ロズワール邸の朝は、今日もまた騒がしくも穏やかな光の中で始まった。
窓から差し込む朝日が、磨き上げられた床を白く照らし出している。その光の中に立つ一人の男――勇者ヒンメルは、姿見の前で入念に髪を整えていた。
蒼い髪が光を反射し、まるで宝石のような輝きを放っている。彼は手鏡を様々な角度にかざし、自身の横顔を確認しては、満足げに頷く。
「うん、今日も完璧だ。朝日に愛されているとしか思えないな、僕は」
独り言にしては声量が大きく、誰かに聞かせることを前提としたような口調だった。
その背後で、ベッドメイキングを終えたレムが、呆れたような、しかしどこか温かい眼差しを向けていた。
「ヒンメル様。出発のお時間まで、あと三十分ほどですが」
「ああ、分かっているよレム。だが、身だしなみは勇者の嗜みだ。村の人々に、寝癖のついた勇者を見せるわけにはいかないだろう?それは彼らの夢を壊す罪深い行為だからね」
ヒンメルは手鏡を置き、くるりと振り返った。その動きに合わせて、マントがふわりと舞う。計算され尽くした所作だった。
「どうだい?この角度からの僕は、さらに魅力的だと思わないか?」
「……はい。とても、眩しいです」
レムは淡々と答えた。その言葉に嘘はない。物理的な逆光という意味でも、彼自身の存在感という意味でも、彼は眩しかった。
だが、レムの鼻腔を刺激するのは、その輝きとは裏腹な匂いだった。
甘く、重く、そしてどこか錆びついたような死の残り香。
数日前の魔獣騒動で負った傷は、表面上は完治している。彼の特異な体質――あるいは呪い――によって、肉体の欠損すらも時間は巻き戻されたかのように修復されていた。
けれど、匂いは消えない。彼が鏡の前で虚勢を張るたびに、その匂いは濃くなるように感じられた。
「お早う、ヒンメル、レム」
扉が開き、銀色の髪の少女が顔を覗かせた。エミリアである。彼女は紫紺の瞳をパチクリとさせ、ヒンメルのポーズを見て小首をかしげた。
「朝からすごーく元気ね。体操?」
「やあ、エミリア。これは体操ではなく、美しさの確認作業さ。世界平和のためには欠かせないルーティンだよ」
「ふぅん、そうなの?ヒンメルはすごーく忙しいのね。美しさを確認するのも、大変そうだわ」
エミリアは心底感心したように頷いた。彼女の純粋さは、時としてヒンメルのナルシズムすらも真に受けてしまう。
「それでね、ヒンメル。今日は村の収穫祭でしょう?私も一緒に行きたいのだけど、ロズワールが勉強の時間だーって言って、許してくれないの」
エミリアは残念そうに眉を下げた。
ヒンメルはエミリアの前に歩み寄り、芝居がかった仕草で彼女の手を取った。
「それは残念だ。君のような可憐な花がいないと、祭りの華やかさが半減してしまう。だが、君には君の戦場がある。勉強もまた、未来の王に必要な剣だからね」
「……うぅ、ヒンメルの言い方は、なんだかすごーく説得力があるわね。分かったわ、私、頑張る。その代わり、お土産話をたーんと聞かせてね」
「約束しよう。君が勉強疲れを忘れるような、最高の冒険譚を持ち帰るよ」
ヒンメルは優しく微笑んだ。
エミリアは嬉しそうに笑い、手を振って部屋を出て行った。その背中を見送りながら、ヒンメルの表情からふっと笑みが消える瞬間を、レムは見逃さなかった。
ほんの一瞬。瞬きするよりも短い時間。
彼の瞳に、深い疲労と、諦観のような色がよぎったのを。
「……ヒンメル様」
レムが声をかけようとした時、窓の外から別の声が響いた。
「ヒンメル、まだ?置いていくよ」
庭の方から聞こえてきたのは、平坦で抑揚のない声だった。
ヒンメルは慌てて窓を開け、身を乗り出した。
「待ってくれフリーレン!今行くよ!勇者を置いてけぼりにするなんて、君くらいなものだよ!」
庭には、小柄なエルフの魔法使いが、杖を抱えて退屈そうに空を見上げていた。その隣には、すでに荷車を用意したラムが、不機嫌そうに腕を組んでいる。
