「キョン! 有希をくすぐってみましょう!!」
その日、部室の扉を開けて鞄を置くや否や、涼宮ハルヒは高らかに宣言した。
窓際で厚さ数センチのハードカバーに視線を落としていた長門有希は、ピクリとも動かない。まるでその言葉が自分に向けられたものではないと確信しているかのように、ページをめくる指先さえリズムを変えなかった。
「……おい」
俺は自分の席に座りながら、いつものように深いため息をついた。
「お前な、いきなり何を言い出すかと思えば。そんなことをしたら長門が可哀想だろ」
「どうしてよ? 可哀想なことなんて何もないわ」
ハルヒは腰に手を当て、仁王立ちで俺を見下ろす。
「くすぐりというのはね、人間関係の潤滑油なのよ。スキンシップの一環だし、笑うことで健康増進にも繋がるの。むしろ感謝されてもいいくらいだわ」
「長門が『くすぐってくれてありがとう』なんて言う図が想像できるか?」
「できないわね」
即答かよ。
「だからこそやるのよ! キョン、あんた有希が笑ったところ、見たことある?」
俺は長門を見た。相変わらず無表情で、活字の海に沈んでいる。
確かに、ない。
俺たちが北高に入学してから数ヶ月、宇宙人だの未来人だの超能力者だのに振り回されてきたが、長門有希が声を上げて笑った記憶は皆無だ。せいぜい、表情筋がミクロ単位で動いたかどうかというレベルである。
「ないだろ? だから見たいのよ。有希が『あははは、やめてよハルヒ!』なんて涙流して笑い転げるところを!」
「キャラ崩壊もいいところだな……」
「というわけで、作戦開始よ! みくるちゃん、こっち側から回り込んで! 古泉くんはドアを封鎖! キョンは逃げ場を塞ぎなさい!」
すでに巻き込まれていた朝比奈さんが「ひぃっ、わ、わたしもですかぁ?」とお茶のトレーを持ったまま震えている。古泉はといえば、「ふむ、長門さんの笑顔ですか。それは確かに興味深いですね」などと爽やかな笑顔で肯定し、さりげなく退路を断つ位置に移動していた。こいつもこいつだ。
「いくわよ! SOS団、突撃!」
ハルヒの号令とともに、理不尽な包囲網が狭まった。
ハルヒが長門の脇腹を狙って両手を突き出す。
その瞬間だった。
シュッ。
風を切る音が聞こえた気がした。
ハルヒの手は空を切り、勢い余って長門が座っていたパイプ椅子を掴んでいた。
長門はといえば、いつの間にか立ち上がり、ほんの半歩横にずれていた。本は開いたままだ。視線すら本から外していない。
「むっ! やるわね有希! みくるちゃん、今よ!」
「え、ええっ!? ご、ごめんなさい長門さんっ!」
朝比奈さんが恐る恐る長門の背後から抱きつこうとする。
だが、長門はページをめくる動作と連動するかのような自然な動きで、くるりと身を翻した。朝比奈さんは勢い余って、ハルヒの胸に飛び込む形になった。
「きゃっ!」
「わっ、ちょっとみくるちゃん! 敵はそっちじゃないわよ!」
「す、すみません~!」
団子状態になる女子二人。
古泉が「おや」と苦笑しつつ、加勢しようと近づくが、長門はまるで背中に目があるかのように、最小限の動きで彼らの手をすり抜けていく。
その動きは達人の演武のようだった。右へ、左へ。
彼女は部室の狭い空間を、音もなく滑るように移動する。
驚くべきは、その間一度も読書を中断していないことだ。
「きーっ! ちょこまかと! キョン! あんた何ぼーっとしてんのよ! 捕まえなさい!」
「無理言うな。対有機生命体コンタクト用ヒューマノイド・インターフェースに、ただの地球人が勝てるわけないだろ」
「わけわかんないこと言ってないで、足を押さえるとかしなさいよ!」
ハルヒが痺れを切らして俺の背中を蹴飛ばした。
俺はたたらを踏んで、長門の正面へと突っ込む形になる。
「わっ、と……悪い、長門!」
俺がぶつかる寸前、長門がついに本を閉じた。
そして、俺の腕を軽く掴むと、合気道のように力を受け流した。俺はふわりと回転させられ、安全に近くの椅子へと着地させられた。
静寂。
部室の真ん中に、長門がぽつんと立っている。
息一つ乱していない。
ハルヒは肩で息をしながら、悔しそうに地団駄を踏んだ。
「もーっ! なんなのよ! なんでくすぐられないのよ!」
「……必要性を感じない」
長門が淡々と言った。それが全てだった。
「つまんない! 鉄壁すぎるわよ有希! もういいわ、作戦変更! こうなったら笑わせるまで帰さない『お笑いSOS団』を結成するわよ! 古泉くん、面白い一発芸を考えなさい!」
「はは、それは難題ですね」
「みくるちゃんは着ぐるみね! 商店街にカエルの衣装を買いに行くわよ!」
「ええ~っ、カエルですかぁ……」
ハルヒは嵐のように怒り、次なる理不尽な思いつきを実行するために、朝比奈さんと古泉を引き連れて部室を出て行った。
「キョン! あんたはそこで反省してなさい!」
バタン、とドアが閉まる。
あとに残されたのは、散らかった部室と、俺と、長門だけだった。
やれやれ。
俺は長門が直してくれた椅子に座り直し、彼女を見た。
長門はまた元の窓際の席に戻り、何事もなかったかのように本を開いている。
「……災難だったな」
俺が声をかけると、長門はページから目を離さずに小さく頷いた。
「でもまあ、ハルヒがああやってムキになるのも、お前にもっと人間らしく……いや、もっと感情を出してほしいと思ってるからなんだろうな」
余計なお世話だとは思うが、ハルヒなりのコミュニケーションなのだ。方法は常に間違っているが。
俺は頭を掻きながら続けた。
「俺は別に、無理に笑う必要はないと思うぞ。お前はお前だしな」
ただ。
「まあ、たまには……お前が楽しそうにしてるところを見れたら、俺も少しは安心するけどな」
言った後で、少し気恥ずかしくなった。
長門の手が止まる。
彼女はゆっくりと顔を上げ、眼鏡の奥の静かな瞳で俺をじっと見つめた。
部室に差し込む夕日が、彼女の白い肌を朱色に染めている。
数秒の沈黙。
やがて、長門は持っていた本を少しだけ顔の高さまで持ち上げた。
口元が隠れるか隠れないかの絶妙な位置。
その本の陰で。
ほんの一瞬。
頬が緩み、唇の両端がかすかに、本当にわずかに持ち上がったのを、俺は見た。
「……ふふ」
空耳かと思うほどの、吐息のような小さな音。
それは間違いなく、笑い声だった。
「え?」
俺が身を乗り出した時には、長門はすでに元の無表情に戻り、本の中に意識を没入させていた。
「今、笑ったか?」
「……」
返事はない。ただ、ページをめくる指先が、先ほどよりも少しだけ軽やかに見えたのは俺の気のせいだろうか。
廊下から、ハルヒたちの騒がしい声が戻ってくるのが聞こえる。
俺は背もたれに体を預け、小さく息を吐いた。
ハルヒには悪いが、このミッションは失敗のままでいい。
あいつには見えない、俺だけの特権ということにしておこう。
俺は戻ってきたハルヒに怒鳴られる準備をしながら、少しだけ口元を緩めた。