ロズワール邸の二日目が、重苦しい夕闇と共に幕を閉じようとしていた。
使用人としての業務は、思いのほか順調だったと言えるだろう。窓拭き、庭木の剪定、廊下の磨き上げ。かつて魔王を討伐する旅の中で、路銀を稼ぐためにあらゆる雑用をこなしてきた経験が、この異世界でも役に立っていた。
勇者ヒンメルは、剣だけでなく、雑巾がけにおいても超一流なのだ。
……と、鏡に向かって軽口を叩く余裕を演じていられるのも、日が出ているうちだけだった。
太陽が地平線の向こうに沈み、空が群青色から完全な漆黒へと染め上げられていくにつれ、ヒンメルの心臓は、まるで冷たい手で鷲掴みにされているかのように締め付けられていった。
死の予感。あるいは、死の記憶と言うべきか。
前回のループで経験した、衰弱死。眠っている間に、身体中のマナを根こそぎ奪われ、指一本動かせぬまま枯れ木のように朽ちていった、あの惨めな最期。その感覚が、幻痛となって全身を駆け巡る。
食堂での夕食後、ヒンメルは早々に自室へと引き上げた。
隣の部屋からは、ページをめくる微かな音が聞こえてくる。フリーレンだ。彼女は今日も、禁書庫から借りてきた魔道書を読み耽っているのだろう。
「……ふぅ」
ヒンメルは扉に背中を預け、深く息を吐いた。額に滲んだ脂汗を、袖口で乱暴に拭う。
震えるな。まだ、何も起きていない。
鏡の中の自分を思い出す。蒼い髪、涼しげな目元、不敵な笑み。完璧な勇者像。それを崩してはならない。
特に、フリーレンの前では。
彼女は鋭い。今朝、彼女はヒンメルの「存在感の消失」を感知していた。もし、僕がこの世界で「死に戻り」を繰り返していることを知ったら、彼女はどうするだろうか。
きっと、なりふり構わず原因を排除しようとするだろう。この屋敷の住人全員を敵に回してでも、世界そのものを破壊してでも、僕を救おうとするかもしれない。
それは、いけない。彼女の手を血で汚させるわけにはいかない。
彼女の思い出の中の僕は、いつだって格好良く、少しキザで、そして誰よりも優しい勇者でなければならないのだ。
だから、この恐怖は僕一人で抱え込む。
「……さて、と」
ヒンメルは腰に帯びた剣を確認した。ロズワール邸の使用人は帯剣を許されていないが、これは主であるエミリアの護衛という名目で、特別に許可を得て持ち込んでいるものだ。
もちろん、ただの飾りではない。勇者の剣(レプリカだが)は、いつだって血を吸う準備ができている。
今夜、僕は死ぬわけにはいかない。前回の死因は「衰弱」だった。外傷はなく、毒の兆候もなかった。ただ、魔力(マナ)だけが枯渇していた。ならば、原因は「呪い」の類である可能性が高い。
術者は誰だ? あの得体の知れない道化師、ロズワールか。それとも、契約精霊であるベアトリスか。あるいは、まだ見ぬ侵入者か。
どちらにせよ、ベッドの上で震えて待っているだけでは、また同じ結末を迎えるだけだ。原因を突き止め、排除する。
それが勇者のやり方だ。
深夜一時。
屋敷が完全な静寂に包まれたのを見計らい、ヒンメルは音もなく部屋を出た。廊下は暗い。窓から差し込む月光だけが、頼りない照明となって足元を照らしている。
ロズワール邸は広い。昼間はあんなにも美しく見えたシンメトリーの構造が、夜になると無限に続く迷宮のように感じられた。空気は冷たく、張り詰めている。
ヒンメルの感覚は研ぎ澄まされていた。長年の冒険で培った直感。魔族の気配や、罠の作動音を聞き分ける聴覚。それらが、警鐘を鳴らしている。
何かがいる。この闇の奥に、明確な悪意を持った何かが潜んでいる。