「ほら、行くよ、レム。遅れるとフリーレンがへそを曲げてしまう。彼女は機嫌が悪くなると、周囲の気温を下げる魔法を無自覚に使うからね。寒くてかなわない」
ヒンメルは再び笑顔の仮面を被り、軽やかに部屋を出て行った。
レムは一瞬だけその場に立ち尽くし、彼が触れていた窓枠を見つめた。そこには、彼が強く握りしめた跡なのか、わずかに手汗が滲んでいた。
「……ご無理を」
レムは小さく呟き、彼を追った。その背中を守れるのは、今は自分しかいないのだという使命感を、胸の奥に秘めて。
アーラム村への道は、秋の気配に満ちていた。街道沿いの木々は色づき始め、風には乾いた土と熟れた果実の匂いが混じっている。
荷車の御者台にはラムが座り、荷台にはヒンメルとフリーレン、そしてレムが腰掛けていた。
「ねえ、ヒンメル」
揺れる荷台の上で、フリーレンがぽつりと口を開いた。
「ん?なんだい?」
「収穫祭って、何をするの?」
彼女の問いに、ヒンメルは大袈裟に驚いてみせた。
「おいおい、フリーレン。僕たちは十年間旅をして、数え切れないほどの村の祭りに参加したじゃないか。忘れてしまったのかい?」
「……覚えてるよ。ヒンメルが酔っ払って噴水に飛び込んだこととか、ハイターが二日酔いで神輿の上で吐いたこととか」
「君の記憶力は、どうしてそう偏っているんだい?僕が子供たちに剣術を教えたことや、祭りのダンスコンテストで優勝した美談は覚えていないのか?」
「覚えてない。だって、興味ないし」
フリーレンは素っ気なく言い放ち、道端の草花に視線を移した。
「この世界の植生は、私たちの世界と似ているようで少し違う。魔力の通り道がねじれている感じがする」
「やれやれ、相変わらず魔法オタクだね。まあ、そこが君らしいけれど」
ヒンメルは苦笑し、空を見上げた。
雲ひとつない青空。ルグニカの空は広い。
だが、ヒンメルはこの空を見るたびに、微かな違和感を覚えていた。空の色が、濃すぎる。まるで絵の具を塗り重ねたような、人工的とも感じるような、青。それが、この世界が作り物であるかのような錯覚を抱かせる。
あるいは、作り物なのは自分の方なのかもしれない。
(……意識をしっかり持て)
ヒンメルは自分の太ももを、見えないように強くつねった。痛み。それは、まだ自分が生きているという証拠だ。
数日前の「死」の感覚が、まだ皮膚の裏側に張り付いている。魔獣ウルガルムの牙。腹を食い破られた時の、熱さと寒さの同居した感覚。
それが「死に戻り」によってなかったことにされた今も、脳味噌の芯が覚えている痛みが、時折フラッシュバックして視界を歪ませる。地面が急に遠くなったり、音が水中にいるように籠もったりする。平衡感覚の欠如。
これは、魂と肉体のズレだ。本来死んでいるはずの魂が、無理やり生きた肉体に縫い付けられていることの弊害。
だが、それを悟られるわけにはいかない。
「……ヒンメル様?」
隣に座っていたレムが、心配そうに顔を覗き込んできた。
「顔色が、少し優れないようですが」
「ああ、少し乗り物酔いかな。ラムの運転がワイルドすぎるからね」
ヒンメルは軽口で誤魔化した。
前方の御者台から、ラムの冷たい声が飛んでくる。
「聞こえているわよ、無礼者。これでも最大限、客人に配慮した運転をしているつもりよ。貴方の三半規管が貧弱なだけじゃないの?」
「ははは、手厳しいな。僕の繊細な三半規管は、優雅な馬車の揺れにしか対応していないのさ」
ヒンメルは笑い飛ばした。レムはまだ疑わしそうな目をしていたが、それ以上は追求してこなかった。彼女のその配慮が、今は痛いほどありがたかった。
アーラム村に到着すると、そこはすでに祭りの熱気に包まれていた。広場には色とりどりの旗が掲げられ、屋台からは香ばしい匂いが漂っている。
村人たちは収穫したばかりの作物を持ち寄り、酒を酌み交わし、笑い合っていた。
「おお!勇者様だ!勇者様がいらっしゃったぞ!」
