ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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笑う理由

意識の浮上は、泥沼から身体を引き上げるような重苦しさを伴っていた。

まぶたの裏に焼き付いているのは、鋭利な牙の感触と、熱した鉄を流し込まれたような灼熱の激痛。そして、視界が赤黒く染まっていく絶望的な浮遊感だ。

それらの記憶が、波が引くように現実に溶けていく。

(……あぁ、またか)

ヒンメルは、心の奥底で冷ややかに独りごちた。

死んだはずだった。確かに、喉笛を食いちぎられ、腹を割かれた感覚があった。あの瞬間、世界は終わったはずなのだ。

けれど、今の自分は柔らかいベッドの上に横たわっている。清潔なシーツの感触。鼻腔をくすぐる消毒薬と、かすかな花の香り。

生きている。あるいは、生かされている。

指先を動かす。動く。足の指を動かす。動く。

痛みはない。だが、身体の芯に、鉛を詰め込まれたようなダルさが残っている。それは、無理やりに継ぎ接ぎされた人形が感じるであろう、根源的な違和感に似ていた。

(僕は、まだこの悪夢の中で英雄を演じ続けなければならないらしい)

恐怖がないと言えば嘘になる。死の瞬間のフラッシュバックは、吐き気を催すほど鮮明だ。自分の身体が、自分のものでないような感覚。鏡を見れば、そこには傷一つない五体が映るだろうが、ヒンメルの魂には無数の継ぎ目が走っている気がした。

けれど、今はまだ、震えるわけにはいかない。

気配を感じていたからだ。

ベッドの脇、椅子に腰掛けたまま、祈るように両手を組んでいる少女の気配を。

ヒンメルは、意識して呼吸を整えた。深く、長く吸い込み、肺の中に溜まった澱を吐き出すように息を漏らす。

そして、ゆっくりと目を開けた。

「……ん」

わざとらしく、寝起きの声を漏らす。

天井の豪奢なシャンデリアが視界に入った。見慣れない天井だ。ああ、そうだ。ここはロズワール邸だったか。

視線を横に向ける。

そこには、青い髪のメイド――レムがいた。

彼女は、ヒンメルが目を開けた瞬間、弾かれたように背筋を伸ばした。その水色の瞳が、大きく見開かれる。

「ヒンメル、様……?」

震える声だった。まるで、壊れ物を扱うような、あるいは待ち焦がれた奇跡をようやく目の当たりにしたような響き。

ヒンメルは、唇の端を持ち上げようとした。いつものように、余裕綽々の笑みを浮かべるために。だが、頬の筋肉が強張り、うまく動かない。

それでも彼は、懸命に口角を上げた。

「やあ、レム。……ずいぶんと長いこと、寝てしまっていたみたいだね」

できるだけ軽薄に、できるだけ穏やかに。

それが、勇者ヒンメルの仕事だからだ。

レムの瞳から、一粒の涙が零れ落ちた。

それは合図だったかのように、彼女の表情を崩壊させた。今まで必死に張り詰めていた緊張の糸が切れ、安堵の感情が決壊して溢れ出す。

「ヒンメル様っ……! よかった、本当によかった……!」

彼女は椅子からずり落ちるようにして、ベッドの縁に縋り付いた。シーツを握りしめる手が、白く変色するほど震えている。

「目が覚めないのではないかと……ずっと、ずっと心配で……っ!」

言葉にならない嗚咽。

それがどれほど深い不安の裏返しであるか、ヒンメルには痛いほど分かっていた。

彼女はずっと待っていたのだ。ただひたすらに、ヒンメルが再び瞳を開けるその時を。食事も喉を通らず、眠る間も惜しんで、このベッドの脇で祈り続けていたのだろう。やつれた横顔がそれを物語っていた。

