

 

 はうは知っている。 宇宙の深淵において、役割を与えられず、理解もされず、ただ「恐怖」として隔離された存在が、どれほど歪で悲しい末路を辿るか。

 そういう存在が、碌なモノになった記録がないという事実を、彼女は種族の記憶として知っていた。

 

(……放っておけないです)

 

 そう思うと、はうは居ても立っても居られなくなり、またあの祠に行かなければならないという使命感に駆られて、すっと席を立ち上がった。

 

「けほ……っ」

 

その時、小さく乾いた咳が、はうの喉から漏れた。

 

「おや、大丈夫ですか?」

 

 鵜月が心配そうに眉を寄せる。 普段のバイオスーツなら、風邪など引くはずもないのだが——。

 

「だ、大丈夫です! ちょっと埃っぽかっただけですから。……私、もう一度ちょっとあの祠に行ってみます。貴重なお話、ありがとうございましたです!」

 

 はうは努めて明るく振る舞い、ぺこりと頭を下げると、図書室を小走りで後にしていく。 その背中を見送りながら、鵜月は再び手元の資料に視線を落とし、その銘——剣崎の字名を読んで目を細めた。

 

「剣でも刀でも、ましてメスでもなく。なんと因果な銘でしょうね。」

 

 

 

「嫌なのだ嫌なのだ! 勘弁してなのだぁ!」

 

 先ほどまで深淵を映していた金色の瞳は、今は見る影もなく涙に濡れ、鼻水を垂らしていた。

 ボイボ寮のロビーには、霊的な擬似物質によって再現された、無機質で冷たい『歯医者の椅子』が鎮座しており、そこに強制的に座らされたずんだもんが、この世の終わりのような絶叫を上げていた。

 

「誰にも言ってなかったろ、あちこちに虫歯と……おぉ? こりゃ乳歯か? ははぁ天使種っつーのは魔法使いと契約するごとに生まれ変わるんだっけか。

乳歯が残ってるとは、こりゃあ診甲斐があるぜぇ」

 

 刃物頭の男——剣崎は、ぐへへと下卑た笑い声を上げながら、手元の霊的物質を凝縮させる。

 キィィン、と高周波で回転する精巧なドリルが生成され、その無慈悲な駆動音がロビーに響き渡った。

 

「うわぁぁん! せめて麻酔! 麻酔かけてからやってなのだぁ!」

 

「甘ったれんな! 患部の痛みこそ生の実感だろうがよぉ!」

 

「ひぃぃぃぃ!」

 

チュイイィィン……!

 

  無慈悲なドリルが、ずんだもんの小さな口へと迫る。その距離、あと数センチ。

 

「——東方守護地鎮、青龍に代わり請願す——疾く、捷く! 律法の如く為せ!」

 

 凛とした詠唱と共に、数枚の銅貨が虚空を走った。

 慣性を無視し、壁と床を幾何学的な軌道で縦横無尽に反射した銅貨が、ドリルの先端を正確に弾き飛ばす。

 

「あぁん?」

 

 剣崎がドリルを弾かれた手に視線を落とす隙を、彼らは見逃さない。

 

『Ultimate Drive! Flare Kick!』

 

「でぇぇりゃっ!」

 

 紅蓮の炎を纏った玄野武宏——GENBUの飛び蹴りが炸裂する。

 しかし、剣崎は避ける素振りすら見せず、自身の頭部である鋭利な『メス』を突き出し、頭突きの要領でその蹴りを受け止めた。

 

ガギィン!!

 

「ぬぅ!」

 

「へっ、ぬるいねぇ!」

 

 鋼鉄と炎が激突し、盛大に火花が散る。

 

「あーちちちぃ……」

 

 その直下。 先ほどの施術(拷問)によって背中の乳酸を残らず破壊され、ロビーの絨毯に力なくうつ伏せに倒れ虚脱していたひまりが、降り注ぐ火花を浴びて力なく悲鳴を上げた。

 もはや彼女に避ける気力も体力も残っていない。

 

「かっってぇ……なんだテメェは、ゲルダゴンの怪人か!?」

 

 武宏がバック転で距離を取りながら叫ぶ。 その一瞬の隙に、風が吹いた。

 

「ずんずん、大丈夫か!?」

 

「はうっ!」

 

 忍び装束に身を包んだ白上虎太郎——ビャッコが、目にも止まらぬ神速で懐に入り込み、拘束を解いてずんだもんを救出していた。

 

「あ、ありがとうなのだぁっ……怖かったのだぁ……」

 

 虎太郎の腕の中で、ずんだもんは涙声で感謝を伝える。

 三人がかりの連携。龍星は、派手に変身して戦う武宏と虎太郎の姿に(いいなぁ、俺もあんな派手なエフェクト欲しいなぁ)と少し羨望を抱きつつも、気を引き締めて刃物頭の男を睨みつけた。