村の入り口にヒンメルたちが姿を見せると、誰かが叫んだ。それを合図に、村中の視線が一斉に彼らに――いや、主にヒンメルに注がれた。
「待っておりましたぞ、ヒンメル様!」
「今日は来てくださってありがとうございます!」
「まあ、なんて素敵なお召し上がり物……じゃなくて、お召し物なんでしょう!」
老若男女問わず、村人たちが駆け寄ってくる。魔獣騒動を解決し、結界の修復に尽力したヒンメルは、この村にとってまさしく英雄だった。本来ならばスバルが担うはずだった役割を、この世界線のヒンメルは、より鮮やかに、より完璧にこなしてしまっていたからだ。
「やあ、皆さん。素晴らしいお祭りですね。招待してくれてありがとう」
ヒンメルは馬車を降り、一人一人に丁寧に会釈をした。子供たちが彼の足元に群がる。
「ねえねえ、勇者様!今日も魔獣を倒した話、聞かせて!」
「剣を見せてよ!あの、ピカピカ光るやつ!」
「僕、勇者様みたいになりたい!」
キラキラとした瞳。純粋無垢な憧れ。それはヒンメルにとって、何よりも効く薬であり、同時に猛毒でもあった。
彼らの期待に応え続けなければならない。英雄であり続けなければならない。
そのプレッシャーが、背骨を軋ませる。
「よしよし、順番だ。今日は特別な日だからね、とっておきの話をしてあげよう」
ヒンメルは子供たちの頭を撫で、広場の中心へと歩き出した。その足取りは力強く、迷いがない。
フリーレンは少し離れた場所から、その様子を無表情で眺めていた。
「……人気者だね」
「当然よ。口は悪いけれど、顔と腕だけは確かだから」
ラムが荷下ろしをしながら答える。
「でも、少し変ね」
フリーレンが呟く。
「何が?」
「……ううん。なんでもない」
フリーレンは目を細めた。彼女の目には見えていた。ヒンメルの周囲に漂う魔力の揺らぎが。
彼が笑うたびに、空間が微かに震えている。それはまるで、彼という存在の解像度が、時折荒くなっているかのような現象だった。
(無理をしてる。……また、あの時みたいに)
フリーレンの脳裏に、十年前の記憶がよぎる。魔王城での決戦前夜。震える手を隠して、仲間たちを鼓舞していたヒンメルの姿。
彼はいつだってそうだ。一番怖い時に、一番綺麗に笑う。それが彼の強さであり、フリーレンが理解しきれない「人間の複雑さ」だった。
広場の中央には、即席のステージが作られていた。ヒンメルはその近くのベンチに座り、子供たちに囲まれている。赤いリボンの少女、ペトラが目を輝かせて質問した。
「勇者様は、ドラゴンとも戦ったことがあるの?」
「もちろんさ。あれは北の果ての山脈だったかな。空を覆い尽くすような巨大なドラゴンがいてね。僕は一歩も退かずに、こう言ったんだ。『どいてくれないか、そこは僕の特等席なんだ』ってね」
「すごーい!それで、どうしたの?」
「ドラゴンは僕の美しさと気迫に圧倒されて、すごすごと逃げ帰っていったよ。戦わずして勝つ。それが真の勇者さ」
嘘ではないが、かなり脚色された武勇伝。
遠くでそれを聞いていたフリーレンは、何も訂正しなかった。彼女は屋台で買ってきた「メルカ」という焼き菓子を齧りながら、ぼんやりと空を見ていた。
「……嘘つき」
小さく呟くその声は、非難ではなく、どこか懐かしむような響きを含んでいた。
祭りは佳境に入り、村人たちのダンスが始まった。軽快な音楽に合わせて、手を取り合って踊る人々。
「ヒンメル様も、踊りませんか?」
レムが遠慮がちに誘いに来た。彼女は屋敷のメイド服ではなく、村娘のような簡素なワンピースを借りて着ていた。それが彼女の可憐さを引き立てている。
「おや、レム。とても似合っているよ。森の妖精かと思った」
「……からかわないでください。ラム姉様には『芋っぽい』と笑われましたから」
「ラムの審美眼は独特だからね。僕には、君が一番輝いて見えるよ」
ヒンメルは自然に手を差し伸べた。レムの頬が赤く染まる。
「……ありがとうございます。でも、私は踊りはあまり……」
