ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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断絶する信頼

天井が見えた。

 見慣れた、しかし決して馴染むことのない、ロズワール邸の客室の天井だ。豪奢なシャンデリアが、朝の光を受けて白々しく煌めいている。

 「……ッ、は、あッ……!」

 ヒンメルは跳ね起きるようにして上体を起こした。

 肺が空気を求めて痙攣する。酸素が足りないのではない。魂が、まだ死の瞬間の衝撃を記憶していた。

 右肩がない。

 胸がない。

 内臓が、鉄塊によってひしゃげ、破裂し、原型を留めない肉片へと変わった、あの感触。骨が砕ける音。自分の血で溺れる感覚。

 それらが、鮮烈な幻痛となって全身を駆け巡る。

 「ぐ、ぅ……」

 ヒンメルは自身の右肩を強く鷲掴みにした。

 ある。

 温かい肉と、骨と、皮膚がある。砕かれていない。潰されていない。

 だが、震えが止まらない。歯の根が合わず、カチカチと情けない音を立てる。寒い。布団を被っているのに、極寒の雪山に放り出されたかのように芯から冷え切っていた。

 (死んだ)

 事実が、脳髄に杭を打つように認識される。

 僕は死んだ。また、死んだ。あのメイドに。レムに。

 昨夜の光景がフラッシュバックする。月光に照らされた廊下。可愛らしいフリルのついたメイド服。それとはあまりに不釣り合いな、巨大な鉄球。

 そして、鬼の形相で涙を流しながら、僕を「魔女教徒」と罵り、殺しに来た彼女の姿。

 「……わけが、わからないよ」

 ヒンメルは膝を抱え、荒い呼吸を整えようと努力した。

 魔女教徒? 匂い? 彼女は言っていた。僕から魔女の残り香がすると。

 身に覚えがない。断じてない。

 だが、彼女の憎悪は本物だった。問答無用で殺しに来るほどの、明確な殺意。

 (怖い)

 勇者としてあるまじき感情が、泥水のように心の底から湧き上がってくる。魔王と対峙した時でさえ、こんな感情は抱かなかった。

 あれは「敵」だったからだ。倒すべき悪であり、世界を脅かす存在だったから、剣を向けることに躊躇いはなかったし、命を懸ける覚悟もできていた。

 だが、レムは違う。

 昨日の昼間まで、笑顔で接してくれた少女だ。花の手入れを教え、食事を運び、少し恥ずかしそうに笑っていた、等身大の女の子だ。

 そんな彼女が、夜には殺人鬼へと変貌する。その落差。日常の中に潜んでいた、口を開けた地獄。

 それが、何よりも恐ろしかった。

 「……落ち着け」

 ヒンメルは自分に言い聞かせるように呟いた。

 震える手を無理やり押さえつけ、ベッドから降りる。足がふらつく。鏡の前まで歩くのが、何キロもの行軍のように長く感じられた。

 鏡を見る。

 そこには、蒼い髪の優男が映っている。顔色は悪い。目の下に隈ができている。だが、五体満足だ。

 「……今日も、イケメンだね。ヒンメル」

 口角を上げる。引きつりそうになる頬の筋肉を、意志の力で制御する。いつもの、不敵で、少しナルシストな勇者の笑み。

 それを作るのに、数秒かかった。

 「大丈夫だ。僕は勇者ヒンメル。世界を救った男だ。こんな……そう、こんな理不尽なループくらい、華麗に切り抜けてみせるさ」

 鏡の中の自分に嘘をつく。そうでもしなければ、立っていられなかった。

 トントン。

 不意に、扉がノックされた。

 「ヒッ……!」

 ヒンメルは短く息を呑み、反射的に身構えた。心臓が早鐘を打つ。また、来たのか? 鉄球を持って?

 「ヒンメル様、朝食の準備が整いました」

 扉の向こうから聞こえたのは、レムの声ではなく、ラムの声だった。双子の姉の方だ。

 ヒンメルは壁に手をつき、大きく息を吐き出した。心臓が痛い。冷や汗が背中を伝う。

 「……ああ、すぐに行くよ。ラム」

 声が裏返らないように注意しながら、答える。大丈夫だ。今は朝だ。昨日の夜、殺された記憶を持っているのは僕だけだ。

 今の彼女たちは、まだ僕を殺そうとはしていない。まだ。

 (行かなくちゃ)

