勇者ヒンメル。
彼は眠り続けていた。
胸の上下動はあまりにも微かで、耳を澄ませなければその呼吸音すら聞き取ることができない。整えられた青い髪が白い枕に散らばり、長い睫毛が影を落とすその顔立ちは、皮肉なほどに美しかった。日中の彼が振りまいていた、あのおどけたようなナルシシズムや、芝居がかった仕草はどこにもない。そこにあるのは、ただ純粋な、そしてあまりにも脆い命の造形だけだった。
ベッドの脇には、一人の少女が座っていた。
メイド服に身を包んだ少女、レムである。
彼女は、彫像のように動かなかった。その水色の瞳は、瞬きさえ惜しむようにヒンメルの寝顔に固定されている。彼女の膝の上には、固く絞られた濡れタオルが置かれていたが、それを握りしめる指先は白く変色するほどに力が込められていた。
「……ヒンメル様」
唇から零れ落ちた名前は、祈りのようでもあり、懺悔のようでもあった。
彼は目を覚まさない。
三日前、レムの涙を受け止め、許しを与えてくれた彼は、再び眠りについた。それから、彼は一度も目を覚まさなかった。
原因は、「オド」と「マナ」の極度の欠乏だった。
ベアトリスは不機嫌そうに、しかし僅かな懸念を含んだ声で告げた。『こいつは自分の魂そのものを燃料にして動いていたようなものかしら。器の中身が空っぽなのよ。肉体が治っても、それを動かすための力が残っていないの』と。
魂を削る。
その言葉の重みが、レムの胸を押し潰す。
彼はそこまでして、レムを守ろうとしたのだろうか。見ず知らずの、しかも自分に敵意を向けていたメイドのために、魂まですり減らして。
「……馬鹿な人です」
レムは、タオルをヒンメルの額に当てた。冷や汗が滲んでいる。熱はないはずなのに、彼の体温は氷のように冷たい。まるで、生命活動を維持するための熱量さえも不足しているかのようだ。
「早く目を覚ましてください……お願いします……」
何度口に出したのか、わからない願いは届かない。
レムにできることは、ただこうして彼のそばにいて、彼が再び目を開けるその時を待ち続けることだけだった。
それが贖罪になるとは思わない。けれど、今のレムにとって、この行為だけが、自分が生きていることを許される唯一のよすがだった。
姉様の代替品としての自分ではなく、ただの「レム」として、一人の恩人のために尽くすこと。
それが、こんなにも苦しく、同時にこんなにも胸を焦がすような切実な喜びを伴うものだとは、知らなかった。
「……起きないね」
不意に、部屋の隅から声がした。
感情の起伏を感じさせない、平坦で静かな声。
レムは濡れたタオルを手に持ったまま、ゆっくりと視線を向けた。
部屋の隅、豪奢な一人掛けのソファに、小柄なエルフの少女が座っていた。
フリーレン。
ヒンメルと共にこの異世界に現れた、魔法使い。
彼女は分厚い魔導書を膝の上に広げていたが、その視線は活字を追っていなかった。長い白銀の髪を背もたれに預け、半眼のまま、じっとベッドの上のヒンメルを見つめている。
その緑色の瞳は、ガラス玉のように無機質で、何を考えているのか読み取ることができない。
「……ええ」
レムは短く肯定した。
「ベアトリス様のお話では、命に別状はないとのことですが……消耗が激しすぎると」
「そう」
フリーレンは短く呟くと、ぱたりと魔導書を閉じた。その動作には、どこか苛立ちのような、あるいは諦めのようなニュアンスが含まれているように感じられた。
レムは、このエルフの少女に対して、複雑な感情を抱いていた。
彼女はヒンメルの仲間でありながら、どこか彼に対して冷淡に見えることがあった。ヒンメルが危機に陥っても取り乱す様子を見せず、常に淡々としている。今回も、ヒンメルが倒れたと聞いても、顔色一つ変えずにこの部屋に入ってきた。
冷たい人なのだろうか。それとも、長命なエルフ特有の、時間感覚の違いから来る達観なのだろうか。
だが、今のレムには、彼女のその態度が、逆に救いでもあった。もし彼女までが取り乱し、レムを責め立てていたら、レムは今頃、罪の重さに耐えきれずに崩れ落ちていたかもしれない。
「……あの、フリーレン様」
レムはおずおずと声をかけた。
「貴女は、心配ではないのですか? ヒンメル様のこと」
フリーレンは、ゆっくりと首を傾げた。大きな耳飾り微かに揺れる。
「心配?」
彼女は、まるで初めて聞く単語であるかのように、その言葉を口の中で転がした。
「……ヒンメルは、そう簡単に死なないよ」
それは信頼とも、確信ともつかない、奇妙な響きを持っていた。
「それに、死なせないし」
ボソリと付け加えられた言葉は、レムの耳には届かなかった。あるいは、部屋の空気が不自然に冷えたせいで、聞き取れなかったのかもしれない。
フリーレンはソファから音もなく立ち上がると、ベッドの足元へと歩み寄った。その足取りは軽く、絨毯の上を滑るようだ。