「大丈夫、僕に任せておけばいい。リードすることに関しては、僕は天才的だからね」
ヒンメルは立ち上がろうとした。
その時だった。
「ああっ!僕のボール!」
子供の叫び声が響いた。
見ると、男の子が蹴って遊んでいたボールが、広場の端にある泥濘(ぬかるみ)の方へと転がっていった。昨夜の雨で、そこだけ地面がひどくぬかるんでいたのだ。
ボールは泥の中にぽちゃん、と落ち、さらにその先――小さな崖のようになっている用水路の方へと転がっていく。
「待って!」
男の子が慌てて追いかける。だが、泥に足を取られ、バランスを崩した。
「危ない!」
誰かが叫ぶよりも早く、ヒンメルは動いていた。思考するよりも先に体が動く。それは勇者としての条件反射だった。
彼は風のように駆け出し、男の子の元へ滑り込む。倒れそうになる男の子の身体を抱き留め、安全な場所へと押し戻す。
「っと、気をつけて。怪我はないかい?」
完璧な救出だった。
ここまでは。
男の子を助けた反動で、ヒンメルの体勢が崩れた。踏ん張ろうとして、右足を泥の中に踏み込む。
その瞬間。
――ズブッ。
足が沈む感触と共に、ヒンメルの視界が暗転した。
泥の冷たさ。
その冷たさが、数日前の記憶を呼び覚ました。腹を裂かれた時の、内臓が外気に触れた冷たさ。血だまりの中に倒れ込んだ時の、あの不快な粘着質。
『ガアアアアッ!』
幻聴が聞こえた。魔獣の咆哮。死の宣告。
(――ひっ)
ヒンメルの喉の奥で、情けない悲鳴が形にならずに消えた。
恐怖で筋肉が硬直する。踏ん張るべき足に力が入らない。
地面がぐにゃりと歪み、天地が逆転する感覚。彼は、自分がどう動いているのか分からなくなった。ただ、重力に従って、無様に崩れ落ちていくことだけが理解できた。
バシャアアンッ!!
盛大な音が響き渡った。
ヒンメルは顔面から泥濘に突っ込んでいた。蒼い髪も、美しい顔も、仕立ての良い服も、すべてが茶色い泥にまみれた。
カエルのように手足を広げ、地面に這いつくばる勇者。その姿は、あまりにも滑稽で、あまりにも無様だった。
静寂が訪れた。音楽も止まり、村人たちは目を丸くしてその光景を見つめていた。あの完璧な勇者様が。神の如き美貌を持つヒンメル様が。
泥まみれになって転がっている。
誰も、声を上げることができなかった。
ヒンメルは、泥の中で目を閉じていた。冷たい。泥が口の中に入り、ジャリッとした感触がする。鼻の奥にツンとする土の匂い。
(……終わった)
彼は思った。勇者としての威厳が、音を立てて崩れ去った。子供たちの夢を壊した。レムに、無様な姿を見られた。
恥ずかしさで顔から火が出そうだ。いや、それ以上に。
身体が震えていた。転んだ瞬間の「死のフラッシュバック」が、まだ全身を支配している。指先が痙攣し、立ち上がろうにも力が入らない。
怖い。
泥の冷たさが、死体の冷たさに思えてならない。
誰か助けてくれ。誰か、僕をここから引き上げてくれ。心の中で叫んでも、声は出ない。このまま泥に沈んで、消えてしまいたいとすら思った。
「……ぷっ」
その静寂を破ったのは、小さな吹き出し音だった。
次いで、クスクスという忍び笑い。
ヒンメルは恐る恐る顔を上げた。泥で半分塞がった視界の先に、白いローブの裾が見えた。
フリーレンだった。
彼女は腹を抱え、見たこともないような顔で笑っていた。
「あはは、何それ。ヒンメル、すごい顔」
彼女は指を差して笑った。遠慮も、気遣いも、配慮もない。ただ純粋に、面白いものを見た子供のように。
「……かっこ悪いよ、ヒンメル。泥だらけ」
その言葉は、鋭いナイフのようにヒンメルのプライドを突き刺す――はずだった。
けれど。
不思議と、その言葉は温かかった。彼女の笑い声が、ヒンメルに憑りついていた「死の亡霊」を吹き飛ばしてくれた気がした。
重苦しい「勇者の偶像」が、泥と一緒に剥がれ落ちていく感覚。
フリーレンは笑いながら、手を差し出した。白くて、細い手。
