ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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魔女の残り香

 ルグニカ王国の北東部に位置する、メイザース領。

鬱蒼とした森を切り拓いた先に現れたのは、見る者を威圧するかのような巨大な屋敷だった。ロズワール邸。

左右に広がる翼棟、中央にそびえる本館。そのすべてが完璧なシンメトリーを成している。手入れの行き届いた庭園は、自然の造形美というよりも、計算され尽くした人工的な「舞台」のようだった。

砂利を踏みしめる竜車の音だけが、静寂を破る。

揺れる車内で、ヒンメルは窓枠に肘をつき、流れる景色を眺めるふりをしていた。

ガラスに映る自分の顔を見る。 蒼い髪。整った目鼻立ち。憂いを帯びた瞳。

完璧だ。 どこからどう見ても、物語の主人公たる勇者の顔をしている。

だが、その内側で、彼の胃袋は冷たい鉛を飲み込んだかのように重かった。

(……まだ、震えているのか)

膝の上に置いた指先が、微かに痙攣している。 王都での戦闘。腸狩りのエルザとの死闘。腹を裂かれた記憶。

その痛みは、肉体からは消えていた。傷一つない肌がそこにある。 だが、脳髄に焼きついた「死の感触」は、時間経過とともに薄れるどころか、腐臭を放って発酵し始めているようだった。

死んだはずなのに、生きている。

その矛盾が、ヒンメルの存在を根底から揺さぶっていた。

「……ヒンメル」

隣から、平坦な声が掛かる。フリーレンだ。 彼女は読みかけの魔道書から顔を上げ、じっとヒンメルを見つめていた。その緑色の瞳は、相変わらず何を考えているのか読み取れない。湖面のように静かだ。

「顔色が悪い。乗り物酔い?」 「まさか。この僕が、たかだか竜車ごときに酔うはずがないだろう?」

ヒンメルは反射的に前髪を払い、口角を上げた。

「あまりに美しい屋敷に見惚れていただけさ。もっとも、僕の美しさの前では、この屋敷さえも霞んでしまうけれどね」

「……はいはい」

フリーレンは興味なさそうに視線を本に戻した。その素っ気ない態度に、ヒンメルは内心で安堵のため息をつく。

騙せている。

彼女にだけは、悟らせてはいけない。勇者ヒンメルが、死ごときに怯え、夜毎悪夢にうなされているただの脆弱な人間であるということを。 彼女が見ているのは「勇者ヒンメル」だ。

ならば、僕は最期までその役割を演じきらなければならない。それが、僕をこの不可解な世界に連れてきてしまった(と、彼は誤解している)彼女への、せめてもの誠意なのだから。

「到着いたしました、エミリア様、お客様」

御者台から、従者の声が響く。竜車が止まる。 扉が開かれた瞬間、濃厚な森の香気とともに、どこか甘く、鼻腔にまとわりつくような奇妙な気配が漂ってきた。

屋敷の主、ロズワール・L・メイザースとの対面は、奇妙な緊張感の中で行われた。場所は食堂。

豪奢な長テーブルの上座に座るその男は、ピエロのような化粧を施し、道化じみた衣装を纏っていた。

「やぁ~や、ようこそいらっしゃいました~ぁ。私が当主のロズワールだ~よ」

間延びした、独特のイントネーション。黄色の瞳と、黒い瞳。左右で色の違うオッドアイが、値踏みするようにヒンメルとフリーレンを交互に見ている。

その全身から立ち昇るマナの圧力は、素人目にも異常だった。

ヒンメルは優雅に一礼し、胸に手を当てた。 「お招き感謝する。勇者ヒンメルだ。こちらは魔法使いのフリーレン。……貴殿の独特な美的センスには、さすがの僕も驚かされたよ」

「おや~ぁ? それは、褒め言葉と受け取っていいのか~な?」 「もちろんさ。常人には理解し難い高みを目指す姿勢は、僕と通じるものがある」

ヒンメルは不敵に微笑んだ。

内心では、この男の瞳の奥にある「底知れない何か」に悪寒を感じていた。この男は、まともではない。

道化の仮面を被っているが、その下にあるのは氷のような冷徹な計算と、何か巨大な目的への執着だ。

それは、鏡を見るたびにヒンメル自身が感じる「仮面の下の虚無」と、どこか似ていた。

「……ふ~ぅん」

ロズワールは目を細めた。 「勇者、ね~ぇ。王選候補者であるエミリア様が連れ帰った拾い物にしては、随分と……『業』が深そ~ぅだ」

「ロズワール、彼らは恩人よ。失礼なことは言わないで」

銀髪のハーフエルフ、エミリアが凛とした声で嗜める。

彼女の隣には、猫の姿をした精霊パックが浮いている。 そして、部屋の隅には二人のメイドが控えていた。桃色の髪のラムと、青色の髪のレム。瓜二つの双子だが、その瞳の色だけが違う。二人は彫像のように微動だにせず、ただ静かにこちらの様子を伺っていた。

