【書籍化】救いない怪異の世界をRPGの世界と勘違いしてるやつ   作:流石ユユシタ

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第52話 ダンジョンの流儀

カメラのモニターに、暗い廊下が映っていた。

 

「……誰もいない」

 

 オカルト部の一人、本田悟が小声で言った。

 

 三人は入口から慎重に進んでいた。飯島将吾が先頭でスマホのライトを照らし、斉藤真由香がその後ろに張り付くように続く。本田が最後尾でカメラを回していた。

 

 入館した時、受付に人はいなかった。コーヒーカップが置きっぱなしで、椅子が一脚、倒れている。急いで逃げ出したのか、それとも突然消えてしまったのか。どちらにしても、ここが普通の場所でないことは明らかだった。

 

 

「……美術館ってこんな暗かったっけ」

「やっぱりあの異変は本当だったのかな」

 

 

 将吾が天井を見上げた。照明はついているが、光量が異様に低い。影が濃く、展示品の輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。昼間なのに、まるで夜とも言える不気味さがあった。

 

 

「SNSで書き込みがあったの、二時間前だったじゃん。動画も少し上がってて……その後から、行った知り合いと連絡取れなくなったって別の書き込みもあった」

「じゃあ二時間前からこんな感じなのか?」

「かもね」

 

 

 

 将吾がカメラに向かって話しかけるように言った。

 

 

 

「オカルト部、東京日本歴史展に潜入。引き続き、人が消えた美術館を探索します」

「やめてよ実況みたいに言うの、余計怖くなる」

「面白くなるだろ」

 

 

 笑い声が廊下に響いた。しかし、その笑い声はどこか乾いていた。ただ、恐怖を隠したいだけの空元気のようだった。

 

 

 だから、笑い声は続かず、三人は同時に口を閉じた。

 

 漠然とした不安が、どんどん大きくなる。進むにつれて、展示品の様子がおかしくなっていく。

 

 最初のフロアでは普通に見えていた壺や刀が、奥に進むにつれて何かが滲み出しているように見える。

 

 あれに、触れてはいけない。それが本能で分かった。

 

 

 

「展示物って、あんな気味悪いの……? それに……この壺。あれ、やっぱり……ねえ、ちょっと待って」

 

 

 真由香が足を止めた。いや、止めざるを得なかったという方が正しいだろう。違和感が膨れ上がりつつあったから。

 

 

 

「さっきここ通ったよね? この壺、見覚えがある」

「気のせいじゃない?」

「気のせいじゃない。この欠けた部分、絶対さっき見た」

 

 

 将吾がスマホのライトで壺を照らした。確かに縁の一部が欠けており、その形に見覚えがある。

 

 

「でも俺たち、ずっと前に進んでたよな?」

「進んでたよ、曲がったりしてないし」

「……どういうこと」

 

 

 

 謎は深まり、三人は顔を見合わせた。

 

 本田がカメラを廊下の先に向ける。画面には長い廊下が続いている。しかしその先には、どこまでも闇が続いているようだった。

 

 

 

「それに、結構歩いたのに出口も何もない。おかしくない? 歩いた歩数と外装の大きさが明らかにあってないよ。ねぇ、やっぱり出ようよ」

「一回、出るか? でも……出口、どっちだ」

 

 

 

 将吾が振り返った。来た方向のはずの廊下は、どこまでも闇に染まっているようだった。本能で悟る、これより先に出口はないと。

 

 

 

「なぁ、帰れるよな? 俺たち」

「……知らないわよ、だって、ここ、絶対におかしいじゃないっ」

 

 

 

 

 廊下は明らかに通常よりも長い。

 

 

 そして、三人はあることに気づく。さらに天井が高くなっていた。最初は普通の美術館の天井だったのに、今は見上げると暗闇が広がっている。

 

 

 

 

「天井が見えないくらい高い……」

 

 

 

 

 

 将吾がライトを向けた。頭上はどこまでも闇が続いている。

 

 もう、ここは自分が知る場所じゃない。その認識が全員に芽生える。

 

 その時、廊下の奥から、音がした。いや、よく聞くと足音ではない。何かが引きずられるような、湿った音だ。一度聞こえて、それきり消える。

 