 

「いや武宏、あいつは改造人間じゃねえ。こいつ……かなり高位の怪異だ。神種と見紛う程の純粋な霊的エネルギーを全身から噴き出しやがって!」

 

「ほう、わかるか」

 

 首をコキコキと鳴らしながら、刃物頭の男——剣崎は、宙に無数の擬似物質メスを展開させる。

 その切っ先は、明確に寮生たちへと向けられていた。

 

「応よ、俺様は妖刀『剣崎(けんざき)』。

怨念渦巻くこの世の全てを斬り刻むために蘇った、由緒正しき呪いの刃よ」

 

 剣崎から放たれる殺気に、空気が張り詰める。

 

「憎き人類滅亡の足掛かりとしちゃあ、この寮を支配すんのが一番手っ取り早そうだからな。そう思って来てみたら……どいつもこいつも、あちこちに深刻な病魔抱えた奴らが雁首揃えて来やがって!」

 

 彼はメスをジャラリと鳴らし、ドスの効いた声で宣言した。

 

「お前ら全員、そこに並べ。頭のてっぺんから爪先まで、俺様が完全に健康にしてやらぁ……!!」

 

「「「……」」」

 

 剣崎の熱い咆哮に、ロビーがシンと静まり返る。

 人類滅亡。寮の支配。 その物騒な目的と、「全員健康にする」という手段。

 あまりにも矛盾したその宣言に、敵であるはずの龍星たち、そして被害者であるはずのずんだもんさえもが、間をおいて同時に首を捻った。

 

「「「……んん?」」」

 

 

 

「はぁ……はぁっ……はぁ!」

 

 急がなければ。急がなければ。

 ただ焦燥感だけが、熱でふらふらとよろめく足を無理やり突き動かしていた。

 残りの授業の予定も、あの路地裏の祠の行末も、今の彼女の思考からは抜け落ちている。

 ただ、人間型バイオスーツの予備電脳が視界に投影する、清澄な『霊的痕跡』の赤いラインを辿って、はうはよろよろと歩き続けていた。

 その先にあるのは、彼女の大切な居場所——ボイボ寮。

 

「あっ……う、はぁ、なん、で……ぅあ」

 

 頭がガンガンと割れるように痛い。

 思考が熱に溶かされて朧げになり、視界の端ではバイオスーツの稼働限界を告げる警告表示がけたたましく点滅している。

 それが頭蓋骨に嫌に響いて、不快感を増幅させる。

 本来なら、スーツの生命維持モードを切り替えれば済む話だ。

 だが、今の彼女にはそんな簡単な発想すら湧かないほど、意識が混濁していた。

 

「急がないと、みんな、が……っ」

 

ガクッ。

 

 足がもつれ、受け身をとることもできず、はうは冷たいアスファルトの上に無様に倒れ込んだ。

 

「はぁ……っ、はぁ……」

 

 地面の冷たさが、熱を持った頬に心地よい。

 それが余計に、彼女の意識を闇へと誘う。

 

(ダメだ、眠い……はは、何が影の執刀医だ……)

 

 薄れゆく意識の中で、自嘲が漏れる。

 誰かの命を救いたいと願ったくせに。

 肝心な時に、大切な仲間が危機に瀕しているかもしれない時に、ただの風邪で動けなくなるなんて。

 

(僕は、看護師としても……ダメじゃないか……)

 

 絶望と共に、瞳を閉じようとした……その時だった。

 

「あのぉ、大丈夫ですかぁ?」

 

 鈴を転がしたような、それでいてどこか妖艶さのある甘い声。

 はうの目の前で、白い……髪の毛? らしきものが、ひょこりと揺れた。

 いや、それは髪ではない。なんらかの小動物を思わせる、白くてフワフワとした尻尾のようだ。

 はうがぼんやりと目を開けると、屈み込んだ女性の、服の上からでもわかる豊満な双丘が眼前に迫り、その奥から深く澄んだ「海色」の瞳が、心配そうにこちらを覗き込んでいた。

 

「わ、すごい熱じゃないですか! 君、どこに住んでるか言えますか? すぐ送りますよ?」

 

「ぁぅ……ボイボ、寮……まで……」

 

 息も絶え絶えになりながら、はうは残る力を振り絞って、その住所を白い女性に伝えた。

 すると、彼女はニカっと快活に笑った。

 

「よし、わっかりました! 任せてください!」

 

 力強く答えた女性は、ポケットからポイっと「小さな何か」を路上に投げた。

 カシャン、という乾いた音。

 それは、SFチックな流線型をした、手のひらサイズの飛行機械のプラモデルだった。

 だが——そのプラモに刻まれた五芒星に燃える瞳の紋章がきらりと光った瞬間、空気が震える。

 投げられたプラモデルは、急に物理法則の縮尺を狂わせたかのように巨大化し、一瞬にしてスケートボードほどの大きさへと変貌した。

 その排気口からは、青白い未知の光の粒子が噴き出し、重力を無視してふわりと滞空する。

 

「よいしょっと!」

 

 白い女性は、倒れていたはうを軽々と背負うと、慣れた足取りでその浮遊するボードの上に飛び乗った。

 

「しっかり捕まっててくださいねー! 出力全開、もち子、いっきまーす!」

 

キュイイイイン!