自分を襲った狂気や殺意、そんな過去の因果は、今の彼女の涙の前では些末なことだった。

ここにいるのは、ただ恩人の無事を願い続けた、一人の心優しい少女でしかない。

「……顔を上げてくれないか、レム」

ヒンメルは、ベッドから上半身を起こそうとした。

背中に走る激痛。筋肉が悲鳴を上げる。だが、それを表情には出さない。

「っ……いけない、起き上がっては……!安静にしていなければ……」

「大丈夫だよ。君の顔が見たかったんだ」

慌てて身体を支えようとするレムを、ヒンメルは手で制した。

そして、彼女の頭に、そっと手を置いた。

青い髪は、柔らかかった。

「心配をかけたね」

ヒンメルは静かに告げた。

レムがびくりと肩を震わせ、濡れた瞳でヒンメルを見上げる。

「……ずっと、傍にいてくれたんだろう?ありがとう」

「……っ、ヒンメル様……」

「君の声が聞こえていた気がするよ。暗い泥の中から、君が呼ぶ声が僕を引き上げてくれたんだ」

それは半分は嘘で、半分は本音だった。

あの悪夢のような深淵で、現世に繋ぎ止めてくれたのは、確かに誰かの祈るような気配だった気がする。

「よかった……本当に、生きていてくださって……」

レムは再び顔を覆い、泣きじゃくった。子供のように、ただ純粋に、喜びを噛みしめる涙。

その姿を見ながら、ヒンメルは思う。

(僕はね、勇者なんだ)

心の中で、自分自身に言い聞かせる。

(勇者の仕事が何か知っているかい?)

ヒンメルは、少しだけ視線を遠くに投げた。窓の外、明るい日差しが降り注ぐ庭園の方へ。

魔王を倒すこと?世界を救うこと?……まぁ、それもそうなんだけどね。

彼は視線を戻し、レムの泣き顔を優しく見つめた。

「一番大切な仕事は、女の子が泣かない世界を作ることさ」

キザな台詞だ。自分でも鼻持ちならないと思う。

だが、不思議と口をついて出る言葉には迷いがなかった。

「君が嬉し泣きをしてくれるのは光栄だけど、やっぱり笑顔が見たいな。……だから、笑ってくれないかな」

「……っ」

「君の笑顔が見られれば、僕の傷なんて安い代償だよ」

ヒンメルは、いつものように右手で前髪を掻き上げ、ビシッとポーズを決めようとした。

「ふふん、この僕にかかれば、傷の一つや二つ――」

グキッ。

鈍い音がした。

「あぐっ!?」

激痛が肩に走り、ヒンメルは情けない声を上げてベッドに沈没した。

「ひ、ヒンメル様!?」

「い、いや、なんでもない……ちょっと、カッコつけようとしたら筋が……いたたた……」

まだ身体は万全ではなかったらしい。関節が錆びついたようにギシギシと悲鳴を上げている。

あまりの情けなさに、ヒンメルは顔を赤くしてうずくまった。

「……っぷ」

頭上から、小さな音が漏れた。

見上げると、レムが口元に手を当てていた。涙でぐしゃぐしゃになった顔で、それでも堪えきれないように肩を震わせている。

「ふふ……っ、あはは……っ」

それは、久しぶりに聞く、彼女の心からの笑い声だった。

「……まったく。締まらないなぁ、僕は」

ヒンメルは苦笑いしながら、痛む肩をさすった。

でも、これでいい。

彼女が笑ってくれたなら、この滑稽な失敗も無駄ではなかったということだ。

レムはひとしきり笑った後、涙を指で拭い去り、改めてヒンメルに向き直った。

その表情からは、先ほどまでの悲壮感は薄れ、代わりに柔らかな陽だまりのような温かさが宿っていた。

「……ありがとうございます、ヒンメル様」

彼女は深く頭を下げた。

「貴方様は……本当に、英雄なんですね」

その言葉は、ヒンメルの胸に鋭く突き刺さった。

英雄。

自分は、本当にそうなのだろうか。

ただ死ねない身体を持ち、恐怖に震えながら虚勢を張っているだけの、道化ではないのか。

(……それでも)