 フリーレンが待っている。彼女を不安にさせてはいけない。彼女の前では、僕は最強の勇者でなければならない。

 ヒンメルは軍服の襟を整え、震える指先を強く握りしめてから、扉を開けた。

________________________________________

 食堂には、既に朝の光が満ちていた。長く伸びるテーブルには、豪勢な朝食が並べられている。焼きたてのパンの香り、野菜のスープの湯気。

 平和な朝の光景。

 だが、ヒンメルにとって、それは処刑台への階段のように見えた。

 「おはよう、ヒンメル」

 テーブルについたフリーレンが、魔道書から顔を上げてこちらを見た。変わらない、無表情。だが、その緑色の瞳は、ヒンメルの姿を捉えた瞬間、わずかに和らいだように見えた。

 「……おはよう、フリーレン。今日も熱心だね」

 ヒンメルは努めて明るく振る舞い、彼女の隣の席に座った。その対面。そこに、彼女たちが立っていた。

 ラムと、レム。お揃いのメイド服を着た、双子の姉妹。

 「おはようございます、ヒンメル様。顔色が優れないようですが、よく眠れませんでしたか?」

 レムが小首を傾げて尋ねてきた。その表情は、慈愛に満ちていた。心配そうに眉を下げ、淡い水色の瞳でこちらを覗き込んでくる。

 その顔が、昨夜の鬼の形相と重なる。

 『死んで、償ってください』

 幻聴が鼓膜を叩く。鉄球が風を切る音が蘇る。

 「……ッ!」

 ヒンメルは反射的に視線を逸らした。彼女の顔を直視できない。その手を見ると、あの鉄球を握りしめていた指を思い出してしまう。

 その首を見ると、そこから生える角を幻視してしまう。

 「……いや、少し、枕が変わって寝付けなかっただけさ。僕はデリケートだからね」

 視線をスープの皿に固定したまま、ヒンメルは軽口を叩いた。だが、声に張りがなかった。テーブルの下で、膝が笑っているのを必死に止めていた。

 レムが歩み寄ってくる。湯気を立てるポットを持って。紅茶を注ごうとしているのだ。

 ザッ、ザッ。衣擦れの音。

 彼女が近づいてくる気配だけで、ヒンメルの肌が粟立つ。殺気を感じるはずがないのに、本能が「逃げろ」と警鐘を鳴らす。

 レムの手が伸びてきた瞬間。

 「わッ……!」

 ヒンメルは過剰に反応し、上体をのけぞらせてしまった。肘がテーブルに当たり、銀のフォークがカシャンと音を立てて床に落ちる。

 静寂。

 食堂の空気が凍りついた。レムが目を丸くして、注ぎかけたポットを止めている。エミリアとパックも、驚いたようにこちらを見ている。

 「……あ、いや、すまない。虫が、飛んできてね」

 ヒンメルは下手な言い訳を口にしながら、床のフォークを拾おうとした。指が震えて、なかなか掴めない。みっともない。情けない。

 勇者が、ただの給仕に怯えてどうする。

 「ヒンメル様?」

 「さわらないでくれ!!」

 レムが心配して手を伸ばそうとした瞬間、ヒンメルは鋭く叫んでしまっていた。拒絶。明確な、恐怖からの拒絶。

 レムの手が空中で止まる。彼女の瞳に、傷ついたような色が浮かぶ。「……申し訳、ありません」

 彼女は静かに頭を下げ、下がっていった。

 やってしまった。ヒンメルは唇を噛んだ。これでは、怪しまれる。何より、彼女を傷つけてしまった。今の彼女は、まだ何もしていないのに。

 冷や汗を拭おうとした、その時だった。

 ガタッ。

 隣で、椅子を引く音がした。温度が、下がる。食堂の空気が、一瞬にして張り詰めた冬の朝のように冷え込んだ。

 フリーレンだ。

 彼女は座ったまま、じっとヒンメルを見ていた。そして、ゆっくりと視線を巡らせ、レムを、ラムを、そしてロズワールを見据えた。

 その瞳は、いつもの眠たげなものではない。魔族を葬る時の、底冷えするような無機質な輝きを帯びていた。

 「……ヒンメル」

 フリーレンが静かに名を呼ぶ。

 「あの子に、なにかされた?」

 淡々とした問い。だが、その言葉の裏には、万物を塵へと変えるほどの破壊の意思が込められていた。彼女の右手が、さりげなく懐の杖へと伸びている。

 まずい。ヒンメルは戦慄した。フリーレンは鋭い。僕の怯えを、不自然な態度を、見逃さなかった。そして彼女の思考回路は単純だ。

 「ヒンメルを害するものは、排除する」。それだけだ。

 もし、ここで僕が「彼女に殺されかけた」などと言えばどうなる? フリーレンは問答無用でゾルトラークを放つだろう。レムを、ラムを、そして彼女らを守ろうとするエミリアやパックごと、この屋敷を消滅させるかもしれない。

