喜多郁代の徐々に奇妙な冒険──Like a Rolling Stone── 作:ほっこく
ピチャンと、髪から滴る水滴が浴槽に落ちて音が鳴った。肩までお湯に浸かりながら、力を抜き、ゆっくりと目を閉じる。
頭に浮かぶのは、後藤さんから聴いた『聖なる矢』と、それにまつわる人々の話だ。
彼女は自分が悪いと責めていたけれど、私はそうは思わない。
ただ、今の後藤さんにそれを伝えたところで、あまり意味がないようにも思えた。自分を責めてる人に、君は悪くないよって伝えるのは、大抵の場合とても難しい。
私を守るために、出来る限りのことをすると言ってくれてたけど……具体的には何をするんだろう?
ちなみに、今日の戦いで破損した教室等については、後藤さんの話に出てきた財団が秘密裏に処理してくれたらしい。あの惨状をどうにかしちゃうなんて、もう殆ど反則技だ。
でも、反則技でもなんでもいいから、私は彼女を罪悪感から救い上げたかった。
私にはいったい何ができるんだろうか、後藤さんのために何が……
考えてはみたけれど、いいアイデアは浮かばない。伝えたい気持ちはあるのに、それがどうしたら届くのかが、分からないのよね。
ダメだわ、このままここで脳みそを使ったらのぼせちゃいそう。
私はまとまらない考えを粘土のようにこね回し、一度頭から放り投げつつ、お風呂からあがることにした。
「いいお湯でした〜!」
「あら〜、丁度よかったわ。お父さんがケーキ持って帰ってきたところよ〜」
身支度を整えてから脱衣所の扉を開け、勧められるがままにソファに座ると、可愛い絵柄の紙箱を持った男性が、キッチンから顔を覗かせた。
「はじめまして喜多さん、ひとりの父です。ショート、チーズ、チョコレート、どれがお好みかな?」
「ありがとうございます〜! お父さん似でもなかったわね……」
「喜多さん?」
「な、なんでも。えっと、じゃあチーズケーキお願いします!」
「うんうん、ひとりはチョコレートにするはずだから、紅茶と一緒に二人で食べてね」
そう言って、後藤さんのお父さんはお盆に二人分のお皿を用意する。キッチンではお湯を沸かす音がするので、紅茶を入れてくれているらしい。
お湯の音と一緒に、お母さんは私へ尋ねる。
「……あの子、自分だけの世界に入って迷惑かけてない?」
「あー……でも迷惑だなんて! あれも後藤さんの個性っていうか」
咄嗟の質問だったので否定し損ねちゃったけど、変に誤魔化さない方がいいだろうし、迷惑に感じてないのだって本気だもの。
「……そうなんだ」
ケーキを取り分けたお父さんは、なにかを思い出すようにお母さんから紅茶を受け取り、しみじみと語った。
「ひとりは昔からあぁいう性格だったから、高校は心機一転で離れたところにって言ってたんだけど、やっぱり僕たちは親だから少し……いや、かなり心配でね」
まぁ、そういうわけだからさ。
彼はそう前置きをして、お皿とカップの乗ったお盆を持ち上げ、廊下へと目配せする。
「これからも、ひとりの側に居てやってくれると嬉しいな」
それは、さっきまで私が私自身へ問いかけていた問題の、その答えのように思えた。
そもそも私と後藤さんは本日が初めましてなわけで、そんな私がこの質問に応えること自体、客観的にはおかしいのかも知れない。
けど、それでも私たちは共にスタンド使いと戦った仲なのだ。人と人との関係を円熟させるのに体験や経験の共有を要するのなら、共闘というのはその最たるものだと思う。バスケの試合で同じチームになったり、合唱のパート分けで同じアルトになったり、そういう感じのね。
だから、大丈夫。
私はちゃんと応えられる。
「はい! もちろんです、友達ですから」
「うん、よろしくお願いするよ」
私が返事をすると、お父さんはホッとしたように笑い、お母さんも穏やかな顔で頷いてくれた。
そしてお盆を持ったお父さんに先導されながら、私は後藤さん部屋の前まで戻ってきた。
「ひとりー、ただいま〜。ケーキ持ってきたぞ〜」
お父さんの呼びかけに後藤さんが気がつくまでの数秒で、軽く息を吸って吐く、そうやって気持ちを安定させる。
伝えたい言葉は、きちんと伝えるべきだ。
しかし、少し待っても部屋から声が返ってこない。私は不思議に思ったけど、お父さんはそうでもないらしく、またかという表情で襖を開いた。
部屋を一瞥すると、そこに人影はなく、変化といえば机が部屋の中央に移動しているくらいだ。