「食事にしよう。話はそれからだ」

ロズワールの合図で、食事が始まる。 その間、フリーレンはずっと無言でスープを啜っていた。彼女の視線は、時折ロズワールに向けられる。

(……魔力の使い方が、汚い)

フリーレンは心の中で毒づいた。 この男の魔力は膨大だ。現代の魔法使いの中でもトップクラスだろう。だが、その質はあまりにノイズが多い。

マナを無理やりねじ伏せ、支配し、爆発させるような荒々しさ。 それは「魔法」というより、暴力に近い。

そして何より、この屋敷全体に張り巡らされた結界の術式。

(……趣味が悪い。監視と、誘導。まるで蜘蛛の巣だね)

フリーレンはスプーンを置いた。この世界の魔法体系への違和感が、彼女の中で確信に変わりつつあった。

翌朝。

使用人として働くことになったヒンメルとフリーレンの前に、ラムとレムが制服を持って現れた。

「お客様、こちらの服に着替えてください。ヒンメル様はこちら。フリーレン様はこちらです」

ラムが淡々と差し出したのは、黒い執事服と、フリルのついたメイド服だった。

「……ふむ」

ヒンメルは執事服を手に取り、素早く袖を通した。鏡の前でターンを一回。

燕尾の裾がひらりと舞う。 「どうだい、フリーレン。黒というのは僕の蒼い髪を際立たせるのに最適な色だとは思わないか? 勇者の鎧も良かったが、この禁欲的な執事服もまた、僕の知的な魅力を引き出してしまうな」

彼は前髪をかき上げ、鏡の中の自分にウィンクした。その所作には一片の迷いもない。

だが、その背中は冷や汗で濡れていた。 服を着替える際、腹部に触れる布の感触が、あの夜の「切り裂かれた感覚」を呼び起こしそうになったからだ。

それを振り払うための、過剰な演技。

一方、フリーレンは。

「……絶対に嫌」

目の前に突き出されたメイド服を、汚物を見るような目で見下ろしていた。

「ですが、当主様のご命令です。この屋敷で働く以上、規定の制服を着用していただかなくては」

レムが困ったように眉を下げる。

「スカートが短い。動きにくい。それに、このヘッドドレスは視界を遮る。非合理的」 「そこを可愛らしく着こなすのが、メイドの嗜みです」 「私はメイドじゃない。魔法使い」

フリーレンは譲らなかった。 彼女にとって、衣服とは機能性であり、防御力である。このようなひらひらとした装飾過多な布切れで、どうやって戦闘機動を行えというのか。

「……仕方ありませんね」

結局、エミリアの仲裁もあり、フリーレンはいつもの服の上に簡素なエプロンをつけるだけで許された。

「ちぇっ。フリーレンのメイド姿、少し見てみたかったのにな」

ヒンメルが残念そうに言うと、フリーレンは無表情で彼のアホ毛を引っ張った。 「ヒンメル、気持ち悪い」

「痛い! 痛いよフリーレン! ……でも、その冷たい手つきも悪くない」 「……本当にどうしようもないね」

そんな二人を、レムは少し離れた場所から見つめていた。 彼女の可憐な顔には、営業用の穏やかな笑みが張り付いている。

だが、その青い瞳の奥には、絶対零度の冷気が渦巻いていた。

(……臭う)

鼻が曲がりそうなほどの、悪臭。 特に、あの男。ヒンメルという名の勇者。彼からは、魔女の残り香が濃厚に漂っている。

それも、ただの残り香ではない。まるで死体安置所に咲いた花のような、甘ったるい腐臭と、清冽な青空のような香りが混ざり合った、おぞましくも悲しい匂い。

(魔女教徒……いえ、それにしては様子がおかしい)

レムは掃除用具を握る手に力を込めた。油断はできない。 姉様を守るためなら、いつでもこのモーニングスターで、あの美しい頭蓋を粉砕しなければならない。

ヒンメルが庭の掃除やジャガイモの皮むき(彼は皮むき一つとっても、無駄にスタイリッシュなポーズを決めていた)に精を出している間、フリーレンは屋敷の探索を行っていた。

