ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

1 / 38
迷い込んだ勇者と魔法使い

その日、世界は唐突に、何の前触れもなく反転した。

魂の眠る地、オレオール。

魔王を倒し、王都に戻る前に4人で目指した、大陸の最果て。

その道程は、瞬きするほどの短い間に、唐突に途絶えた。

転移魔法のような浮遊感も、空間が裂けるような轟音もなかった。

ただ、次の足を地面に踏み出した瞬間——

靴底が捉えた感触が、荒涼とした北土の砂利から、綺麗に舗装された石畳へと変わっていたのだ。

________________________________________

勇者ヒンメルは、マントを翻してその場に立ち尽くした。

視界に広がるのは、見慣れぬ建築様式の建物群と、活気に満ちた人々の往来。

色彩豊かな果実を売る露店。

馬車ではなく、巨大な地竜が引く荷車。

そして何より、行き交う人々の種族の多様さ。

獣の耳を持つ者、蜥蜴の皮膚を持つ者。

それらが人間と当たり前に混ざり合い、生活を営んでいる。

ヒンメルは、まず己の身なりを確認した。

腰の剣はある。純白のマントに汚れはない。

そして、懐から手鏡を取り出し、前髪を指先で軽く整える。

「やれやれ。どうやら世界が変わっても、僕の輝きは損なわれていないようだね」

鏡に映る自分の瞳を見つめ、口角を完璧な角度で吊り上げる。

それは勇者としての、いつものルーティンだった。

だが、その鏡を持つ指先が、ほんのわずかに——

誰にも気づかれないほど微細に震えていることを、ヒンメル自身だけが知っていた。

ここはどこだ。ハイターは、アイゼンはどこにいる。

なぜ僕とフリーレンだけなのだ。

心臓が早鐘を打つ。

未知への恐怖が、冷たい水のように胃の底に溜まっていく。

しかし、彼は鏡をパチンと閉じると、その不安を完璧な笑顔の下に押し隠し、隣に立つ小柄なエルフの魔法使いへと振り返った。

「フリーレン。どうやら僕たちは、とんでもない場所に迷い込んでしまったらしい」

________________________________________

声をかけられたフリーレンは、ヒンメルのような動揺——あるいはそれを隠すための虚勢——すら見せていなかった。

ただ、その碧眼を細め、不快そうに大気を見上げている。

彼女の無表情はいつものことだが、その瞳には珍しく明確な警戒色が滲んでいた。

「……ヒンメル。呑気なことを言っている場合じゃないよ」

フリーレンの声は低く、乾いていた。

彼女は杖を握る手に力を込め、周囲の喧騒を忌々しげに見渡した。

「この場所、何かがおかしい」

「おかしい? 活気があって良い街じゃないか。

それに見てごらん、あそこで売っている赤い果物、リンゴに似ているけれど少し違う。

異文化交流の第一歩として、一つ買ってみようかと思うんだけど」

「そうじゃなくて」

フリーレンは短く遮ると、自身の掌を空に向けた。

「マナの質が、私の知っているものと違う。

濃度だけは異常に高いけれど、循環していない。澱んでる。

まるで、下水の中を泳いでいるみたいで気持ち悪い」

彼女の言葉は、ヒンメルには感覚として理解できない領域のものだった。

だが、フリーレンが魔法に関してこれほど強い嫌悪感を示すことは稀だ。

魔族の気配を感じ取った時ですら、彼女はもう少し冷静だったように思う。

「それに、空間座標の固定が甘い。……見てて」

フリーレンは杖の先を軽く浮かせ、飛行魔法の術式を展開した。

いつものように、ふわりと身体が浮き上がる——はずだった。

しかし、彼女の身体は一度数センチほど浮き上がったかと思うと、

見えない手で叩き落されたように、カクリとバランスを崩して石畳に着地した。

「……っ」

フリーレンが眉をひそめる。

「どうしたんだい、フリーレン。着地失敗なんて、君にしては珍しいね」

「術式の構成は完璧だった。でも、大気中のマナが私の命令に対して、ワンテンポ遅れて反応した。

……この世界の法則は、私たちの知っている魔法理論とは、根本的な部分で何かがズレてる」

彼女は自分の掌を握ったり開いたりして、感覚を確かめるように呟いた。

「飛べないわけじゃない。でも、微調整が必要だね。

戦闘になったら、いつもの感覚で撃つと外すかもしれない」

それは、魔法使いにとって致命的な宣告に近い言葉だった。

