月明かりが、窓枠の影を床に長く伸ばしていた。
ロズワール邸の夜は、不自然なほどに静寂だ。昼間の喧騒、ラムやレムが忙しなく動き回る音、エミリアとパックの穏やかな会話、そしてフリーレンの気だるげな寝息。それらすべてが闇に溶け込み、屋敷全体が巨大な生き物の腹の中に納まったかのような圧迫感を放っている。
客室のベッドの上で、ヒンメルは膝を抱えて座っていた。眠れるはずがなかった。
また、死んだ。
村に行き、知るべきことを知り、そして……死んだ。
想定していたこととはいえ、せり上がる死の恐怖は殺しきれない。
最後の死についてだけではない。
目を閉じれば、まぶたの裏に焼き付いた鮮血の赤と、砕け散る肉片の映像が再生される。
鉄球が風を切る音。頭蓋がひしゃげる感触。そして、意識が途絶える瞬間に見た、青い髪のメイドの、鬼のような形相。
あのリアルな死が、また近づいてくる。
(……来る)
ヒンメルは震える手を、自分の二の腕に回して抱きしめた。寒い。暖炉の火はとっくに消えているが、この寒さは気温のせいではない。魂の芯から這い上がってくる、死への忌避感だ。
呪いによる衰弱死。何者かによる襲撃。そして、信頼しようと試みた相手からの、あまりにも残酷な断罪。
幾通りもの「死」を経験し、そのたびに時間を巻き戻され、この夜に戻ってくる。その繰り返しが、勇者の精神をヤスリのように削り取っていた。
「……はは、みっともないな」
乾いた笑いが漏れる。鏡を見なくてもわかる。今の自分は、世界を救った英雄の顔をしていない。怯え、逃げ惑う、ただの脆弱な人間だ。
だが、それでも立ち上がらなければならない。
(フリーレン……)
隣の部屋で眠っているであろう、愛しいエルフの姿を思い浮かべる。彼女を巻き込むわけにはいかない。彼女の魔法があれば、この屋敷の全員を制圧することなど造作もないだろう。だが、それをさせてしまえば、フリーレンはこの世界で完全に孤立する。
「人殺しのエルフ」として。彼女が人間を知ろうとする旅路を、血で汚すわけにはいかない。
だから、これは僕ひとりの戦いだ。剣で敵を斬る戦いではない。誤解と憎悪という、目に見えない怪物との対話だ。
ヒンメルはベッドから降りた。足がもつれそうになるのを、意志の力でねじ伏せる。軍服の上着を羽織る。ボタンを留める指先が、微かに痙攣している。
深呼吸。肺の中に溜まった恐怖の毒素を吐き出し、代わりに虚勢という名の鎧を纏う。
鏡の前に立つ。蒼白い顔色。隈の浮いた目。けれど、口角を上げれば、そこにはいつもの「勇者ヒンメル」がいた。
「大丈夫だ。僕は最高に格好いい。どんな絶望的な状況でも、君は輝いているよ、ヒンメル」
自分自身への暗示。震えを隠すためのナルシシズム。準備はできた。剣は持たない。腰にあるのは空の鞘だけだ。武器を持てば、それは「敵対」の意思表示になる。今回の相手に、それは逆効果だ。
ヒンメルは静かに扉を開け、廊下へと踏み出した。
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廊下の空気は、部屋の中よりもさらに冷たく、重かった。一歩進むたびに、見えない泥沼に足を取られるような感覚がある。そして、匂い。
自分自身の体から漂う、甘く、腐ったような芳香。「魔女の残り香」と呼ばれるそれが、死に戻りを重ねるたびに濃くなっていることを、ヒンメル自身も感じ始めていた。
鼻につく、生理的な嫌悪感を催す匂い。まるで、自分自身が腐乱死体になって歩いているような錯覚に陥る。
(レムには、この匂いがもっと強烈に感じられているはずだ)
彼女の殺意の根源。魔女教徒への激しい憎悪。それが何に起因するのか、ヒンメルはまだ知らない。だが、前回のループで向けられた彼女の瞳――憎しみと、それ以上に深い「悲しみ」を宿した瞳が、脳裏から離れなかった。
彼女はただの殺人鬼ではない。何かを守るために、自分を犠牲にして手を汚そうとしている。それは、どこか似ていた。誰かに似ている。
ヒンメルの足が止まる。使用人区画。その一角にある、簡素な扉の前。レムの私室だ。
彼女が襲ってくるのを待つのではない。彼女が動き出す前に、こちらから会いに行く。それは賭けだった。扉が開いた瞬間に、モーニングスターで頭を砕かれるかもしれない。
