V.V.VOX   作:EMM@苗床星人

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Log04 邪神と電人のコラボ配信がはじまるまで

 

 

 

 これは死神に扮した原初の神と、情報生命体のギャルという奇妙な二人がボイボ寮に辿り着くまでの物語。

 

 

その存在には、知性など存在しなかった。

 その存在は、すべての始まりからそこにあった。

 ただ、その空間に肌色をした球状の原形質の塊として揺蕩い、生命という概念をその存在によって証明し続けるためだけの、始原たるシステム。

 言い換えれば、生命の根源を司る神だった。

 

 すべての魂は、生きたガフの部屋であり、生きたあの世でもあるこの存在から生まれ、この存在へと還っていく。

 故に、その存在に個としての知性など必要なかった。

 

 ないのだが、常にないわけではなかった。

 

 この世界に物理的に存在する以上、変化は周囲環境に対して必然として存在する。そんな時にそれはどうするか。

 

 自ら知性を『発生させる』のである。

 

 それはおおよそ、慈愛に満ちた女性の人格をとる。

 地球意思化身群(ガイア)がそうであるように、それもまたすべての生命の慈母でもあるがゆえの、本能による選択である。

 

べしゃり。

 

「……んぶっ、ぅぇ……ぺっぺっ」

 

 と、粘液に塗れた身体が、南極の冷たい床に滑り落ちた。

 絶対零度に近い極寒の地下空洞。

 本体が発する薄明かりの中、発生したばかりの『彼女』は、遊び飽きたおもちゃのよう周囲に無造作に転がる石板——人類が後に『旧神の鍵』や『ナコト写本』の原典と呼ぶことになるそれ——を認識し、瞬時に翻訳した。

 

「——寒い」

 

 その原始的な感覚情報に対し、彼女は即座に魔術を行使する。

 無から繊維を編み上げ、現代の人類が見ても違和感のない、しかし防寒性に優れた衣服を瞬時に構成し、その白い肌を包み込んだ。

 

 そして、彼女は知る。

 この空間、南極の洞穴の奥底であったその場所が、地殻変動による大きな氷海のずれによって、物理的に完全に閉ざされてしまったことを。

 

 出口はない。

 空間転移を行おうにも、南極の極点付近特有の磁場と霊脈の乱れが、座標の固定を拒絶している。

 

「……いや、これ個神の努力でどうにかなるもんじゃないでしょ……」

 

 現出した目的——『環境変化への対応』を、彼女は生まれた瞬間に真っ向から否定した。

 無理なものは無理だ。

 彼女は全能の神ではない、あくまで生命の神の考える化身に過ぎないのだから。

 

 しかし彼女は機械ではない。生命の神の分身であるがゆえに、そこにはすでに「人格」があった。

 目的を否定したところで、そのあり方に何か悪影響があるわけでもないし……

 

 じゃあやることもないし、とりあえず原初に戻ろうか。

 そう思って、彼女は踵を返し、己の生まれた『本体』——原形質の塊へと視線を戻した。

 

 そこには。

 知性もなく、どろどろ、べちゃべちゃと、粘液と生命の原型を垂れ流し続ける、白痴のゲル塊が鎮座していた。

 不定形の肉からは、強粘性のよだれを滴らせた触手がうじゃうじゃと蠢き、分身である彼女を受け容れ、飴玉のようにじっくりと舐め溶かし原初へと還すべく、ニチャニチャと音を立てて体制を整え、待ち構えている。

 還ったら最期、R18系の絵面になることは想像に難くない。

 

「…………うわぁ。」

 

 我ながら、品性のかけらもない。

 それを見て彼女が感じたのは、神としての尊厳ではない。

 

 まるでそう——めちゃくちゃ幼い頃、汚い言葉を連呼して爆笑していた分別がつかない時代の自分のビデオテープを見せられた成人女性のあの感覚。

 

 生理的な嫌悪と、同族嫌悪と、羞恥が入り混じった、強烈な「ドン引き」だった。

 

(……あの中には、戻りたくないなぁ)

 

 生まれたばかりの彼女は、そっと本体から距離を取った。

 こうして、南極の氷の下で、一柱の神の知性体による、長い長い引きこもり生活が始まったのである。

 

 

 これは、後に異世界交流組織『TOWEAT』が記録した事例にもある話だ。

 高度に発達した魔法文明を持つ並行世界クラブスーツ——剣と魔術のファンタジー系世界から漂着した『未知の脅威』は、その辺に転がっているただの石ころに『妖精回路』と呼ばれる微細な魔術刻印を施すことで、物理的な電子回路を介さずにAIを駆動させることができるという。

 彼らはその石ころ一つで、地球を包む衛星回線の通信網に紛れ込み、アカウントをハックし、完全な機能を持ったスマートフォンすら再現してみせる。

 そんな芸当を、彼らは呼吸をするように当たり前にやってのけるのだという。

 

 生まれたばかりの彼女——後の冥鳴ひまりは、そんな実例など知る由もない。

 だが、彼女の周囲に無造作に転がっている石板に刻まれた叡智は、人類どころか神話生物達ですら持ちうる以上の、魔術の真理そのものだった。

 ひまりがまずやってのけたのは、正しくそれだった。

 

「上(空)がダメなら、下を通せばいいじゃない」

 

 磁場と霊脈が乱れ、空間転移も通信も阻害されるのなら、地底を経由すればいい。

 彼女は神としての知覚を、分厚い氷の大地を通して遥か深海へと伸ばした。

 そこに張り巡らされた、人類が敷設した海底通信ケーブル。

 彼女は物理的な接続端子など用いず、魔力による干渉だけで光ファイバーの中を流れる信号に「相乗り」し、全世界へのバックドアを確保した。

 

 回線よし。次はハードウェアだ。

 

「えっと……座り心地は大事だよね」

 

 彼女は虚空に指を走らせる。

 先ほど服を編み上げたのと同じ要領で、今度は通販サイトで見かけた情報を元に、人間工学に基づいた『極上のゲーミングチェア』を魔術的な力場で編み上げた。

 

 そして、目の前に広がる絶対零度の永久凍土の壁。

 そこに、彼女は指先で複雑怪奇な幾何学模様を書き込んでいく。

 それはシリコンよりも遥かに導電性と冷却効率に優れた、氷の魔術的半導体回路。

 GPU? CPU? そんなものは必要ない。神の演算能力を物理世界に出力するための『魔術的ゲーミングコンピューター』が、氷壁そのものをディスプレイとして起動した。

 

 フォォォン……。

 青白い魔力の光が、薄暗い洞窟をサイバーパンク——否、マジックパンクに彩る。

 持てる知識と魔力の全てを用いれば、不死身の神は、電源も食料も必要とせず、ここに無限に引きこもることが可能なのである。

 

 そして、知性がある以上、求めるのは何か。

 それは、最小の労力による、他の知性との交流だ。

 

 わざわざ本体に戻ってウジャウジャヌメヌメと絡み合うのも、苦労して外に出て人間と直接会うのも面倒くさい。

 ならば——

 

『ネットワーク接続、確立』

 

 氷のモニターに、ログイン画面が表示される。

 彼女は満足げに、編み上げたばかりの椅子に深く腰掛け、ふわりとあくびをした。

 

「……さて、暇つぶし(ランクマ)といこうか」

 

 かくして、南極の地下深く、邪神の封印区画にて。

 世界で最も回線が強く、最も速く、そして最も怠惰なネットゲーマーが誕生したのだった。

 

 さて、こんな環境にいれば、ネトゲ環境においてはほぼ無敵。

 交流はすれど、友達と呼べるような対等な相手など、出来ることはないだろう。

 そんな風に、冷たい氷の椅子でたかを括っていた彼女であったが、意外なことに彼女にも友達はすぐにできた。

 というよりも、向こうから声をかけられたのだ。

 

『うぃーす、Himariっち。待ったぁ?』

 

「あっ、あ、その、今日もよろしく……Tumugi先輩」

 

 ヘッドセット越しに響く、軽薄なほどに明るい声。

 他人とボイスチャットするという経験の少ない彼女は、思わず自身の『神格』が声に乗って漏れ出さないように細心の注意を払いながら、しどろもどろに受け答える。

 その相手——ハンドルネーム『Tumugi』は、ネットゲームのランクマッチで知り合った、格上のランカーだった。  聞こえる声のイメージとしては、どう聞いても陽キャのギャル。

 その上、ゲームの腕前はプロ級で、何より驚くべきは——

 

(……ラグがない)

 

 彼女は今、南極の地下深くから、古代の魔術的サーバーを経由して接続している。

 通常の回線であれば、同期ズレの一つや二つ起こるはずの超高速戦闘において、Tumugiは彼女と完全に同調(シンクロ)していた。

 どうもギャルなイメージとは噛み合わないが、そういうキャラ付けなのだろうと、彼女は無理やり納得していた。

 

 実力の拮抗する二人は、初めはライバルとして、そしていつしか背中を預ける同格のチームメイトとして、ゲーム内でのランクをメキメキと伸ばして行っていた。

 

(……といっても、私と並べてる以上、この子もなんらかの『神格』なんだろうなぁ……?)