 

  飛行機械のバーニアが爆音を上げ、景色が後方へと置き去りにされる。

 謎の白い女性とはうを乗せた流星は、アスファルトの数センチ上を滑空し、ボイボ寮へと向かって一直線に急加速していった。

 

 

 

 ボイボ寮の二階、まだ誰も住んでいないガランとした空室。

 その一室を貸し切り、簡易的に置かれたパイプ椅子に座る二人は、先ほどまでの殺し合い寸前の張り詰めた雰囲気とは真逆の、奇妙なほど穏やかな会話を交わしていた。

 

「いやぁ助かったぜ。改造手術を受けてから普通の医療機関に世話になったことがなくってよ……。

最近食が細くなってるのは、てっきりエネルギー炉の不調か、異体の拒絶反応かなって怯えてたんだが……まさか、ただの胃潰瘍抱えてたなんてなぁ」

 

 武宏が、自身の腹をさすりながら苦笑する。

 人類を守るヒーローとしての悩みだと思っていたものが、極めて人間臭いストレス性の病だと判明し、その顔には安堵の色が浮かんでいた。

 

「処方箋は出してやれねえから、薬の都合は大家さんとやらに申請するのが手かもな。胃壁が荒れてる、消化のいいもん食って寝ろ。……はい、次ぃ」

 

「おう、ありがとな先生」

 

 剣崎のダミ声による呼び出しと共に、武宏がパイプ椅子から立ち上がり、入れ替わりで部屋に入ってきたのは龍星だった。

 彼は武宏とは対照的に、先の緊張感を崩さず、鋭い眼光で怪異を見据えたまま椅子に座る。

 

「おう、お前さんが最後か。……で、あの天使種(ガキんちょ)の様子はどうだった?」

 

 剣崎が、先ほど治療を終えたずんだもんのことを尋ねる。

 その問いに、龍星は脳裏に焼き付いた光景——世界の守護者たるずんだもんが、歯医者のドリルを前に「びえぇぇ」と涙目で幼児退行していた姿——を思い出し、思わずブフッと噴き出しそうになった。

 だが、彼は必死に口元を手で押さえ、祓魔師としての威厳を保つべく、震える声で応える。

 

「……きょ、恐怖で泣き喚いていたが、結局のところ……治療されて感謝してたよ。 だが、俺はお前を信用していない。用が済んだんだったら、即刻退去するか、俺に退治されてもらおうか」

 

 龍星の敵意に、剣崎は刃物の顔を少し揺らし、鼻で笑った。

 

「用か……。ま、退治されるにしても、診るもんは診てからだ」

 

 剣崎の瞳が、スキャンするように龍星の肉体を舐める。

 

「ふん……確かにお前さんは、この寮で唯一、病魔も何も寄り付かねえ『健康体』そのものだな。つまらねぇ体だ」

 

「健康体はそれそのものが聖域として機能する。師匠にそう教わったからな……」

 

 龍星はわずかに自慢げに胸を張る。不摂生な現代人の中で、彼の肉体は修行によって研ぎ澄まされていた。

 だが、すぐに表情を厳しく戻し、彼は核心を突く。

 

「いい加減答えろ。人類滅亡なんて謳うお前は、間違いなく悪鬼怨霊の類だ。

その妖気は隠せていない。 なのに、何故ここまで人を癒すことに拘る?

俺も怪異の類が全て害悪だなんて言うほど狂っちゃいない。

お前だって、在り方を変えるだけで違う存在の面もできるはずだ。

神として祀られる道だってあったはずだ。 ——何故、人を祟るスタンスを崩さない?」

 

 その問いかけに、剣崎の動きが止まった。

 メスに浮かぶ顔が毛さり、メスの刃面に映る光が鈍く濁る。

 彼の声が、茶化すような色を失い、真剣味を帯びた「道具」としての冷たさを放ち始めた。

 

「……俺自身も、止められねえんだ。祟ることをじゃねえ、人を癒すことを、だ」

 

 剣崎は自分の手——鋭利なメスを生成できる手を見つめる。

 