ヒンメルは足音を殺し、絨毯の上を滑るように移動した。まずは、自分に呪いをかけた術者の痕跡を探す。呪術には、必ず媒介が必要だ。接触、あるいは体の一部、持ち物。
今日一日、誰かと接触したか? ラム、レム、エミリア、パック、ロズワール、ベアトリス。全員と会話をし、何かしらの接触があった。だが、決定的な「何か」をされた覚えはない。
東棟の廊下を曲がろうとした、その時だった。
ジャラリ……。
重い金属が擦れ合う音が、静寂を引き裂いた。
ヒンメルは瞬時に足を止め、壁の陰に身を隠した。心臓が跳ねる。
鎖の音だ。それも、ただの鎖ではない。質量のある、破壊のための鉄塊が引きずられる音。
ジャラ、ジャラリ……。
音は近づいてくる。向こう側の廊下から、ゆっくりと、しかし確実にこちらへ向かってきている。
ヒンメルは剣の柄に手をかけた。呼吸を浅く、静かに保つ。
月光が、廊下の交差点を青白く切り取っている。そこに、影が伸びた。
現れたのは、小柄なシルエットだった。フリルのついたメイド服。可憐な立ち姿。だが、その手には、彼女の身長ほどもある巨大な棘付き鉄球が握られていた。
レム。双子のメイドの妹の方だ。
昼間はあんなにも愛想よく、「ヒンメル様」と呼んでくれていた少女。だが、今の彼女の瞳に、知性の光はなかった。あるのは、昏い殺意と、燃え上がるような憎悪だけ。
「……見つけました」
鈴を転がすような声。しかし、その温度は氷点下だった。
「魔女教徒」
ヒンメルは眉をひそめた。聞き覚えのない単語だ。だが、それが侮蔑と敵意に満ちた呼称であることは理解できた。
「……人違いだよ、レム」
ヒンメルは隠れるのをやめ、姿を現した。ここで奇襲をかけることもできたが、それは勇者の流儀ではないし、何より誤解なら解かなければならない。彼は両手を軽く広げ、武器を持っていないことをアピールした。
「僕はヒンメル。君の屋敷の客人だ。こんな夜更けに散歩なんて、お行儀が悪かったかな?」
「とぼけないでください」
レムは一切動じなかった。彼女の青い瞳が、ヒンメルを射抜く。
「その身体から溢れ出る瘴気……。濃厚な、魔女の残り香。隠せるとでも思いましたか?」
瘴気? 魔女の残り香? ヒンメルには何の匂いもしない。だが、彼女には確信があるようだ。
「姉様を傷つけ、里を焼いた、憎き魔女の信徒……!」
「待ってくれ。僕は魔女なんて知らないし、君の里を焼いた覚えもない。僕はただの……」
「嘘つき!!」
レムが叫んだ。その瞬間、彼女の華奢な腕が霞んだ。
ブンッ!
風切り音。思考よりも先に、ヒンメルの身体が反応した。
首を右に傾ける。
ゴォォンッ!!
つい一瞬前までヒンメルの頭があった場所を、巨大な鉄球が通過し、背後の壁を粉砕した。石膏ボードが弾け飛び、白い粉塵が舞う。
「……おいおい」
ヒンメルは冷や汗を垂らしながら、バックステップで距離を取った。冗談ではない威力だ。直撃すれば、頭蓋骨などトマトのように弾け飛ぶだろう。
「問答無用か」
「死んで、償ってください」
レムが鉄球を引き戻す。鎖がジャラジャラと鳴り、鉄塊が彼女の手元に収まる。そして、再び投擲の構え。
ヒンメルは剣を抜いた。銀色の刀身が、月光を反射して煌めく。
「……仕方ない。少し落ち着いてもらおうか」
戦端は開かれた。
狭い廊下での戦闘。ヒンメルにとって、これは極めて不利な状況だった。まず、場所が悪い。廊下は直線的で、鉄球の威力を殺す遮蔽物が少ない。
そして何より、最大の制約がある。大きな音を立てられない。
この騒ぎを聞きつけて、フリーレンが起きてきたらどうなる?