だが、ヒンメルはあくまで軽やかに笑ってみせた。

「なるほど。つまり、僕が君を守る出番が増えるということだね。

任せておくれ。君に指一本触れさせはしないよ」

「はいはい。……でも、とりあえずはこの街の情報を集めないと。

現状把握が最優先」

フリーレンはヒンメルの背後に隠れるようにして、周囲の視線を避けた。

エルフという種族はこの世界でも珍しいのか、あるいは彼女の纏う冷徹な空気が異質なせいか、道行く人々がチラチラと視線を送ってくる。

「そうだね。まずは銅像を建てるのに相応しい広場を探しつつ、聞き込みといこうか」

「……この状況で銅像の話が出る神経が信じられない」

呆れたように吐き捨てるフリーレンの声を背中に受けながら、ヒンメルは歩き出した。

その背筋は真っ直ぐに伸び、迷いなど微塵も感じさせない。

だが、その内側で、ヒンメルは必死に思考を巡らせていた。

(魔法が万全でないフリーレンを、未知の脅威に晒すわけにはいかない。

もしもの時は、僕が盾にならなければ。

……死ぬのは怖い。痛いのも嫌だ。

だが、彼女が傷つくよりはマシだ)

恐怖を飼い慣らし、勇者を演じる。

それは彼が長年続けてきた、呼吸と同じくらい自然な行為だった。

________________________________________

二人は王都ルグニカの大通りを歩いた。

リンガと呼ばれる赤い果実を売る店主カドモンとの会話で、

ここが「ルグニカ王国」という場所であること、

そして自分たちの持つ貨幣がここでは通用しないことを知った。

無一文。

異世界転移の定番とはいえ、笑えない状況だ。

「どうするの、ヒンメル。野宿は嫌だよ」

「大丈夫さ、フリーレン。困っている人を助けて謝礼をもらう。

冒険の基本だよ。幸い、この街は困りごとは多そうだ」

「……楽観的すぎる」

やがて、人通りの多い大通りを外れ、少し静かな場所を探そうとしたのが間違いだったのかもしれない。

あるいは、運命という名の引力に導かれたのか。

二人が迷い込んだのは、貧民街に近い、薄暗い路地裏だった。

表通りの華やかさとは打って変わり、腐った水と埃の臭いが鼻をつく。

建物の影が長く伸び、湿った空気が肌にまとわりつく場所。

「……嫌な気配だね」

フリーレンが小声で呟く。

「ああ。だが、こういう場所にこそ、助けを求める人がいるかもしれない」

そう言った矢先だった。

前方の影から、三つの人影が現れた。

小柄だが鋭い目つきの男。痩せぎすで陰気な男。そして、巨漢の男。

典型的な、路地裏のチンピラたちだった。

「おいおい、兄ちゃんたち。ここは観光客が来るような場所じゃねえぜ」

小柄な男——トンチンカンの一人、トンがニヤニヤしながらナイフを取り出して弄ぶ。

「怪我をしたくなけりゃ、身につけている金目のものを置いていきな。

あと、そこの嬢ちゃんも置いていってもらおうか」

ありふれた脅し文句。

だが、その言葉に含まれる明確な悪意に、フリーレンの瞳から感情が消え失せた。

彼女にとって、ヒンメルに向けられる刃は、魔族に向けられるそれと同義だ。

即座に杖を構えようとするフリーレン。

その杖の先端に、収束された魔力の光が灯りかける。

──ゾルトラーク。人を殺す魔法。

だが、その詠唱が紡がれるよりも早く、ヒンメルの手がフリーレンの肩を制した。

「待つんだ、フリーレン」

「……ヒンメル。こいつら、邪魔」

「一般市民だ。多少、行儀が悪いだけのね」

ヒンメルは優雅な動作で一歩前に出た。

剣は抜かない。ただ、その身一つでフリーレンとチンピラたちの間に壁を作る。

「やあ、君たち。僕たちに声をかけてくれるとは嬉しいが、

あいにく持ち合わせがなくてね。

むしろ、この街の案内をしてくれたら、

僕のサインをあげてもいいんだが」

「はあ? 誰だテメェ。ナメてんのか!」

「僕は勇者ヒンメル。見ての通り、イケメンだ」

「イケメンとかどうでもいいんだよ! 殺すぞ!」

巨漢のカンが拳を鳴らして踏み込んでくる。

ヒンメルは溜息を一つついた。

言葉が通じない相手には慣れているが、やはり暴力で解決するのは美学に反する。

だが、フリーレンに手出しをさせるわけにはいかない。

彼女の魔法は、加減を知らないことがある。

特に、この世界での調整が済んでいない今、

威力を抑えきれずに彼らを消し飛ばしてしまう可能性が高かった。

(やるしかないか。……手加減をして、気絶させる程度に)