ヒンメルは心の中で呟いた。

彼女がそう信じてくれるなら、僕は演じ続けよう。

この身が朽ち果てるまで。あるいは、この終わらない悪夢が終わるその時まで。

「さあ、お腹が空いたな。何か作ってくれるかい?君の料理が恋しかったんだ」

「はいっ!すぐにご用意いたします!最高に消化に良くて、最高に美味しいものを!」

レムは弾むような足取りで部屋を出て行った。

扉が閉まる音。

部屋に一人残されたヒンメルは、ふぅ、と重い息を吐いた。

笑顔が消える。

彼は震える手で、自分の胸元を掴んだ。心臓の鼓動が速い。冷や汗が背中を伝う。

「……痛いな」

誰にも聞こえない声で、彼は呟いた。

傷は消えても、記憶は消えない。

それでも、彼はベッドから降りた。

進まなければならない。フリーレンが、エミリアが、そしてレムが待っている。

鏡の前で、彼はもう一度、自分の顔を作った。

自信に満ちた、無敵の勇者の顔を。

「……いない」

ロズワール邸の広大な廊下に、気だるげな声が響いた。

フリーレンである。

彼女は、屋敷の二階にある長い廊下を、行ったり来たりしていた。

その手には、探索魔法の反応を示す杖が握られているわけではない。彼女はただ、廊下に並ぶ無数の扉の一つ一つを、じっと観察しては通り過ぎていた。

「ここも違う。……ここもハズレ」

彼女が探しているのは、この屋敷にあると言われる『禁書庫』――ベアトリスの管理する書庫だった。

そこには、この異世界の魔法に関する膨大な知識が眠っているという。

魔導書オタクであるフリーレンにとって、それは宝石の山よりも価値のあるものだった。しかし、問題が一つある。

ベアトリスが使う『扉渡り』という魔法だ。

屋敷内のあらゆる扉と禁書庫の入り口をランダムに接続するこの空間転移魔法は、初見の侵入者を完全に拒絶する。

先日、フリーレンは強引な魔力解析で一発で正解を引き当てたが、どうやらあれで警戒されたらしい。今日はどの扉を開けても、ただの客室や倉庫に繋がるだけだった。

「……めんどくさいな」

フリーレンはため息をついた。

普通なら諦めるところだ。あるいは、屋敷中の扉を片っ端から開けて回るという力技に出るかもしれない。

だが、フリーレンはエルフである。

気の遠くなるような時間を生きてきた彼女にとって、「待つこと」や「単純作業」は苦痛ではない。むしろ、日常の一部だ。

彼女は、ある一つの扉の前で立ち止まった。

目を細める。

人間の目には見えない、極めて微細な魔力の残滓。空間が接続された瞬間に生じる、わずかな歪み。

「……見つけた」

フリーレンは、その扉をノックした。

コン、コン。

反応はない。

彼女は、そのまま待ち続けた。

数分後、ふらりと隣の扉へ移動する。

コン、コン。

また反応はない。

さらに数分後、廊下の反対側の扉へ。

コン、コン。

彼女は、ベアトリスが『扉渡り』の接続先を変えるタイミングと、その接続先の座標を、残留魔力の僅かな揺らぎから完全に予測していたのだ。

ベアトリスが扉を繋いだ瞬間、その扉をノックする。

中には入らない。ただ、ノックするだけ。

「私はここにいるよ」という合図を、正確無比に送り続ける。

それは、ストーカーじみた執念深さと、人間離れした感知能力があって初めて成立する、地味だが精神的に強烈な嫌がらせだった。

一時間後。

二時間後。

フリーレンは無表情のまま、三十七回目のノックをした。

「――――いい加減にするのよ!!」

ドガン!と内側から扉が開かれた。

入り口に立っていたのは、縦ロールの髪を震わせ、顔を真っ赤にしたベアトリスだった。

「お前、なんなのかしら!ストーカーなの!?

暇人なの!?どうしてベティーが繋いだ扉が百発百中でわかるのよ!!」

「あ、開いた」

フリーレンは悪びれる様子もなく、平然と言った。

「……うるさいハエがブンブン飛び回っているようで、読書に集中できないのよ。……で?

何の用かしら」

ベアトリスは腕を組み、不機嫌そうにフリーレンを睨みつけた。

「本を読ませてほしいんだけど」

「断るわ。ここはお前のような部外者が入っていい場所じゃないのよ」

ピシャリと扉を閉めようとするベアトリス。

その隙間に、フリーレンはスッと足を差し込んだ。

「痛っ!?」

「お土産があるんだ」

フリーレンは懐から、一冊の薄いノートを取り出した。

「これ、『温かいお茶を冷まさない魔法』の術式。この世界のマナ体系に合わせて、私が独自に構築してみたんだけど」

ベアトリスの手が止まった。

「……は?くだらないのよ。そんなもの、火魔法で温め直せばいいだけかしら」

「それだと味が落ちるでしょ。これは、液体の分子運動を一定に保つことで、温度変化そのものを停止させる魔法。時間凍結に近い概念を、日常魔法レベルに落とし込んだものだよ」

「…………」

ベアトリスの目に、知的な光が宿った。

時間凍結の概念を、お茶の保温に使う?