彼女の目的は、この屋敷にあるという「禁書庫」だ。 廊下を歩きながら、彼女は扉の前で足を止める。

「……ここだね」

空間転移の術式。『扉渡り』と呼ばれるその魔法は、禁書庫と屋敷内の任意の扉を繋ぐものだ。

通常の魔術師なら、虱潰しに扉を開けるしかないだろう。 だが、フリーレンにとっては児戯に等しい。 彼女は扉のノブに手をかけず、その蝶番のあたりに指先を触れた。魔力を流し込み、空間の歪みを解析する。

「座標固定のアンカーが甘い。……構造が雑だなぁ」

カチャリ。

鍵もかかっていない扉を開くと、そこには膨大な書物が積まれた空間が広がっていた。

「な、な、何奴かしら!?」

部屋の中央、脚立の上に座っていたドレス姿の少女――ベアトリスが、驚愕に目を見開いていた。

「ベティーの『扉渡り』を、一発で見抜いたの!?」 「魔力の残滓が漏れてたよ。隠すなら、もっと丁寧に編み込まないと」

フリーレンは悪びれもせず、部屋に入り込むと、適当な本を棚から抜き取った。

「……ふーん。『オド』と『ゲート』の概論……」

パラパラとページをめくる。読み進めるにつれ、フリーレンの眉間のしわが深くなっていく。

「……非効率的すぎる」

「なっ……何がかしら!」

ベアトリスが怒って飛び降りてくる。 フリーレンは本を閉じて、ため息をついた。

「この世界の魔法使いは、体内に『ゲート』なんていう不純物を抱え込んで、そこを通して大気中のマナを取り込んでるの? まるで、細いストローで池の水を吸い上げてるみたいだ」

「……それは、人間の魔術師の限界なのよ。精霊使いならともかく、人間はゲートを通さなければマナを扱えないかしら」

「私の世界じゃ、そんなまどろっこしいことはしない」

フリーレンは掌を上に向けた。

瞬間、部屋中の空気が震えた。 何か特別な詠唱をしたわけではない。ただ、彼女が「そうあれ」と願っただけで、禁書庫内の膨大なマナが彼女の手のひらに収束し、幾何学的な光の紋様を描き出したのだ。

「マナは友達でもなければ、燃料でもない。ただの構成要素。石や水と同じ。ゲートなんて通さなくても、支配すればいい」

「……っ!?」

ベアトリスは絶句した。 目の前のエルフが行ったのは、魔法と呼ぶにはあまりに異質で、あまりに洗練された「支配」だった。

オド(生命力)を消費するわけでもなく、ゲートを開閉するわけでもない。

世界そのものの法則を書き換えるような、静かな暴力。

「……お前、何者かしら」 「フリーレン。ただの魔法使い」

フリーレンは光を霧散させると、再び本棚に向き直った。

「でも、この世界の魔法にも興味はある。非効率な中にも、独自の進化があるみたいだし。……しばらく、ここに通わせてもらうよ」 「き、許可なんてしてないのよ! 出ていくかしら!」 「この本、借りるね」 「無視するなかしらー!!」

その日の夜。

業務を終えたヒンメルは、客室のベッドに倒れ込んだ。

「……つ、かれた……」

勇者の仮面が剥がれ落ちる。泥のような疲労感が、全身を襲っていた。

おかしい。 ただの雑用だ。魔王軍との連戦に比べれば、庭の掃除や皿洗いや近隣の村への買い出しなど遊びのようなものだ。

それなのに、指一本動かせないほど体が重い。

(……寒い)

毛布を被っているのに、骨の芯から凍えるような寒気がする。

ヒンメルは自分の手を見た。震えている。 そして、皮膚の表面に、黒い痣のようなものが浮かんでは消えているのが見えた。

(なんだ、これ……呪い、か?)

そういえば、今日何かにかまれたような。 だが、力が抜けていく。考えもまとまらなくなってきた。体内のマナが、底の抜けたバケツから水が漏れるように、急速に失われていく感覚。

誰かが、僕を食べている? いや、違う。

これは、世界そのものが、僕という「異物」を排除しようとしている圧力なのかもしれない。

「……ふ、ふふ」

ヒンメルは乾いた笑いを漏らした。 死ぬのか。また、死ぬのか。

今度は剣で斬られるわけでもなく、こんなベッドの上で、衰弱して、惨めに?

