ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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青い花

ロズワール邸の朝は早い。

東の空が白み始め、ルグニカの空に薄紫色のグラデーションがかかる頃、屋敷の厨房ではすでに規則正しい包丁の音が響いていた。

トントン、トントン、トン。

そのリズムはあまりにも正確で、メトロノームのように狂いがない。皮を剥かれたジャガイモが、水を入れたボウルの中へと次々に滑り落ちていく。その表面は滑らかで、無駄な肉を一切削ぎ落とすことなく、薄紙一枚分の皮だけが見事に除去されていた。

「……ふん」

その手際を背後から見つめる視線があった。薄紅色の髪をしたメイド、ラムである。彼女は腕を組み、壁に背中を預けながら、まるで親の仇でも見るような冷ややかな目で調理台の男を観察していた。

「無駄に顔が良いだけの男かと思ったけれど、芋の皮むきだけは達人の域ね。これだけの量を、この短時間で処理するなんて。……前世は芋虫だったのかしら」

その辛辣な言葉に、調理台の男――勇者ヒンメルは、包丁を止めることなく肩をすくめた。

彼は振り返り、蒼い髪をさらりと揺らしながら、窓から差し込む朝日をバックに不敵な笑みを浮かべる。

「やれやれ、手厳しいな、ラム。芋虫だなんて心外だよ。これでも僕は勇者だからね。旅の空では、食事の支度は死活問題だったんだ。ハイターは二日酔いで使い物にならないし、アイゼンは不器用だし、フリーレンに至っては朝起きることすらままならないからね」

ヒンメルは懐かしむように目を細めた。魔王討伐の旅。十年という歳月。その日々の中で培われたのは、剣の腕や魔法への耐性だけではない。限られた食材でいかに美味しく、効率よく栄養を摂取するかという生活スキルもまた、勇者には必須の能力だったのだ。

「ふっ、勇者は剣だけでなく、包丁捌きも一流なのさ。どうだい?僕の剥いたジャガイモの美しさは。まるで宝石のように輝いているだろう?」

ヒンメルは剥きたてのジャガイモを一つ手に取り、光にかざして見せた。その仕草一つとっても、無駄に絵になる。キラキラとしたエフェクトが見えそうなほどのナルシシズム。

ラムは呆れたように鼻を鳴らした。

「……口さえ開かなければいい男なのに。その自信過剰な態度、見ていて胃もたれがするわ」

「ははは、胃薬が必要かい?残念ながら手持ちはないけれど、僕のスマイルなら無料で処方できるよ」

「結構よ。余計に吐き気が増すわ」

ラムは冷たく切り捨てると、ボウルに溜まったジャガイモを乱暴に奪い取った。しかし、その手つきは丁寧で、ヒンメルの仕事を正当に評価していることが見て取れた。

「でも、助かったわ。正直、貴方のような優男は、口先だけで何もできない無能だと相場が決まっているのだけれど……。悔しいけれど、貴方は『使える』わ」

「人は見かけによらない、ということさ。それに、君の負担を少しでも減らせたのなら、僕も頑張った甲斐があるというものだよ」

「ふん、口が減らない男。……ま、貴方は『有能なナルシスト』として、特別にこのラムが認めてあげるわ」

「それは光栄だね」

ヒンメルは微笑んだ。嘘偽りのない、穏やかな微笑みだった。その表情に、ラムは一瞬だけ毒気を抜かれたように瞬きをした。

彼女はふいっと顔を背け、コンロの方へと歩き出す。

「……休憩にするわよ。茶葉が余っていたから、淹れすぎてしまったの。捨てるのも勿体ないから、残り物を貴様にあげるわ。感謝なさい」

「おや、仕事中のティータイムかい?優雅だね」

「うるさいわね。文句があるなら飲まなくていいわ」

「いただくよ。君の淹れる紅茶は絶品だと、レムから聞いているしね」

ヒンメルはタオルで手を拭き、ラムが差し出したティーカップを受け取った。湯気と共に立ち上る、上品な香り。一口含むと、渋みの中にほのかな甘みが広がり、身体の芯から温まるような感覚に包まれた。