「俺の『本能』が、目の前の不調を切り除き、癒すことを渇望してきやがる。

道具としてのサガだ。 だがな……俺の『魂』は知っている。人は勝手で、病的で、そして本質的に邪悪だ」

 

 彼が語るのは、遠い明治の記憶。

 

「俺を使ってくれた医者は、例外だった。腕が良く、誰にでも優しかった。

だが、そいつを異人だ、天狗だと、迷信のままに蔑み、石を投げて追い詰めたのは、そいつが救おうとした人間たちだ。

その怪我が原因で免疫が落ち……当時は治せなかった流行り病にかかり、あいつは死んだ」

 

 ギリ、と金属が軋む音がした。

 

「人を救う機能(カラダ)と、人を呪う意思(ココロ)。

俺は人を癒したくてたまらねぇ。だが同時に、あいつを殺した人間という種が憎くてたまらねぇ。 だから俺は、人類を滅ぼすために、人類を健康にする。矛盾してようが、これが俺の意思の問題だ」

 

 剣崎の吐露した言葉は、あまりにも悲痛なジレンマだった。

 救いたいのに、憎い。

 その歪みが、彼を「妖刀」としてこの世に留まらせていたのだ。

 

 二人の間に、なんとも言えない重い沈黙が流れる。

 龍星が、何か言葉をかけようと口を開きかけた、その時だった。

 

バン!!

 

「はぁ、はぁ……!」

 

 どたばたと騒がしい足音と共に、ずんだもんが乱暴にドアを蹴破るようにして開けた。

 

「なんだ、今は問診中だぞ。ノックくらいしやがれ」

 

 住人でもないのにすっかり医者気取りの剣崎が文句を言う。

 だが、ずんだもんの様子は尋常ではなかった。

 先ほどの治療の恐怖とは違う、真に迫った焦燥を浮かべ、彼女は叫んだ。

 

「先生!! 急患なのだ!!」

 

 その背後には、白い髪の女性に背負われ、ぐったりと意識を失った——雨晴はうの姿があった。

 

 

 

「……ぅぅ、ん」

 

 高熱に浮かされながら、はうはうっすらと重い瞼を開けた。 視界が揺らぐ。天井のシミが、アメーバのように蠢いて見える。

 

「ぼくは……ここは、ボイボ寮?」

 

 うわごとのように呟きながら、焦点の定まらない瞳で周囲を見回す。

 ベッドの脇には、水を張った洗面器があり、そこで濡れタオルを絞っている白衣の男がいた。 だが、その首から上は——

 

「まだ、頭ぐらぐらします……。お医者さんの頭が、おっきな刃物に見えますぅ……」

 

「あ? ……ちっ、まだ夢見心地か」

 

 その言葉に気づき、剣崎は舌打ち交じりに、しかし手つきは驚くほど優しく、絞ったばかりの冷たいタオルをはうの額に乗せた。

 

「起きたか。俺の祠に祈ったもんだから、今時の若者にしちゃ殊勝な心がけだと思ってたら……まさか中身が『宇宙人』だとはな。

ま、俺様も3000年は地球の公転軌道を彷徨ってた隕石出身だ。同郷(宇宙)のよしみってやつで、変わりゃしねえが」

 

「……! あなたが、あの祠に祀られてた……」

 

 はうの言葉に、剣崎のメスの刃面にある瞳が、ギラリと光り方を変える。

 

「……見たのか。あの祠の中に、俺と一緒にあった『モン』を」

 

 剣崎の言葉に、はうは目を伏せた。

 あの時、祠の亀裂から漏れ出していた、底知れぬ澱んだ気配。あれは、ただの妖刀の呪いなどではなかったのだ。

 

「とりあえず脱げ。診察する」

 

「んんぅ……」

 

「おい」

 

布の擦れる音と共に、もぞりとパジャマのボタンに手をかけようとしたはうの手を、剣崎がガシッと掴んで制止した。

 

「馬鹿。うわべの服じゃなくて、『バイオスーツ』とやらの方だ。 お前の本体を診せろっつってんだよ」

 

「ふぇ……」

 

 その要求に、はうは顔を茹で上がったカニのように赤くした。 それは彼女にとって、裸を見られる以上に恥ずかしく、そしてショッキングな姿を晒すことを意味する。

 

「で、でも……引きますよ? 怖がりますよ?」

 

「医者が患者の体を見て引いてどうする。……いいから開け」

 

 剣崎の、医師としての覚悟が決まった声音。

 背に腹は変えられない。はうは観念し、震える手で首元の隠しロックを解除した。

 

プシュゥゥゥ……

 