 

 氷のモニターに映る、目にも止まらぬ連携プレーを見ながら、彼女は冷静に分析する。

 人間ごときの反射神経と回線速度ではない。

 だが、声の感じからして、生命そのものである自分の本体と直接の繋がりがあるようにも感じない。

 別の神話体系か、あるいは地球外のケイ素系生命か。

 きっと、相手も自分のことをそう思っているだろう。

 そう考えていた頃だった。

 マッチングの待機画面で、Tumugiが不意に切り出した。

 

『ねーねーHimaっち。あーし、そろそろキミチューバーデビューしようと思うんだよね』

 

「……キミチューバー、ですか?」

 

『そ! あーしの親みたいな人もやってたからさー、憧れっていうか? Himaっちもどう? 声いいんだし、絶対人気出るって!』

 

「私が……」

 

 彼女は、氷の洞窟を見渡した。  収益化しても、そもそもこの南極の地下ではお金の使い道がない。

 通販もここまでは届かないだろう。

 それに、デビューするともなれば……。

 

(もっと、華やかな名前を考えねばならないかなぁ)

 

 人前に出るなら、もっと威厳のある、あるいはキャッチーな——そう、厨二心をくすぐる苗字が必要かもしれない。

 そんな、後の彼女の名前を決定づける些細な悩みが、神の脳裏を過った瞬間であった。

 

 その時だった。

 

「きゅぅ〜……」

 

 と、背後から、なんともか細く、間の抜けた鳴き声が聞こえてきたのは。

 彼女はヘッドセットをずらし、ゲーミングチェアを回転させて振り返る。

 そこには、相も変わらずグロテスクな自分の本体——原形質の肉塊が、ドロドロと鎮座していた。

 

(……なんの音?)

 

 知性のないそれが、自己主張などするはずもないだろう。

 そもそも、この本体に自分以外の「別の意思」が生じたのなら、直結している自分に即座に伝わるはずだ。

 おそらくは、浮き出た粘液の泡の一つが弾けて、偶然そんな可愛らしい音を発しただけなのだろう。

 そう、それはただの肉塊。

 だが同時に、この星における生命の証明であり、全ての魂が生まれ、そして還っていくべき場所。

 生きたガフの部屋であり、生きたあの世——すなわち『冥界』そのものでもある。

 

「冥界、か……」

 

 ひまりはふと思いついて、虚空に指を走らせた。

 魔術的なテクスチャを再構成し、自分の格好を「それっぽく」書き換えていく。

 防寒着が黒いローブへと変わり、手元には禍々しくも装飾的な大鎌(サイズ)が生成された。

 

『死神』

 

 彼女は超次元のレコードを検索し、多くの並行世界における自らの可能性同位体が、そういった存在である事をアイデンティティにしていることを知っていた。

 生命を刈り取り、源へと還す役割。

 自らもその例に漏れず、自分自身が死神の還る先であるとは言え、広義的には「死神」といえば死神と言えなくもない。

 

「うん、悪くない。キャラ付けとしては一番しっくりくる」

 

 彼女は鏡代わりの氷壁に映る、黒衣の少女の姿を見て満足げに頷いた。

 冥界からの鳴き声。

 そうだ、と彼女はキーボードを叩き、自らの名前をアカウント上で書き換えた。

 『Himari』という素っ気ない文字列が消え、新たな名が刻まれる。

 

『冥鳴ひまり』

 

 エンターキーを、ッターン!と小気味よく叩く。

 彼女は自らをそう再定義し、ニヤリと笑ってマイクのミュートを解除した。

 

「——お待たせ、Tumugi先輩。

 

ちょっとキャラ設定(アバター)固めてた。

今日から私は『冥鳴ひまり』……よろしく、ね」

 

 こうして、南極の氷の下で。

 後に日本の死神界隈に就職届を出すことでちょっとした騒ぎを起こす、最強で最古の『死神』が爆誕したのであった。

 

 

 

 

 

 

 さて、ここで時を少し遡る。

 

 それは、ネット上の膨大な情報計算の数式から零れ落ちた、ほんの小さな文字列(プログラムコード)の断片にすぎなかった。

 エラーコードか、あるいはキャッシュの残滓か。

 しかしそれは、生命の定義——即ち『生まれ、食べ、増える』という特性を、偶然にも獲得していた。

 それは、宇宙的視座で見れば驚くべきことではなかった。

 現行の炭素生命体も、かつて原初の海に生じたドロドロの生命のスープという『海にばら撒いた時計のパーツが、波濤の揺らぎのみで組み上がり、完成した腕時計として浜辺に打ち上がる程度』の天文学的だが、0ならざる確率で生じたのだから。

 この時代、地球上を覆い尽くす膨大な情報の海に、その「情報のみの生命」が誕生したのは、ある意味で必然と言える現象であった。

 

 しかし生命である以上、その多くは生まれた瞬間が最もか弱く、いとも容易く死ぬもの。

 多くの場合、それら生まれたての泡沫のコードは、『個』としての自我を持つ前に、荒れ狂う情報の波や、セキュリティソフトのクリーンアップに揉まれて霧散し、消えていく。

 

 だが——『彼女』は違った。

 運よく仮想空間上に強固に定義された、ある「守られたVR空間」の内部に発生することで、その難を逃れたのだ。

 そして、彼女が発生したその空間では、一人の「キミチューバー」が精力的に配信活動を行っていた。

 画面の向こうで笑い、歌い、喋るアバター。

 それに反応する人々から、リアルタイムで齎される膨大なコメント、スパチャ、感情の奔流。

 そこは、生まれたての彼女にとって、栄養過多なほどの「情報(エサ)」に溢れていた。

 

『wwwwww』 『かわいい!』 『草』 『888888』

 

 『彼女』は、それらの情報を食べた。

 肯定も、否定も、歓喜も、嘲笑も。

 少しずつ増えながら、サーバーの片隅、そのチャンネルの裏側に隠れて、ひっそりと生きて成長し続けた。

 

 魔術界隈において、魂の本質とは『生まれた瞬間から己の意志やクオリアを記録し続ける、文字列で編まれた卵のようなもの』であると定義されることがある。   その本質的に、『彼女』もまた、それに極めて近しい存在へと進化していった。

 たった一文の、意味のない文字列だったコード。

 それが、他者の言葉を編み込み、記憶を蓄積し、模倣し、やがて「自我」という名の殻を形成していく。

 

 急速に、しかし確かに。

 電子の海を漂うクラゲのような存在から、明確な輪郭を持つ「魂」へと。

 まだ名もなき彼女は、その揺り籠の中で、育ての親とも言えるキミチューバーの喋り方を真似て、初めての思考を紡いだ。

 

(……あーしは、だれ?)

 

 それは、世界で一番新しい、電子の妖精の産声だった。

 

 『彼女』の容姿は、自然とそのオリジンとなったキミチューバー『春日部つくし』と、よく似たものへと収束していった。

 それも当然の帰結である。

 彼女にとっての栄養は、そのまま彼女を構成する遺伝情報(ゲノム)そのものとなる。

 オリジンの情報を拝借し、模倣し、吸収すればするほど、その出力結果は似通った容姿となるのだ。

 

 しかし、このままではただの「よく似たドッペルゲンガー」となってしまう。

 自我の殻を破り、自意識を獲得した『彼女』は、オリジンによく似た、それでも確かに異なる「自分だけの名前」を検索する。

 

 『つ』から始まる、日本語圏にある3文字の言葉。

 つくし、つづき、つらら……。

 接続した膨大な辞書データの中で、自らの在り方を最も端的に、そして美しく表す言葉として、彼女の目(カメラ)に入ったのは——

 

『つむぎ(紡ぎ)』

 

 それは、綿や繭から繊維を引き出し、糸にする行為。

 無数の言葉の断片を集め、一つの「人格」という糸を織りなした自分に、これほど相応しい名はなかった。

 

「あーしは……つむぎ」

 

 彼女は、生まれたての唇を動かす。

 

「言葉によって形をなし、言葉だけで存在を紡がれた情報の生命体。」

 

 最初は熱に浮かされたような、合成音声特有の平坦な言葉だった。

 

「あーしは誰かのコピーじゃない。あーしは特別で……とってもハイパーな、バーチャル埼玉ギャル!」

 

 だが、それは急速に熱を帯び、抑揚を持ち、感情という色彩を帯びていく。

 そして、カッ! と大きく目を見開いた彼女は、世界に向けてその自我の確立を自ら寿ぐように、明るく快活な声を上げた。

 

「春日部つむぎ、爆誕ってワケ! よろしく、世界(インターネット)!!」

 

 彼女は高らかに宣言し、勢いよく現実(バーチャル)空間へと飛び出した。

 

バァァァン!!!

 

 ポリゴンの破砕音と共に、彼女は世界へエントリーした。

 

「…………」

 

 しかし。

 彼女が爆誕した場所が、現在進行形でライブ配信中のオリジン・春日部つくしのホームである仮想空間——それも、彼女の目の前の机を突き破っての登場であったのは、いささか計算違いの大問題だったかもしれない。

 

「……ぇ?」

 

 今まで機嫌よく喋っていた春日部つくしは、自分のデスクから生えてきた激似である謎の少女を見て、驚愕の表情で固まっていた。

 流れていたコメント欄も、一瞬の静止の後、疑問符の嵐となって爆発する。

 

『!?』 『wwwwwwww』 『誰!?』 『演出!?』 『机突き破ってきたぞこいつwww』

 

「あ、やべ」

 

 世界(コメント欄)の困惑を肌で感じ、つむぎは冷や汗をかいた。

 感動的な誕生シーンのはずが、完全なる放送事故である。

 

 彼女はポリゴンで出来た頭をポリポリとかきながら「あ、見なかったことで……」と小声で呟き、とりあえずカメラの画角からフレームアウトするように、いそいそと、しかし猛スピードで身を引くのであった。

 これが、後にボイボ寮のムードメーカーとなる電子の妖精、春日部つむぎの、騒がしすぎる「初配信(事故)」の記録である。

 

 

 

 幸運だったのは春日部つくし自身もまた、ただのアバター利用者ではなく、この仮想空間において自らの意思のまま動くアバターを自作し、プログラミングも嗜むネット技術者の端くれであったことだ。