「……美味しいな」

素直な感想が口をついて出た。その言葉に、ラムの尖った耳がわずかに赤く染まるのを、ヒンメルは見逃さなかった。彼女は「当然よ」と短く答え、自分もカップに口をつけた。

静寂が流れる。厨房には、鍋が煮えるコトコトという音と、二人が紅茶をすする音だけが響いていた。それは、穏やかな日常の一コマだった。

(……平和だ)

ヒンメルは紅茶の水面を見つめながら、心の中で呟いた。清潔な服。温かい食事。屋根のある寝床。そして、他愛のない会話。すべてが満ち足りているように思える。

けれど、ヒンメルの指先は、カップの取っ手を強く握りしめていた。微かに震えそうになるのを、必死で抑え込む。

(この平和は、薄氷の上に成り立っている)

脳裏にフラッシュバックするのは、数日前の森の光景だ。肉を裂かれる感触。血の匂い。絶望的な寒気。自分は一度、死んだのだ。

本来ならば、今ここで紅茶を飲んでいるはずのない人間なのだ。

鏡を見れば、傷一つない自分がいる。だが、魂には亀裂が入ったままだ。時折、自分が本当に生きているのか分からなくなる。この温かい紅茶の味も、ラムとの会話も、死が見せている走馬灯なのではないかと疑ってしまう。

「……どうしたの?辛気臭い顔をして」

ラムの声にはっと我に返る。彼女は怪訝そうに眉を寄せていた。

「いや、なんでもないよ。あまりに美味しくて、感動していただけさ」

ヒンメルは即座に仮面を被った。いつもの、余裕に満ちた勇者の顔を。

「……ふん。変な男」

ラムは興味を失ったように視線を外した。だが、ヒンメルは知っていた。彼女の紅い瞳が、一瞬だけ探るような光を帯びていたことを。

この屋敷の住人たちは、誰も彼もが鋭い。特に、鬼族の双子は。

決して、悟られてはいけない。自分が死の恐怖に怯えていることも、この身が理に背いた存在であることも。

「さあ、仕事に戻ろうか。僕はトイレ掃除でもしてこようかな。勇者はトイレ掃除も完璧にこなすものだからね」

ヒンメルはカップを置き、大袈裟に腕を回してみせた。その背中を見送りながら、ラムは小さく呟いた。

「……無理をしている顔ね」

その言葉は、ヒンメルの耳には届かなかった。

午後、ヒンメルは村への買い出しを命じられた。同行するのは、青い髪のメイド、レムである。

ロズワール邸から最寄りのアーラム村までは、徒歩で数十分の距離だ。整備された街道を、二人は並んで歩いていた。

「荷物は僕が持つよ、レム。女の子に重いものを持たせるわけにはいかない」

「いえ、これは使用人の務めですから。ヒンメル様はお客様ですし、お怪我もまだ完治されていないのでは……」

「勇者の回復力を甘く見てはいけないよ。それに、これくらいの荷物、僕にとっては羽のようなものさ」

ヒンメルは強引にカゴを奪い取ると、ウィンクをして見せた。レムは困ったように眉を下げ、しかし拒絶はしなかった。

「……ありがとうございます、ヒンメル様。本当にお優しいのですね」

「優しさじゃないさ。僕がそうしたいだけだよ。カッコいいだろう?」

「……はい。少しだけ」

レムの口元が、微かに綻んだ。その表情の変化に、ヒンメルは内心で安堵した。

数日前、彼女はこの森で彼を殺そうとした。モーニングスターを振り回し、鬼の形相で命を狙ってきた少女。だが今は、その瞳に殺意はない。

あるのは、困惑と、罪悪感と、そして微かな思慕の色だ。

ヒンメルは歩調を緩め、彼女に合わせた。風が吹き抜け、街道沿いの木々がざわめく。その音に、レムの肩がピクリと反応するのを彼は見た。

(……彼女はまだ、匂いを気にしている)

『魔女の残り香』。この世界特有の、不吉な概念。自分から漂うその匂いが、彼女を狂わせた原因だ。今も、ヒンメルからはその匂いが濃厚に漂っているはずだ。死に戻りを経験した直後なのだから、尚更だろう。

レムの鼻腔には、甘く腐った死臭が届いているはずだ。それなのに、彼女は今、隣を歩いている。吐き気を堪えているのかもしれない。本能的な嫌悪感を、理性で押さえつけているのかもしれない。