 気密が開放される排気音が響く。

 続いて、カシャン、カシャン、と軽量金属合金の内部骨格がスライドする、無機質で機械的な音が連続した。

 そして——パカリ。 愛らしい少女の顔面パーツが左右に展開し、その内側に収められていた『真の頭部』が露わになる。

 それは、脳髄のような皺を帯びた、ピンク色の菌類体。

 人間という種とは決定的に異なる、進化の系統樹の彼方にある知的生命の姿。

 

「うぉぉ……」

 

 流石の剣崎も、そのあまりの異形さに一瞬たじろぎ、メスの光沢を曇らせた。

 だが、事前の問診の際に、虎太郎から(思い出すのも嫌そうに白目を剥きながら)その形状を聞かされていた彼は、なんとかそのショックを理性でねじ伏せた。

 ちなみに、部屋の隅で心配そうに見守っていた虎太郎は、その光景を見てトラウマがフラッシュバックし、「ヒィッ」と短い悲鳴を上げて再び白目を剥いて気絶していた。

 

「凄ぇな……。だが、これで良く診える」

 

 剣崎は気を取り直し、メス頭に浮かんだ『浄眼(じょうがん)』をキィンと光らせる。

 霊的な視覚によって、彼女の菌糸の一本一本までを透視する。

 そして、見つけた。

 

「——相変わらず、なんて言えばいいかわからねえ色しやがってよぉ」

 

 剣崎の声が震える。 彼の視界に映ったのは、彼女の美しいピンク色の菌糸を蝕む、七色——いや、そんな高尚な美しい色彩ではない。

 例えるなら、絵の具の全ての色を無理やり混ぜ合わせ、そこにヘドロと宇宙の闇を流し込んだような……。

 人類の色彩感覚では認識できず、ただ脳が「不快」と認識するだけの、異次元ベクトルに属する『色彩』。

 

「『星の色彩』……。俺が封じてた隕石の毒が、お前の体に染み込んでやがる」

 

 それは、生物学的ウイルスではない。

 存在そのものが汚染源となる、神話の怪異だった。

 

「……そうか。やっと話が繋がりやがった」

 

 剣崎は、はうの脳髄を蝕む極彩色の輝きを見つめ、ギリリと歯(刃)を鳴らした。

 そもそも、彼は怨念を抱いた妖刀ではあっても、無差別に呪いそのものを振り撒く存在ではなかったのだ。

 地元の伝承には、当時の人間達には理解し得ないが故に記されていなかった——あるいは、恐怖ゆえに破り捨てられた『抜けたページ』が存在していた。

 かつて、この街にも「星」が落ちていたのだ。

 

「あの藪医者……いや、俺の相棒は気づいてたんだ。

当時流行っていた喉を腐らせる奇病、その感染源があの祠にあった隕石だってことにな」

 

 剣崎の脳裏に、セピア色の記憶が蘇る。

 石を投げられ、迫害され、それでもこの地の人間を救おうとした愚直な異人医師。

 彼自身もまた、その「色彩」の毒気に当てられ、迫害によるストレスで免疫を弱らせ、志半ばで血を吐いて倒れた。

 だが、最期の瞬間。 彼は、メスに宿っていた剣崎の意思に呼応し、死に体の体に鞭打って、最後の力を振り絞った。

 彼は信じていた、このメスが持つ妖刀としてではない──人を癒す優しい力を。

 この毒を撒き散らす元凶を断つために。 その切っ先をあの隕石の核へと深々と突き立てたのだ。

 隕石の毒に対抗するには、隕石から生まれた癒しの力を。

 

『これで……もう、誰も病まない……』

 

 それが、彼の遺言だった。

 色彩の脅威は、剣崎という霊的な楔によって物理的に堰き止められた。

 だが、それを見た村人たちはこう解釈したのだ。

 

『恐ろしい妖刀が、聖なる石の力によって封印された』

 

「俺が目覚めた時、あの祠から『色彩』の気配は消えていた。

だからてっきり、俺の毒気で相殺して無力化したもんだと思っていたが……いや、当たり前か」

 

 剣崎は、苦悶の表情を浮かべるピンク色の脳髄——はうを見下ろす。

 

「俺をこの人の形(怪異)として現界させるほどの、人間離れした純粋で強大な『祈りの力』。

——こいつは、枯れ果てた隕石なんかより、遥かに上質なご馳走を宿主に選び、転移してやがったのか……!」

 

ドクンッ!!

 

 剣崎の理解を嘲笑うかのように、はうの脳内で極彩色が不快に脈動した。

 

「ぅ……あっ!?」

 

 はうの菌類体が、電気ショックを受けたかのようにビクリと跳ねる。 異次元の色彩。

 本来、意思など持たないはずの、旧支配者に属する消化吸収性霊子塊。

 しかしそれは今、明確な悪意と食欲を持って、雨晴はうという稀有な宇宙生物の生命力を啜り、数千年の飢えを満たそうとしていた。

 

「こいつ……消化してやがる。この娘の命を、文字通りの『燃料』として!」

 

 ただの病気ではない。 これは、捕食だ。

 

(どうする……!?)

