ロズワール邸の朝は、どこまでも穏やかに始まった。 窓から差し込む陽光は柔らかく、丁寧に手入れされた庭園の緑を鮮やかに照らし出している。
小鳥のさえずりが遠くで響き、風が木々の葉を揺らす音が、優しい和音となって耳に届く。 それは、昨日までの血なまぐさい死闘がまるで嘘であったかのような、平和そのものの光景だった。
食堂には、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、紅茶の芳醇な香りが満ちている。
「やれやれ。朝の光も、僕の美しさを祝福しているようだね」
長いテーブルの席につき、ティーカップを片手に優雅な仕草を見せるのは、勇者ヒンメルだ。 彼は窓ガラスに映る自分の姿に軽くウィンクを送ると、満足げに前髪を払った。その仕草には一片の迷いもなく、堂々たるナルシシズムが満ちている。
その様子を、向かいの席に座るエルフの魔法使い――フリーレンが、半眼で見つめている。
「……ヒンメル、朝からうるさい」
「なんと。これは手厳しいな、フリーレン。だが、君のその飾らない言葉もまた、僕たち一行の日常には欠かせないスパイスというわけだ」
「意味がわからない」
フリーレンは短く切り捨てると、目の前のパンにフォークを突き立てた。
そんな二人のやり取りを、給仕をするメイドのレムが静かに見守っていた。 以前の彼女ならば、不審人物を見るような冷ややかな視線を向けていただろう。だが、今のレムの瞳にあるのは、凪いだ湖のような静寂と、その奥底に灯る温かな光だった。
「ヒンメル様、紅茶のおかわりはいかがですか?」
「ああ、ありがとうレム。君の淹れる紅茶は絶品だ。まるで、故郷の老舗カフェで飲んだ極上の一杯を思い出させるよ」
「……勿体ないお言葉です」
レムは恭しく一礼し、ポットを傾ける。 その一瞬、彼女の視線がヒンメルの手首――先日、魔獣に噛み砕かれ、そして『治った』はずの箇所――に吸い寄せられた。 しかし、ヒンメルは気にする素振りすら見せない。
(……傷など、最初からなかった。そう振る舞うのが勇者の務めだ)
内心でそう呟き、彼は優雅に紅茶を口へ運ぶ。 脳裏には、肉を裂かれる痛みと、死の瞬間の絶望が焼き付いているけれど。
「皆さん、おはようございます!」
静かな食堂に、銀鈴のような声が響いた。 扉を開けて入ってきたのは、銀色の髪を揺らしたハーフエルフの少女、エミリアだ。
「おはよう、リア。今日も可愛いね」
「おはよう、エミリア。寝癖、ついてるよ」
「えっ、嘘!? ほんとに!?」
フリーレンの指摘に、エミリアは「すごーく」慌てて自分の髪を押さえた。 その微笑ましい光景を眺めながら、ヒンメルは目を細めた。
平和だ。 誰も死なず、誰も傷つかず、誰も絶望していない朝。 この光景を守るためなら、死の記憶ごとき、何度でも乗り越えてみせる。
「エミリア、気にすることはないさ。君の美しさは、多少の寝癖ごときで損なわれるようなものじゃない。むしろ、その無防備さが君の魅力を引き立てていると言ってもいい」
「あ、ありがとう……ヒンメル。でも、やっぱり恥ずかしいわ」
エミリアが照れくさそうに笑う。 その笑顔を見て、ヒンメルは確信する。 自分の選択は間違っていない。たとえこの身が異界の理に蝕まれようとも、彼女たちの未来を守れるのなら、それは勇者にとっての本望だ。
朝食の後、庭園の一角でフリーレンによる魔法の講義が行われていた。
「……イメージが足りない」
フリーレンが杖を振るうと、幾何学的な美しさを持つ氷の矢が生成された。
「すごーい……! きれい……」
エミリアが目を輝かせる。
「エミリア、君の魔力量は膨大だ。パックの補助がなくても、イメージさえ強固なら、もっと精密な干渉ができるはず」
「イメージ、ね……。うん、やってみる!」
エミリアが真剣な表情でマナを練り上げる。 その様子を、ヒンメルはテラスから見守っていた。
背後から忍び寄る気配。足音は消されているが、その特異な存在感までは消せていない。ヒンメルは視線を動かさずに声をかける。
「……何か用かな、ロズワール」
「おやおや、おやおやぁ。気付いていーたのかーい?」
独特の抑揚、間延びした奇妙な語尾と共に現れたのは、この屋敷の主、ロズワール・L・メイザース。 道化の化粧の下から、爬虫類のような冷たい視線がヒンメルを射抜く。
「君はいったいぜんたーい、何を知っているのかなぁー? 私の「本」の記述に、君の記述はない。君はぁ、私の筋書きを書き換える異分子だぁね」
ロズワールから放たれるプレッシャーは、常人ならば呼吸すら困難になるほどの重圧だ。 だが、ヒンメルは眉一つ動かさず、ただ口角を上げた。
「何を知っているか、か。哲学的な問いだね。僕は自分の美しさについては熟知しているつもりだが、君が期待しているような世界の裏側については、あいにく疎くてね」
「とぼけても無駄だぁーよ。目的は、なんだぁい?」
