天井が見えた。
豪奢なシャンデリアが、朝の光を乱反射させて煌めいている。幾度も見せつけられた、ロズワール邸の客室の天井だ。
「……っ、は……あ、あぁ……」
ヒンメルは跳ね起きるのと同時に、自身の喉を掻きむしった。空気が薄い。いや、空気はある。肺も動いている。だが、魂が呼吸の仕方を忘れてしまっているような、根源的な欠乏感が全身を支配していた。
寒い。
死ぬほど寒い。
骨の髄まで凍りつくような、あの感覚。
(死んだ)
四度目だ。
僕はまた、死んだ。
前回の記憶が、汚泥のように脳裏に蘇る。鉄球で砕かれた痛みではない。刃物で切り裂かれた熱さでもない。ただ静かに、ろうそくの火が吹き消されるように、命が枯渇していく感覚。
指先から感覚が消え、視界が闇に塗りつぶされ、心臓が最後の拍動を終える瞬間の、あの絶対的な孤独。
フリーレンが叫んでいた。いつも冷静な彼女が、悲鳴のような声で僕の名を呼んでいた。その声に応えることもできず、僕は彼女を置いて逝ったのだ。
また、彼女に「守れなかった」という絶望を背負わせて。
「……う、ぅぇ……ッ」
こみ上げる嘔吐感を、口元を手で覆って無理やり飲み込む。胃の中は空っぽだ。吐き出すものなど何もない。ただ、死の恐怖という名の毒素だけが体内を循環している。
両手を見る。
震えている。痙攣していると言ってもいいほど、激しく震えている。右手の甲を見る。そこには、何もない。
あの時、どす黒く変色し、呪いの脈動を刻んでいた子犬の歯型は、綺麗に消え失せている。
「……戻ったんだね」
ヒンメルは、掠れた声で独りごちた。戻ってしまった。あの地獄の入り口へ。救いようのない、理不尽な死の運命が待つ朝へ。
ベッドから降りようとして、足がもつれて床に崩れ落ちる。膝に力が入らない。情けない。これが勇者の姿か。魔王を倒し、世界を救った男の成れの果てが、これなのか。
(怖い)
認めたくない感情が、決壊したダムのように溢れ出す。死ぬのが怖い。痛いのが怖い。あんな風に、わけもわからず命を吸い取られて終わるのは嫌だ。
レムの殺意に晒されるのも、正体不明の呪いに蝕まれるのも、もう耐えられない。
「……逃げたい」
本音が口をついて出る。フリーレンの手を取って、この屋敷から、この国から、いや、この世界から逃げ出してしまいたい。どこか遠く、誰も僕を知らない場所で、静かに暮らしたい。
だが。
“笑ってくれ、フリーレン”
死の間際、彼女に残した最期の言葉が、呪いのようにヒンメルを縛り付けた。彼女の泣き顔を思い出す。絶望に染まった、あの緑色の瞳を。
逃げれば、彼女はどうなる?
彼女はこの理不尽な世界に、たった一人取り残されるかもしれない。あるいは、僕を守るために世界そのものを敵に回して暴走するかもしれない。
それだけは、避けなければならない。
僕が勇者である理由は、剣の腕でも魔法の才能でもない。ただ、彼女の前で格好つけていたいという、その一心だけなのだから。
「……ふぅ」
ヒンメルは深く、長く息を吐き出した。床に手をつき、ゆっくりと立ち上がる。鏡の前へ。儀式の時間だ。
鏡の中に映る男は、酷い顔をしていた。顔色は蒼白で、目の下には隈があり、髪は乱れている。どこからどう見ても、死に損ないの敗残兵だ。
「……酷い顔だね。これじゃあ、フリーレンに愛想を尽かされてしまうよ」
ヒンメルは指先で前髪を梳き、頬を叩いた。痛みが、少しだけ意識を鮮明にする。口角を上げる。引きつる筋肉を意志の力でねじ伏せ、形を作る。
不敵に。優雅に。余裕たっぷりに。
「僕は勇者ヒンメル。世界を救い、歴史に名を刻んだ男だ」
鏡の中の自分に語りかける。これは嘘だ。虚勢だ。だが、嘘も突き通せば真実になる。いや、真実にするのだ。
「四回目だ。たったの四回。魔王軍との戦いに比べれば、まだまだ準備運動にもならないね」
震える指を、強く握りしめる。拳の中に爪が食い込む痛みで、恐怖を塗りつぶす。