その発想の馬鹿馬鹿しさと、それを実現するための術式の複雑さに、彼女の好奇心が刺激されたのだ。

「……見せなさい」

ベアトリスはひったくるようにノートを受け取ると、パラパラとページを捲った。

彼女の表情が変わっていく。

呆れから、驚きへ。そして、感嘆へ。

「……なんなの、この幾何学模様は。ゲートを通さずに、大気中のマナを直接編み込んで術式を固定している……?こんな無駄に複雑で、美しい構築……見たことないかしら」

「でしょ。私の師匠の受け売りなんだけどね」

フリーレンは少し誇らしげに胸を張った。

「……入っていいわ。少しだけ、話を聞いてあげるのよ」

ベアトリスはため息交じりに、扉を大きく開けた。

禁書庫の中は、相変わらず本の森だった。

フリーレンは脚立に腰掛け、ベアトリスと向かい合った。

「お前、人間じゃないわね」

唐突に、ベアトリスが言った。

「……エルフだよ」

「そういう意味じゃないのよ。エルフにしては……『時間』の匂いが濃すぎるわ」

ベアトリスの独特な瞳が、フリーレンを射抜くように見つめる。

「お前からは、古びた図書館のような、埃と永遠の匂いがする。……一体、どれだけの時を歩いてきたのかしら」

フリーレンは、自分の耳飾りを指で弄った。

「……ただの、長生きな魔法使いだよ」

「ふん。ま、深くは追求しないのよ。ベティーも、永い時を過ごす退屈さは知っているから」

ベアトリスは少しだけ表情を緩めると、ふわりと宙に浮いた。

その背後に、灰色の毛並みを持つ小さな猫――大精霊パックが現れる。

『やあやあ、珍しい客だね。ベアトリスがここまで興味を持つなんて』

「にーちゃ!勝手に出てこないでほしいのよ!」

『いいじゃないか。ボクも気になっていたんだ。彼女の魔力……古くて、新しいね』

パックはフリーレンの周りをくるりと回った。

『この世界の理(オド)とは少し違う、もっと根源的な力。……君、もしかして「迷い人」かい?』

「さあね」

フリーレンは魔導書を手に取りながら、短く答えた。

「私はただ、友達の旅に付き合っているだけだから」

その言葉には、嘘のない響きがあった。

ベアトリスは鼻を鳴らし、自分の椅子に戻った。

「……勝手に読むといいわ。ただし、静かにすること。それと、そのお茶の魔法、あとで詳しく解説しなさい」

「うん。ありがとう」

静寂が戻る。

だが、それは拒絶の静けさではなく、互いの知識を尊重し合う、心地よい沈黙だった。

フリーレンはページを捲る。

その瞳の奥で、彼女は感じていた。

この世界にも、魔法を愛する者がいる。それだけで、少しだけこの異世界が居心地良く思えた。

一方、同時刻。

屋敷の執務室では、張り詰めた空気が支配していた。

重厚な執務机を挟んで対峙するのは、この屋敷の主、ロズワール・L・メイザースと、勇者ヒンメル。

「やァやァ、身体の具合はどーォだい?勇者殿ーォ?」

ロズワールは、ピエロのようなメイクを施した顔に、貼り付けたような笑みを浮かべていた。

その黄色い瞳は、笑っていない。爬虫類のように冷徹に、ヒンメルを観察している。

「おかげさまでね。君の屋敷のベッドは寝心地が良くて、ついつい長居してしまいそうだ」

ヒンメルはソファに深く腰掛け、足を組んで見せた。

内心では、心臓が早鐘を打っている。

目の前の男から放たれるプレッシャーは、並大抵のものではない。魔力の質量が、肌をじりじりと焼くように感じられる。

(これが、宮廷筆頭魔導士か。……化け物だな)