 

     全員が顔を見合わせる。

 

 

 これが、ただの人間であればいいが……だが、この異形となった美術館でもう人が残っているかどうかも怪しかった。

 

 

 

 ぴちゃぴちゃ、まるで水たまりの上を常に歩いているような。そんな音が聞こえてくる。

 

 

 

「なぁ、誰か……近づいてきてないか」

「でも、人間かしら、ねぇ、どうする」

「……だが、この足音人間? それにこれって水の音、でも外は晴れだった……。何か嫌な感じがする、先に行こう。とりあえずはあの足音から離れた方がいい」

 

 

 本田が先に歩き出した。足音とは反対の方向に動き出し、振り返らないまま、足を速める。二人は彼についていく。

 

 

 すると次第に水の足音は距離が離れたのか、聞こえなくなる。しかし、安心はできなかった。

 

 

「……今度は銅像?」

 

 

 展示品の中に、おかしなものが混じり始めたからだ。人の形をした石像が、廊下の端に立っている。最初に気づいたのは飯島将吾だった。

 

 

 

「ちょっと待て、これは絶対最初にはなかった」

 

 

 ライトが石像を照らす。家族連れの父親が子供を抱き上げようとした姿のまま固まっている。そして、その顔は苦悶に歪んでいた。

 

 隣にはカップルが手を繋ごうとした姿のまま固まっている。指先が、届きそうで届かない距離で止まったままだ。さらにその隣には老婆が口を大きく開けたまま固まっている。

 

 

 

「日本の歴史展なんだよね、ここ。こんな銅像沢山あるの、なんで? 歴史って感じが全然しないけど」

「昔作られた彫刻とか」

 

 

 将吾が答えたが、自信のない声だった。

 

 その銅像に本田がカメラを向けた。老婆の石像の顔が映る。

 

 

 

 その目が、わずかに開いているように見えた。いや、確かに開いている。そして、その目が、カメラのレンズを向いていた。

 

 

 

 ──お、おい、み、たなら。たすけ。

 

 

 

 

 

「……行こう、早く。ここも長居しない方がいい」

 

 

 

 

 

 

 

◆◆◆

 

 

 

 

──三人はひたすらに進み続ける。しかし、いつまで経っても、出口に辿り着くことはなかった。

 

 

 

「くそ、全然出れない」

「どうやったら、出れるのよ……」

「待って。また、足音が……」

 

 

 

 

 また、足音が聞こえる。それも一人ではない、複数の足音だ。また、逃げるかと、考えていたが、先に声をかけられる。

 

 

 

「……そこに居る三人、逃げないで。大丈夫、人間だから」

 

 

 

 それは幼い少女のような声だった。思わず、固まる三人、本当に人間か、それとも何かの罠か。色々と考えていたが、先に二人組が姿を現した。

 

 

 

「人間、それに大人もいる……よ、よかった」

 

 

 ひたすらに安堵が湧いた。ようやく起きた明るい変化だったからだ。

 

 

 現れたのは二人組。一人は白い狩衣を着た背の高い男。もう一人は、同じく白い服装の、信じられないほど小柄な少女だ。少女は十二歳ほどに見えた。

 

 

 

「で、でも何その変な格好」

「職業柄です。お気になさらず。それより宵花、この三人は本当に人間かな」

「はい。人間です」

 

 

 狩衣姿の男性は穏やかに笑って答えた。そして、隣にいた幼い少女に三人の高校生の様子を確認している。

 

 

「人間、か。僕も同意見だよ。この三人からは禍々しい霊力を感じないからね。さて、生き残った三人、もう心配しないでください、大丈夫ですよ」

 

 

 その声は落ち着いていた。高校生三人の緊張が、少しだけほぐれる。辻谷はずっとニコニコ笑い続ける。そんな彼に三人は抑えていた弱みを次々と話し始めた。

 

 

「一時間以上、ずっと同じ場所をぐるぐるしてて。さっきまで実況とかしてたんですけど、もう全然笑えなくて」

 

 

 本田が消えかけたカメラのバッテリー表示を見ながら言った。

 

 