今回の死因は「呪い」だった。媒介は、村で噛まれた子犬の傷。そして、その実行犯はおそらく、森に潜む魔獣使いだ。レムではない。彼女は僕を疑い、殺意を向けたが、呪いを使ったわけではない。
むしろ、彼女もまた、何者かに利用されている可能性がある。
彼女の殺意の原因は、僕から漂う「魔女の残り香」。それは死に戻りをするたびに濃くなっているらしい。つまり、今の僕は前回よりもさらに強く、あの禍々しい腐臭を纏っていることになる。
「……難儀な体質になったものだね」
ヒンメルは苦笑し、軍服の袖を通した。覚悟は決まった。レムを恨むのはやめよう。彼女もまた、何かを守ろうとして必死なだけなのだ。
魔女教徒への憎悪。それは彼女の過去に起因するものなのだろう。ならば、勇者がなすべきことは一つだ。
敵を倒すことではない。理不尽な運命から、彼女さえも救い出すこと。
「行こうか」
ヒンメルは鏡の中の虚像にウインクを投げかけ、扉へと向かった。その足取りはまだ重い。だが、もう膝は折れていなかった。
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廊下に出ると、朝の静寂が満ちていた。規則正しい足音が近づいてくる。心臓が跳ねる。トラウマが、反射的に身体を硬直させる。
角を曲がって現れたのは、二人のメイドだった。桃色の髪のラムと、水色の髪のレム。
「おはようございます、ヒンメル様」
二人が揃って頭を下げる。完璧な礼儀作法。だが、ヒンメルには見えてしまう。レムの瞳の奥に宿る、冷ややかな警戒の色が。
鼻をひくつかせ、眉をわずかに顰める仕草。彼女には、今の僕が吐き気を催すほどの悪臭を放つ汚物に見えているのだろう。
鉄球で頭を砕かれた記憶が、幻痛となって右肩を走る。逃げ出したい衝動を、奥歯を噛み締めて堪える。
「やあ、おはよう。ラム、レム。今日も爽やかな朝だね」
ヒンメルは努めて明るい声を出し、片手を挙げた。声の震えは、ギリギリで抑え込んだ。
「……ヒンメル様。少し、顔色が優れないようですが」
レムが問いかけてくる。その言葉は、表向きは気遣いだ。だが、その視線は探るように鋭い。「魔女教徒特有の不気味さ」を見出そうとしている目だ。
「そうかな? 実は昨夜、少し興奮してしまってね。この屋敷の素晴らしい調度品に見惚れていたら、夜更かししてしまったんだ」
「左様でございますか」
「ああ。君たちの働きぶりにも感心していたんだよ。完璧な仕事だ」
ヒンメルは一歩、彼女に近づいた。レムの肩が、わずかに強張る。警戒レベルが上がったのがわかる。殺されるかもしれない、という本能的な恐怖がヒンメルの背筋を駆け上がる。
だが、彼は退かなかった。ここで退けば、彼女は永遠に「敵」のままだ。
「……レム」
「はい」
「君の淹れる紅茶は、とても美味しい。心が落ち着くんだ。……後で、また頼めるかな」
ヒンメルは彼女の目を真っ直ぐに見つめて言った。そこには、媚びも、怯えも混ぜないように細心の注意を払った。ただ純粋な、感謝と信頼だけを込めて。
レムは一瞬、虚を突かれたような顔をした。魔女の臭いを撒き散らす不審者が、自分に対して無防備な信頼を向けてきたことへの困惑。
だが、すぐに無表情の仮面を被り直す。
「……かしこまりました。後ほど、お部屋にお持ちします」
「ありがとう。楽しみにしているよ」
ヒンメルは微笑み、その場を後にした。背中に突き刺さる視線の冷たさを感じながら、角を曲がった瞬間、壁に手をついて大きく息を吐いた。
手汗が酷い。心臓が破裂しそうだ。だが、第一歩は踏み出した。彼女を拒絶せず、受け入れるという意思表示。それが吉と出るか凶と出るかはわからない。
けれど、もう立ち止まっている時間はないのだ。
「……さて、次はもっと厄介な相手だ」
ヒンメルは視線を廊下の奥へと向けた。この死のループを抜け出すための、鍵となる人物。そして、フリーレンには頼れない、頼ってはいけない領域の専門家。