 

 剣崎の視界——浄眼の中で、はうの脳髄を蝕む『色彩』は、毒々しい輝きを増していた。 メスの切っ先が、わずかに震える。

 

(この娘っ子の本体は、いわば体を動かす脳髄そのものだ。

下手に患部を切除すれば、神経系に不可逆の異常が出かねない……。

だが、外科手術以外の対処方法がこいつには存在しねえ。

迷えば迷うほど、こいつは力を取り戻し、周囲に感染していく……判断を、急がねえと!)

 

 焦燥が、剣崎の霊核を焼き焦がす。 その時、部屋の空気が一変した。

 

「……急急如律令!」

 

 短い呪文と共に、数枚の銅貨が部屋の壁四方に張り付き、幾何学的な格子模様の光の波が走った。 空間が隔離され、外気との霊的パスが遮断される。

 

「『深化空間』——結界を張っておいた。無菌室とまではいかないが、周囲への感染は防げるだろう」

 

 部屋に入り込み、印を結んだ青山龍星が告げる。

 

「馬鹿野郎! 感染の恐れがあるから、そこで固まってるちび連れて外出てろ!」

 

 剣崎が怒号を飛ばすが、龍星は動じない。

 その背後では、恐怖で固まっていた虎太郎やずんだもんが、心配そうにこちらを見守っている。

 

「切除を、お願いします……」

 

 はうの声——正確にはバイオスーツの発声ユニットを通さない、テレパシーに近い思念が響いた。

 ふるふると伸びる彼女のピンク色の菌糸が、空中にホログラムモニターを展開する。

 映し出されたのは、彼女たちミ=ゴの全身構造と、その複雑怪奇な神経系を示す高度な解剖図。

 その注釈には、すでに丁寧な日本語への翻訳がなされていた。

 

「僕も、医療従事者の端くれです。これが感染症の類なのはわかっています……。 あなたが本当にかの医者の遺志を継いでいると言うのなら、できる筈です。これが覚醒する前に……僕と、周りの命を……救うことが」

 

 その覚悟に、剣崎は呻いた。

 

「おめえらの方が、何倍も器用だろうに……」

 

 剣崎は、あの冷たい祠の中にいた頃から、霊体を飛ばし、街の大学病院を長い間ずっと見つめていた。

 今、彼が身につけている現代医療の知識はすべて、その間の観察で得たものだ。 そして、そのレンズ越しに見ていたのだ。

 『影の執刀医』であるはうが、人間業ではない速度と精度で、不可能な手術を成功させていく様を。

 ただの天才だと思っていたが、まさか人外の技だったとは。

 だが、その天才(当人)は今、動けない。

 頼りになるのは、自身より遥かに格上の医者を執刀しなければならない、自分自身の腕しかない。

 ため息が出る。 そして、息を整えて、剣崎ははうに尋ねた。

 

「……人間じゃない。いや、文字通りの異邦人(エイリアン)のお前は、俺じゃない……俺を使ってた、その『異人の医者』に共感していたんじゃねえのか?」

 

 異星からの来訪者。

 優れた技術を持ちながら、正体を隠し、人々を救おうとする姿。

 はうが感じた共感は、自分と同じ「よそ者」として迫害され、死んでいったあの医師への同情のように思えた。

 剣崎の問いかけに、はうは表情の見えない菌類の姿のまま、わずかに俯いた。

 

「お前から見て、人類はどう映る。……俺というメスは、どう映る?」

 

 はうは、ゆっくりと顔(脳髄)を上げる。 その言葉は、医師への同情だけではなかった。

 道具として、主を失ってもなお、人を救おうとし、憎もうとして……それでも救うことを選んでしまう、不器用な「彼」がただ一つ信じられたあの医者に彼女はよく似ていたのだ。

 

「……とっても、冷たいこの宇宙で、厚く輝く熱い炎に。 それを一番近くで支える、綺麗な切先に、見えます」

 

(——っ)

 

 剣崎の脳裏に、かつての主の笑顔が重なる。 『君は素晴らしい相棒(メス)だ』と、そう言ってくれたあの男と、目の前の異星の少女が、完全に重なった。

 

「……そうかよ」

 

 剣崎は、覚悟を決めた。

 右手に力を込める。 先ほどから雑に顕現させてきた、霊的な擬似物質とはレベルの違う、高密度の光。

 それは、彼自身の魂そのもの。

 隕鉄から織られた、人智の外にある「本物」の妖刀が、現実世界に結実する。

 

「これより、術式を開始する」

 