すると、お父さんが部屋の隅、押入れの方を指差すので見てみれば、そこに向かって電源コードが伸びている。
「あそこにいるはずだから、声をかけてあげて。じゃあ僕はこれで」
お父さんは机にお盆を置くと、その足で一階へ戻ってしまった。
あそこ、って言われても……押入れの中よ? どうしてまた、そんなところに居るのかしら。
恐る恐る件の押入れに近づき、襖へ手をかけると、中から規則性のある音がかすかに漏れている。なんの音だろう。
そっと、音の邪魔にならないように、私は押入れの中を見た。
そこは、言うならば秘密基地のようだった。
壁に貼られたバンドのポスター群。
ぎゅうぎゅうに積まれ詰められた段ボールと、スタンドにマイク。
そして、ノートパソコンと機材に囲まれた後藤さん。
彼女は黒いギターを持って座りこみ、ヘッドフォンを装着して、両手を忙しなく動かしている。こちらに気がつく様子はない、とんでもない集中力だ。
それに、こうして他に遮るものがなくなると、ヘッドフォン越しでもそれなりに音が聴こえるようになる。
私は圧倒された。
後藤さんが指を滑らせるたびに音色が変化し、それらは淀みなく一つの旋律になる。
時間にしたら、ほんの十数秒くらいで演奏は終わってしまった。
その十数秒で私の心は滅多打ちだ。
演奏を終えた後藤さんへ惜しみない拍手を送ると、彼女はようやく私の存在に気がついたらしい。
その場で勢いよく片膝を立てようとした後藤さんの後頭部が、押入れの天井にぶつかり鈍い音が鳴った。
「〜〜〜〜っ?!」
「ちょっと後藤さん?! 大丈夫?」
「あっはい、大丈夫です……」
頭を抱える後藤さんの手を引き、よろよろと押入れから転がるように出てきた彼女を座らせて、私もその正面に腰を下ろす。
後藤さんが落ち着くのを待って、私はあらためて彼女の手を取った。
この胸の奥から溢れ出すパッションを、一秒でも早く伝えなきゃ。
「もー! すごーい! 感動! 素晴らしいギターだったわ後藤さん!」
「あっはい、ありがとうございます。あの……手を……」
後藤さんがなにか言ってるけどちっとも耳に入ってこない。
これから伝える言葉のことを思い、手に力が入る、すると彼女の手が強張ったような気がした。
「あのねっ、後藤さん。夕飯のときは勢いで言っちゃって……もちろん本気だったけど、でも今の演奏を聴いて思ったわ」
小さく、息を吸う。
「私にギターを教えて欲しい、私の先生になって」
出来ることなら、彼女の淡い水色の瞳と目を合わせながらお願いしたかったけど、どうも叶いそうにない。
というより答えを貰えるかも怪しくなってきた。
だって後藤さんがドロドロに溶け始めてしまったからね!
「……うぅ、キラキラ爽やか熱血青春パワーを手から直接注入されるなんて致命的過ぎる……ぁう」
「後藤さーん?!」
◆ ◇ ◆
「はい、お父さんがケーキ買って来てくれたの。後藤さんはチョコレートでよかった?」
「あっはい、ありがとうございます……」
どうにか一纏めにして固めた後藤さんとケーキを食べて紅茶を飲んでる。
チーズケーキのフィルムを外し、フォークで切り分けて口に運ぶ。
ン〜、このしっとり感が堪らないわ〜。紅茶も丁度いい渋さでケーキによく合ってる。
「あっ、あの喜多さん……さっきの話、なんですけど」
「うん……もしかして、迷惑だった?」
夕食のときと、さっきと、どちらも断りにくいシチュエーションで迫ったという自覚はあった。だから、彼女が本当に無理なんだとしたら、ここが最後の引きどころだ。
そう考えていると、後藤さんは大袈裟に首を振った。
「あっ、いえ、めめ迷惑なんて! ただ、その、本当に私でいいのかと……ギターは独学だし、ひ、人様に教えたことなんて一度も、喜多さんには、た、ただでさえ矢のことで負担をかけてるのに」
なんだ、そんなこと。
「私は後藤さんがいいの。後藤さんに、ギターを教えてほしいのよ」
「ど、どうして……」
曲がった背中に、どこか悲しげな表情。
これは、なんとなく分かる。自分を信じ切れない人の顔だ。他人からの期待とか、信頼に、自分は相応しくないと、心のどこかで思っている。
そういう殻に後藤さんは閉じ籠っている。
でも、それは勿体無いことだわ。
「私ね、実は今バンドに入ってるの」
「えっ、で、でも喜多さんギターは……」
訝し気な表情でこちらを見る後藤さんに、私は右手を首筋へ持っていく。
「うん、憧れの先輩目当てで、弾けるって嘘ついたのよね……ヤバいでしょ?」