彼は食堂へは向かわず、屋敷の東棟へと足を進めた。目指すは「開かずの間」。禁書庫だ。
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扉を開ける。ただの客室。扉を閉める。隣の扉を開ける。倉庫。また閉める。
「扉渡り、だったかな。気難しい精霊だ」
ヒンメルは次々と扉を開け閉めしながら、回廊を進んでいく。ロズワール邸の全ての扉にランダムに接続されるという、空間転移の魔法。
運任せのように見えるが、法則性はあるはずだ。あるいは、招かれざる客を拒む意志が働いているのか。
十数回目の試行。廊下の突き当たりにある、豪奢な装飾が施された扉の前に立つ。深呼吸。ヒンメルは髪を整え、襟元を正し、ノックもせずに扉を開け放った。
「……ベティーの朝の平穏を乱す無礼者は、どこのどいつかしら」
空間が、変わっていた。壁一面を埋め尽くす無数の書架。埃っぽい、古書の匂い。窓のない部屋の中央で、梯子の上に腰掛けた豪奢なドレスの少女が、不機嫌そうに本から目を離した。
縦ロールの金髪に、蝶のような瞳孔を持つ碧眼。禁書庫の司書、ベアトリス。
「やあ、おはよう。ベアトリス。今日も愛らしいドレスだね。君の知性的な雰囲気にとてもよく似合っているよ」
ヒンメルは優雅に一礼し、部屋の中へと足を踏み入れた。
「……お世辞は聞き飽きてるのよ。それに、お前からは嫌な臭いがするかしら」
ベアトリスはパタンと本を閉じ、露骨に嫌そうな顔をした。彼女もまた、魔女の残り香を感知できる存在だ。だが、レムのような殺意はない。あるのは純粋な嫌悪と、わずかな好奇心。
「臭い、か。僕としてはフローラルの香りを纏っているつもりなんだけどね」
「冗談は顔だけにするのよ。……で、何の用かしら? またあのエルフの女と一緒じゃなくて、一人で来るなんて」
ベアトリスの視線が鋭くなる。そう、ここが重要だ。フリーレンは連れてきていない。彼女の魔法は万能に近いが、この世界の「呪い」という概念に関しては、解析が追いついていないことが前回のループで証明された。
フリーレンの魔法は論理と構造の積み重ねだ。だが、この世界の呪術はもっと感覚的で、オド(生命力)に直接干渉する、粘着質なシステムだ。餅は餅屋。陰魔法の極致にいる大精霊に頼るのが、最適解だと判断した。
「君に頼みがあるんだ、ベアトリス。僕の命に関わることでね」
「お前の命なんて、ベティーには関係ないかしら」
「そう言わずに聞いてくれないか。……報酬として、僕のこの美しい髪を触らせてあげてもいいよ?」
「いらないのよ!!」
ベアトリスが本を投げつけてくる。ヒンメルはそれを軽やかに(内心では必死に)キャッチした。
「……単刀直入に言おう。僕にかかっている『呪い』について、解析してほしい」
ヒンメルの声色が、真剣なものに変わる。ベアトリスは鼻を鳴らした。
「呪い? お前、自分が何を言ってるかわかってるかしら? お前からするのは魔女の臭いだけ。呪いなんてかけられて……」
彼女の言葉が止まる。梯子からふわりと飛び降り、ヒンメルの目の前に着地する。その小さな手が、ヒンメルの腹部に近づけられる。
触れてはいない。だが、彼女の手のひらから放たれる波動が、ヒンメルの身体を透過していくのを感じる。
「……変ね」
ベアトリスが眉を寄せた。
「お前のマナ、歪んでるかしら。いや、歪んでるどころじゃない。時間が……ねじれてる?」
「……わかるかい?」
「お前の肉体は新品同様なのに、魂だけが擦り切れてるのよ。まるで、何度も死んで生き返ったみたいに」
ぞくり、とヒンメルの背筋が凍る。さすがは大精霊。核心を突いてくる。
「それに……お前のマナの循環、異常だわ。外部からの干渉を受けて、無理やり今の形に固定されてる。これ、誰がやったの?」
フリーレンだ。ヒンメルは心の中で答えた。彼女の無自覚な執着が、僕をこの世界に、この時間に縛り付けている。だが、それを口にするわけにはいかない。