「ほら、立ちなよ。風邪引くよ」
ヒンメルは、その手を見つめた。震える自分の右手を、泥を拭うこともせずに伸ばす。
その汚れた手を、フリーレンは躊躇なく掴んだ。
温かい。
生きた人間の体温。彼女の掌から伝わる熱が、ヒンメルの凍りついた心を溶かしていく。
ヒンメルは、彼女に引き上げられるようにして、ゆっくりと立ち上がった。全身泥まみれ。顔も半分茶色い。
けれど、彼は笑った。いつもの計算されたキザな笑みではない。
困ったような、照れくさいような、人間臭い苦笑い。
「……面目ない。これじゃあ、勇者じゃなくて泥人形だね」
「うん。すごく似合ってるよ」
「酷い言い草だなあ。そこは『泥にまみれても美しい』とか言ってくれてもいいんじゃないかな」
「言わないよ。汚いもん」
フリーレンは淡々と言い放ち、ハンカチを取り出してヒンメルの顔を拭いた。ゴシゴシと、乱暴に。
「痛い、痛いよフリーレン!皮膚が擦り切れる!」
「じっとしてて。鼻の穴にも入ってる」
そのやり取りを見て、静まり返っていた村人たちの間から、ドッと笑いが起きた。
「なんだ、勇者様もドジ踏むんだな!」
「泥んこの方が親しみやすいや!」
「着替えならあるぞー!俺の服を貸してやるよ!」
嘲笑ではない。それは、親愛の情に満ちた笑いだった。
完璧すぎて遠い存在だった「神様」が、隣にいる「人間」に降りてきた瞬間だった。
ヒンメルは、村人たちの笑顔を見て、力が抜けたように息を吐いた。
「……そうか。これで、いいのか」
肩の荷が下りた気がした。彼は泥だらけの顔で、今度こそ心からの笑顔を浮かべ、村人たちに手を振った。
その一部始終を、レムは少し離れた場所から見ていた。彼女は胸の前で手を組み、その光景を網膜に焼き付けていた。
心臓が、うるさいほどに早鐘を打っている。
これは、失望だろうか?憧れの勇者様が、泥にまみれて転ぶなんて。
いいえ、違う。断じて違う。
レムの胸を満たしているのは、もっと熱くて、もっと切ない感情だった。
(……ああ)
レムは心の中で呟いた。
ヒンメル様は、神様なんかじゃない。
完璧な超人でも、物語の中の住人でもない。泥に足を取られれば転ぶし、汚れるし、情けない顔もする。
先ほど、彼が転んだ瞬間、レムには見えていた。彼が一瞬だけ見せた、怯えたような表情。まるで迷子になった子供のような、心細い顔。あの震えは、演技なんかじゃない。
彼は、本当は怖いのだ。
死の匂いを纏いながら、誰よりも死を恐れ、それでも「勇者」という仮面を被って立ち続けている。
その仮面が剥がれ落ちた、素顔の彼。
弱くて、ドジで、泥だらけで。
(……だからこそ)
レムの瞳から、自然と涙が溢れた。
(だからこそ、こんなにも愛おしい)
ヒンメルは、ただの人間だ。傷つきやすく、脆く、儚い人間だ。鬼族であるレムが持ち得ない、圧倒的なまでの「人間としての弱さ」。
それが、どうしようもなくレムの心を揺さぶる。
守ってあげたい。その弱さを、その震えを、その痛みを、全部包み込んであげたい。
信仰の対象として崇めるのではなく。
対等な――いいえ、彼を支える一人の女として、隣にいたい。
「……ヒンメル様」
レムは濡れた瞳で、彼を見つめた。フリーレンに顔を拭かれ、されるがままになっているヒンメル。
その姿は、世界を救う英雄には見えないかもしれない。
けれど、レムにとっては、これこそが真実の英雄の姿だった。自分の弱さを抱えたまま、それでも泥の中から立ち上がり、誰かのために笑える人。
レムは、スカートの裾をギュッと握りしめた。この感情に名前をつけるのは、まだ早いかもしれない。
けれど、一つだけ確かなことがある。
私は、貴方の「英雄」としての輝きに惹かれたのではない。
その泥だらけの手の温かさに、救われたのだ。
夕暮れのアーラム村に、優しい風が吹き抜けた。それは、何かが終わり、何かが始まる予感を含んだ風だった。
泥にまみれた蒼い髪が、夕陽を受けて、優しく輝いていた。