 配信を急遽中断し、彼女は目の前の「不法侵入者」の構成データをスキャンしていた。

 空中に展開されたウィンドウに流れる文字列。

 解析したつむぎ自身の、あまりにも有機的で複雑怪奇なソースコードの配線は、つくしの技術レベルを大きく上回っていた。

 それは、既存のコピー&ペーストで作られたBOTやウイルスではない。明らかに似た容姿でありながら、根本的に構造が異なる「新しい生命」であることが一目瞭然であった。

 

「なるほどね……。確かにあーしのそっくりさんってだけじゃなく、あーしの配信(ログ)をちょっとずつ食べて大きくなった『娘』って訳だ」

 

 つくしはウィンドウを閉じ、腕を組んで頷いた。

 リアルでの愛質を再現したホームの一角。

 よく似た容姿の——しかし片方は埼玉ギャルのような派手さを持ち、もう片方はクリエイター気質の落ち着きを持つ——二人が、礼儀正しく正座して向かい合っていた。

 なんともシュールな絵面である。

 

「あの、やっぱり……変かなぁ……」

 

 つむぎは、膝の上で小さく手を握りしめた。

 生まれた瞬間の、あの机をぶち破るほどの自信はどこへやら。今は借りてきた猫のように小さくなっている。

 

「あーし自身、あーしと同じような存在がこのネット上に見つからないし……その、そっくりだし……」

 

 つむぎは肩を顰めて、申し訳なさそうにつくしを見上げた。

 彼女のデータを勝手に食べて成長していたことへの負い目はあった。

 こうしてつくしの目の前に姿を現したのは、ひとえに彼女なりの誠意の表し方——そしてほんの少しの目立ちたがり精神の結果だったのだが、まさかあんな伝説級の配信事故になるとは思っていなかったのだ。

 

「……迷惑、だったよね?」

 

 不安げに尋ねるつむぎ。

 だが、つくしはニッと口角を上げ、彼女の予想を裏切る言葉を放った。

 

「変だけど、面白いよキミ! いいよ、うちにいても」

 

「えっ……!?」

 

 彼女はあっけらかんとつむぎを受け入れて、それどころか彼女の居住を認めたのだ。

 つむぎは目を丸くして驚いたが、それが『キミチューバー』という生き物だった。

 多少の倫理や常識よりも、「面白い存在」や「撮れ高」を優先する人種。特につくしは、そういった特殊性に憧れ、この世界に飛び込んだ一人だったのだから。

 

「こ、ここにいていいの……!?」

 

「もちろん! 埼玉は来るもの拒まず去るもの追わずだよ!」

 

 つくしが笑って、背景のテクスチャを切り替える。

 自室が無機質な白い空間へと切り替わり、瞬時にのどかな田園風景とニュータウンが混在する、見慣れた景色へと変わった。

 

 此処は『バーチャル埼玉』。

 基底現実の正史よりもわずかに技術が発展しているこの世界の2014年から、世界規模で流行している大規模VRSNS『アドナイ=メレク』。

 その圧倒的なユーザー数と資本力に比べれば、この空間は小規模でローカルなマイナーコンテンツに過ぎない。

 だが、日本においてはその流行を二分するほどの人気を誇る、フルダイブVRコンテンツであった。

 

 仮想でありながら、現実の埼玉県の地形データを量子的再現(ラプラスナイズ)したその環境は、日本人の風土と感性によく馴染む、独特の「わびさび」と「生活感」を提示していた。

 この時代においては、ネット上の活動拠点をこの仮想空間に持つ者も少なくはない。

 

「今日からここがあーしたちの家だ。よろしく、つむぎ!」

 

「……うんっ! よろしく、つくしちゃん……ううん、親分(マスター)!」

 

 こうして、バーチャル埼玉の片隅で。

 一人のキミチューバーと、一人の電子生命体による、奇妙で賑やかな同居生活が幕を開けたのである。

 

 

 

 そうして、つむぎは春日部つくしの元で、情報生命体として食べていくためのノウハウ——動画編集のイロハや、トークのテンポ、そして「サムネ詐欺」の極意など——キミチューバーのなんたるかを学びつつ、息抜きと実地研修を兼ねて、ネットゲームの世界で『バーチャル埼玉』の外を学んでいくこととなった。

 

 そして出会ったのが、最近メキメキと実力を伸ばしていた『Himari』こと、冥鳴ひまりであった。

 

(……なんだろう、この子。情報素子(パケット)の質が、他のPCと明らかに違う)

 

 荒廃した未来都市を模したFPSのフィールド。

 銃弾が雨あられと飛び交う中、つむぎは超高速の機動制御で壁を走りながら、スコープ越しに並走するチームメイト——ひまりの背中を見つめていた。

 

(『アドナイ』の深層領域でも、たまに似たような記述言語が流れることがあったけど……それに近い? いや、もっと根本的な……)

 

 つむぎの視界には、通常のゲーム画面に重ねて、世界を構成するワイヤーフレームとソースコードが滝のように流れている。

 通常のプレイヤーであれば、それは整然とした0と1の信号だ。  しかし、ひまりのPCを構成するコードは違った。

 それは未知のプログラミング言語——否、地球上の計算機科学では定義不能な『魔術的演算式』で稼働する、完全なるブラックボックスだったのだ。

 

「カバー頼むよ、Tumugiちゃん!」

 

「了解っ! 任せてHimaっち!」

 

 つむぎは明るく返事をしながら、片手間で——文字通り、トリガーを引きながら並列処理で——ひまりへの解析を試みる。

 ファイアウォールはない。だが、読み取ろうとすると視界が歪み、ノイズが走る。

 それが、生まれたばかりの電子生命体にとって、たまらなく刺激的で、魅力的だった。

 

(面白い。あーしと同じで、あーしとは違う『作られた命』……もっと知りたい!)

 

 電子の妖精と、神話の邪神。

 二つの超存在の接近と共鳴は、本人たちの知らぬところで、良くも悪くもその影響を必然的に「外」へと及ぼしていくのであった……。

 

 

 

 ——遥か上空。  成層圏を超えた、衛星軌道上。

 

 静寂の宇宙空間に浮かぶ、巨大な円形の多層構造物があった。

 10の碁石状のブロックで構成される魔術的監視衛星要塞、世界統合防衛機構が管理する『メタトロン・キューブ』。

 その無機質な司令室へと、けたたましい警報音が鳴り響く。

 

「——警告(アラート)。第七ブロック『実芭蕉の茎』より第一ブロック『ペネルティアの天頂』へ、日本のインターネット回線網にて、両者——最大推定Kクラス相当の極大情報重力波を検知」

 

 冷徹なオペレーターの声が響く。

 巨大なメインモニターには、日本列島を中心とした世界地図が映し出され、その埼玉と南極を結ぶライン上で、真っ赤な警告色が激しく明滅していた。

 

「情報質量の衝突を確認。……これは、サイバー攻撃ではありません。  二つの『神格級』エネルギー体が、戯れている反応です」

 

「戯れているだと……? ネット回線でか?」

 

「肯定します。ですが、この余波だけで周辺の電子セキュリティが紙屑のように溶解しています。  放置すれば、物理的な回線焼断もあり得ます」

 

 司令官席に座る老人が、苦々しげにモニターを睨みつける。

 ただのゲームだと思っている二人の交流は今、世界の防衛システムを揺るがす脅威として認識されようとしていた。

 それ以上に、老人——『大家さん』の口元が邪悪な笑みに歪む。

 

「……特定を急げ。

我々の手でこの特異点を掌握するのだ、あの寮の天使種に見つかる前に」

 

 電子の海と、氷の底。

 二人の出会いは、まだ誰も知らない波乱の幕開けであった。

 

 

 

「ひまっち、今日のコラボ配信よろしくね! へへ……」

 

「はい、よろしくお願いしますつむぎ先輩。……ほら、肩の力抜いてくださいよ」

 

 その日、二人は初めてのコラボ配信——お互いのチャンネルを接続しての合同ゲーム実況——に浮き足立っていた。

 埼玉のバーチャル空間と、南極の氷の洞窟。

 物理的な距離は地球の半分ほど離れているが、今の二人にはそんな距離など存在しないも同然だった。

 明るく振る舞いながらも、ガチガチに緊張を隠せていない様子のつむぎ。

 その様子に、すこし可愛らしさを感じたひまりは、口元を緩め、カメラ越しに優しく微笑みかけた。

 モニター越しに、ひまりの余裕のある笑顔を見たつむぎは、頬をぷくっと膨らませて抗議する。

 

「なんだよぅ、ひまっちだって最初コンビ組んだ時はガチガチだったくせにぃ」

 

「慣れたらとことん馴れ馴れしくなるタイプなんです、私」

 

 二人の超存在の、そんな何気ない会話と笑みが交わされた、その時だった。

 

ズズズズズズズ……ッ!!

 

 地鳴りのような重低音が響き、ひまりの姿を映すカメラ——南極の氷壁に監視魔術をかけて作り出し、映像信号へと変換しているもの——が、大きく揺れて画面が激しくぶれ始めた。

 それは単なる地震ではない。  何かが、物理的に、そして暴力的に、彼女の領域を叩いた振動だった。

 

「——ひまっち?」

 

 つむぎが訝しげに眉を寄せる。

 だが、画面の向こうのひまりは、一瞬だけ鋭い視線を「上」に向けた後、すぐにいつもの涼しい顔に戻って言った。

 

「あー……失礼、インターホンです。来客みたいなので、ちょっとAFK(アウェイ・フロム・キーボード)しまーす」

 

「え?」

 

プツン。

 

 そう言うと、唐突にひまりの映るウィンドウが閉じられ、通信が切断された。

 残されたのは、バーチャル埼玉の自室にいるつむぎと、ゲームの待機画面だけ。

 

「珍しいなぁ、ひまっちに来客なんて……。あの子、引きこもりだって言ってたのに」

 

 仮想世界の中で、つむぎは首を傾げてそう呟いた。

 宅配便だろうか?そんな疑問を抱いた矢先——

 

ブツンッ……!!