「……それは言えない。ただ、今知りたいのは別のことだ。僕の身体に、外部からマナを吸い上げるパスが繋がっていないか、見てほしいんだ」
「マナの吸収? ……ふん、面倒だけど見てあげるのよ」
ベアトリスはぶつぶつ言いながらも、本格的な解析を始めた。彼女の瞳の中で、幾何学模様の魔法陣が回転する。ヒンメルは息を呑んで待つ。
前回の死因である「呪い」は、犬に噛まれた瞬間に発動したものだ。今はまだ噛まれていない。だから、痕跡はないはずだ。だが、もし「呪いの予兆」や、術者が僕を狙っている痕跡が見つかれば……。
その時。
禁書庫の扉が、静かに開いた。
「……ヒンメル?」
温度が、下がった。ヒンメルの心臓が跳ねる。振り返ると、そこにフリーレンが立っていた。いつも通りの無表情。だが、その緑色の瞳は、全く光を宿していなかった。
「……やあ、フリーレン。早かったね」
ヒンメルは笑顔を作ろうとしたが、頬が強張ってうまく動かなかった。まずい。彼女に内緒でベアトリスに接触しているところを見られた。
フリーレンの視線が、ヒンメルと、その目の前にいるベアトリスを行き来する。そして、ヒンメルの腹部に手をかざしているベアトリスの手元で止まる。
「……何してるの」
声が低い。空気が振動し、書架の本がカタカタと震え始める。彼女の魔力が、無意識のうちに溢れ出している。
「あら、嫉妬深い女は嫌われるのよ、エルフ」
ベアトリスは怯む様子もなく、挑発的にフリーレンを見返した。一触即発。最強の魔法使いと、最強の精霊使い。この狭い空間で衝突すれば、屋敷ごと消し飛びかねない。
「違うんだ、フリーレン。少し、この世界の魔法について教えてもらっていただけだよ。君の研究の役に立つかと思ってね」
ヒンメルは慌てて二人の間に割って入った。冷や汗が止まらない。
フリーレンは、じっとヒンメルを見た。嘘を見抜こうとする目だ。数秒の沈黙の後、彼女は視線を落とした。
「……ふーん。そう」
彼女は杖を握り直した。怒っているのではない。もっと質の悪い感情。悲しみと、疎外感。
「私じゃ、だめなんだ」
小さな呟き。それはヒンメルの胸を鋭くえぐった。違う、そうじゃない。君が一番だ。君こそが僕の最高のパートナーだ。
そう叫びたかった。だが、今回の「呪い」に関しては、君では対応できないのだ。君を無力感に晒したくないからこそ、僕は……。
「……ヒンメルの身体、解析させてもらえないしね」
フリーレンは自嘲気味に言った。彼女は気づいているのだ。ヒンメルが、自分に隠れて何かをしていることに。そして、自分の魔法では解けない何かが起きていることに。
「邪魔したね。……朝ごはん、冷めるよ」
フリーレンは踵を返し、禁書庫を出て行った。その背中は、拒絶のオーラを纏っていた。
「……罪作りな男ね、お前」
ベアトリスが呆れたように息を吐く。ヒンメルは頭を抱えたくなった。最悪だ。レムとの関係改善を図る一方で、一番大切なフリーレンとの間に溝を作ってしまった。
「……笑えないね」
ヒンメルは呟いた。だが、立ち止まるわけにはいかない。フリーレンに嫌われても、誤解されても、彼女を生かして返す。
それが、今の僕の唯一の存在意義なのだから。
「ベアトリス。続けてくれ。……僕には時間がないんだ」
ヒンメルは再び、幼い精霊に向き直った。その目には、悲壮な覚悟が宿っていた。
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朝食の席は、針の筵だった。エミリアとパックは和やかに談笑しているが、フリーレンは一言も発さずにスープを啜っている。
レムは完璧な給仕をしているが、視線は氷点下だ。
ヒンメルは味のしないパンを飲み込みながら、今日の計画を反芻していた。ベアトリスに見てもらったが、衰弱死される呪いはまだかけられていない。あの子犬が呪いの執行者で確定した。
だから、アーラム村へ行く。
子犬を見つける。
そして、魔獣使いを炙り出す。