「入ってすぐは普通だったんです。でも気づいたら廊下が変わってて、天井が高くなってて」

「ここには入ってからどれくらい?」

「二時間、くらいですかね。ずっとここにいました」

「なるほど。二時間も生き延びられたのなら、運がいい。死んでいてもおかしくはなかったでしょうから」

 

 

 

 そう言われると高校生三人の顔色が、さらに悪くなった。

 

 

 

「さて、さっさとここ出よう。その前に自己紹介を。僕は朝霧辻谷(あさぎりつじや)、こっちの子は朝霧宵花(あさぎりよいか)。よろしく」

「……よろしくお願いします」

 

 

 朝霧辻谷(あさぎりつじや)朝霧宵花(あさぎりよいか)、それぞれが挨拶を終えると、朝霧宵花(あさぎりよいか)を先頭に歩き始める。

 

 

「宵花は先に、三人は僕の後ろを歩いてくれるかな」

「……はい」

「えと、その子が先頭でいいんですか?」

「えぇ、これが最適解なのでね。我々はプロです、何も疑問に思わず、ついてくるといい」

 

 

 宵花は霊力を感知する才能に長けていた。

 

 

 だからこそ、彼女が先頭に立ち、霊力の流れを読みながら進む。歩きながら、彼女はこの美術館の違和感に気づいた。

 

 

 

 

(外と内の広さが違う。空間が歪んでる、つまりは結界が張られてる。でも、これは……結界は複数あるのかな? それぞれが干渉し合って余計な複雑な作りになってる)

 

 

(でも、完全に塞がっているわけではない。外の霊力を僅かだけど感じる……でも、出るまで時間がかかりそう)

 

 

(とりあえず、ゆっくりでも、外の霊力に向かって歩かないと。この廊下を左に曲がって、二つ目の部屋の奥に隠し扉がある)

 

 

 

「辻谷さん。左に曲がった先に扉があります」

「分かった。本当だろうね」

「はい」

「そうかい」

 

 

 辻谷は高校生に向き直り、にこりと笑った。貼り付けたような笑みだが、暗闇の中を歩き続けた三人からすれば安堵の材料となった。

 

 

「安心してついてきて。出口はきっとこの先だから」

 

 

 彼のその言葉に将吾が感心したように言った。

 

 

「すごいですね。どうして分かるんですか?」

「経験です。こういった場所には何度も入ったことがあるので」

 

 

 

 いや、自分が指示した言葉をそのまま、流用して自分の手柄にしてる。と宵花は思ったが、特に何も言わなかった。

 

 

(よく堂々と自分の手柄みたいにできるな。さすがは宗家……まぁ、別にいいけど)

 

 内心では少しだけ毒を吐くが……そして、隠し扉、隠し通路を引き続き進んでいく。怪異にも出会わず、安全に進んでいた。

 

 しかし、すぐに出れるわけではなかった。二つ目の扉、三つ目の扉。次々と扉が出て、それをひたすらに潜る。

 

 

 

 

「あの辻谷さん、まだ出口は?」

「大丈夫。順調に進んでるから、ねぇ、宵花」

「……はい。少しずつですが、外に近づいてます」

 

 

 

 宵花が読み解き、辻谷が告げる。その繰り返しだった。

 

 しかし進むにつれて、廊下の様子がさらにおかしくなっていった。壁に、手形がついていた。べったりと黒い手形が、天井に向かって続いている。

 

 

 

 

 

 

(……館内の様子がさらに変異した。つまりは怪異が徐々に力を増してる。これはここにいる三人の恐怖に反応をしてるだけじゃない。他の人間からも……今の所、観客には会えていない。約千人、その数の人間がどこかに囚われている)

 

 

(人間の恐怖の集合である怪異。それなら、人間を生かさず殺さずで、どこかに保有しているとも考えられる。その数の人間をどうすれば……)

 

 

(この三人だけは、とりあえず外に出して……その後に救出のために再度突入すべきか)

 

 

 朝霧宵花は冷静に、館内の霊力の変化を捉えていた。しかし、他の四人はそうではなく、この道で合っているのかと不安を募らせるだけになる。

 

 