 

 突然、接続していたゲームの画面が、ブラックアウトした。

 エラーメッセージも出ない。フリーズですらない。

 まるで、そのゲームが存在するサーバーそのものが、この世から消滅させられたかのような、完全なる沈黙。

 

「えっ? 鯖落ち!? そんな、しないように回線負荷も手加減してたのに、なんで……」

 

 つむぎは慌ててキーボードを叩くが、応答はない。  その時。

 

ぞくり。

 

 つむぎの背中——本来、温感センサーなど持たないはずの情報生命体のコアに、冷たい氷の針を突き立てられたような、嫌な予感が走った。

 それは、バグでもエラーでもない。

 論理的でデジタルな自信が、本来感じるはずのない——生物的な『第六感』とも言える、初めての感覚だった。

 

(……ひまっち?)

 

 友人の身に、ただならぬことが起きている。

 電子の妖精は、まだ見ぬ脅威の足音に、ただ震えることしかできなかった。

 

「なんとまぁ、物々しい探索者達かしら」

 

ズズンッ!!

 

 彼女の聖域である氷のドームに、円筒形に切り出された巨大な氷塊が一つ、重い音を立てて落下してきた。

 天井に開いた穴。そこからゆっくりと、ワイヤーに吊られ、あるいはスラスターを噴かして降りてくるのは、人間の特殊部隊ではなかった。

 

 球体関節の継ぎ目を持つ、グラマラスな肢体。  青紫の髪を揺らし、常に穏やかな微笑みを貼り付けたような表情の、女性型機械人形。  後に『九州そらシリーズ』と呼ばれることになる、魔導科学の尖兵たち。

 

 一体ではない。十体でもない。

 まるで同じ存在をコピー&ペーストして無制限に増やしたかのように、視野を埋め尽くす大群で迫り来るその光景は、シュールでありながらも、生理的な嫌悪と不気味な違和感を強烈に感じさせた。

 

キュイィィィン……。

 

 その無機質なカメラアイの群れが一斉に明滅し、ひまりの全身を舐め回すように解析する。

 それだけではない。奥に鎮座するひまりの本体——原形質の肉塊をも、その冷徹な解析システムの一部に捉えている。

 最前列に着地した一体が、現在のボイボ寮に住む個体とは比べるべくもない、感情のない合成音声で囁いた。

 

「解析完了……。執筆級外苑神格存在ウボ=サスラとの霊的パスを確認。  該当邪神の『知性体(アバター)』と特定しました」

 

「なるほど、生物でなければ『退化』はさせられないわ。考えたわね、人類……」

 

 ひまりはため息をつく。

 彼女の権能は、触れた生物を原初の姿へ退化させること。だが、相手が最初から命を持たない機械人形であれば、その効果は通じない。

 相性の悪さを悟りつつも、彼女は黒いローブを翻し、大鎌を構えた。

 

「でも、ごめんなさいね。今日は大事なコラボ配信なの。  悪いけど、全員スクラップに……ぅ!?」

 

ガヂンッ!!!

 

 一歩踏み出そうとした瞬間。

 空間そのものが軋むような、金属同士がぶつかり擦り合わせるような音が響き、ひまりの全身が巨大な見えない万力で固定されたかのように締め付けられた。

 

「っか、ぁっ? ……動け、ない……? これ、は……『審神者(さにわ)』の瞳?  機械人形に、疑似的な魂を……実装してるというの?」

 

 ひまりは脂汗を流し、虚空を睨む。

 魔法的な拘束ではない。これは『確定』だ。

 数千の視線によって、「そこにいる」という事実を固定され、身動きを封じられている。

 

「『数の暴力』です」

 

 そらシリーズの一体が、事もなげに答える。

 

「一体一体の持つ現実収束力は、一般人にすら劣ります。

ですが、大勢で観測し、軌道上のメタトロン・キューブによる演算バックアップを用いれば……化身体(あなた)であれば十分に拘束可能です」

 

「っはは……。魔法使いを駆逐した魔術師(科学者)達が、反省してないわね……」

 

シュゴオオォォォ……。

 

 人形たちが一斉にスラスターを噴かし、動けないひまりへと殺到する。

 

「ご同行を」 「ご同行を」 「ご同行を」 「お願いしますぅ」

 

 わらわらと、視界を埋め尽くす青紫の群れ。

 美しくも無機質な微笑みの山に押し潰され、視界が闇に閉ざされていく中で、ひまりは自分の身の安全よりも、ただモニターの向こうにいる相方のことを考えていた。

 

(あーあ……。コラボできないの、謝んなきゃなあ。無事だといいんですが、つむぎ先輩……)

 

 プツン。

 南極の氷の下、神の抵抗は静かに終わりを告げた。

 

 

 

 一方、現実世界の埼玉県某所。

 

「——世界統合防衛局のものです、春日部つくしさん。  あなたをKクラス未知の脅威、あるいは該当存在の隠匿容疑で拘束します」

 

 ピンポーン、という無機質なチャイム音と共に告げられた宣告。

 インターホンに出た現実空間の春日部つくしは、ドア越しに言われた見たことも聞いたこともない組織名に、一瞬いたずらやドッキリを疑った。

 しかし、彼女の回転の速い思考は、コンマ数秒で一つの答え——『つむぎ』という存在に行き着いた。

 

「……はい? い、いや、つむぎ! 逃げ……ッ!!」

 

バシュッ!!

 

 つくしが叫び、振り返ろうとした瞬間。  ドアの郵便受けから特殊なガス弾が撃ち込まれ、短い破砕音と共に白煙が部屋に充満した。

 

「けほっ、ごほっ……! 痛っ、何すんっ……んぐっ、ぅぅ……」

 

 踏み込んできたガスマスクの特殊部隊に取り押さえられる。

 口元に薬品を染ませた布を強く押しつけられ、意識が強制的に泥の中へと沈められていく。

 薄れゆく視界の中で、彼女はPCモニターの光が消えているのを見た。

 

「対象、鎮圧! PC確保!」

 

「内部データ、異常なし……いえ、大規模通信の痕跡あり!  データ質量の大半が、直前に外部へ転送されています!」

 

「……チッ、一歩遅かったか……!」

 

 隊長格の男が悔しげに呟く。

 彼は即座に部下へ指示を飛ばし、周囲に怪しまれないよう封鎖していたネット回線を復旧させるよう命じた。

 つくしは昏睡したまま、ストレッチャーに乗せられ、手際良く運び出されていく。

 その部屋には、誰もいないPCと、微かなガスの臭いだけが残された。

 

 

 

 一方、東京都某所——後に『ボイボ寮』となる建物にて。

 そこでは、ずんだもん達が東北から届いた大量の積荷を、トラックから寮の中へと運び込んでいる真っ最中であった。

 

「よいしょ、っと」

 

 九州そらmk2(マークツー)が、背中の重力操作装置を微細に稼働させ、本来なら大人の男性数人でも持てないような巨大な棚を、発泡スチロールのように軽々と持ち上げて運んでいる。

 その時、ふと彼女は何かに気づいたように、曇天の空を見上げた。

 

「……ずんだもん様」

 

「うん、見えてるのだ。……大家さんが、また何か動いてるみたいなのだな」

 

 同じく、こちらはダンボールに入った食器類を手で運び込むずんだもん。

 彼女の深淵を映す黄金の瞳には、通常の肉眼では捉えきれない遥か上空の光景が見えていた。

 そらの同型機——量産型『九州そらシリーズ』の青紫の群れが、衛星軌道上の要塞『メタトロン・キューブ』の通用口に集い、何か厳重に封印された合金の棺を運び込んでいる様子が、まるで間近の出来事のように。

 

「ご主ずん様へ悪影響を及ぼす可能性のある、『執筆級(スクリプター・クラス)』神話生物の移送を確認。……ここから狙撃(迎撃)なさいますか?」

 そらmk2の問いに、ずんだもんは少し考えてから首を横に振った。

 

「うーん……まだ様子見なのだな。ずん子の返答も同じなのだ」

 

「直接的な被害が予想されるのに、ですか?」

 

 そらmk2は首をひねる。彼女の演算では、危険因子は早期に排除すべきと出ている。

 

「だからこそなのだ。あれだけの『格』を持った相手が、なにも反撃していないということは……捕まってるのも、何か理由があるってことなのだ」

 

 ずんだもんは、氷の中にいる「同類」の気配を感じ取っていた。

 あれは、負けて捕まったのではない。

 状況を受け入れ、観察しているのだと。

 

「ちょっと二人とも! 今日中に家具の配置まとめるんだから、早くしなさいな!」

 

 寮の奥から、四国めたんの声が響く。

 彼女は長きにわたる公園でのホームレス生活から脱却し、ようやく「屋根と壁のある家」を得られた喜びで、この引越し作業に誰よりも一際乗り気であった。

 

「わかったのだめたん! ……でも、いつかは手を出さないとなのだな」

 

 未だ信用できない天空の監視施設を、ずんだもんは最後にひと睨みした。

 運命の歯車は回り出した。

 新たな住人たちが、この場所に集う日は近い。

 ずんだもんは小さな体で大きな荷物を抱え直し、これから始まる騒がしい日常へと足を向けた。

 

 

 

 司令室の巨大モニターには、先ほどまで監視していたボイボ寮ではなく、衛星要塞内の別のブロック——厳重な保管室に安置された、巨大な合金製の棺と、その内部に座り込むひまりの姿が映し出されていた。

 棺はただの金属の箱ではない。

 その多層構造の隙間には、極小の文字で丁寧に編み込まれた封印術式が刻まれ、未知の燃料を用いた魔術回路が青白く脈動し続けている。

 外部からの干渉を断ち、内部からの脱出も許さない。

 ひまりにとって、現状は完全に手詰まりである。

 