 その切っ先には、もはや迷いも、曇りもなかった。

 覚醒を間近に、自らを完全に遮断するより高位の呪いに切り刻まれた異次元からの色彩は、短く弱い断末魔の悲鳴を上げるのだった……。

 

 

 

 ——数日後。

 湯気が立ち込める、油とニンニクの強烈な臭気が支配する店内。

 そこは、可憐な女子大生や、ましてや地球外生命体が足を踏み入れて良い場所ではなかったかもしれない。

 しかし、雨晴はうにとって、そこは聖域であった。

 

「へいっ、ニンニク多めアブラマシマシカラメ倍ラーメンお待ちぃ!」

 

 ドンッ!とカウンターに置かれたのは、もはや食事というよりは地殻変動によって隆起した狂気的な山脈のような、冒涜的なカロリーの塊だった。

 

「はうぅ〜……っ!」

 

 はうは、その黄白色に輝く背脂の頂を見上げ、瞳をキラキラと輝かせて歓喜の声を上げた。

 まるで恋人に再会したかのような、あるいは未知のウイルス検体を発見した時のような、純粋無垢な熱視線。

 その隣で、一応「並盛り」を頼んだものの、それでも洗面器のような丼を前にして戦慄している冥鳴ひまりが、ドン引きした顔で尋ねる。

 

「……病み上がりによく食えますね、そんなの。あなたの種族って、もっとカロリー計算とかエネルギー摂取の合理性とか、そういうのを気にする連中じゃありませんでしたっけ?」

 

 ひまりの指摘はもっともだ。

 ミ=ゴは感情よりも論理を優先する冷徹な種族であるはずだった。

 しかし、彼女は箸を割りながら、紅潮した頬で力説する。

 

「別腹です! 正確には……ずるるっ、はぁっ……!」

 

 彼女は勢いよく、極太のワシワシ麺を啜り上げた。

 

「この脳髄(本体)にパチパチスパークする塩味とコレステロールの暴力が、堪らないんですぅぅ……っ!」

 

 実際、この瞬間、彼女の視界には真っ赤な警告ウィンドウが嵐のようにポップアップしていた。

 

『警告:塩分摂取量が致死レベルに接近』

 

『警告:脂質過多。循環器系バイオスーツへの深刻な負荷を検知』

 

『推奨:直ちに摂取を中止し、胃洗浄を——』

 

 彼女のバイオスーツに搭載された高度な演算能力を持つ予備電脳は、この食事が自殺行為であることを論理的に弾き出している。

 だが、はうは心の中で舌打ちを一つつくと、思考操作でコマンドを叩いた。

 

『聴覚アラート、ミュート』

 

『視覚アラート、全非表示』

 

『リミッター解除。消化器官オーバードライブ』

 

 もう、はうの身体はミ=ゴの技術の結晶たる人型バイオスーツではない 。

 今この瞬間、彼女の全機能は、ただひたすらにこの二郎系ラーメンを、一滴の汁も残さず分解・吸収するためだけの器官と化していた。

 

「新歓コンパの二次会に連れてかれてこの刺激を知ってから、もう虜なんです……。

不条理と不都合、そして寿命の前借りを対価に快楽を得る……これこそ、地球人類の熱き文化の極みだと思ってますよ僕はぁ!」

 

「し、深淵ねぇ……」

 

 ひまりが若干引いている間にも、はうの箸は止まらない。

 天地返しによって露わになった麺の山が、見る間に彼女の小さな唇の奥へと吸い込まれていく。

 

 

「やってんねぇ、はーさん」

 

 ガララ、と引き戸を開け、特徴的な愛称をはうに投げかけながら暖簾をくぐってきたのは、長身の男だった。

 その首から上にあるのは、それまでの鋭利なメスではない。

 人間社会に溶け込むために特別に鍛造された、やけに整った容姿の『人間型ヘッド』。

 あくまで刃物を収めるための「鞘」であるはずなのだが、どういう理屈か、その表情筋は滑らかに動き、瞬きもし、彼の言葉に合わせて口も動く。

 物理的構造はどうなっているのか? 視神経は繋がっているのか?