ヒンメルが剣の柄に手をかけた、その時だった。

「そこまでよ!」

凛とした、鈴を転がすような声が路地裏に響いた。

全員の視線が、声の主へと向けられる。

路地の入り口に立っていたのは、一人の少女だった。

銀色の長い髪。紫紺の瞳。

その美貌は、路地裏の薄汚れた空気の中で、

そこだけ切り取られた絵画のように輝いていた。

しかし、その表情は怒りに満ちている。

彼女の周囲には、鋭利な氷の礫がいくつも浮遊し、

チンピラたちへと狙いを定めていた。

「寄ってたかって、二人をいじめるなんて感心しないわ。

その人たちから離れなさい。さもないと……」

「ゲッ、魔法使いかよ!」

「しかもあの猫、精霊か!?」

少女の肩に乗っていた小さな灰色の猫——パックが、

可愛らしい見た目とは裏腹な、底冷えするような魔力を放っていた。

「リアを怒らせると怖いよ?

僕としても、ボクの娘に手出しさせたくはないなぁ」

その圧倒的な実力差を悟ったのか、

トンチンカンの三人は舌打ちをして後ずさる。

「ちっ、今日は厄日だ! 覚えてろよ!」

捨て台詞を残し、三人は脱兎のごとく逃げ去っていった。

________________________________________

路地裏に、静寂が戻る。

残されたのは、ヒンメルとフリーレン、そして銀髪の少女と精霊。

少女は浮遊させていた氷を霧散させると、

心配そうな表情で駆け寄ってきた。

「大丈夫ですか? 怪我は……」

「ああ、問題ないよ。君のおかげで助かった。ありがとう」

ヒンメルは胸に手を当て、紳士的な礼をした。

その様子を見て、少女は少しだけ安堵したように息を吐いたが、

すぐにまた真剣な表情に戻った。

「お礼なんていいわ。

それより、あなたたち、見ない顔ね。この辺りの人じゃないでしょ?

あんな場所に入り込むなんて、不用心すぎるわ」

説教じみた口調だが、そこには隠しきれない優しさが滲んでいた。

フリーレンは、じっと少女を見つめていた。

正確には、少女の肩に乗る精霊と、少女自身の魔力を観察していた。

(……精霊。それも、桁違いの大精霊だ。

魔王軍の幹部クラスに匹敵する魔力量。

それに、この女の子……

魔力の使い方が独特だ。

契約精霊を通じて大気のマナを操る『精霊術』か。

私の魔法とは体系が違う)

フリーレンの分析癖が回る中、ヒンメルは少女に向かって微笑みかけた。

「ご忠告、痛み入るよ。

僕はヒンメル。こっちは連れのフリーレンだ。

君の名前を教えてくれないかい?

命の恩人の名前を知らないままでは、

勇者の名折れだからね」

その問いに、少女は一瞬、躊躇した。

視線を泳がせ、唇を噛む。

まるで、その名を口にすることが、相手を試す行為であるかのように。

彼女は意を決したように顔を上げ、挑戦的な眼差しでヒンメルを見据えた。

「……サテラよ」

その名は、この世界において最大の禁忌。

嫉妬の魔女。世界を滅ぼしかけた恐怖の象徴。

彼女は、その名を名乗ることで、相手が自分をどう見るかを試したのだ。

恐怖するか、嫌悪するか、あるいは逃げ出すか。

だが。

ヒンメルからの反応は、彼女の予想を遥かに裏切るものだった。

「サテラ……か」

ヒンメルは、その名を口の中で転がすように繰り返した。

そして、心からの称賛を込めて、目を細めた。

「なんて美しい響きの名前なんだ」

「……え?」

少女——サテラの表情が、ぽかんと固まった。

予想していた反応とは、正反対のものだったからだ。

「う、美しい……?」

「ああ。君のその銀色の髪にもよく似合う、

神秘的で綺麗な名前だ。サテラ。うん、いい名前だね」

ヒンメルには、この世界の歴史も、魔女の伝説も関係ない。

彼が見ているのは、

目の前にいる一人の少女が、自分たちを助けるために危険を冒してくれたという事実と、

彼女が纏う誠実な空気だけだった。

だからこそ、彼はいつものように、思ったことをそのまま口にしたのだ。

サテラの顔が、カァッと音を立てそうなほど赤く染まった。

「あ、あなた、本気で言ってるの?