「あ、あの、あってるんですよね? なんかおかしい道に行ってるような」

「……宵花」

「問題ないです」

 

 

 

 辻谷に高校生が不安の声をぶつけ、辻谷が宵花に確認を取る。彼女が良いと話すので、辻谷は再び高校生たちを落ち着かせる。

 

 

「問題ないですよ」

「そ、そうですか」

「えぇ、本当に。本当に問題ないんだね、宵花」

「はい」

 

 

 

 直接確認せず、一回辻谷を挟む行為を、無駄と思いながらも宵花は言及をせずに先に進む。

 

 

 ──しかし、進むにつれて異変は大きくなり続ける。

 

 

 

 

 

 どこからか聞こえる呻き声、揺れる美術館、展示物が次第に乱雑に置かれ始める。そう言った変化に、全員が身を震わせた。

 

 

 自身の体温が数度下がったかのような、恐怖がずっとまとまりつく。

 

 

 

 

「なんか、寒くないか?」

「うん……いつまで、歩けばいいのかな」

「ここ、気持ち悪い」

 

 

 

 

 高校生組はそろそろ体力、気力ともに限界になっていた。そして、辻谷も同様であり、徐々に精神が削られて、イライラが募っている。

 

 

 

「宵花、いつまで歩けばいいんだい。さっさと出口まで歩きたまえ」

「……はい、でも、ここの美術館相当、複雑な結界が乱立してて」

「でも、じゃない。さっさと出られる出口を見つけてくれ」

「……善処します」

 

 

 

 そうは言ったが、簡単に出られたら陰陽師なんて職業いらないだろ。と思いながらも彼女は進み続ける。

 

 

 この中で、最も冷静に最善の行動をとっていたのが彼女だ。この結界の中で怪異と遭遇をせずに進めるほど、探知にも優れている。

 

 しかし、そんな彼女が思わず、足を止めた。

 

 

(……っ、この霊力、やばい、なにか、とんでもない存在が近くにいる。ここ、やっぱり結界が乱立してるせいで、感知が鈍るっ)

 

 

 

(どうする、ここで四人に引き返すとか言ったら、反感を買いそう。しかし、このままだと……遭遇、してしまう。あっちも、ワタシ達に気付き──)

 

 

 

 

 

 

 ──それが、五人の方に意識を向けた。

 

 

 

 

 

 

「全員、今すぐっ、反対側に逃げてッ」

 

 

 

 

 

 そう言った直後、廊下の奥から、黒い煙が這い出してきた。いや、それだけでなく、人型の【何か】が、煙から近づいてくる。

 

 そして、【それ】の全身が黒い霧に包まれているようだった。顔面は真っ黒に塗り潰されている。

 

 まるでこの空間の支配人のように、ゆっくりと廊下を歩いてきた。

 

 

 

 

 

 

   吐き気を催す、邪悪。人間の生とは反対に位置する存在。

 

 

 

 それを全員が感じ取ってしまった。逃げないと、逃げないと、そうしないと絶対に生きていられない。

 

 

 そう思った瞬間、彼らの動きは早かった。疲労を忘れたように、踵を返して走り出す。

 

 

 

「に、逃げろ!」

 

 

 

──【恐怖】を持ってしまった辻谷が叫ぶ前に、彼は我先にと走り出していた。

 

 

 高校生、辻谷は絶望の表情で走り出し、そんな四人を追って宵花も走る。しかし、咳が出た。胸が痛む。それでも足を動かした。

 

 

 

「けほっ……」

 

 

 そんな彼女に追い打ちをかけるように黒い煙を纏った怪異が、ゆっくりと追ってくる。そこまで足は速くない。しかし、確実に距離を詰めてくる。まるで逃げ場などないと知っているようだ。

 

 走りながら、辻谷の頭が高速で回転していた。

 

 

 

(まずい、まずいまずいまずい、あ、あれはやばい、僕では絶対に勝てない異形!!? 逃げなきゃ、殺される、霊力も何もかもが違いすぎる!!)

 

 

(くっそ! 分家の宵花を当てにしたのが間違いだった。すぐにでも逃げなければ!!)