 それは、だめだ。絶対に避けないといけない。

 「……違うんだ、フリーレン」

 ヒンメルは彼女の手首を掴んだ。フリーレンの手は冷たい。だが、その指先には膨大なマナが収束し始めていた。

 「何が違うの。ヒンメルの魔力が乱れている。呼吸も浅い。脈も速い。明らかに、脅威に対する反応をしている」

 「ただの、悪夢だよ」

 ヒンメルは精一杯の微笑みを作った。頬が引きつるのを、必死で抑え込む。

 「昨夜、ちょっと怖い夢を見てね。魔族に追われる夢だ。それで、まだ寝ぼけているみたいだ。恥ずかしいな、勇者ともあろうものが」

 「……嘘」

 フリーレンは即答した。彼女の目は誤魔化せない。千年以上の時を生きた魔法使いの観察眼は、ヒンメルの微細な表情の変化も見逃さない。

 「ヒンメルは、そんなことで取り乱したりしない。嘘をつくときに右の眉が少し上がる癖、まだ直ってないよ」

 「……ッ」

 図星を突かれ、ヒンメルは言葉に詰まる。だが、認めるわけにはいかない。

 「フリーレン。僕を信じてくれ」

 ヒンメルは真剣な眼差しで彼女を見つめ返した。彼女の手を、両手で包み込む。

 「本当に、何もされていないんだ。彼女たちは僕たちをもてなしてくれている。ただ、僕が勝手に……過去の戦いの記憶と重ねてしまっただけなんだ」

 フリーレンが、ヒンメルの目を覗き込む。数秒の沈黙。それは永遠のように感じられた。

 やがて、フリーレンは小さく溜息をつき、杖から手を離した。

 「……わかった。ヒンメルがそう言うなら」

 収まった。だが、その目は納得していなかった。彼女の視線は、再びレムへと向けられる。それは「敵」を見る目だった。

 解析し、弱点を探り、いざとなればコンマ一秒で殺害するための、冷徹な観察。

 「でも、気をつけて。この屋敷、魔力の流れが変。結界も歪んでる」

 「ああ……気をつけるよ」

 ヒンメルは安堵の息を漏らした。なんとか、最悪の事態は回避できた。だが、信頼にひびが入った。フリーレンはもう、この屋敷の誰も信用していない。

 そして、僕が隠し事をしていることにも気づいている。

 「ごちそうさま。食欲ないや」

 フリーレンは食べかけのパンを残して立ち上がった。「部屋に戻って、解析を続ける」そう言い残して食堂を出ていく彼女の背中は、いつもより小さく、そして頑なに見えた。

 残されたヒンメルは、冷めたスープを見つめた。胃が鉛のように重い。

 孤独だ。

 隣にフリーレンがいるのに、こんなにも遠い。死の恐怖を、誰とも共有できない。レムが怖い。それを悟られるのも怖い。

 そして何より、フリーレンを人殺しにしてしまうことが、一番怖い。

 「……外の空気でも、吸ってくるかな」

 ヒンメルは逃げるように席を立った。この屋敷にいると、息が詰まる。レムの視線から、逃れたかった。

________________________________________

 アーラム村への道は、のどかだった。木漏れ日が降り注ぎ、鳥のさえずりが聞こえる。屋敷の重苦しい空気とは対照的な、平和な世界。

 ヒンメルは、買い出しという名目で屋敷を抜け出していた。もちろん、名目は何でもよかった。とにかく、あの青い髪のメイドのいない場所に身を置きたかったのだ。

 「あ! 勇者様だー!」

 村の入り口に差し掛かると、子供たちが駆け寄ってきた。赤いリボンの少女、ペトラ。坊主頭の少年、リュカ。その他、数人の子供たち。

 彼らは屈託のない笑顔でヒンメルを取り囲む。

 「よう、元気かい? 未来の勇者たち」

 ヒンメルは膝をつき、彼らの目線に合わせて微笑んだ。不思議と、子供たちの前では自然と笑えた。彼らは純粋だ。裏がない。

 鎖も鉄球も持っていない。ただ、僕を「かっこいいお兄ちゃん」として見てくれる。それが、今のヒンメルには救いだった。

 「ねーねー、昨日一緒にいたあの魔法使いのお姉ちゃんは?」

 「フリーレンかい? 彼女は今、難しい本と格闘中さ。本の虫だからね」

 「えー、つまんないのー」

 子供たちが騒ぐ。その中に、一匹の子犬が混じっていた。黒い毛並みの、愛らしい子犬だ。尻尾を振って、ヒンメルの足元にじゃれついてくる。

 「おや、君も僕の魅力に気づいてしまったのかな?」

 ヒンメルは苦笑しながら、子犬の頭を撫でようと手を伸ばした。その時。

 ガブッ。

 「痛ッ……」

 子犬が、ヒンメルの右手を噛んだ。鋭い痛みが走る。だが、それは一瞬のことだった。子犬はすぐに口を離し、キャンキャンと鳴きながら子供たちの足元へ隠れた。

 「あー! コタロー、だめだよ噛んじゃ!」

 「ごめんなさい、勇者様! この子、ほかの子には嚙んだりしないのに……」

 ペトラが慌てて謝ってくる。ヒンメルは自分の手を見た。手の甲に、小さな歯型がついている。血が滲んでいるが、大した傷ではない。

 魔族の爪や、矢を受けた傷に比べれば、かすり傷にも満たない。

 「いいよ、気にしないでくれ。勇者の皮膚は鉄よりも硬い……と言いたいところだけど、まあ、これくらいは勲章みたいなものさ」

 ヒンメルは笑顔で手を振った。だが、内心では微かな違和感を覚えていた。

 (……なんだ?)