彼女は寝起きが悪い。そして、仲間(だと思っているヒンメル)が攻撃されているのを見たら、問答無用で相手を消し炭にするだろう。ゾルトラークの一撃で、この屋敷ごとレムを消滅させかねない。
それは避けなければならない。レムは誤解しているだけだ。それに、まだ年端も行かない少女だ。勇者が、子供を、それも誤解で襲いかかってきた相手を殺すなんて、あってはならない。
「シッ!」
レムが鉄球を振るう。今度は横薙ぎだ。壁を削りながら迫る鉄の暴力を、ヒンメルは剣で受け流すのではなく、身を低くして潜り抜けた。剣で受ければ、その衝撃音で屋敷中が起きる。それに、まともに受ければ剣が折れる。
「ちょこまかと……!」
レムが苛立ちを露わにする。彼女の身体能力は、常人のそれを遥かに凌駕していた。一歩の踏み込みで数メートルを詰め、遠心力を乗せた鉄球を軽々と操る。
人間ではない。彼女もまた、魔族やエルフと同じ、人外の血を引く者なのか。ヒンメルは「勇者」として人間極まった技量を持っているが、純粋な膂力や耐久力では到底及ばない。
(速い……! それに、重い!)
ヒンメルは舞うように避ける。前髪が数本、風圧で切り飛ばされる。ギリギリだ。
彼の動きは洗練されている。最小限の動きで回避し、反撃の隙を窺う。だが、決定打を打てない。峰打ちで気絶させようにも、彼女の身体の周りには濃密なマナの鎧のような気配があり、生半可な打撃は通じそうにない。
かといって、刃を向ければ彼女を深く傷つけてしまう。
「なぜ、剣を抜いておきながら、斬りかかってこないのですか!」
レムが叫ぶ。鉄球が床を砕き、破片が散弾のようにヒンメルを襲う。彼はマントを翻して破片を払い落とす。
「レディを傷つけるのは、僕の美学に反するからね!」
「ふざけないでッ!!」
レムの怒りが爆発した。彼女の額から、白く光る角が生える。周囲のマナが渦を巻き、彼女へと集束していく。
鬼化。身体能力がさらに跳ね上がる。
「……嘘だろう?」
ヒンメルは引きつった笑みを浮かべた。これ以上強くなるのか。もはや、手加減できる相手ではない。殺される。死の恐怖が、冷たい刃となって背筋を走る。
逃げろ。本能がそう叫ぶ。
フリーレンの部屋へ逃げ込めば、助かる。彼女なら、この暴走した鬼を止めることができる。
だが、ヒンメルの足は動かなかった。いや、踏み止まった。
(ダメだ。フリーレンを巻き込むな)
彼女に、血を見せるな。彼女に、友人が殺し合う様を見せるな。僕がここで耐えればいい。誤解を解くチャンスを探すんだ。
「アル・ヒューマ!!」
レムが魔法を放つ。巨大な氷の礫が、散弾銃のように生成され、ヒンメルへと殺到する。逃げ場はない。廊下は狭い。
ヒンメルは剣を構え、深呼吸した。
集中しろ。水面を叩く雨粒を、全て切り払うような心持ちで。
剣閃が走る。神速の連撃。
キン、キン、ガガガガッ!!
氷塊が次々と砕かれ、ダイヤモンドダストのように煌めいて散る。美しい剣技だった。人間業とは思えない速度と精密さ。
だが、全てを防ぎきれたわけではない。数個の氷礫が、ヒンメルの肩を、太腿を、頬を掠めていく。
鮮血が舞う。
「ぐっ……!」
痛みが走る。焼けるような熱さ。だが、ヒンメルは倒れない。むしろ、その痛みすらも演技の一部に取り込むように、不敵に微笑んでみせた。
「……涼しくていいね。暑がりの僕にはちょうどいい」
血を流しながらのウィンク。それは、あまりに痛々しく、そしてあまりに「勇者」だった。
レムの動きが一瞬、止まる。
彼女の目には、この男が理解不能な存在に映っただろう。なぜ、笑う? なぜ、反撃しない? なぜ、魔女教徒特有の狂気や、命乞いを見せない?