 否。そもそも付喪神に、物理的整合性を問うこと自体がナンセンスなのだ。

彼は慣れた様子ではうの隣に座ると、カウンターの奥へ声をかけた。

 

「大将、めまりちゃんと同じやつ一つ」

 

 剣崎はカウンターに片肘をついてニヒルに笑った。

 

「メスオジまで揃って、揃いも揃って医者の不養生ですか?」

 

「オジじゃねえ、これでも生まれたてだ」

 

 ひまりの「メスオジ」という不名誉な呼び名に注釈を入れつつ、剣崎は楽しげに肩を揺らした。

 

「いいじゃねえか。医者が相互的に診療し合って、共倒れでいっぱいいっぱいになりゃあ、俺の悲願である『人類滅亡の夢』も近づくってもんだ」

 

「あら、まだそんなこと言ってるの? 『剣崎雌雄(けんざき めすお)』なんて戸籍名までつけたもんだから、もう人間社会に溶け込む気満々だと思ってたんだけど」

 

「怨霊であることを止める気もねえからな。形(スタンス)が変わっただけよ」

 

 そう語る彼の姿勢と表情には、復活したばかりの頃、自身の存在矛盾を叫んでいた悲壮感はない。

 憑き物が落ちたような、どこか晴れやかな爽やかさが漂っていた。

 

「良いじゃねえの、怨霊の医者。ボイボ寮の専属医師らしい、イカした肩書きじゃねえか」

 

 ひまりが呆れ混じりに認める。

 すると、どんぶり顔負けの背脂の山を崩し終えたはうが、スープで濡れた唇を拭いながら参戦した。

 

「そうですよぉ。剣崎さんがたまに大学病院で代わって執刀してくれるから、僕も看護の勉強に集中できますし……うぃんうぃんです!」

 

「医療チームのゲンキンな姿勢だこと……」

 

 ひまりは深々とため息をついた。

 目の前には、食欲の限界を迎えた「並盛り」のラーメンが半分残っている。

 彼女は無言で丼を持ち上げると、ズルズルと横へスライドさせ、剣崎の前にドンッ!と置いた。

 

「……着任祝い、ってことで」

 

「おう、気が利くじゃねえか」

 

 人類への呪いを撒き散らすはずだった妖刀は、ひまりの残りと目の前に出されたラーメンを美味そうに啜り始めた。

 湯気の向こう、奇妙な連帯感が生まれた夜。 ボイボ寮の医療事情は、こうして物理的にもカロリー的にも盤石なものとなったのであった。

 

 

 

 

 

 

 一方その頃。 太平洋のド真ん中、照りつける太陽の下で。

 世界征服の野望を胸に秘めた悪の組織『ゲルダゴン』の残党員たちは、小型クルーザーの上で絶句していた。

 彼らは、本部が壊滅した後の窮状を凌ぐため、なけなしの活動資金を握りしめ、近隣諸国のスーパーマーケットへ「特売の卵」や「業務用マヨネーズ」の買い出しに出かけていた戦闘員たちだった。

 重いレジ袋を提げ、希望と生活必需品を持って帰還した彼らを待っていたのは——

 

「……おい、ナビ壊れてんじゃねえか?」

 

「いえ、座標は合ってます。ここが我らが聖地、ダゴン様を祀る孤島神殿のはずです」

 

 ない。

 地図にない島が、物理的にもなくなっていた。

 

 代わりにそこにあったのは、島一つ分の質量をまるごとすり潰したような、緑色のペースト状の泥塊。

 それが陸地の代わりに海水に浸され、デロリと粘着質な波を打っている。

 赤道直下の容赦ない日差しがその緑の山を温め、周囲一帯には、茹で過ぎて腐りかけた枝豆の強烈な腐臭が充満していた。

 

「うぷっ……なんだこの、スイートでマッドな吐き気のする匂いは……」

 

 戦闘員の一人が鼻をつまむ。

 そして、その緑の沼——かつて島だったもの——の中心に、一本だけ奇跡的に残った看板を発見した。

 彼らはボートを近づける。

 そこには、彼らダゴンの信徒にしか読めない神聖文字で、あまりにも事務的な連絡事項が記されていた。

 

『通達: あまりにもおっかない攻撃を受けたため、当組織は解散し、世界統合防衛機構へ帰属することと致しました。

なお、我らが崇める大首領ダゴン様におかれましても、より高位の外なる神格ウボ=サスラより直々に「要らぬ風評被害を受けた」と説教とお叱りを受けていたらしく

「あ、もう無理だわこれ」とのことで、この解散を快くお許しくださいました。

残された職員におかれましては、

離職手続き

世界統合防衛機構メタトロン・キューブへの再就職手続き

上記支援を行いますので、以下の電話番号へ各員連絡をお願いします。

 

——ゲルダゴン臨時総帥より』

 

「「「……」」」

 

 波の音だけが、チャプチャプと響く。

 戦闘員たちは顔を見合わせ、手にしたレジ袋の重みを改めて感じながら、ただただ困惑するしかなかった。

 

「……とりあえず、電話するか」

 

「そうだな。再就職支援、あるらしいしな」

 

 悪の野望は、圧倒的な『日常』の前に、あまりにもあっけなくそして健康的に潰えたのであった。

 ちなみに世界統合防衛局とは、メタトロン・キューブにて大家さんが所属するこの世界の防衛機構の名称であった。

 

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