心臓が早鐘を打つ。喉の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。
(帰りたい)(逃げたい)(フリーレンの隣で、何も考えずに眠りたい)
弱音が溢れ出す。だが、ヒンメルは動かなかった。扉の前に立ち、ただ静かに、その向こう側にいる気配を感じ取る。
中にいるはずだ。彼女もまた、眠れぬ夜を過ごしている。「敵」である僕をいつ始末するか、そのタイミングを計りながら、懊悩しているはずだ。
コン、コン。
ヒンメルは、軽く扉をノックした。静寂を切り裂く乾いた音。直後、部屋の中から微かな衣擦れの音が聞こえ、そして完全に気配が消えた。
息を潜めたのだ。殺気の密度が高まる。扉一枚隔てた向こう側で、猛獣が獲物に飛びかかろうと身構えているのがわかる。
「……起きているかい、レム」
努めて穏やかな声を出す。声が震えないように、腹に力を込める。
「少し、話をしたいんだ。……君に、謝らなければならないことがある」
返事はない。だが、拒絶の沈黙ではない。困惑の沈黙だ。夜襲をかけるつもりだった相手が、武器も持たずにノックをしてきたのだから、無理もない。
数秒、あるいは数分にも感じられる永遠のような間の後。カチャリ、と鍵が開く音がした。扉がゆっくりと、内側に開いていく。
そこには、薄暗い部屋の中に佇む少女の姿があった。メイド服ではなく、簡素な寝間着姿。しかし、その右手には、不釣り合いなほど巨大で凶悪な鉄球が握られている。
鎖が床に垂れ、ジャラ……と微かな音を立てた。
「……何の真似ですか」
レムの声は、氷のように冷たかった。その瞳には、一切の光がない。ただ、深淵のような暗い青が、ヒンメルを射抜いている。
「こんな夜更けに。……いえ、むしろ好都合ですね。わざわざ殺されに来てくださったのですか? 魔女教徒」
殺気が肌を刺す。本物だ。彼女は今、この場でヒンメルを殺すことに躊躇いを持っていない。ヒンメルの本能が警鐘を鳴らす。逃げろ、と叫んでいる。
だが、彼は一歩も引かなかった。それどころか、ゆっくりと一歩、部屋の中へと足を踏み入れた。
「……っ!」
レムが眉をひそめ、一歩下がる。鉄球を持ち上げる手が強張る。
「近づかないでください。……臭い。貴方から漂う瘴気で、鼻が曲がりそうです」
「ああ、すまないね。お風呂には入ったんだが、どうやら染み付いてしまっているらしい」
ヒンメルは苦笑いを浮かべた。その余裕が、逆にレムを苛立たせる。
「ふざけないで! 貴方が何者で、何のためにこの屋敷に来たのか、すべてお見通しです。エミリア様を……いいえ、姉様を脅かす存在は、レムがすべて排除します」
鎖が唸りを上げる。死の旋律。ヒンメルは、その鉄球から目を逸らさず、しかし敵意も向けずに言った。
「僕は魔女教徒じゃない。……信じてもらえないとは思うけれどね」
「ええ、信じません。その匂いが動かぬ証拠です」
「そうだね。僕自身、この匂いには辟易しているんだ」
ヒンメルは肩をすくめた。そして、ふと視線を落とすような素振りで、レムの顔を、その瞳の奥を覗き込んだ。
「……辛そうだね、レム」
その言葉は、レムの予想外だったのだろう。彼女の表情が凍りつく。
「……は?」
「君は、泣いているように見えるよ」
「何を……訳のわからないことを……!」
「わかるんだ。僕も、よく鏡の前で同じ顔をしているからね」
ヒンメルは自嘲気味に笑った。その笑みには、いつものキザな輝きはない。あるのは、疲弊しきった男の、生々しい本音だけだ。
「誰かのために、完璧であり続けようとする。誰かのために、自分の手を汚そうとする。……それは、とても痛いことだ」
レムの呼吸が乱れる。鉄球を持つ手が震えている。
「姉様のため、かい?」
確信を持って問う。レムの瞳が揺らいだ。
「……貴方に、姉様の何がわかるというのですか。できそこないのレムと違って、姉様は完璧で、優しくて……」
「ああ、素晴らしい人だね。ラムは聡明で、君を大切に思っている」
「黙れ! 魔女教徒風情が、姉様の名を気安く……!」
殺気が膨れ上がる。今にも飛びかかってきそうな彼女に対し、ヒンメルは両手を広げて無防備を晒した。