「死ね! 死ね! 死んでください!!」
混乱を振り払うように、レムはさらに猛攻を仕掛ける。鉄球が唸りを上げる。壁が壊れ、床が抜け、美しい廊下が瓦礫の山へと変わっていく。
ヒンメルは防戦一方だ。息が上がる。剣を握る手が痺れている。視界が霞む。失血と疲労。限界が近い。
(……強いな、君は)
ヒンメルは内心で舌を巻いた。魔王軍の幹部クラスでも、ここまで純粋な殺意と質量で押してくる相手はそうはいなかった。
しかも、彼女は泣いているようにも見えた。鬼気迫る形相の中で、その瞳だけが、悲鳴を上げている。
「姉様……姉様だけは、レムが守る……」
鉄球を振り回しながら、彼女が漏らした言葉。それは、あまりに切実な祈りだった。魔女教徒への憎しみ。それは、大切なものを奪われた過去からの叫び。そして、今ある大切なもの――姉のラム――を守りたいという、強迫的なまでの愛情。
(ああ、そうか)
ヒンメルは理解した。彼女もまた、恐怖しているのだ。僕が死を恐れるように、彼女もまた、喪失を恐れている。その恐怖が、彼女を鬼に変えている。
その姿が、ふと、過去の記憶と重なった。故郷を魔族に襲われ、瓦礫の中で泣いていた子供たち。そして、長い時を一人で生き、誰かと深く関わることを恐れていた、出会ったばかりの頃のフリーレン。
孤独と恐怖。それは、誰の心にもある弱さだ。それを「悪」と断罪して斬り伏せることは、僕にはできない。
ヒンメルの剣が、下がる。
無意識だった。彼女の涙を見て、つい、手が止まってしまったのだ。
「泣かないでくれ」
そう言いかけた、その瞬間。
決定的な隙。
戦闘において、慈悲は死に直結する。レムは、その隙を見逃さなかった。彼女に迷いはない。敵を排除し、姉を守る。その一点のみに特化された思考。
「隙あり!!」
鉄球が、真上から振り下ろされた。ヒンメルが反応するよりも速く。回避は間に合わない。防御も間に合わない。
(あ……)
ゴシャッ!!
鈍く、湿った音が廊下に響いた。右肩から胸部にかけて、鉄の塊がめり込む感触。骨が砕ける音。内臓が破裂する感覚。痛みすら感じる暇もなかった。
衝撃が身体を吹き飛ばす。ヒンメルの体は布切れのように宙を舞い、壁に激突した。
「ガハッ……!」
口から大量の血が溢れる。肺が潰れている。呼吸ができない。視界が赤く染まる。
床に崩れ落ちる。冷たい石の感触。自分の体から、温かい液体がどんどん流れ出していくのがわかる。
「……これで、終わりです」
レムが近づいてくる。その足音は、死神の足音のように重い。
彼女は倒れたヒンメルを見下ろしていた。返り血で染まったメイド服。鬼の角。そして、その頬を伝う一筋の涙。
彼女は泣き止んでいなかった。敵を倒した達成感などない。あるのは、手を汚したことへの悲しみと、それでも守らねばならなかったという義務感だけ。
(……なんて、悲しい顔をするんだ)
薄れゆく意識の中で、ヒンメルは思った。
痛い。寒い。怖い。死にたくない。本音はそうだ。
だが、最期に見たのが、彼女の憎悪に歪んだ顔ではなく、泣き顔でよかったのかもしれない。彼女は、ただの殺人鬼ではない。心を持った、傷ついた少女なのだ。
ならば、まだ救いようがある。
次は、どうすればいい? どうすれば、彼女を泣かせずに、誤解を解ける? どうすれば、フリーレンにこの惨劇を見せずに済む?
思考が途切れる。暗闇が迫る。
「……フリー、レン……」
掠れた声で、最愛の名前を呼ぶ。その声は、誰にも届くことなく、血の泡と共に消えた。
レムが鉄球を振り上げる。トドメの一撃。
その瞬間、ヒンメルの瞳から光が消えた。
二度目の死。
勇者ヒンメルの旅は、ここでまた一つ、唐突な終わりを迎えた。そして、世界は再び、軋みを上げて巻き戻る。
死に戻り。
それは、救済などではない。終わることのない、地獄の始まりだった。