 傷の痛みとは別に、奇妙な感覚があった。まるで、傷口から冷たい泥水が入り込んだような。血管を伝って、何かが這い上がってくるような、生理的な嫌悪感。

 ズキリ、と傷が脈打つ。物理的な痛みではない。もっと深い、魂に近い場所での不協和音。

 だが、ヒンメルはその違和感を意識の外へと追いやった。今の彼の頭の中は、レムへの恐怖と、今夜をどう生き延びるかという思考で埋め尽くされていたからだ。

 子犬に噛まれた程度のこと、些末事だ。警戒すべきは鉄球であって、甘噛みではない。

 「さて、そろそろ戻らないとね。また来るよ」

 ヒンメルは立ち上がった。少し、目眩がした。立ちくらみだろうか。昨日の死のショックと、ストレスで疲れているのかもしれない。

 彼は村を後にし、再びあの重苦しい屋敷への道を歩き始めた。その背中に、死神の鎌のように鋭い**「呪い」**が突き刺さっていることにも気づかずに。

________________________________________

 夜が来た。死の時間が、また巡ってくる。

 ヒンメルは自室のベッドに腰掛け、膝の上で剣を握りしめていた。窓の外は完全な闇だ。ロウソクの火が揺れるたびに、部屋の隅の影が生き物のように蠢く。

 コンコン。

 扉がノックされた。ヒンメルが身を硬くするよりも早く、声がした。

 「私」

 フリーレンだ。ヒンメルが返事をする前に、扉が開いた。彼女は枕を抱えて立っていた。いつもの寝間着姿ではなく、旅装のままだ。

 「……フリーレン? どうしたんだい、そんな格好で」

 「今日はここで寝る」

 彼女は短く告げると、ヒンメルの返事も待たずに部屋に入ってきた。そして、ドアの前に椅子を引きずってくると、そこにどっかりと座り込んだ。

 完全に、見張りの体勢だ。

 「……あのね、フリーレン。僕は子供じゃないんだよ。一人で寝られるさ」

 「ヒンメルは嘘をついてる」

 フリーレンは杖を膝の上に置き、まっすぐにヒンメルを見た。

 「なにか、隠してる。脅えてる。それが何なのか、話してくれないなら聞かない。でも、ヒンメルが死ぬのは嫌だ」

 その言葉は、重かった。彼女なりの、最大限の譲歩であり、愛情表現だった。理由を聞き出したい衝動を抑え、ただ「守る」という行動を選んだのだ。

 「……君には敵わないな」

 ヒンメルは苦笑して、剣をサイドテーブルに置いた。彼女がいるなら、レムは手出しできないだろう。フリーレンは、この世界において規格外の強者だ。

 物理攻撃も、魔法攻撃も、彼女の前では児戯に等しい。最強の盾が、扉を塞いでいる。

 「ありがとう、フリーレン」

 「……ん。早く寝て。明日は早いよ」

 フリーレンは魔道書を開き、読み始めた。ヒンメルはベッドに横になった。安心感があった。彼女がいれば、大丈夫だ。

 今夜は、死なない。そう思えた。

 だが、深夜。

 異変は、静かに、しかし確実に訪れた。

 「……う、ッ……」

 ヒンメルは呻き声を上げて目を覚ました。寒い。死ぬほど寒い。ガタガタと歯が鳴る。布団を首まで被っているのに、氷水に浸かっているようだ。

 「ヒンメル?」

 異変を察知したフリーレンが、すぐに駆け寄ってくる。彼女の手が、ヒンメルの額に触れる。

 「冷たい……! 熱はない。でも、体温が異常に下がってる」

 「は、あ……く、るし……」

 息ができない。身体を動かすためのエネルギーが、根こそぎ枯渇している感覚。指一本動かせない。

