ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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贖罪

ロズワール邸の客室は、死のような静寂に包まれていた。

窓の外はすでに夕闇が迫っているのか、分厚いベルベットのカーテンの隙間から、紫がかった薄暮の光が差し込み、床に長い影を落とす。部屋の隅の魔鉱石のランプが、頼りない橙色の明かりを灯し、豪奢な調度品たちの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

広い部屋の中央、天蓋付きのベッドに、その青年は横たわっている。

勇者ヒンメル。

青い髪を枕に広げ、穏やかな寝息を立てるその姿は、絵画のように美しかった。整った顔立ち、長い睫毛、白磁のような肌。異世界から来たという彼は、その言動の端々に過剰なほどのナルシシズムを漂わせていたが、こうして意識を手放している姿を見れば、彼が自身の容姿を誇るのもあながち根拠のないことではないと、誰もが認めるだろう。

だが、ベッドの脇の椅子に腰掛け、彼を見守るメイド――レムの胸中に渦巻いているのは、感嘆ではない。混沌とした、泥のような感情だった。

「……っ」

レムは、膝の上に置いた自身の拳を、爪が食い込むほどに強く握りしめた。

鼻腔を突く、耐え難い悪臭。ヒンメルの身体から立ち上るそれは、腐ったドブのような、あるいは古びた血糊のような、生理的な嫌悪感を催させる「魔女の残り香」だった。

魔女教徒。姉であるラムの角を奪い、故郷を焼き払い、レムからすべてを奪った憎むべき仇敵の臭い。

それなのに。

どうして、そこから漂う気配の中に、あのような清冽な香りが混じっているのだろうか。

レムは鼻をひくつかせた。腐敗臭の奥底にある、雨上がりの空のような、あるいは高原に咲く小さな青い花のような、澄んだ香り。

相反する二つの匂いが、ヒンメルの魂の中で混ざり合うことなく同居している。その矛盾が、レムの理性をかき乱していた。

(わからない……)

レムは唇を噛んだ。今朝までのレムにとって、この男は明確な「敵」だった。怪しい素性。魔女の臭い。そして、屋敷の住人たちを懐柔しようとする計算高い振る舞い。そのすべてが、魔女教徒の手口のように思えた。だからこそ、森で彼が孤立した時、レムはモーニングスターを手に取り、その命を奪おうとしたのだ。

だというのに。

『レムッ!!』

脳裏に、あの瞬間の叫びが蘇る。ウルガルムの牙がレムの喉笛を食い破ろうとした、コンマ数秒の刹那。この男は、剣を抜くこともなく、身を挺してレムを突き飛ばした。

自分を殺そうとしていた相手を。鬼の形相で鉄球を振り回していた化け物を。なんの迷いもなく、自らの命を盾にして守ったのだ。

「……馬鹿な人」

ポツリと漏れた言葉は、静寂の中に吸い込まれていった。

理解ができない。計算が合わない。魔女教徒ならば、自分を殺そうとした鬼など見捨てるはずだ。いや、それ以前に、一般人である彼が、あのような状況で他人のために動けるはずがないのだ。

レムは、ヒンメルの左腕に視線を落とした。かけられたシーツの隙間から見えるその腕は、白く、滑らかで、傷一つない。

数時間前、魔獣の顎によって無惨に噛み砕かれ、骨まで砕かれていたはずの腕だ。

森から屋敷へ戻り、治療を行うために衣服を脱がせた時、レムは息を呑んだ。傷がないのだ。治癒魔法をかけた形跡すらない。まるで、最初から怪我などしていなかったかのように、肉体が「復元」されている。

ベアトリスに診せたところ、彼女は不機嫌そうに「命に別状はない」とだけ告げ、自身の書庫へと引きこもってしまった。ロズワールもまた、興味深そうに目を細めただけで、多くを語らなかった。

異常だ。何もかもが異常すぎる。この男の存在そのものが、ルグニカの理から外れている。

(……それでも)

レムは、水盆に浸して絞ったタオルを手に取り、ヒンメルの額に浮かんだ脂汗をそっと拭った。彼が何者であれ、彼が異常な存在であれ。

彼がレムを救ったという事実だけは、動かしようのない真実としてそこにある。

タオル越しに伝わる彼の体温は、驚くほど冷たかった。顔色は蒼白で、呼吸は浅く、時折うなされるように眉間に皺を寄せている。

外傷は消えても、痛みや恐怖の記憶までは消えていないのだろうか。それとも、その「異常な治癒」の代償として、魂が削り取られているのだろうか。

「……痛い」

ふいに、ヒンメルの唇から、か細い声が漏れた。それは、昼間に見せていた自信満々の英雄の言葉とは程遠い、迷子の子供のような響きを持っていた。

「暗い……怖い……よ……」

その声を聞いた瞬間、レムの心臓が早鐘を打った。怖い?あの、常に鏡を見て髪を整え、ふざけたポーズをとっていた彼が?死を前にして、笑みを浮かべていた彼が?