 

 

 

 高速で回転をしているが、保身をすることを必死に考えているようだ。そして、逃げる。出口を目指して。しかし廊下が変わり続ける。どこに逃げればいいか分からない。

 

 

 

「あ!!!」

 

 

 

 

 その時、希望が見えた。そして、走った先の廊下の端に、光が見えたのだ。扉があり、その隙間から、外の光が差し込んでいるように見えた。

 

 

 

 

 

 

「あった! 出口だ!」

「そうだ。先に行け。君たちだけでも先に逃げろ。ここは僕が引き受ける」

 

 

 

 

 高校生の将吾が叫び、辻谷が高校生三人に先に逃げるように促す。その声には、有無を言わせない響きがある。しかし、高校生の将吾が一瞬だけ躊躇した。

 

 

 今までならば安全確認をしてもらい、その後に自分達が歩いていたからだ。これは、自分達が先に行っていいのか? 緊迫した中でそんな思いがかすかに湧く。

 

 

 しかし、迫る恐怖がその躊躇を上書きした。真由香も本田も、既に扉に向かい、走り出していた。

 

 

 

「待って」

 

 

 

 

 それを止めるように宵花が声を上げた。しかし、再び咳が飛び出し、苦しくなったのか膝をついた。

 

 

 

「罠です。あの光は違う。霊力の流れが出口に向かっていない」

「黙れ」

 

 

 辻谷が低く言った。彼は、そんなことなど分かっていたからだ。

 

 

 

「でも、あれって」

「黙れと言っている」

 

 

 

 

 辻谷は宵花を一瞥した。高校生は既に扉に向かって走っている。そして、怪異はまだ廊下の奥にいる。

 

 

 

 

「先に高校生に下見させる、そして、お前は僕をあれから守る盾となれ」

「……そのために、高校生を先に行かせたんですか?」

「僕は朝霧の宗家だ。誰が生き残るべきか、一目瞭然だろう。日本のためにも、誰が犠牲になった方がいいのか。優先順位は当然だ」

 

 

 

──黒い煙の怪異は近づいてくる。

 

 

 

 それから逃げるように高校生は扉を潜って消えてしまった。

 

 

 

 

「けほっ。ゲホッ……っ」

 

 

 

 

 

 宵花は咳が止まらず、その場にうずくまったままだ。彼女は元から体が弱く、喘息も持っていた。そして、それがここで発作を起こしてしまう。

 

 

 咳が、止まらない。胸が締め付けられる。立ち上がろうとしても、体が言うことを聞かない。

 

 

 

 

 

 

(くっそ……胸が、く、苦しいっ)

 

 

 

 

「宵花、ありがとう。僕は先に行くからね」 

 

 

 辻谷の声が、遠ざかっていく。宵花はうずくまったまま、その足音を聞くしかできない。

 

 なぜなら咳が止まらない。胸を押さえても、体の内側から締め付けられるような痛みが続く。喘息の発作がこんな場所で出るとは思っていなかった。

 

 廊下の奥から、あの音が近づいてくる。引きずるような、湿った音。足音がしない怪異の、存在だけが近づいてくる。

 

 

 

(隠れないと)

 

 

 

 このままでは死んでしまう。頭では分かっている。しかし体が、言うことを聞かない。

 

 

 

(せめて……今すぐ、隠形の術を) 

 

 

 必死に咳を堪えた。喉の奥に湧き上がるものを、強引に押し込む。そして、霊力の操作に全意識を向けた。 

 

 宵花の得意とする隠形は、単純な気配の消し方ではない。霊力を完全にゼロにする。漏れを作らない。

 

 

 隣にいるにも関わらず、まるで存在しないかのように隠れることも可能だった。

 

 

 そして、それこそが彼女の切り札であり、それについて彼女は誰にも言ったことがない。なぜなら、分家である彼女は、自らが酷使されることを知っていた。だからこそ、生き残るために、自らの手札を隠していたのだ。

 

 そして、それが役に立つ。

 

 

 

 

(気配を、存在全てを消す……)

 

 

 

 怪異が、曲がり角から現れた。黒い煙を纏った人型。顔面が真っ黒に塗り潰されている。それがゆっくりと廊下を進んできた。

 

 

 