思わず苦笑いしながら真実を告げれば、釣られたのか後藤さんも小さく口角を上げた。
「そ、それは……や、ヤバいですね。ふへへ」
「だから助けて欲しいの。ほら見てよこれ、あと一ヶ月と少しで弾けるようにならなきゃ」
スマホに保存していた譜面を見せると、彼女は真面目な顔をして画面を覗き込む。そしてなにかブツブツと呟き始めた。
「……この選曲は、ある程度ギターが弾ける人なら問題がないよう意図していますね。あ、新しく募集した人がどの程度弾けるかは分からないし、妥当です。の、残り一ヶ月……でもこの曲目に狙いを絞って練習すれば、先ずは……」
これは、引き受けてくれるってことなのかしら? 自分の世界から帰ってくる様子のない後藤さんを眺めながら、それでも私は言った。
「……ありがとう、後藤さん」
「あっ、喜多さん。ギターを見せてもらってもいいですか」
「うわ、びっくりした。急に帰ってくるのね、勿論いいけど」
壁に立てかけていたギターケースを床に置いてファスナーを開く。
「でも本当に助かるわ、私いくら練習してもギター弾けなくて、何かボンボンって低い音がするのよね」
「えっ、それベースじゃ……」
後藤さんの指摘に私は思わず声を上げてしまった。
「あはは、私そこまで無知じゃないって。ベースって弦が四本のやつでしょ」
も〜、後藤さんってば。
ケースを開いて中身を確認して貰う。
弦の数を今一度、私もしっかりと確認する。
「ほらっ、ちゃんと六本あるでしょ?」
「げ、弦が六本のとかもあります……そ、それは多弦ベースです」
たげん、べーす……?
じゃあ、その、なに? 私が30回以上の楽器ローンを組んで買ったこの弦楽器は、ベースだったの? 弦が六本ある?
目の前が真っ暗になる、矢に刺されたときだってこんなに暗い気持ちにはならなかった。
「ローンまだまだ残ってるのに……あひゅう」
「き、喜多さーん!!!!」
◆ ◇ ◆
翌朝である。
後藤さんの案で多弦ベースの払戻し、もしくは下取りをお願いするため、私たちは新宿へ向かうことにした。どうして新宿かっていうと、あの忌々しいベースを買ったのが新宿だからだ。
どこで買うかは渋谷と新宿で迷ったけど、あの日は新宿の新しい喫茶店にも行きたかったし……
そんなわけで後藤さん家の最寄り駅まで来たところ、どうも様子がおかしい。
京急線のりばに人集りができている。
「ねぇ、今日って駅でイベントでもある日なの?」
「あっ、いや、す、すみません分かりません……」
まぁ仮に催し物があったとしても、後藤さんは絶対に参加しないだろうし、存在を知らなかったとしても無理はないわよね。
近づいて見ると、人集りの中心にいるのも人だった。
女性だ。
肩口まで伸ばされた癖のあるピンク色の髪。派手なサングラスと、まるでパーティー会場から抜け出してきたような豪奢なドレス。
お忍びのセレブなのかしら。
そう思っていると、何かに気がついた様子の女性がサングラスを外した。当然、サングラスで隠されていたものが露わになる。
淡い、水色の瞳。
やだ、嘘でしょ。そんなことってある? あの人は──
「ヒトリ!! チャオ、久しぶりね! バーさんの葬式以来だから……え〜っと、一ヶ月ぶりくらい? 相変わらずフニャフニャなんだから、ちゃんと食べてるの?」
隣に立っていた後藤さんが、女性から猛烈なハグをうけ、両頬にキスをされている(正確には頬の近くでリップ音を鳴らしただけ)。
その状況に脳が混乱し置いてけぼりを喰らっていると、私よりも先に復活した後藤さんが抗議の声をあげた。
「もうっ、人前のハグは禁止だって百回は言ってるのに、恥ずかしいよ……」
「ハグは挨拶、挨拶を恥ずかしがることないって、これだって百回は言ったわ」
「そ、それはイタリアの話でしょ? ここは日本で、神奈川なの。神奈川では挨拶のたびにハグしたりしないんだってば」
おっどろいたわ。
あの後藤さんが比較的流暢に話せてる、こんなことってあるのね……って違うわよ、そこに感心してる場合じゃない。だって、私の勘違いじゃなければ、目の前にいるこの人は。
そんな私の疑問も晴らすように、後藤さんを解放した女性が私の方へと向き直り。
「で、あなたが『ポラリス』に目をつけられたアンラッキーガールね? 私は『トリッシュ・ウナ』。ヒトリのハトコよ。一応歌手をやってるんだけど、聴いたことある?」
トリッシュ・ウナ。
イタリアが世界に誇る歌姫は、そんな風に笑いかけてくるのだった。
To Be Continued