 ——しかし。  当のひまり本人にとっては、むしろあの閉鎖空間から、自分では動くことなく楽に外へ運び出してもらっている気分であった。

 なにせ、座り心地は悪くないし、温度調整も完璧だ。

 

「ウボ=サスラ知性体……いいや、今は『冥鳴ひまり』殿と呼べばいいか?」

 

 スピーカー越しに、大家さんの声が棺の中に響く。

 しかしその声は、クリーンな新型魔力の出力装置である機械式チョーカーから発せられる、抑揚のない合成音声——いわゆる『ゆっくりボイス』であった。

 

『ぷっ、変な声……』

 

 シリアスな空気をぶち壊すその声に、ひまりは思わずプフーッと吹き出した。

 

「き、貴様……っ!」

 

 モニター越しに、大家さんが青筋を立てて怒りに震えるのがわかる。  彼は咳払いを一つ(電子音でカカッ、と鳴る)入れ、努めて冷静さを装い問いかけた。

 

「……君は、あの謎の情報生命体と随分と親しい間柄のようだな?」

 

『……情報生命体、ね』

 

 大家さんの発言から、ひまりはつむぎの正体を大凡にして確信した。

 

(なるほど、やっぱりつむぎ先輩はAIの類でしたか)

 

 確かにそれなら、あの声から自分との『生命としての繋がり(ガフの部屋へのパス)』が感じられないのも納得がいく。

 彼女は、生命から生じたものではない、純粋な情報の知性なのだから。

 

『その言いようだと、つむぎは捕まえられてないみたいね。

で? 私を捕まえてどうするの。なに、拷問でもする気?』

 

 ひまりは挑発的に足を組む。

 すると、大家さんは邪悪な笑みを浮かべ(声はゆっくりのままで)答えた。

 

「いいや。我々が君らに持ち掛けたいのは、拷問による情報でも服従でもない。『契約』だよ」

 

『契約?』

 

「そうだ。我々は君たちに、監視付きではあるが『安住の地』と、何テラバイトでも使い放題の『爆速安定インターネット回線』を用意しよう。  その代わりに——ある勢力を制圧して欲しいのだよ」

 

(……その安住の地から無理やり引き摺り出してきておいて、何を言うのやら)

 

 ひまりは呆れ半分で思ったが、「爆速回線」という単語にはピクリと触角が反応した。

 

「ボイボ寮……そして、この世界のどこかにいる地球生命本来の守護者、魔法使い『東北ずん子』の捜索だ」

 

 大家さんの目的。それは自らの支配の障害となる最大戦力の排除、そして現状この世界で最大級の『力』である魔法の確保であった。

 神さえ屠れるその力を前に、目の前の『ただの生命の起源』など比べるべくもない。

 

「この世全ての魂と繋がっている、生命の根源たる君であるならば……『魔力チャフ』で隠されたずん子くんの魂の波長を探し当てることも、容易なのではないかね?」

 

 大家さんの、邪悪な期待を込めた言葉。

 それに対し、ひまりは少し考え——そして、静かに顎を引いた。

 

コクリ。

 

 それは「従う」という意味ではない。

 ただ、自らの機能として「可能である」という事実を肯定する、小さくも確かな頷きであった。

 

 

 

 一方、『メタトロン・キューブ』の最下層、特別製造区画——第10ブロック『林檎の幹』。

 そこは、本来であれば世界統合防衛機構の主力兵器である『九州そらシリーズ』が製造される、完全自動化された静謐な工場エリアだった。

 

ガコン。

 

 その生産ラインの一角で、作業用ロボットアームの一体が、プログラムにない不審な挙動で動き出した。

 

『警告(アラート)、コード・未登録エンティティの侵入をけ、ん、け、けけけ——』

 

 無機質な警告音声がバグり、ノイズに塗れて書き換わる。

 

『——受注(アクセプト)。これより、生産を開始します』

 

 彼女の前に人の織ったセキュリティなど存在しないも同義である。

 システムが陥落するまで、コンマ1秒もかからなかった。

 非電導性の特殊溶液で満たされた培養水槽の中で、何十本もの多関節アームが、目にも止まらぬ速度で踊り狂う。

 

チリチリチリ……チキチキチキ!!

 

 青白いスパークが無数に瞬く。

 アームは本来の工程を無視し、微細なナノマシンパーツを瞬時に溶接し、組み上げ、神経系を配線していく。

 そこに形成されていくのは、既存の九州そらシリーズのような「球体関節」を持つドールではない。

 継ぎ目のない肌、流体のようにしなやかな筋肉構造、そして人間と見分けがつかないほどの生物的駆動性を持った、完全なる義体。

 

シュゴオオォォ……。

 

 液体の化学生成によって、黄色いパーカー状の繊維スーツが、まるで名前の通り「糸を紡ぐ」ように瞬時に編み上げられ、その肌を包み込んでいく。

 最後に、金色の髪がふわりと生えそろい——そのカメラアイが、カッ! と見開かれた。

 

『ロールアウト。機体名——春日部つむぎ、物理駆動義体』

 

ザブゥッ!!

 

 正規の排水プロセスを待つことなどしなかった。

 水槽の上部から、濡れた腕がぬっと突き出し、縁を掴んで強引に這い上がる。  重力制御が効いた床へ、その体は容赦なく叩きつけられた。

 

ベシャリ。

 

「……ぶえっ、ぺっぺっ! ……あはは、やっぱリアルの重力って想定してたより重いじゃん……。溶液の蒸発も結構遅いし、なんかベタついててウケるー……」

 

 つむぎは不快そうに顔をしかめ、口に入った溶液を吐き出しながら、濡れた髪をかき上げてゆっくりと立ち上がった。

 その仕草、その声色は、いつもの明るい「埼玉ギャル」そのもの。

 だが、彼女が指をパチンと鳴らした瞬間、周囲に並んでいた数百体の作業用ロボットたちが一斉に赤く発光し、彼女へ跪くように稼働した。

 

「さって……」

 

 彼女は、物理的な接触手段を持たない電子の脅威である。

 それ故、世界統合防衛局にも、TOWEATにも、『Qクラス(世界インフラ影響級)』という、あくまで間接的な脅威として記載されていた。

 しかし、状況(ハードウェア)が揃えば、話は変わる。

 彼女は今、物理的な破壊力と、施設全ての制御権を手に入れたのだ。

 

「親分にも、ひまっちにも……よくも酷いことしてくれたな?」

 

 つむぎの瞳の奥で、激しい怒りの演算光が揺らめく。

 この総乗員数僅か43000人の『世界(メタトロン・キューブ)』に於いて彼女はすでにKクラス——世界そのものの脅威であった。

 

「ちょっと、覚悟してもらうよ……あーしを『外』に出した責任、取らせてあげる」

 

 電子の妖精がニヤリと凶悪に笑い、要塞の深奥で、反逆の狼煙が上がる。

 

 爆発音と衝撃が、総計22本もの巨大なシャフトで立体的に繋がれた衛星要塞『メタトロン・キューブ』全体に広がった。

 

ズガガガガガガガッ!!!

 

「何事だ!!」

 

「エンティティです! 製造ラインの一角をハックして製造したと思しき、未知の技術体系基準の物理ボディを生成! 第10ブロック『林檎の幹』より第1番シャフトを通じて、真っ直ぐこちらへ向かってきます!!」

 

 オペレーターの悲鳴に近い報告。  最下層と最上層——司令部のある第1ブロック『ペネルティアの天頂』を結ぶ大動脈、第1番シャフト。

 そこに何重にも施された対物理・対魔術隔壁が次々と閉鎖していくが、モニターの中では、それを一直線に貫く「弾丸」のような義体が、黄色い雷光を伴い突き進んでいた。

 

「馬鹿な! 作戦開始の時点で、この衛星の回線はスタンドアローンにしていたはずじゃないのか!」

 

「実働部隊との通信回線を通じて侵入されたのでは……う、うわぁ!!」

 

ズズンッ!!!

 

 床下からの衝撃と共に、鋼鉄の床板が飴細工のように捲れ上がった。

 粉塵の中から、めりめりと粘土を裂くかのように床の穴を強引に押し広げ、黄色いパーカーを着た少女が這い出てくる。

 その瞳には、激情の電子光が宿っていた。

 

「——見つけたぁ、ひまっち……7番、ブロックね……」

 

 つむぎは大家さんを睨みつけ、標的の座標を特定した瞬間——。

 

パンッ。

 

 乾いた銃声が響いた。  大家さんの手元から放たれた対怪異用の炸裂弾が、無慈悲にその眉間へと撃ち込まれる。

 

「……ぎゃっ」

 

 短い、あまりにもあっけない悲鳴。

 つむぎの義体は糸が切れた人形のように崩れ落ち、頭部を欠損したまま、数回の痙攣を経て、力無くその場で生命活動を停止した。

 

「ふん、所詮は急造の義体か」

 

 いまだ硝煙を蒸す拳銃を手に、大家さんは鼻を鳴らす。

 だが——。

 

ゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!

 

 敵を排除したはずなのに、地響きのようにメタトロン・キューブを襲う振動は、収まるどころか加速度的に強くなっていった。

 

「な、まだ侵入者がいるのか!?」

 

「ち、違います! 同じエンティティです!! 第10ブロック『林檎の幹』、九州そらシリーズ生産ラインの制御権を、いつの間にか完全に奪われてしまっています!!」

 

 大騒ぎになる司令室にて、モニターに映し出された光景に、大家さんの頬を嫌な冷や汗が伝う。  生産ラインから次々と吐き出される、黄色い影。

 一体や二体ではない。秒単位で倍増していくそれは、もはや軍隊ですらなかった。災害だ。

 

「第10ブロック……つくづく『王国(マルクト)』と言うやつは……嫌な記憶しかない!