彼女はベッドの柵に手を置き、眠り続けるヒンメルを見下ろした。
その視線が変わる。
先ほどまでの無機質な観察者の目ではない。まるで、解けないパズルのピースを見つめるような、探求と疑念が入り混じった目つき。
「……ただ、治るのが、早すぎる」
フリーレンが呟いた。
「え?」
「ベアトリスの解呪は完璧だった。それはわかる。でも、肉体の損傷の修復……あれは、治癒魔法の理屈じゃない」
フリーレンは手を伸ばし、布団の上に出されていたヒンメルの左腕に触れた。その指先が、傷一つない滑らかな肌の上を滑る。
レムもまた、その腕を見ていた。
確かに、異常だった。
魔獣の牙は、確実に肉を抉り、骨を砕いていたはずだ。いかに高位の治癒魔法使いといえど、これほどの短時間で、痕跡一つ残さずに完治させることなど不可能なはずだ。ルグニカ最高の治癒術師であるフェリスでさえ、これほど鮮やかな治療はできないかもしれない。
「……ヒンメル様は、特別な加護をお持ちなのでしょうか」
レムが問うと、フリーレンは首を横に振った。
「加護じゃない。これは……もっと、歪な何か」
フリーレンの声が低くなる。
「時間が、巻き戻ったみたいだ」
「時間を……?」
「傷が治ったんじゃなくて、傷つく前の状態に『戻された』。……本人の意思とは無関係に」
フリーレンの指先が、ヒンメルの手首を強く握りしめる。その瞬間、彼女の周りの大気がピリついた気がした。静電気のような、肌を刺す微弱な魔力の奔流。
レムは息を呑んだ。
フリーレンの横顔に、一瞬だけ、見たこともない感情が走ったからだ。
それは恐怖。
あるいは、深い絶望。
彼女は、何を知っているのだろうか。この世界に来る前、彼らがどのような旅をしてきたのか、レムは知らない。だが、この二人の間には、他者が立ち入ることのできない、深く暗い因縁のようなものが横たわっているように見えた。
「……まあ、いいや」
不意に、フリーレンは手を離した。張り詰めていた空気が、風船が萎むように霧散する。
彼女はいつもの、何を考えているかわからない無表情に戻っていた。
「今は、寝かせておくしかない。魔力切れは、寝て治すのが一番だから」
「……はい」
レムは頷くことしかできなかった。
フリーレンは再びソファに戻り、魔導書を開く。だが、ページを捲る手は止まったままだ。
部屋に、再び沈黙が戻る。
しかし、それは先ほどまでの死のような静寂とは少し違っていた。
二人の女性が、一人の男の命を見守る。その共通の目的が、張り詰めた緊張を僅かに和らげていた。
レムは再び、タオルを水盆に浸した。冷たい水の中でタオルを揉む。パシャパシャという水の音が、静かな部屋に響く。
固く絞り、丁寧に折りたたむ。
そして、再びヒンメルの額へ。
その繰り返し。単調な作業だが、今のレムにはそれが神聖な儀式のように感じられた。
(ヒンメル様)
レムは心の中で語りかける。
貴方は、ご自分がどれほど無茶をしたのか、わかっていらっしゃるのですか。
貴方のその体は、決して頑丈ではありません。鬼族であるレムから見れば、ガラス細工のように脆いものです。剣を振るう腕も、大木をへし折るような力強さはありません。魔法を使う才能もないと仰っていました。
それなのに、貴方の魂は、誰よりも強靭です。
恐怖に震えながら、それでも誰かのために一歩を踏み出せる。それは、強大な力を持つことよりも、ずっと尊く、ずっと難しいことです。
レムは、自分の弱さを憎んでいました。姉様の陰に隠れ、過去に縛られ、卑屈に生きる自分を、ずっと殺したいと思っていました。
でも、貴方はそんなレムを、「笑っている方が可愛い」と言ってくださった。
「……ありがとうございます」
小さな声が漏れた。
フリーレンの方をちらりと見るが、彼女は反応しない。聞こえていないのか、聞こえないふりをしているのか。
レムは、ヒンメルの手を、自分の両手で包み込んだ。
冷たい手。
けれど、そこには確かに脈打つ命があった。
ドクン、ドクン、と。弱々しくも、懸命に明日へ向かおうとする鼓動。
そのリズムを感じていると、レムの心に、温かな灯火がともるようだった。
(レムは、決めました)
決意が、形を成していく。
もう、過去に縛られて立ち止まるのはやめよう。
自分を卑下して、心を閉ざすのもやめよう。
この人が、命懸けで守ってくれたこの命を、この人のために使おう。
彼が歩く道が暗いなら、レムが明かりを灯しましょう。
彼が重荷に耐えかねて膝をつくなら、レムが支えになりましょう。
彼が恐怖に震える夜には、こうして手を握り、朝が来るまでそばにいましょう。
それは、姉様への罪悪感を消すための代償行為から始まった感情だったかもしれない。だが、今、レムの胸を満たしているのは、もっと純粋で、もっと熱い情動だった。