(嘘つき……)

レムは気づいてしまった。彼の纏っていた「余裕」という名の鎧が、いかに薄く、脆いものであったかを。彼は恐怖を感じていないのではない。恐怖に押しつぶされそうになりながら、それでも「勇者」であろうとして、必死に虚勢を張っていただけなのだ。

震える指先。作り笑いの裏にある強張り。それらすべてが、彼なりの「守るための戦い」だったのだとしたら。

レムの胸の奥で、冷たく凍りついていた古傷が、きしりと音を立てた。姉様。角を失い、神童と呼ばれた未来を閉ざされた姉様。

レムは、姉様が角を失ったあの夜、安堵してしまった自分を許せないまま生きている。姉様の代替品として、完璧なメイドとして振る舞い、姉様の分まで生きなければならないという強迫観念。

自分には価値がない。自分は生きているだけで罪深い。そう信じ込んでいた。だからこそ、自分の命を軽んじて、暴走した。

なのに、この男は。この、弱くて、震えていて、それでも誰よりも気高い魂を持つ男は、そんなレムの命を、自分の命よりも重いものであるかのように扱った。

「……どうしてですか」

問いかけは、答えを求めない独白だった。タオルを水盆に戻し、レムは立ち上がろうとした。これ以上、彼のそばにいるのは苦しかった。彼の無垢な寝顔を見ていると、自分の中のどす黒い殺意や猜疑心が、あまりにも醜いものとして浮き彫りにされてしまうからだ。

逃げよう。そう思って、踵を返しかけた時だった。

ガサリ、と衣擦れの音がした。

「……!」

レムが振り返ると、ベッドの上のヒンメルが、薄く目を開けていた。青い瞳。その色は、窓の外に広がる夕闇よりも深く、しかし底光りするような意志を宿していた。

焦点が定まらないのか、彼の瞳は虚空を彷徨い、やがてゆっくりとレムの姿を捉えた。

「……あ」

ヒンメルの口が微かに動く。レムは反射的に身を引こうとした。何を言われるのだろう。罵倒だろうか。それとも、なぜ殺そうとしたのかという詰問だろうか。

当然だ。レムは彼に殺意を向けた。モーニングスターを振るった。その罪は、彼が目覚めた今、裁かれなければならない。

「ひ、ヒンメル様……お目覚めですか」

震える声を抑え込み、レムはメイドとしての仮面を被り直した。一歩、後ずさる。この場から立ち去りたい。姉様を呼んでこよう。旦那様を呼んでこよう。誰か、この重苦しい空気から自分を解放してくれる人を。

「……すぐに、旦那様をお呼びしてまいります。お加減が優れないようでしたら、ベアトリス様にも……」

早口にまくし立て、逃げるように背を向けたレムの腕を。

弱い力が、掴んだ。

「……待って」

心臓が止まるかと思った。その力は、本当に弱々しいものだった。レムがその気になれば、容易に振りほどける程度の握力。いや、鬼の力を持つレムにとっては、触れられているとさえ感じないほどの微弱な抵抗。

だが、その手は、鋼鉄の枷よりも重く、レムの足をその場に縫い止めた。

レムはおずおずと振り返る。ヒンメルが、ベッドから身を起こそうとしていた。だが、体幹に力が入らないのか、シーツの上で腕を震わせ、苦悶の表情を浮かべている。

「あっ、動かないでください!お体にはまだ、負担が……!」

思わず駆け寄り、その体を支える。細い。服の上からでもわかる、その華奢な骨格。剣を振るう筋肉はついているが、それはあくまで人間としての範疇だ。鬼族のレムから見れば、折れそうな小枝のような肉体。

こんな体で、彼はウルガルムの群れに飛び込んだのだ。

ヒンメルは、支えられたまま荒い息を吐いた。額に脂汗が滲み、青白い顔がさらに白くなる。それでも、彼は口元を歪めて笑おうとした。

「……やれやれ。起きたばかりの勇者に、そんな怖い顔を見せないでおくれよ」

いつもの、気障な台詞。だが、声は掠れ、音程は不安定に揺れている。彼は、自分の手が震えているのを隠すように、レムの袖を握りしめたままだった。

「レム」 「……はい」 「君は、無事かい?」

耳を疑った。自分の体の心配ではない。自分を殺そうとした、目の前の少女の安否を、真っ先に気遣ったのだ。

「……無事、です。貴方が、助けてくださったおかげで」

言葉にするのが辛かった。喉の奥に、熱い塊が詰まっているようだった。

「かすり傷一つ、ありません。……貴方が、代わりに傷ついたからです」

「そうか。……それはよかった」

ヒンメルは、心の底から安堵したように、ふっと息を吐いた。その表情には、一点の曇りもない。自分が傷ついたことへの後悔も、レムへの恨み言も、恩着せがましさすらもない。