ヒンメルは冷や汗を流さないように必死で堪えた。

「そーォれはよかった。……さて、単刀直入に、聞かせてもらおーォかな」

ロズワールは、手元の羊皮紙――『記述書』とは別の、何かの報告書――を指先で弾いた。

「君たちは、竜の加護もなーァしに、あの魔獣の群れを退けた。それどころか、君はこの屋敷に来る前、魔女教徒とも渡り合ったとゆーゥじゃないか」

「……噂になるのは有名税というやつかな」

「はぐらかさないでほしーィねぇ。……君たちは、いーッたい『誰』の差し金だーァい?かなーァ」

ロズワールの声が、低く沈む。

室内の空気が、物理的な重みを持ってヒンメルにのしかかる。

ロズワールにとって、ヒンメルたちの存在は完全なイレギュラーだ。彼の持つ『叡智の書』の記述には、勇者ヒンメルなどという存在は一文字も記されていない。

シナリオを狂わせるノイズ。あるいは、シナリオを書き換えるための新たな筆。

どちらであるかを見極めようとするロズワールの殺気は、本物だった。

「王選候補者の誰かの回し者かーァ?

それとも、もっと別の……魔女の息がかかった手合いかーァな?」

魔力が膨れ上がる。

並の人間なら、この殺気だけで失神していただろう。

だが、ヒンメルは動じなかった。

いや、動じないふりをした。

テーブルの下、膝の上で組んだ指先が白くなるほど力を込め、震えをねじ伏せる。

(怖いな。……でも、こんなところで怯えていたら、フリーレンに笑われる)

ヒンメルは、ふっと息を吐き、前髪を払った。

その動作一つで、場の空気を変える。

「考えすぎだよ、辺境伯」

ヒンメルは、ロズワールの黄色い瞳を真っ直ぐに見返した。

その蒼い瞳には、一点の曇りもない。

「僕は、ただの通りすがりの勇者さ」

「……通りすがり、だとーォ?」

「ああ。困っている人がいたから助けた。泣いている子がいたから守った。……それをするのに、誰かの許可や、大層な裏事情が必要かい?」

あまりにもシンプルな論理。

あまりにも純粋な正論。

ロズワールは、虚を突かれたように瞬きをした。

計算高い彼にとって、損得勘定も政治的意図もなく動く人間など、理解の範疇外だったからだ。

「……君は、ほーォんきで言っているのかーァい?」

「本気さ。僕の行動原理はいつだってシンプルだ。……カッコよくありたい。ただそれだけだよ」

ヒンメルはニヤリと笑った。

それは、計算された「虚勢」の笑顔だった。だが、その虚勢があまりにも完璧であるがゆえに、それは真実以上の輝きを放っていた。

ロズワールは数秒間、ヒンメルを凝視し、やがて肩をすくめた。

膨れ上がっていた魔力が霧散する。

「……狂っているねェ、君は」

「よく言われるよ」

「いーィだろう。今のところは、その言葉を信じておこーォ。……だが、覚えておきたまーェ。この盤上で踊る資格を持たぬ者が、不用意に足を踏み入れたら……どーォなるかを、ね」

「肝に銘じておくよ」

ヒンメルは立ち上がった。

「では、失礼するよ。フリーレンがまた何か問題を起こしていないか心配だからね」

背を向けて、扉へと歩く。

その背中は、堂々としていた。

だが、執務室を出て、扉を閉めた瞬間。

ヒンメルは壁に背中を預け、ずるずると崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。

「……はぁ、はぁ……」

息が荒い。

足が震えて、うまく力が入らない。

怖かった。殺されると思った。

(……まったく、勇者稼業も楽じゃないな)

ヒンメルは額の冷や汗を袖で拭った。

だが、彼は知っている。

この震えを誰にも見せないことが、自分の役割なのだと。

彼は深呼吸を一つして、再び顔を上げた。

廊下の向こうから、エミリアが歩いてくるのが見える。

ヒンメルは壁から背を離し、いつものポーズで手を振った。

「やあ、エミリア。今日も素敵な笑顔だね」

その声に、震えは微塵も混じっていなかった。

ロズワール邸の日常は、こうして静かに、しかし確実に歪みを孕みながら過ぎていく。

死の淵から戻った英雄と、彼を縛る魔法使い。

そして、運命を変えられた少女たち。

歯車は、噛み合わないまま回り続ける。

 

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