「レムは……貴方の力になりたいです」
それは誓いだった。
誰に聞かせるでもない、自分自身の魂への誓約。
その時、ヒンメルの指が、ピクリと動いたような気がした。
「! ヒンメル様?」
レムは身を乗り出した。
しかし、ヒンメルの瞳は閉じられたままだ。呼吸のリズムも変わらない。ただの反射的な痙攣だったのかもしれない。
それでも、レムにはそれが、彼からの返事のように思えてならなかった。
『頼りにしているよ、レム』
いつか彼が、あのふざけた調子で、けれど優しい笑顔でそう言ってくれる日のことを想像する。
それだけで、レムの視界が潤んだ。
こんなにも、未来を想像することが嬉しいなんて。明日が来ることが待ち遠しいなんて。
そんな当たり前の感情を、レムはずっと忘れていた。
「……泣き虫だね」
フリーレンの声が降ってきた。
いつの間にか、彼女は再びベッドの脇に立っていた。手に持っていた魔導書は、サイドテーブルに置かれている。
レムは慌てて袖で目元を拭った。
「も、申し訳ありません……お見苦しいところを」
「別に。……ヒンメルは、女の子の涙に弱いから、起きてたら困った顔をしただろうけど」
フリーレンはそう言うと、ポケットからハンカチを取り出し、レムに差し出した。
「使いなよ」
素っ気ない仕草。真っ白で飾り気のないハンカチ。
レムは驚いて顔を上げた。フリーレンは、相変わらず無表情だ。だが、その瞳の色は、先ほどのような無機質なガラス玉ではなく、どこか人間味を帯びた深緑色をしていた。
「……ありがとうございます」
レムはハンカチを受け取った。ほんのりと、花のような香りがした。それは、「蒼月草」の香りに似ている気がした。
「貴女は……お優しいのですね」
「違うよ。ただ、ヒンメルが起きた時に、君が泣き腫らした顔をしていたら、私が何かしたと思われそうだから」
いかにも合理的な理由付けをして、フリーレンはふいと視線を逸らした。その耳が、僅かに赤くなっているように見えるのは、照明のせいだろうか。
レムは、涙で濡れたハンカチを握りしめ、小さく微笑んだ。
この人たちと一緒なら、きっと大丈夫だ。
根拠のない確信が、レムの心に満ちていく。
異世界から来た勇者と魔法使い。
彼らは、このルグニカの世界に、新しい風を運んできてくれたのかもしれない。
夜は更けていく。
屋敷の外では、風が木々を揺らす音が聞こえる。だが、この部屋の中は、穏やかな静寂と、確かな温もりに守られていた。
「……まだ、起きそうにないね」
フリーレンが欠伸を噛み殺しながら言った。
「私は少し寝るよ。そこのソファで」
「あ、あの、客室をご用意させます。ソファではお体が……」
「いい。ここがいい」
フリーレンは短く言うと、猫のようにソファの上で丸くなった。
「……何かあったら、すぐに起きるから」
それは、彼女なりの見張りをするという意思表示なのだろう。そして同時に、ヒンメルのそばを離れたくないという、彼女の隠された本心の表れなのかもしれない。
「わかりました。毛布をお持ちしますね」
レムはクローゼットから予備の毛布を取り出し、小さなエルフの体にそっと掛けた。
「……ん」
フリーレンは小さく身じろぎをして、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。魔法使いだけあって、休息を取るのも早い。
レムは再び、ヒンメルのベッドサイドに戻った。
椅子に座り直し、彼の顔を見つめる。
夜明けまで、まだ時間はたっぷりある。
眠気はなかった。疲れも感じなかった。
ただ、この愛おしい時間を、一秒でも長く噛み締めていたかった。
レムは、ヒンメルの冷たい手に、自分の頬を寄せた。
「おやすみなさい、ヒンメル様」
そして、小さく付け加える。
「おやすみなさい、フリーレン様」
静かな夜。
贖罪の痛みは、まだ消えない。
けれど、その痛みと共に生きる覚悟が、少女を強くしていた。
部屋のランプの明かりが、揺らめきながら、三人の影を壁に映し出している。
それはまるで、寄り添い合う家族の肖像画のように見えた。
ヒンメルの傷は癒えた。
だが、彼の魂が本当に癒やされるまで、レムはずっとそばにいようと心に決めた。
たとえそれが、どれほど長い夜になろうとも。
窓の外で、月が雲に隠れ、また顔を出す。
世界は残酷で、理不尽に満ちている。
それでも、ここには確かな「生」があった。
死の淵から舞い戻った勇者と、彼を繋ぎ止める二人の少女。
物語は、きっとまだ始まったばかりだ。
レムは、ヒンメルの胸が小さく上下するリズムに合わせて、自分も静かに呼吸を重ねた。
その呼吸が、いつか二人の未来を紡ぐ歌になることを信じて。
深い夜の底で、青い髪のメイドは、ただひたすらに祈り続けていた。
愛する英雄の、安らかな眠りを守るために。