 視界が暗くなっていく。これは、昨日の死に方とは違う。もっと静かで、もっと絶望的な衰弱死。

 「待って、今、解析する」

 フリーレンの目が光る。彼女の魔力が、ヒンメルの身体をスキャンする。その表情が、驚愕に染まる。

 「マナが……ない。枯渇してる。吸い取られてる」

 「すい……とら……?」

 「呪い。術式が埋め込まれてる。外部から、強制的にマナを吸い上げるパスが繋がってる」

 フリーレンの声が、焦りで上ずる。彼女は杖を掲げた。

 「遮断する。……だめ、構造が違う。この世界の術式、まだ解析しきれてない……!」

 彼女の魔法技術は、この世界の理とは異なる体系のものだ。基本原理は同じでも、呪いの「方言」が違う。解呪のコードが噛み合わない。

 「くそッ……! なんで、治らないの……!」

 フリーレンが、珍しく悪態をついた。彼女の手から、膨大な魔力がヒンメルへと注ぎ込まれる。だが、それは穴の開いたバケツに水を注ぐようなものだ。

 注いだ端から、何処かへと吸い出されていく。

 ヒンメルの意識が遠のいていく。その中で、一つの記憶が浮かび上がった。

 昼間。村での出来事。子犬。噛まれた右手。

 「……犬……」

 ヒンメルは掠れた声で呟いた。

 「え?」

「子犬……かまれた……そこから……」

 右手が、熱い。見ると、昼間についた小さな歯型が、どす黒く変色し、脈打っていた。呪いの基点。マーキング。

 フリーレンがその傷を見る。彼女の顔から血の気が引いた。

 「……呪詛の媒介。噛まれた時に、術式を打ち込まれたんだ」

 原因は分かった。だが、遅すぎた。既にヒンメルの生命力は、限界を下回っていた。心臓の鼓動が、弱々しくなっていく。

 トクン、……トクン、…………トクン。

 「死なないで、ヒンメル」

 フリーレンがヒンメルの手を握りしめる。その手が、震えていた。あの冷静沈着なフリーレンが、泣きそうな顔をしている。

 「私がいるのに。私が守ってたのに。なんで……」

 彼女の悲痛な声が、遠く聞こえる。

 ごめん、フリーレン。君は悪くない。僕が、油断したんだ。レムばかりを警戒して、足元の小さな悪意に気づかなかった。

 僕のミスだ。

 「……笑ってくれ、フリーレン」

 ヒンメルは最後の力を振り絞り、彼女の頬に手を伸ばした。冷たく、硬直した指先。

 「君の……泣き顔は……似合わ、ない……」

 指先が、彼女の涙に触れる前に、力尽きて落ちる。

 視界がブラックアウトする。感覚が消滅する。

 「ヒンメル!!」

 フリーレンの絶叫。それを最後に、世界は音を失った。

 孤独な死。最強の魔法使いが傍にいても、防げなかった死。信頼を守るためについた嘘が、結果として自分を追い詰め、彼女を傷つけた。

 意識の海が沈んでいく。そして、世界が割れる音がした。ガラスが砕け散るような、鋭利で残酷な音。

 時が、戻る。

 ヒンメルの未練を、後悔を、そしてフリーレンの執着を糧にして。死は終わりではない。何度でも繰り返される、地獄への入り口に過ぎないのだ。

 「あ……ぁ……」

 闇の中で、ヒンメルの魂だけが悲鳴を上げていた。

 助けてくれ。もう、嫌だ。誰か、終わらせてくれ。

 だが、その願いは誰にも届かない。次の瞬間、彼はまた、あの天井の下で目を覚ますのだから。

 

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