「僕はね、レム。勇者なんだ」
唐突な言葉に、レムの動きが止まる。
「世界を救った。魔王を倒した。人々は僕を称え、銅像を建て、物語として語り継ぐ。……でもね、僕は本当は、ただの目立ちたがり屋のナルシストなんだよ」
ヒンメルは語り始めた。誰にも言ったことのない、独白を。
「僕は臆病だ。死ぬのが怖い。痛いのも嫌だ。君のその鉄球を見ているだけで、足が震えて立っていられなくなりそうだ」
(事実、膝は笑っている。油断すれば崩れ落ちそうだ)
「それでも、僕は勇者として振る舞い続けた。なぜだと思う?」
レムは何も答えない。ただ、困惑した表情でヒンメルを見つめている。
「一人のエルフの女の子に、格好いいところを見せたかったからだ。ただ、それだけなんだよ」
ヒンメルの脳裏に、フリーレンの無表情な顔が浮かぶ。彼女が未来で一人になった時、寂しくないように。彼女の記憶の中で、僕が輝き続けられるように。
その一心で、ボロボロの体に鞭打って、剣を振るい続けてきた。
「自分のためじゃない。誰かのために、自分という存在を定義する。……それは、呪いのような生き方だ」
ヒンメルは一歩、またレムに近づいた。鉄球の射程距離内。彼女が腕を一振りすれば、ヒンメルの頭はスイカのように砕けるだろう。
「君も同じだね、レム。君は自分のために生きていない。ラムのために、自分の時間を、自分の心を殺して生きている」
レムの顔が歪む。図星を突かれた動揺。隠し続けてきた古傷を、強引に暴かれたような痛み。
「……違います。レムは、姉様の代替品。ツノを失った姉様の代わりに、レムが……」
「代替品なんかじゃない!」
ヒンメルが声を荒らげた。その迫力に、レムがビクリと肩を震わせる。
「君はレムだ。他の誰でもない。ラムの妹で、美味しい紅茶を淹れてくれて、働き者で、……そして、こんなにも傷ついている、ただの女の子だ」
ヒンメルの視界が滲んだ。涙が溢れてくる。それは、死の恐怖から来る涙ではない。目の前の少女の痛ましさが、自分の内側にある孤独と共鳴したからだ。
彼女もまた、死に戻りを繰り返す自分と同じように、終わりのない贖罪のループの中にいる。姉の角を折った原因が自分にあるという罪悪感。
その鎖に繋がれて、自分自身を許せずにいる。
「……っ、う……」
ヒンメルの頬を、涙が伝い落ちる。一度溢れた涙は止まらない。ボロボロと、大粒の涙が床に落ちていく。
「な、んで……」
レムが呆然と呟く。武器を構える手が下がっていく。
「どうして、貴方が泣くんですか。……殺されるのは貴方なんですよ? レムは、貴方を殺そうとしているんですよ?」
「わからない……。でも、悲しいんだ」
ヒンメルは涙を拭おうともせず、泣き笑いのような表情を浮かべた。
「君がそんなに苦しそうな顔をして、自分を殺してまで、誰かを守ろうとしている姿が……。昔の僕を見ているようで、どうしようもなく悲しいんだ」
彼は知っている。誰かのための自己犠牲が、いかに美しく、そしていかに残酷なものか。フリーレンを縛り付けないために、自分の死期を悟らせまいと振る舞った日々。
それは愛だったが、同時に彼女への裏切りでもあった。
「レム。君は優しい子だ。魔女教徒の匂いがする不審者に対して、すぐに殺さずに、こうして話を聞いてくれている」
「違います! レムはただ、隙を窺って……」
「君の手は震えている。僕を殺すことを、君の魂は拒絶している」
ヒンメルは手を伸ばした。その手は、鉄球ではなく、レムの頬へと向けられた。触れるか触れないかの距離で、止める。
「もう、いいんだよ。そんなに頑張らなくていい。……鬼になんて、ならなくていいんだ」
その言葉は、呪文のように響いた。レムの瞳から、色が抜け落ちていく。鬼族としての本能、魔女への憎悪、姉への贖罪。
それらで塗り固めた仮面が、ヒンメルの「共感」という熱によって溶かされていく。
この男は、敵だ。魔女の匂いがする。殺さなければならない。姉様のために。エミリア様のために。ロズワール様のために。
(でも、どうして)
どうしてこの男は、こんなにも澄んだ、悲しい色で私を見るの? どうして、自分の命の危機よりも、私の心の痛みを優先して泣くの?