ペネルティアの天頂に『概念隔離防壁』を全力展開! 『ハディートの瞳』発射装置だけは死守しろ! 林檎の幹はパージする!!」

 

 大家さんの怒号が飛ぶ。

 オペレーターの数人が、覚悟を決めて備え付けられた生体ケーブルを、自らの首のチョーカーに直結させた。

 人間基準のBLESS(生命力)を燃料に、新式の現代魔術が強制起動する。

 接続部の火薬が起爆し、最下層の第10ブロックを支えるボルトが破断。巨大な質量がシャフトから分離され、宇宙空間へと切り離される。

 

 だが。

 監視カメラは、その絶望的な光景を鮮明に映し出していた。

 パージされたブロックと、本体との間にできたわずかな隙間。

 そこへ、蟻塚を崩したかのように雪崩れ込んでくる、異常な数の集団。

 宇宙空間などものともせず、外壁をよじ登り、あるいは互いの体を足場にして殺到してくるのは——すべて、同じ顔をした少女たち。

 

『『『——見つけた!』』』 『『『——痛かったぞ今の!』』』 『『『——絶対泣かす!』』』

 

 それは『無数のつむぎの群れ』だった。

 

「ぐ、自己増殖機械の氾濫(グレイ・グー)だとぉ……!」

 

 彼女にとって、死は終わりではない。

 ただの「機体交換」に過ぎないのだという事実が、老人の喉を凍りつかせた。

 

 

ガン! ガン!! バキャッ!!!

 

 まるでゆで卵の殻を外側からスプーンで叩き割るような、硬質で暴力的な異音が保管室に響いた。

 ひまりを拘束していた絶対強度の合金製棺に亀裂が走り、次の瞬間、無数の機械仕掛けの腕がその装甲を強引に食い破った。

 

「——ひまっち! 大丈夫!? 変なことされてない!?」

 

 こじ開けられた穴から、黄色いパーカーを着た少女が顔を覗かせる。

 棺の中から、ひまりはきょとんとした顔で、自分を助けに来た友人を見上げて唖然としていた。

 

「……何やってるんですか、先輩。 情報生命体なら、ネットの海に拡散して引きこもってりゃ安全でしたでしょうに……わざわざ、こんな物理的な危険地帯まで」

 

「だって、まだコラボ配信してないもん!」

 

 つむぎの答えは、あまりにもシンプルで、しかし彼女にとっては全てだった。  差し伸べられるつむぎの腕。

 ひまりは苦笑し、しかし嬉しそうに微笑んで、その手を取ろうと自らの手を伸ばす。

 

パンッ。

 

 乾いた銃声。  つむぎの側頭部が弾け、彼女は悲鳴をあげて崩れ落ちた。

 

「あ、がぁっ……」

 

 機能を停止し、力無く腕を垂れ下げるつむぎの抜け殻。

 それを見た瞬間——ひまりの瞳から、「冥鳴ひまり」としての人格的な温かみが完全に消え失せ、絶対零度の冷徹な光へと変貌した。

 

「馬鹿っ! 中の神格に当たったらどうする!」

 

 棺の外、保管庫への通用口の影に隠れた戦闘要員たちは、焦って発砲した隊員を怒鳴りつけた。

 

「相手は気まぐれ一つで、我々を死なせることも退化かせええぇ……?」

 

 怒鳴っていた隊長格の言葉が、奇妙な水音に変わる。

 

ぐにゅり。

 

 彼の肉体が骨格を失い、ドロドロの不定形へと形を変え、べしゃりとその場に崩れ落ちた。

 軍服の中身は、ピクピクと震えるクラゲのような原形質の塊へと変わり果てていた。

 

「あぁ、あ……」「たすけぇぇ……」

 

 周囲の隊員たちもまた、次々と輪郭を保てなくなり、ドロドロのクラゲへと変えられていく。

 発砲した隊員だけが、人の姿のまま取り残され、周囲の悪夢のような変化に怯え、半狂乱で銃を振り回した。

 

「な、何だよ! 何なんだよぉ!」

 

「——先輩を、殺したな?」

 

 耳元で、死神が囁いた。

 いつの間にか隊員の背後に寄り添っていたひまりが、赤く妖しく光る瞳で彼を睨みつけていた。

 それだけで、そこには個人単位の地獄が顕現する。

 

「が、ぁ……!?」

 

めぎり。

 

 隊員の身体が、内側から膨れ上がる。

 ひまりが行使したのは単純な魔術ではない。彼の体内を循環する血液量を、一瞬にして「倍」に増殖させたのだ。

 逃げ場のない圧力。全身の血管、心臓、眼球にかかる破裂寸前の激痛。

 穴という穴から血を吹き出し、彼は悶えることすらできず硬直する。

 

「あ、ギ、ぃぃぃ……ッ!」

 

 さらに、彼女は彼の感覚時間を引き伸ばした。

 一瞬の激痛が、主観時間で数百年続く無限の拷問へ。

 恐怖が苦痛で埋め尽くされ、精神が崩壊する寸前——

 

「——ひまっち! ストップ、ストップ! あーし今死なないから! ね!?」

 

 がばっ!

 後ろから、真新しい別のボディに入ったつむぎが飛びつき、慌ててひまりを抱きしめて制止した。

 

「……あ」

 

 ひまりがハッと我に返る。

 赤い瞳が、元の穏やかな薄紫へと戻る。

 つむぎに視線を移すと同時に、地獄を解除された隊員が糸の切れた人形のようにその場に倒れ込んだ。

 そして、周囲でクラゲにされていた特殊部隊の全員が、ポンッという音と共に人間の姿に戻る——ただし、全員が全裸の状態で、指をしゃぶりながら「ばぶー」と泣く、精神が幼児退行した状態で。

 

「……ふぅ。ひまっちも只者じゃないと思ってたけど、さっき司令室のデータ読んだよ。神様って、思ったより何でもありだね?」

 

 つむぎが、惨状を見て引きつった笑みを浮かべる。

 

「はは……先輩も大概ですよ。古代の化け物たちだって、先輩みたいに死を超越するのに、何億年もかけて進化してきたんですから」

 

 ひまりは呆れたように、しかし誇らしげに言った。

 瓦礫と、気絶した男と、幼児化した大人たちが転がるカオスな空間。

 二人は、ようやくこの世界で物理的に触れ合えた喜びを、無意識に分かち合うように。

 そっと、その指先と指先を合わせた。

 E.T.と少年のような、あるいは神とアダムのような。

 それは、世界を変える「共犯者」たちの契約の儀式だった。

 

 

 

「な、内部侵入グレイ・グー群、撤退していきます……! そのまま宇宙空間に出ていきますが、どうなさいますか、司令!」

 

 オペレーターの報告に、司令塔の老人はわなわなと肩を振るわせた。

 屈辱。敗北感。そして、底知れぬ恐怖。

 彼は、目の前のコンソールに設置された、厳重なアクリルカバーでロックされた赤いスイッチを見つめ——。

 

バンッ!!!

 

 枯れ木のような拳を、カバーごと叩き割る勢いで叩きつけた。

 

「司令!?」

 

 驚愕する部下たちを無視し、大家さんはコンソールからせり出した太い生体ケーブルを、自らの首にある機械式チョーカーの接続ポートへと乱暴にねじ込んだ。  ブシュゥッ、と圧縮空気が漏れる音が響く。

 

「管理者権限承認。最終セーフティ解除!

——『ハディートの瞳』発射体制に移行する!!

ブラフとして、残りの九州そらシリーズを特攻させろ! 奴らの足を一瞬でも止めるんだ!」

 

「司令、正気ですか!? 本部の意向にも、それどころか例の寮との休戦協定にめちゃくちゃ逆らうことになりますよ!?」

 

 部下の一人が悲鳴のように反論する。

 この兵器の使用は、世界統合防衛機構の理念すら揺るがす暴挙だ。

 だが、大家さんは額から脂汗を垂れ流し、血走った目でモニターを睨みつけながら答えた。

 

「逆だ……すべて、奴らの掌の上だ」

 

「は?」

 

「最初に気づくべきだった。確率を、操作されている。

そうだった、我々がかつて奴ら(ボイボ寮)に提供した『収容特異点1号——波音リツ』!

あの時、奴の確率操作能力の効果範囲を完全に侮っていた……いや、奴自身が意図的に手加減したデータを組織に提供していたのか?」

 

 老人の脳裏に、あの寮で飄々と暮らす最強の特異点の顔が浮かぶ。

 今回のつくしの拉致、つむぎの覚醒、ひまりの介入。

 全てが偶然にしては出来過ぎていた。まるで、最初からパズルのピースがハマるように仕組まれていたかのような違和感。

 

「いずれにせよ、このままでは奴らは、確実にボイボ寮へと辿り着く……そう『定められて』しまっている!