前回は、無防備に噛まれた。今回は、逆に利用する。
食後、ヒンメルは玄関ホールでフリーレンを呼び止めた。彼女は無視して通り過ぎようとしたが、その腕を掴んだ。
「フリーレン」
「……何」
「僕はこれから、村へ行ってくる。買い出しと、少し調べたいことがあってね」
「私も行く」
「いや、君はここに残ってくれ」
フリーレンが目を見開く。拒絶されるとは思っていなかった顔だ。
「なんで? 危ないよ。ヒンメルは狙われてるんでしょ? 私がいなきゃ……」
「君には、エミリア様たちの護衛をお願いしたいんだ」
ヒンメルは嘘をついた。いや、半分は本当だ。もし魔獣使いが襲撃してくれば、屋敷も危険になる。だが最大の理由は、フリーレンを村へ連れて行きたくないからだ。
もし戦闘になれば、彼女は容赦なく敵を殲滅するだろう。村ごと焼き払うかもしれない。それに、もし僕がまた死ぬようなことになれば、彼女の精神が崩壊するのを見るのが耐えられない。
「僕一人で行くよ。大丈夫、すぐに戻る」
「……信用、できない」
フリーレンが呟く。彼女の手が、ヒンメルの袖を強く握りしめている。震えている。彼女は感じているのだ。ヒンメルから漂う、死の予兆を。
「ヒンメル、置いていかないで。なんか……嫌な予感がするの。ヒンメルが、遠くに行っちゃう気がする」
その言葉に、ヒンメルの胸が締め付けられる。彼女の勘は鋭い。僕はもう、半分死んでいるようなものだ。いつ、本当に戻れなくなるかわからない。
だからこそ、言わなければならない。
ヒンメルは、フリーレンの手を優しく包み込み、その目を見つめた。いつものキザな笑みではなく、穏やかで、どこか哀愁を帯びた表情で。
「フリーレン。約束してくれ」
「……何を?」
「もし、僕の帰りが遅くなっても……必ず君のもとに戻る。だから、待っていてほしい」
もし今回失敗しても、死んで時間を巻き戻して、必ず君の前に帰ってくる。だから、絶望しないでくれ。暴走しないでくれ。
「僕が戻ってくるまで、君はこの屋敷で、いつもの冷静な君でいてくれ。……できるかい?」
フリーレンは、長い間ヒンメルを見つめていた。その瞳の中で、様々な感情が揺れ動く。不安、疑念、そして信頼。
やがて、彼女は小さく頷いた。
「……わかった。約束する」
「ありがとう。いい子だ」
ヒンメルは彼女の頭をポンと撫でた。これが最後の手触りにならないことを祈りながら。
「じゃあ、行ってくるよ」
ヒンメルは背を向けた。振り返らなかった。振り返れば、決意が揺らぐ気がしたからだ。
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村への道は、前回と同じようにのどかだった。だが、ヒンメルの目には全く違う景色として映っていた。風に揺れる木々は魔獣の触手に見え、鳥のさえずりは警報のように聞こえる。
「……さて、ここからが本番だ」
村の入り口が見えてくる。子供たちの姿がある。そして、その足元には黒い子犬。
呪いの媒介。
死へのトリガー。
ヒンメルは腰の剣に手を添えた。抜くためではない。自分の震える手を抑えるためだ。
子供たちが駆け寄ってくる。
「勇者様だー!」
その無邪気な笑顔の裏に、どんな悪意が潜んでいるのか。いや、子供たちに罪はない。罪があるのは、彼らを利用する何者かだ。
ヒンメルは深呼吸をした。肺いっぱいに、生温かい空気を吸い込む。死の臭いがする。だが、同時に、花の香りもした。
道端に咲く、小さな青い花。僕の髪と同じ、蒼い色。
「大丈夫。僕は勇者ヒンメルだ」
きっと今回も死ぬ。
だが、それを受け入れる。
受け入れて、知るべきことを知るのだ。その先に、つなげるために。
自分に言い聞かせる。恐怖はある。絶望もある。だが、それ以上に、守りたいものがある。
ヒンメルは一歩を踏み出した。その背中は、かつて魔王に立ち向かった時と同じように、あるいはそれ以上に、孤独で、気高く見えた。
誰も知らない戦いが、今、始まる。