 徐々に、彼女の近くに寄ってくる。バクバクと、心臓が高まり、微かに呼吸も乱れる。しかし、吸引のステロイドを使い、咳をなんとか止めて、あとは通り過ぎるのを待った。

 

 

 すると、怪異は他の面々を追うように、宵花のすぐ横を通り過ぎた。

 

 

 

 

 

 

「……はぁ、はぁ、生きてる……」

 

 

 

 

──完全に、彼女は気づかれることなく、怪異をやり過ごしたのだ。

 

 

 

 

  怪異が廊下の奥へと消えていく。その背中が見えなくなってから、宵花はようやく息を吐いた。声にならない、細い息だった。

 

 

 

 

(三人が扉を潜ったら、扉は消えてしまった。辻谷さんは、それを見て別方向に行ったけど、大丈夫かな……)

 

 

 

 

 やはり、あの扉は罠だった。高校生が通った瞬間に扉は消えてしまい、完全に分断されたからだ。

 

 そして、辻谷はそれを見た後、宵花を置いて自分だけ逃げた。

 

 

 

 

「……単独の方がやりやすいけど。取り敢えず、四人と他の観客も見つけないと」

 

 

 

 置いてきぼりにされた彼女は再び体を起こして、胸を少し抑えながら歩き出した。

 

 

 

 

 

◾️◾️

 

 

 

 一方、高校生達は……

 

 

 

 ──扉の向こうは、外ではなかった。

 

 光だと思っていたものは、最初から存在しないように闇に消えている。さらに足を踏み入れた瞬間、背後で扉が消えていた。振り返っても、暗い廊下が続くだけ。

 

 

 

「……嘘、だろ。扉、なくなった」

 

 

 本田の声が、廊下に吸い込まれた。

 

 

 三人は顔を見合わせた。泣き声は出なかった。もう、声を出す気力もなかった。ただ歩いた。戻れないなら、進むしかない。その意思が足だけを動かす。

 

 

 

 

 

 

「くそ、どうすればいいんだよ……」

「あの人達ともはぐれちゃったし」

「なんとか、合流しないとな」

 

 

 

 

 

 再び、闇の中を歩く三人。しばらく歩いた先で、人影が見えた。そして、それはどこか見覚えがあるもので。

 

 

 

「あ、あれ! あれって……辻谷さん、よね」

「そうだ! 狩衣きてる大人なんて、あの人しかいない!」

 

 

 

 真由香が駆け寄り、それに続き将吾も走り出す。彼女達の顔には安堵が再び湧いていた。この暗闇の中で、頼れる存在を再び見つけたからだ。

 

 

 

「辻谷、さ、ん……?」

 

 

 しかし、近づいた瞬間、将吾の足が止まる。

 

 辻谷の体は、灰色に変わっていた。腕を前に伸ばしたまま。足を踏み出したまま。顔が、恐怖に歪んだまま、固まっている。

 

 

 全身が石に変わり、微動だにしない。

 

 

 

 

 

 

「……嘘、だろ」

「この人も、銅像になってる……」

 

 

 

 

 言葉が、喉から剥がれ落ちた。

 

 

 その瞬間、廊下の奥から黒い煙が這い出してきた、人型の怪異が、煙の中からゆっくりと歩き出す。

 

 

 

「ひぃ……」

「おい、まだ、来るのかよ!!!」

「助けてくれ、誰か!」

 

 

 

 

 もう、逃げ場はない。

 

 

 将吾の輪郭が、灰色に滲んでいった。真由香が口を開いたまま固まる。本田がカメラを構えた姿のまま、固まった。

 

 

 

 廊下に、三つの石像が増えた。

 

 

 

 

 

 

 

──結局、この四人の中で宵花だけが生き残った。

 

 

 

 

 

「けほっ、早く探さないと……」

 

 

 

 

 

 闇を歩く彼女……しかし、その時、彼女は気づかなかった。美術館の入り口の扉が人知れず、開いたことに。

 

 

 

 

「ここが、噂のダンジョンかー。おおーMPに満ちてるね、テンション上がるなー」

 

 

 

 

 そこに光すら生ぬるい、勇者が入り込む。

 




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