「……レム」

「はい、なんでしょうか」

「無理はしなくていいんだよ」

「え?」

ヒンメルは空を見上げた。異世界の空は、故郷の空よりも少しだけ色が濃い気がした。

「僕のそばにいるのが辛ければ、離れて歩いてもいい。君が我慢する必要はないんだ」

レムの足が止まった。彼女は大きく目を見開き、ヒンメルを見つめた。その青い瞳が、揺れている。

「ど、どうして……そのようなことを仰るのですか?」

「なんとなくね。僕は鼻が利くほうではないけれど、空気の変化には敏感なんだ」

ヒンメルは振り返り、彼女に微笑みかけた。その笑顔には、キザな装飾はなかった。ただ、静かな気遣いだけがあった。

レムは唇を噛み締めた。彼女の視点では、ヒンメルという存在は矛盾の塊だった。鼻を突く、おぞましい魔女の瘴気。本能が「敵だ」と叫ぶほどの濃密な闇の匂い。

けれど、その奥にある彼の魂の匂いは、どこまでも澄んでいて、凛とした青い花の香りがするのだ。

(この人は……どうして)

これほどの闇を纏いながら、どうしてこんなにも綺麗に笑えるのだろう。どうして、自分を殺そうとした相手を、こんなにも優しく気遣えるのだろう。

「……いいえ、ヒンメル様」

レムは首を横に振った。一歩、彼に近づく。

「離れません。……離れたく、ありません」

「……そうか」

ヒンメルは短く答え、再び歩き出した。それ以上は何も聞かなかった。ただ、二人の距離が、行く時よりも少しだけ縮まっていた。

アーラム村での買い出しは、予想以上にスムーズに進んだ。いや、スムーズ過ぎたと言ってもいい。

「おお、あんたが噂の!新入りの執事さんかね!」

「なんて男前なんだ……!まるで絵本から出てきたみたいだべ!」

「ちょっと兄ちゃん、このリンガ持っていきな!サービスだ!」

ヒンメルが村に足を踏み入れた瞬間、村人たちは彼に釘付けになった。その整った容姿はもちろんのこと、彼が纏うカリスマ性が、自然と人々を惹きつけるのだ。

彼は一人一人に丁寧に挨拶をし、子供たちの頭を撫で、年配の女性には甘い言葉をかけた。

「やあ、お母さん。その髪飾り、とても素敵だね。君の瞳の色によく似合っているよ」

「ぼく、いい剣を持っているね。将来は立派な騎士になれるよ。僕が保証する」

その振る舞いは堂に入っており、まるで長年この村で暮らしてきたかのような親しみやすさと、高貴な身分の者が持つ威厳が同居していた。

レムはその光景を、少し離れた場所から呆然と眺めていた。彼は、ただそこにいるだけで周囲を安心させる。不安を取り除き、希望を与える。

それが「勇者」という生き物の特性なのだと、レムは肌で感じていた。

「お待たせ、レム。思ったより大荷物になってしまったね」

村人たちから大量の差し入れを貰ったヒンメルが、苦笑しながら戻ってきた。その腕にはリンガや野菜、焼き菓子などが抱えられている。

「……すごいです、ヒンメル様。村の方々があんなに笑顔になるなんて」

「彼らが優しいだけさ。それに、僕は愛される才能があるからね」

「ふふ、自分で言いますか」

「事実だからね」

二人は笑い合い、帰路についた。村人たちの温かさに触れ、ヒンメルの心も少しだけ軽くなっていた。このまま、何事もなく一日が終わる。

そう思っていた。

帰り道。夕暮れが迫り、森の木々が長い影を落とし始めた頃。ヒンメルはふと、足を止めた。

「ヒンメル様?」

レムが怪訝そうに振り返る。ヒンメルの視線は、街道の脇、森の入り口付近に釘付けになっていた。そこに、小さな花畑があった。

夕陽の残照を受けて、青白く光る花。リンドウに似たその花は、この世界では珍しいものではないのかもしれない。だが、ヒンメルの目には、それは別の花に見えた。

『蒼月草』。

かつて、故郷の村に咲いていた花。そして、魔王城のある北の果て、エンデにも咲いていた花。フリーレンが好きだと言っていた花。

「……綺麗だ」

無意識に呟き、花に近づく。一輪、摘み取ろうとして、手を伸ばした。

その瞬間。風が止まった。鳥の声が消えた。

ザワリ、と森の奥から音がした気がした。それはただの風の音だったかもしれない。小動物が草を分ける音だったかもしれない。だが、ヒンメルの脳裏には、別の音が再生された。