蒼い髪。蒼い瞳。まるで、鏡の中にいる自分自身を見ているような錯覚。
「……ぁ……」
レムの口から、吐息のような声が漏れる。カラン、と音がした。鉄球が、手から滑り落ちた音ではなかった。彼女の心が、戦意を維持できずに折れた音だった。
「……嘘つき」
レムは小さく呟いた。その瞳に、涙が膜を張る。
「貴方は、嘘つきです。……魔女教徒なら、もっと狂っていてください。もっと醜悪でいてください。……こんな風に、人の心に土足で踏み込んでこないでください……ッ!」
叫び声とともに、レムは背を向けた。攻撃をするためではない。逃げるためだ。自分の理解の範疇を超えた、この「人間臭い英雄」から逃げ出すために。
「レム!」
呼び止める声を振り切り、彼女は廊下へと駆け出した。裸足の足音が、遠ざかっていく。
部屋に取り残されたヒンメルは、その場に崩れ落ちた。ドサリ、と膝をつく。緊張の糸が切れ、全身から力が抜けていく。
「……はは、危なかった」
心臓が早鐘を打っている。冷や汗でシャツが背中に張り付いている。あと一歩間違えれば、あの鉄球でミンチにされていた。
論理的な説得など通じなかった。ただ、感情と感情のぶつかり合い。自分の弱さをさらけ出すことでしか、彼女の強固な殻を破ることはできなかった。
(……でも、伝わったはずだ)
ヒンメルは涙で濡れた顔を手のひらで覆った。殺意は逸れた。少なくとも、今夜殺されることはなくなった。
だが、これは解決ではない。レムの心に、新たな迷いと混乱を植え付けたに過ぎない。彼女はこれから、僕をどう見るだろうか。
敵としてか、それとも……。
「……疲れたな」
ヒンメルは床に座り込んだまま、天井を見上げた。見知らぬ天井。だが、死んで目覚めた時の天井とは違う。生きて、この夜を越えようとしている証の天井だ。
ふと、廊下の方角を見る。フリーレンの部屋がある方角。
(君には、見せられないな。こんな無様な泣き顔は)
もし彼女が今のやり取りを見ていたら、何と言っただろうか。「ヒンメルは泣き虫だね」と淡々と言うだろうか。それとも、何も言わずに隣に座ってくれるだろうか。
会いたい。無性に、彼女の体温を感じたかった。彼女の匂い――魔女の腐臭などではない、陽だまりのような草花の香りを嗅ぎたかった。
だが、今はまだ行けない。この「死のループ」という名の迷宮を攻略し、完全に生還するまでは。
ヒンメルはゆっくりと立ち上がった。足取りはまだ覚束ないが、その目には微かな光が戻っていた。絶望の淵で、一つだけ手に入れた「共犯者」の可能性。
その細い糸を、手繰り寄せるしかない。
「……明日こそ。今度こそ、先に進む」
自分自身に言い聞かせるようにつぶやくと、か弱き勇者は祈るように目を閉じた。