ただ純粋に、一つの命が失われなかったことへの喜びだけがあった。

なぜ。どうして。

疑問が、堰を切ったように溢れ出した。

「……どうして、ですか」

レムの声が震えた。もう、メイドの仮面は維持できなかった。

「レムは、貴方を疑いました。貴方から、魔女の匂いがしたから。貴方が、私たちの敵だと思ったから……殺そうとしたんです。それなのに……!」

感情が昂ぶり、視界が涙で滲む。

「どうして、助けたんですか!見捨てればよかったじゃないですか!レムは……レムは、姉様の邪魔ばかりする、出来損ないの代替品なのに……!生きていても、誰の役にも立たない、空っぽの……!」

自己否定の言葉が、汚泥のように口から溢れ出る。止まらない。ずっと言いたかった。誰かに、断罪してほしかった。お前は生きている価値がないと。お前が死ねばよかったのだと。

だが。

ヒンメルは、握っていたレムの手を、そっと強く握り直した。そして、真っ直ぐにレムの瞳を見つめた。

その瞳は、やはり美しかった。すべてを見透かすような、それでいて何もかもを許容するような、どこまでも深い蒼色。

「レム」

彼は、静かに言った。

「君が自分のことをどう思っていようと、僕は君に生きていてほしいと思ったんだ」

「……っ」

「理由なんて、それだけで十分だろう?」

単純明快すぎる理屈。論理的でもなければ、合理的でもない。だが、その言葉は、レムがこれまで縛られてきた、どんな呪縛よりも強く響いた。

ヒンメルは、自由の利かない手を持ち上げ、そっとレムの頭に置いた。子供をあやすような、不器用な手つき。その温もりが、冷え切っていたレムの心を、芯から溶かしていく。

「僕はね、レム。君が悲しそうな顔をしているのが、嫌だったんだ」

彼は、独り言のように呟いた。

「君は、笑っている方が可愛いよ」

「……っ、ぁ……」

涙が、溢れた。もう、止めることはできなかった。嗚咽が漏れる。膝の力が抜け、その場に崩れ落ちる。ヒンメルのベッドの縁に縋り付き、レムは子供のように泣きじゃくった。

「う、あぁぁぁ……っ!ぁぁ……!」

許された気がした。姉様を守れなかった過去も。姉様の代わりに生きている現在も。すべてを、「生きていていい」というその一言が、肯定してくれた気がした。

ヒンメルは、泣き続けるレムの頭を、ぎこちなく撫で続けた。その手が微かに震えていることを、レムは知っている。彼が今も、得体の知れない恐怖や痛みと戦っていることを知っている。

それでも彼は、その弱さを隠して、レムのために「勇者」として振る舞っているのだ。

(ああ……)

レムの中で、何かが音を立てて変わった。それは、凍りついていた時が動き出す音。あるいは、新たな色が世界に満ちる音。

この人の力になりたい。この人の震える手を、支えてあげたい。この人が、無理をして笑わなくてもいいように。この人が、本当の笑顔を見せられるように。

それは、恋と呼ぶにはあまりにも切実で、忠誠と呼ぶにはあまりにも温かな、名前のない感情だった。

窓の外、夕闇が完全に世界を覆い尽くそうとする直前。最後の一筋の光が、二人の間を照らしていた。

レムの青い髪と、ヒンメルの蒼い髪。二つの青が、薄暗い部屋の中で、静かに溶け合っていた。

「……ありがとう、ございます……ヒンメル様……」

途切れ途切れに紡がれた感謝の言葉を、ヒンメルが聞き届けたかはわからない。安心したのか、彼は再び深い眠りへと落ちていこうとしていた。

撫でてくれていた手が、力なくシーツの上に滑り落ちる。

レムは、その手を両手で包み込んだ。自分の涙で濡れた頬に、その手の甲を寄せる。冷たい手。けれど、レムにとっては、どんな炎よりも温かい手。

「おやすみなさい、ヒンメル様」

レムは、祈るように呟いた。

「貴方が目覚める時、その世界が、優しいものでありますように」

それは、鬼族の少女が、初めて「英雄」に捧げた、心からの祈りだった。

部屋の空気が変わっていた。先ほどまでの、澱んだ閉塞感はもうない。魔女の残り香はまだ微かに漂っているかもしれない。だが、今のレムには、それはもう恐怖の対象ではなかった。

その匂いの主が、誰よりも優しい心を持っていることを知ったから。

レムは立ち上がった。涙を拭い、乱れたエプロンドレスを整える。その瞳には、もう迷いはなかった。彼女の時間は動き出したのだ。

この、弱くて、脆くて、誰よりも気高い勇者と共に。

部屋の隅で、見守るように揺れていたランプの火が、パチリと小さく爆ぜた。それはまるで、新たな物語の始まりを告げる、小さな祝砲のようだった。

 

 

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