『ガアアアアアアアアッ!!!』

鼓膜を食い破るような咆哮。魔獣ウルガルムの、血走った双眸。鋭利な牙が肉に食い込む、グチャリという生々しい音。腹を割かれ、内臓がこぼれ落ちる熱さ。

喉を噛み砕かれ、空気が漏れる音。ヒュー、ヒュー、という自分の情けない呼吸音。

「っ……!!」

ヒンメルは息を呑んだ。伸ばした手が、空中で硬直する。指先が激しく震え始めた。

(やめろ、思い出すな)

心臓が早鐘を打つ。冷や汗が一気に噴き出す。視界が明滅する。目の前の青い花が、自分の流した血で赤黒く染まっていく幻覚が見える。

森の闇が、巨大な口を開けて自分を飲み込もうとしているように見える。

怖い。痛い。死にたくない。

本能的な恐怖が、足元から這い上がってきて、全身を絡め取る。呼吸が浅くなる。過呼吸になりそうなのを、必死で堪える。奥歯を噛み締めすぎて、ギシリと音がした。

「……ヒンメル、様?」

背後から、レムの声がした。その声には、明らかな動揺が混じっていた。

彼女には、見えているはずだ。今のヒンメルの背中が、どれほど無様に震えているか。彼女には、匂っているはずだ。恐怖によって増幅された、ヒンメルから立ち昇る「死の匂い」が。

(見せるな)

ヒンメルは心の中で叫んだ。こんな無様な姿を、女の子に見せるな。お前は勇者だ。ヒンメル・ザ・ヒーローだ。彼女を守るために、彼女を安心させるために、お前はここにいるんだ。

(笑え。震えを止めろ。カッコつけろ!)

ヒンメルは、自身の精神を万力で締め上げるようにして、恐怖をねじ伏せた。震える右手で、強引に花を摘み取る。そして、深呼吸を一つ。

くるりと振り返る。

そこには、蒼ざめた顔でこちらを見つめるレムがいた。彼女は今にも駆け出しそうな姿勢で、ヒンメルの様子を伺っていた。ヒンメルが倒れるのではないか、何かに怯えているのではないか、と。

ヒンメルは、笑った。頬が引きつるのを意志の力で抑え込み、最高のキザな笑顔を作った。

「……見てごらん、レム。珍しい色の花だ」

声は、震えていなかった。奇跡的なまでの演技力だった。

ヒンメルはゆっくりとレムに歩み寄る。彼女は動かない。いや、動けないようだった。ヒンメルは摘んだばかりの青い花を、レムの髪飾り――ピンク色のリボンの横に、そっと差し込んだ。

「うん、やっぱりだ。君の髪色によく似合うと思ってね」

「……え?」

「蒼は、高潔な色だ。君のような、芯の強い女性にはぴったりだよ」

ヒンメルは一歩下がり、満足げに頷いてみせた。そして、何事もなかったかのように、またいつものように前髪をかき上げた。

「もちろん、僕の瞳の色ともお揃いだけどね。本当によく似合っている。可愛いよ」

その言葉に、レムの頬が少し熱を持った。

「か、可愛いなんて……!ヒンメル様、からかわないでください……!」

彼女は慌てて髪の花に触れようとして、やめた。壊れ物を扱うように、そっと花弁を撫でる。

ヒンメルは内心で、深く息を吐いた。誤魔化せた。いや、誤魔化しきれてはいないかもしれない。けれど、少なくとも彼女を恐怖させることはなかった。

「さあ、帰ろうか。ラムが怒っているかもしれない。夕食の支度が遅れると、また毒舌を浴びせられてしまう」

ヒンメルはわざと早足で歩き出した。背中に冷や汗が張り付いて気持ち悪い。早く屋敷に戻り、風呂に入りたかった。そして、一人になりたかった。

レムは、その場に数秒だけ立ち尽くしていた。彼女は、遠ざかるヒンメルの背中を見つめた。

(……嘘つき)