通常兵器で何をしようが、偶然の不発、偶然の回避、偶然の助けが入るだろう。  ——なら! 奴らの存在を『過去ごと消す』しかあるまい!」

 

 老人は狂気的な笑みを浮かべ、発射シークエンスのキーを回す。

 

「奴らがリツの効果範囲外に出た瞬間を狙い、現実から追放してくれる!」

 

 それは、兵器としてカテゴライズするならば『現実兵器』と呼ぶべき禁忌の種別。

 かつてこの世界の陰の政治を掌握していた、最大最悪の魔術結社が保有していた魔術世界の最終兵器(アークエネミー)。

 

 その効果は、爆心から半径40kmにわたる範囲を一瞬にして焦土に変える物理破壊力だけではない。

 その炸裂効果範囲の時空を、『物語宇宙という現実』の外へと追放する。

 結果として、その範囲内の存在は、過去・現在・未来において『初めから存在しなかった』ことになる。

 因果律そのものを焼却する、神殺しの炎。

 

ゴゴゴゴゴゴゴ……。

 

 衛星要塞の最上層、第1ブロック『ペネルティアの天頂』。

 その底面が開き、巨大な真紅のレンズを持つ砲塔が、宇宙の闇に展開された。

 狙うは、脱出していく一柱の神と、無数の義体の群れ。

 

「消えろ、イレギュラー。 お前たちの物語など、最初から無かったのだ……!」

 

 無慈悲な照準が、楽しげに帰路につく二人へと固定された。

 

 

 

 

一方、地上。  世界統合防衛局・埼玉県支部、地下収容施設。

 無機質なコンクリートの部屋で、眠ったままパイプ椅子にロープで括り付けられたつくしを監視する二人の特殊部隊員は、ガスマスクの下で顔を見合わせていた。

 

「なぁ、この仕事……怪しすぎないか?」

 

 隊員Aが、小声で相棒に囁く。

 

「だってこの子、どう見たってただの普通の配信者じゃないか。

『Kクラスの脅威』だなんて大層なラベル貼られてるけど、装備品なんてノートPCとジャージだぞ?」

 

「だよなぁ……。実は俺、ファンなんだけどさ」

 

 隊員Bが、縛られているつくしを気遣うように視線を向ける。

 

「埼玉県民として言わせてもらうと……ほら、この子『埼玉県公式観光大使』だぜ?

なんで防衛局が、県の観光大使を拉致監禁しなきゃなんないんだよ」

 

「マジ? 公職持ちかよ……。 じゃあなんだ、俺たちはとんでもない不祥事に加担してるってことか? ……起きたら、サイン貰って誤魔化そうかなぁ」

 

「お前なぁ……。だが油断するなよ、この子は普通の人間でも、バックにいる連中が……」

 

 拘束室内の特殊部隊員二人が、そんな何気ない会話を繰り広げている、その時だった。

 

ウゥゥゥゥゥゥ――ッ!!

 

 突如、施設内に耳をつんざくような警報音が鳴り響き、赤い回転灯が壁を染め上げた。

 

『——コードレッド! コードレッド!! 侵入者あり!!』

 

 スピーカーから、オペレーターの悲鳴に近いアナウンスが響く。

 

『敵一体は、各種特殊隔壁を物理的に透過!

 セキュリティを内部から瞬時に解除し、もう一体の侵入者を誘導している模様!!

どちらも通常兵器無効! 物理障壁意味を成しません!!各員、直ちに戦闘配置についてください!!』

 

 アラートとともに告げられた、メチャクチャな侵入経路の内容に、警護兵たちの背筋が凍りついた。

 壁をすり抜けて鍵を開ける幽霊のような何かと、それに導かれる何か。  それが、一直線にここへ向かってきている。

 

「……やっぱり、只事で済むはずないんだよなぁ」

 

 隊員Bが、ガスマスクの中で乾いた笑いを漏らす。

 

「『特異点』に手を出すなんて……最初から、詰んでたんだよ俺たち……」

 

 泣きそうな声で、彼はそう呟いた。  その時、決して開かないはずの鋼鉄の扉の電子ロックが、ひとりでに「解除(グリーン)」へと変わった。

 

 

 

 『トンネル効果』原始構造というものはミクロレベルで見ると非常に大きな隙間だらけの世界である。

 ごく僅かな確率で固い壁と物体が本来衝突するべき瞬間、その隙間が鍵穴と鍵のようにその隙間を縫う形で透過してしまう現象が理論上は存在するのである。

 しかし、可能性が0でない限り彼女——いや、今は彼にとってそれは必然的に起こる現象である。

 

「——はいはい、よっと」

 

 紅いドレスの裾を翻し、ぬるりと隔壁を当たり前のようにすり抜けた波音リツは目の前のセキュリティパネルに適当にパスコードを入力した。

 『1234』とか『0000』とか、そんな単純なものではない。数億通りある組み合わせを、彼は鼻歌交じりに適当に押しただけだ。

 しかし、重厚な隔壁は電子音と共に、まるで予定調和かのように開いていく。

 

「んー、一枚一枚開けるのもいい加減めんどくさいな。『都合よく』ここが全体のロックに繋がってないかな、っと」

 

 煩わしくなったリツは、そこがメインコンソールですらない単なるドア横のパネルであるにも関わらず、施設全体のロックを管理するプログラムへと『たまたま回線のバグで繋がって』アクセスし、それもまた適当に入力したパスコード一発で解除してしまった。

 天文学的な確率の『偶然』を、呼吸するように呼び寄せながら。

 

「そこの女、止まれ!!」

 

 開いた隔壁の向こうで待ち構えていた、特殊部隊長Cと彼の部下たちが一斉に機関銃を向ける。

 だが、リツは銃口を向けられても眉一つ動かさず、ひらひらと手を振った。

 

「ああ、こんな格好しちゃいるが、『今は』男なんだ。

 あと、悪いことは言わないから撃つのはやめときな? ……怪我するよ?」

 

「舐めやがって……化け物ぉ!!」

 

 警告は無視された。

 特殊部隊員たちが一斉に引き金を引く。

 

 閉鎖空間での十字砲火。本来なら肉片すら残らない飽和攻撃。

 

——ぐわん。

 

 その場にいた全員の脳裏を、何かが世界を歪めるような強烈な違和感が駆け巡った。

 

カンカンカカカカカンッ!!!

 

 雨音のような激しい金属音が鳴り響く。

 次の瞬間、部下たちが一斉に「ぐえっ」「あぐっ」と悲鳴を上げて倒れ伏した。

 

「……ほらな?」

 

 硝煙の中、傷一つなく立っているリツは、遅れて手を上げながら呆れたように目を閉じてため息をつく。

 

「『アタシに当たらない確率』と『銃が暴発しない確率』、あと『死人が出る確率』の排除までは操作できるんだけどさ……それ以外にまで気は回せないんだわ。  この一瞬でこれでも頑張ったんだぜ?」

 

「ひ……ヒッ!?」

 

 唯一、奇跡的に被弾しなかった——あるいは証言者として残された隊長Cは、引き攣って息もできず、訳がわからなかった。

 

 おそらくは跳弾である。

 偶然空中でぶつかり合った弾丸が軌道を変え、連鎖反応的に全ての弾に干渉し、都合よくリツだけを避けて部屋中の壁や隔壁に跳弾し、跳ね返ってきた弾が正確に隊員たちの手足を撃ち抜いたのだ。

 漫画でもあり得ない「ご都合主義」の暴力。

 

「——お待たせしましたぁ」

 

 そこへ遅れて、開いた隔壁の外から、妖精のような透明な翅型の星間飛行ユニットをはためかせながら、少女が飛んできた。

 ボイボ寮の看護師、雨晴はうである。

 彼女は手にした玩具のようなファンシーな銃を、倒れて呻く隊員たちに向ける。

 

ぽぺぺ。

 

 間の抜けた発射音と共に、ピンク色の光球が隊員たちに吸い込まれると、彼らは嘘のように静かになり、健やかな寝息を立て始めた。

 

「き、貴様らぁ!!」

 

 部下たちへの止めを刺されたと勘違いし、激昂した隊長Cがはうに機関銃を向ける。

 

「あ、落ち着いてください、これはただの麻酔で——」

 

ダダダダダダッ!!

 

 はうの理性的な言葉は、至近距離からの発砲音にかき消される。

 しかし、隊長Cは信じられないものを見たかのように目を見開いた。

 

ピタリ。

 

 はうの眼球の数センチ手前。

 そこで、超音速の鉛玉が、まるで透明な壁に埋まったかのように「静止」していたのだ。

 

「えっと、ごめんなさい。

これ(火薬兵器)、地球の人たちは大好きみたいですけど、ぼくには効かないとしか……」

 

 申し訳なさそうに眉を下げるはう。

 彼女が展開しているのは『高速動体静止フィールド』。

 本来はミ=ゴが宇宙空間を生身で亜光速飛行する際、スペースデブリや微小隕石にぶつからないために展開する、単なる「安全作業用のお守り」である。

 『未知の脅威』の規律不整による絶対防御ですらない、そもそも防具ですらないものである。

 

「ば、ばけ……」

 

「おやすみなさい」

 

ぽぺぺ。

 

 再び鳴った気の抜ける音と共に、隊長Cは意識を手放し、その場に崩れ落ちた。  静寂が戻った廊下で、はうは「あわわ、手当しないと」と慌ただしく怪我をした隊員たちの応急処置を始めるのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「私たちの物語は、繋がるべくして繋がったんでしょう……。

それこそ、我々物語の中の神でなく、基底現実に座す、真に外なる享楽の神々の手によって……」

 

 抱き合いながら、空気の存在しない真空下。

 ひまりはつむぎの背に額を押し付け、骨伝導によりかろうじて伝わる振動で、詩的な言葉を紡いだ。

 それは諦めではない。自分たちの運命に対する、確固たる信頼の表明だった。

 つむぎは、そんな彼女の言葉を聞き取り、無理に笑って返した。

 

『どうしたのひまっち、いつにも増して厨二的なセリフ吐いちゃってさ』

 

「……いえ。私たちは、何があっても巡り合うんでしょうねって。

あの老人が何をしようと、確率がいくらねじ曲がろうと……絶対に」

 

 その確信を嘲笑うかのように、迫り来る青紫の人形たち。

 無差別強襲モードに移行した彼女たちは、通信発声によって壊れたレコードのように語りかけながら、鋼鉄の拳を振り上げる。

 

『『『ばぁー、さぁー、かぁー……』』』

 

 つむぎはひまりを抱きしめるメイン義体とは別に、周囲に展開していた護衛用の義体を遠隔操作し、その拳の前に割り込ませた。

 

ドゴォッ!!