サテラよ? 嫉妬の魔女と同じ名前なのよ!?」

「そうなのかい? 僕は異国から来たばかりでね、その魔女のことは知らないんだ。

でも、たとえ歴史上の悪人と同じ名前だったとしても、

目の前にいる君が親切で美しい人である事実に変わりはないだろう?」

ヒンメルの言葉は、あまりにも真っ直ぐすぎた。

裏表のない、純度百パーセントの称賛。

これまで、その容姿とハーフエルフという出自ゆえに、

恐れられ、疎まれてきたサテラにとって、

それは生まれて初めて浴びる種類の「光」だった。

「……変な人」

サテラは俯き、モジモジと指先を絡ませた。

「そんなこと言われたの、初めて……」

その様子を見て、フリーレンが小さな声でヒンメルに囁く。

「ヒンメル。女の子を困らせちゃダメだよ」

「困らせてなどいないさ。事実を述べたまでだよ、フリーレン」

「……まあ、悪い子じゃなさそうだけど」

フリーレンはサテラの肩に乗るパックと目が合った。

猫の姿をした大精霊は、興味深そうに髭を揺らしている。

「やあ、異国の魔法使いさん。

ボクのリアを赤面させるなんて、君の連れは大したタラシだね」

「……否定はしない」

フリーレンは短く答えた。

パックの視線は鋭い。彼は気づいているのだろう。

フリーレンという存在が、ただのエルフではなく、

途方もない時間を生き、膨大な魔力をその身に秘めた怪物であることを。

そしてフリーレンもまた、パックがただの使い魔ではないことを理解していた。

お互いに底知れぬ実力を察知しながらも、

今のところ敵対の意思はない。

その微妙な緊張感を知ってか知らずか、

ヒンメルはサテラに一歩近づいた。

「ところで、サテラ。君は何か探し物をしているようだったけれど、

僕たちに手伝えることはないかい?」

「えっ? ど、どうしてそれを……」

「急いでいる様子だったのに、わざわざ立ち止まって僕たちを助けてくれた。

普通なら、そのまま通り過ぎてもおかしくない状況だ。

それなのに足を止めたのは、君がどうしても困っている人を見捨てられない優しい人だからだ。

……そんな君の力になりたいと願うのは、勇者として当然のことさ」

ヒンメルの言葉には、不思議な説得力があった。

それは彼が、ただ格好をつけているだけでなく、

本気でそう思っていることが伝わってくるからだ。

サテラは少し迷った様子を見せたが、

やがて決心したように口を開いた。

「……実は、大切な徽章を盗まれちゃったの。

フェルトっていう女の子なんだけど……」

「徽章か。なるほど、それは一大事だね」

ヒンメルは頷き、フリーレンの方を見た。

「決まりだね、フリーレン。

僕たちの最初の冒険は、彼女の探し物を手伝うことだ」

「……はぁ。面倒くさいことになった」

フリーレンはあからさまに嫌そうな顔をしたが、

その足はすでに歩き出す準備をしていた。

彼女は知っている。

ヒンメルが一度こうと言い出したら、絶対に引かないことを。

そして、結局は自分も彼についていくことを。

それが、二人の旅のあり方だった。

「ありがとう、ヒンメル、フリーレン。……私、急がないと」

サテラは少し照れくさそうに、しかし嬉しそうに微笑んだ。

その笑顔を見て、ヒンメルは満足げに頷く。

「行こう。きっと見つかるさ」

________________________________________

三人と一匹は、路地裏を後にした。

陽の傾き始めたルグニカの街に、長い影が落ちる。

この先に待ち受ける運命を、

そしてこの世界が孕む絶望的な「死」の螺旋を、

まだ誰も知らなかった。

ヒンメルは歩きながら、ふと自分の右手を見た。

先ほどまで微かに震えていた指先は、今はもう止まっている。

サテラの笑顔と、フリーレンの呆れた声。

守るべき誰かがいて、共に歩く仲間がいる。

それだけで、彼は恐怖を心の奥底に封じ込めることができた。

(大丈夫。僕は勇者だ。

どんな世界でも、僕は僕のまま、最後まで立っていられる)

だが、フリーレンだけは気づいていた。

先ほど、サテラが魔法を使った瞬間、

大気中のマナが奇妙な脈動を見せたことを。

そして、ヒンメルを中心に、微弱だが無視できない「歪み」が生じていることを。

まるで、彼という存在そのものが、

この世界の時間の流れに楔を打ち込んでいるかのような、

不吉な違和感。

(……何だろう、この感覚。

ヒンメルに魔法をかけているわけじゃないのに)

フリーレンは首を傾げ、小声で呟いた。

「……解析、完了までには時間がかかりそう」

そのつぶやきは、路地裏の風に溶けて消えた。

物語の歯車は、すでに回り始めている。

それは、

勇者が決して死ぬことを許されない、

残酷で美しい英雄譚の幕開けだった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。