彼女は知っていた。先ほど、彼から爆発的に溢れ出した「恐怖の匂い」を。彼は、何かに怯えていた。あの森の闇に、何かを見ていた。

それは、死の淵を覗いた者だけが知る、根源的な恐怖だ。

それなのに。彼は振り返った瞬間、完璧な笑顔を見せた。自分の恐怖を押し殺し、レムに花を贈る余裕を見せた。

(貴方様は……どうして、そこまでして)

レムの胸の奥が、きゅう、と締め付けられた。それは同情だったのか、共感だったのか。あるいは、もっと別の感情だったのか。

かつて、彼女は姉を守るためなら修羅になると誓った。自分の弱さを認めず、強がって生きてきた。だからこそ、分かるのだ。ヒンメルが演じている「強さ」の脆さと、尊さが。

「……待ってください、ヒンメル様」

レムは小走りで彼を追いかけた。髪に挿された青い花が、風に揺れる。かつて魔女の匂いしか感じ取れなかった彼女の鼻腔に、今は微かに、花の香りが混じっていた。

それは、とても寂しくて、優しい香りだった。

屋敷に戻ると、玄関ホールにはすでに明かりが灯っていた。重厚な扉を開けると、そこには一人のエルフが立っていた。

フリーレンである。彼女は壁にもたれかかり、読みかけの魔導書を閉じて、二人を迎えた。

「……遅い」

相変わらずの無表情。平坦な声。だが、ヒンメルには分かった。彼女が心配して待っていたのだと。

「すまないね、フリーレン。村の人たちが熱烈に歓迎してくれてね。ついつい長話をしてしまったんだ」

ヒンメルは軽口を叩きながら、靴を脱ごうとした。その時。フリーレンの緑色の瞳が、ヒンメルの足元に注がれた。

スラックスの裾に、わずかに泥がついている。そして、膝の部分に、微細な草の汁の染み。それは、彼が森の近くで膝をつきそうになった、あるいは何かに耐えるように踏ん張った痕跡に見えた。

フリーレンの視線が、ゆっくりとヒンメルの顔に戻る。彼女は、ヒンメルの表情筋の僅かな強張り、呼吸のリズムの乱れ、瞳の奥に隠された疲労の色を、静かに解析していた。

「……ヒンメル」

「ん?なんだい?」

「……なんでもない」

フリーレンは視線を逸らした。彼女は、それ以上追求しなかった。追求すれば、彼がまた上手な嘘をついて笑うことを知っているからだ。

けれど、彼女の胸中には、正体不明のざらつきが残った。ヒンメルが何かを隠している。自分には言えない、何か重いものを一人で抱え込んでいる。

(……私には、分からない)

人間の感情は複雑だ。十年一緒に旅をしても、まだ分からないことだらけだ。でも、一つだけ確かなことがある。彼が傷つくのを見るのは、嫌だということだ。

「レム、その花」

フリーレンが、レムの髪飾りを指差した。

「あ……はい。ヒンメル様に、いただきました」

レムは少し照れくさそうに、けれど大切そうに花に触れた。

「……そう。蒼月草に、似てるね」

「ソウゲツソウ……ですか?」

「うん。ヒンメルの故郷の花」

フリーレンは短く告げると、くるりと背を向けた。

「ご飯、まだ?お腹空いた」

「あ、はいっ!すぐに支度します!」

レムは慌てて厨房へと走っていった。その背中を見送り、ヒンメルもまた、自室へと向かおうとする。

そのすれ違いざま。フリーレンの低い声が、ヒンメルの耳にだけ届いた。

「……無理、しないでよ」

ヒンメルは足を止めた。振り返ると、フリーレンの姿はもう廊下の角を曲がって見えなくなっていた。

「……敵わないな」

ヒンメルは苦笑した。彼女には、お見通しかもしれない。それでも、隠し通さなければならない。自分が抱える「死」の重さを、彼女にだけは背負わせるわけにはいかないのだから。

ヒンメルは自分の手をじっと見つめた。まだ、微かに震えている。彼はその手を強く握りしめ、拳を作った。

「僕は、勇者だ」

自分に言い聞かせるように呟き、彼は暗い廊下を歩き出した。その背中は、かつて魔王を倒した時よりも、ずっと孤独で、ずっと小さく見えた。

そして同時に、痛々しいほどに英雄的だった。

屋敷の外では、夜の帳が完全に下りていた。

空には、見知らぬ星座が瞬いている。

 

 

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