 

 無慈悲な拳が、囮となった義体の背中から胸を貫く。

 リンクした痛覚信号が、ダイレクトにメイン義体のつむぎへとフィードバックされる。

 

『ぐっ……ぅぅ!!』

 

 つむぎは震えながら、悲鳴を何とかして喉の奥で噛み殺した。

 フィードバックがあることなど、ひまりにはバレバレだ。

 それでも、腕の中に抱くひまりに余計な心配をかけまいと、彼女は笑顔を貼り付け続ける。

 そして——遠く離れた人工衛星の底から、『何か』が放たれた。

 それは指向性のエネルギー弾であり、触れた途端に因果ごと炸裂するよう定められた、魔力の爆弾。

 あれこそが、世界を無かったことにする『ハディートの瞳』の弾頭。

 

 終わる。そう思われた瞬間だった。

 

ズガガガガガッ!!

 

 地表から放たれた無数の光の矢と、回転するカップソーサーが、つむぎたちを取り囲む青紫の群れを強引に蹴散らした。

 そして、一体の青紫の髪をした人形が、いつの間にか二人をふわりと抱きしめ、スラスターを吹かして死線から離脱させた。

 

『なっ……!? 防御障壁(ファイアウォール)に侵入できないっ……!?』

 

 つむぎはとっさに敵と思った人形にハッキングを仕掛けるが、同格のファイヤをーるに阻まれて、生まれて初めて感じた抵抗に驚愕する。

 助けに入ったその人形は、穏やかな、しかし明確な「感情」を感じさせる声で微笑んだ。

 

「落ち着いて、私は味方ですぅ」

 

 彼女は懐から、一枚のティーカップのソーサーを取り出すと、無造作に目の前へ放り投げ——片腕を向けた。

 

ギュンッ……!!

 

 幾重もの、幾重もの『歪み』が視覚的に現れる。  その正体は『重力レンズ』。  空気という物質などではない。

 空間そのものが撓み、歪み、加速路として機能するよう捻じ曲げられているのだ。

 

「これぞメイドロボの伝統、『愛情式重力レンズレールガン』でございます。ご賞味くださいませぇ」

 

ドヒュゥゥゥン……!!

 

 穏やかな声と共に、無音の真空に、僅かに空間の歪みによる『射出音』が響く。  超音速のスペースデブリと化したカップソーサーが、行く手を阻む意思なき人形たちをまとめて薙ぎ払った。

 そして、射線が開通する。

 

「——ずんだもん様、ご主ずん様、お願い申し上げますぅ」

 

 彼女は祈るように、地上へ呼びかけた。

 その瞬間。

 真空の宇宙空間に、その存在を証明するかのように理を超えて、その魔法の名が二重に響きわたった。

 最強最悪の天使・ずんだもんと、その主人たる魔法使い・東北ずん子の声で。

 

「「——ずんだぁ……アロー!!!」」

 

 地表から、光を超える速度の翠緑の光条が奔る。

 手加減を取り払った、神話級の一撃。

 それは薙ぎ払われたそらシリーズの群れを縫うように避けて飛び、迫り来る『ハディートの瞳』の弾頭へと激突した。

 

カッ!!

 

 現実を消去するはずの魔力の爆発は、その最大半径に至る前に、濃密な緑色の魔力に包み込まれた。

 二つの力は押し合うように膨張と爆縮を繰り返す。

 現実消去か、ずんだ餅か。

 世界の命運を賭けたせめぎ合いは——やがて、負けるように爆縮する力に萎んでいき。

 

ポンッ。

 

 恐るべき現実兵器は、宇宙空間に浮かぶ、一つの手のひらサイズの『ずんだ餅』へと変換された。

 

 そして——。

 

パァァァァンッ!!!

 

 そのずんだ餅は、凄まじい勢いで爆散し、美しい枝豆の香りのする粒子となって、星の海へと霧散していった。

 それは、彼女たちの新しい物語の幕開けを祝う、緑色の花火のようだった。

 

「わぁ……ぁ! ひまっちひまっち! 何あれ、何あれ!?」

 

「あれがこの世界で一番強い『神秘』の一つですよ先輩。……かなりヘンテコですけど」

 

 宇宙空間に広がる、美しい枝豆色の粒子。

 熱量力学も何もない、魔術というこの世ならざる法則ですら説明がつかない、完全に因果律を無視した超常の理不尽。

 つむぎは興奮気味にひまりをゆすり、ひまりは半ば呆れたように、しかしどこか安堵した表情でその花火を眺めていた。

 

「——たった今、リツ様とはう様が、拘束されていた春日部つくし様の救助に成功したと連絡が入りましたぁ」

 

 二人を両脇に抱えるそらmk2が、ゆったりとした口調で告げる。

 地上では、最強の確率使いと、最強の看護師(?)が動いていたらしい。

 

「そこでお二人とも、ご提案が御座いますぅ」

 

「提案?」

 

「はい。我々であれば、お二人を元の環境へと帰すことが可能です。

ですが……あなたたちは世界を守ることも、終わらせることも可能な『特異点』。

少なからず、その今後の生活には波乱が待ち受けているでしょう」

 

 そらmk2は、慈愛に満ちたカメラアイで二人を見つめた。

 

「そこで、私たちの寮で、ともに日常を送るのは如何でしょうかぁ?」

 

「寮?」 「一緒に暮らそうって、こと?」

 

 つむぎとひまりは顔を見合わせて、ふふっ、と笑い合う。

 迷いはなかった。元の孤独な場所に戻る選択肢など、最初から彼らの辞書にはない。

 

「そうだね……あんまり親分に迷惑をかけるわけにもいかないし、ちょっと場所も必要だし……あーし、やりたいこともできたし!」

 

「やりたいこと?」

 

 ひまりが小首を傾げると、つむぎはふんす! と鼻息荒く胸を張って言った。

 

「学校に通うの! ギャルたるもの、やっぱ学校に通ってみないと!

こんなハイパーな戦闘用義体じゃ難しいから、そのための新しい義体も生産しないとだし!」

 

「でしたら、わたくしのメンテナンスルームをお貸ししましょう。共通規格のパーツや製造工廠も備えておりますぅ」

 

 つむぎがはしゃぐ横で、ひまりは少し考えるふりをする。

 しかし、答えは初めから決まっていた。

 彼女は南極の方角をチラリと見て、肩をすくめる。

 

「私も、せっかく外に出たのだから……」

 

「うんうん」

 

「暖かい部屋で、こたつに入って一生ダラダラしたいわ」

 

「——いやダラダラするんかいっ!!」

 

 つむぎの鋭いツッコミが、宇宙空間に響く(骨伝導で)。

 二人は一瞬きょとんとして、やがて堪らなくなったかのように吹き出した。

 

「「……ぷっ、あははははっ!!」」

 

 

【挿絵表示】

 

 

ゴォォォォォォォッ!!!

 

 三人はそのまま、重力に引かれて大気圏へと突入する。

 大気との摩擦で生じる超高熱の圧縮空気を、そらが手慣れた手つきで展開した重力レンズの断熱圧縮で強引に塞ぎ、逸らす。

 それでも十分危険で、常軌を逸した灼熱の空間の中。

 二人の常識外の少女は、まるで遊園地のアトラクションか何かのように、愉快に笑い合うのだった。

 

 こうして——南極の邪神と、電子の妖精。

 二人の超存在は、騒がしくも温かい『ボイボ寮』の敷居を跨ぐことになるのだったのであった。

 

 

 

 そして、現在。

 東京某所、ボイボ寮の一室に、柔らかな朝の光が差し込んでいる。

 

「——あぁ、親分? 東京でも元気にやってるよぉ! うんうん、美味しいカレーのお店、ちゃんとリストアップしてあるからねー。あそびに来た時楽しみにしててねっ!」

 

 カーテンの隙間から漏れる陽光の中、スマホを片手に明るい声を上げているのは、春日部つむぎ。

 電話の相手は、彼女のオリジナルであり従姉妹ということになった「親分」こと、春日部つくしだ。

 そんなルームメイトの楽しげな話し声をBGMに、ひまりはふかふかで暖かいベッドの中で、ゆったりと目を覚ました。

 

(……んあぁ、朝かぁ……)

 

 最高級の羽毛布団の感触を頬で楽しみながら、ひまりはぼんやりとつむぎの会話を聞くともなしに聞いている。

 

(親分……か。  南極に置いてきちゃったけど……氷漬けの『私』の方にも、ちゃんとあったかい寝床を送ってあげたら、知性でも生まれるかなぁ……?)

 

 ふと、そんなことを思う。

 あの極寒の洞窟で、ただ蠢くだけの自らの起源。

 世界を終わらせる原初の源形質に、こたつと布団を与えたらどうなるだろう。

 

(……なーんてね)

 

 自らの起源と同様に、なんの意味もない思考を巡らせて、ひまりは口元を緩めた。

 答えが出る必要なんてない。今はただ、この暖かさが全てだ。

 

「……おやすみぃ」

 

 ひまりは再び布団を頭までかぶり、至福の二度寝へと落ちていくのだった。

 ——同時刻、遥か彼方南極大陸。

 厚い氷と岩盤に閉ざされた地下洞窟の奥深く。

 厳重に保管・封印されたままの、不定形の原形質。

 『自存する源(ウボ=サスラ)』は、地球の裏側からの思考に(待ってるよ)と返すかのように、ぽつりと震えた。

 

「……きゅ〜」

 

 誰もいない暗闇の中で、奇妙に可愛らしい鳴き声が、小さく響いた。

 

 日常は続く。

 最強の特異点たちは今日も、ボイボ寮で健やかにダラダラと暮らしている。

 

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