怖い。 嫌だ。

脳裏に、フリーレンの顔が浮かんだ。 彼女は今頃、隣の部屋で魔道書を読んでいるだろうか。

彼女にだけは、この無様な姿を見せたくない。

朝になったら、冷たくなった僕を見つけて、彼女はどう思うだろう。 泣いてくれるだろうか。 いや、きっと困ったような顔をして、「早起きだね、ヒンメル。……あ、死んでる」なんて言うに違いない。

そうであってほしい。

僕の死ごときで、彼女の悠久の時間に影を落としたくない。

「……おやすみ、フリーレン」

意識が遠のく。 心臓の鼓動が、弱々しく打つのをやめる。 呼吸が止まる。 視界が暗転する。

そして、世界が裏返った。

あの不快な浮遊感。 魂が肉体から引き剥がされ、時空の濁流へと放り込まれる感覚。 暗闇の中で、無数の「手」が絡みついてくる。

魔女の囁き。 愛している、愛している、愛している。

違う。 その声は、誰だ? エミリア?

いや、もっと近くで、もっと切実な、聞き覚えのある声――。

『……死なせない』

蒼い光が弾けた。

「――様、お客様」

声が聞こえた。 朝の光が瞼を刺す。

ヒンメルは、ガバッと上半身を起こした。 肺いっぱいに空気を吸い込む。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

冷や汗が滝のように流れている。心臓が早鐘を打っている。 生きている。喉がある。腹がある。体温がある。

目の前には、怪訝そうな顔をしたラムとレムが立っていた。 「お客様、うなされていたようですが……大丈夫ですか?」

レムが首を傾げる。その手には、昨日の朝と同じ、執事服とメイド服が抱えられていた。

戻った。

また、戻ったのだ。

絶望が、喉元までせり上がる。 吐き出したい。叫び出したい。「助けてくれ」と、誰かにすがりつきたい。

だが、ヒンメルはそれを奥歯で噛み殺した。

代わりに、彼は濡れた前髪をかき上げ、震える唇を無理やり三日月の形に歪めた。

「……あぁ、問題ないよ。あまりに良い夢を見ていてね。夢の中で世界中の美女に追いかけ回されて、嬉し泣きしていたところさ」

ラムは「毒気にあてられたようですわね」と吐き捨て、レムは「左様でございますか」と冷淡に返した。

着替えを済ませ、廊下に出たヒンメルは、フリーレンと鉢合わせた。 彼女は眠そうな目を擦りながら、あくびをしている。昨日の朝と同じ光景。

だが、フリーレンの様子が少し違った。

彼女はヒンメルの顔を見ると、ピタリと動きを止めたのだ。 その瞳が、鋭く細められる。解析の目。 彼女はヒンメルの全身を舐めるように観察し、一歩近づいた。

「……ヒンメル」

「ん? なんだい、フリーレン。朝から僕の顔に見惚れるなんて、君もようやく僕の魅力に……」

「魔力が、飛んだ」

「……え?」

「今、ヒンメルの存在感が、一瞬だけ世界から切り離されたみたいな違和感があった」

ヒンメルは息を呑んだ。 気づかれた? いや、まさか。記憶があるわけではないはずだ。

だが、彼女の直感は、時として予言をも凌駕する。 彼女は無意識のうちに、時間のループによる「継ぎ目」を感じ取っているのかもしれない。

「……気のせいじゃないかな。僕はここにいるよ。昨日と変わらず、最高に格好いい勇者としてね」

ヒンメルは努めて明るく振る舞い、彼女の頭をポンと撫でた。 フリーレンは不満そうに彼の手を払いのけたが、それ以上は追求してこなかった。 ただ、その瞳には微かな不安の色が宿っていた。

そして、その様子を廊下の陰から見つめる視線がもう一つ。レムだ。

彼女の鼻は、昨日よりもさらに濃くなった「魔女の残り香」を捉えていた。

死に戻るたびに濃くなる、禁忌の匂い。 一度ならず、二度までも死の淵から戻ってきた男。 その身に纏う瘴気は、もはや隠しきれないレベルに達していた。

(……やはり、この男は危険です)

レムの中で、殺意が明確な形を持って鎌首をもたげる。

ヒンメルは、自分の背中に突き刺さる視線に気づかないふりをして、窓の外の青空を見上げた。

今日もまた、長い一日が始まる。 終わらない今日が、また始まるのだ。

 

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