殺気を含んだ問いかけ。 心臓が早鐘を打つ。本能が「逃げろ」と叫んでいる。
だが、ヒンメルはあえてロズワールの方へ体を向け、真っ直ぐにその左右色の違う瞳(オッドアイ)を見据えた。
「目的か。……そうだな」
ヒンメルは不敵に笑った。
「悲しい顔をしている女の子が、最後に笑えるような未来。誰かが理不尽に命を奪われない未来。それを手に入れるためなら、神のシナリオだろうが、君の福音書だろうが、僕が書き換えてやるさ」
「……ほぉーう」
「僕は勇者だからね。ハッピーエンド以外は認めない主義なんだ」
その言葉に嘘はない。 たとえ足が竦みそうでも、虚勢であろうとも、口にした言葉は現実にする。それがヒンメルという男の生き様だ。
ロズワールは目を細め、品定めするようにヒンメルを見た後、ふっと気配を消した。
「……お手並み、拝見といこうじゃぁないか」
ロズワールが去った後、ヒンメルは小さく息を吐いた。
「やれやれ。強敵との対話は、精神力が削られるね」
手にはじっとりと汗が滲んでいる。 だが、彼はすぐにいつもの調子で前髪を払い、再びエミリアたちの元へと視線を戻した。
平穏な時間は、唐突に終わりを告げた。 王都からの使者により、王選の開始と招集が告げられたのだ。 慌ただしく旅支度が始まり、ヒンメルたちは王都へと向かうことになった。
竜車の中、エミリアは緊張で表情を硬くしている。
「……大丈夫かな。私なんかが、王様になるなんて……」
弱気な言葉を漏らすエミリア。 ヒンメルは、そんな彼女に優しく、しかし力強く語りかけた。
「エミリア。王に必要なのは、高貴な血筋でも、強大な力でもない。民を想う心だ。君にはそれがある」 「でも、みんな私を嫌ってる。魔女と同じ銀髪だから……」 「世界中の人間が君を否定しても、勇者である僕が君を肯定する」
ヒンメルの言葉に、迷いはなかった。
「君は素晴らしい王になる。僕の目に狂いはないよ」
その言葉は、エミリアにとって何よりの支えとなった。 彼女の紫紺の瞳に、少しずつ光が戻ってくる。
それを見て、ヒンメルは密かに安堵した。
(そうだ。僕が不安な顔を見せてはいけない。僕が堂々としていれば、彼女も顔を上げられる)
己の役割を再確認し、ヒンメルは背筋を伸ばした。
王城の謁見の間は、重厚な空気に支配されていた。 居並ぶ近衛騎士たち、そして他の王選候補者たち。
プリシラ・バーリエルの傲慢な視線。 アナスタシア・ホーシンの計算高い眼差し。 クルシュ・カルステンの凛とした覇気。 そして、「剣聖」ラインハルトの圧倒的な存在感。
誰もが強者であり、誰もが自分の正義を信じている。 その中で、エミリアへの風当たりは強烈だった。
「半魔ごときが王座になど、片腹痛いわ!」 賢人の一人が声を荒らげる。 「魔女教徒との関わりも疑わしい!」
罵声が飛び交い、エミリアが萎縮して俯く。
その時だった。
コツ、コツ、コツ。
静寂を切り裂くように、乾いた足音が響き渡った。 ヒンメルが、エミリアの前に進み出たのだ。 彼は一切の怯えを見せず、まるで凱旋した将軍のように悠然と歩を進める。
「……誰だ、貴様は」 近衛騎士団長マーコスが問う。
ヒンメルは、マントをバサリと翻した。その動きは洗練され、一瞬にして場の空気を掌握した。
「勇者、ヒンメルだ」
朗々としたバリトンの声が、広い空間を震わせる。
「勇者……だと?」 失笑が漏れた。
だが、ヒンメルは動じない。 彼は冷ややかな視線で賢人たちを見回し、言い放った。
「君たちは目が見えていないのか? 彼女の髪の色や出自ばかりを見て、その魂の輝きを見ようともしない。そんな節穴の目で、国の未来が見通せるとでも?」
「貴様、無礼だぞ!」
「無礼? 事実を言ったまでだ」
ヒンメルは胸を張り、堂々と宣言した。
「僕は、エミリア様を王に推す。彼女こそが、この国に真の平和をもたらす王の器だと、勇者ヒンメルが保証する!」
その声には、絶対的な自信が込められていた。
騎士たちが色めき立ち、殺気が膨れ上がる。 剣の柄に手をかける者もいる。 その殺気は、肌を刺すほどに鋭い。
ヒンメルの本能は、死の危険を敏感に察知していた。
(……ああ、怖いな。一歩間違えれば首が飛ぶ)
心臓が早鐘を打つ。内臓がねじ切れるような緊張感。
だが、それがどうした。 かつて魔王と対峙した時もそうだった。足は震えていた。だが、一歩も退かなかった。
恐怖を感じないことが勇気ではない。恐怖を知りながら、それでも前に進むことこそが勇気だ。
ヒンメルは、震えそうになる膝に力を込め、大地を踏みしめた。 そして、不敵な笑みを浮かべ、騎士たちを挑発するように見渡した。
「異論があるなら、僕が聞こう。君たちも騎士ならば、野次を飛ばすのではなく正々堂々意見を言いたまえ」
その言葉に一気に緊張感が高まる。殺気と反比例するように一同が静まり返る。カチリ、と剣が抜かれる音がする。愚かな自称勇者が瞬く間に八つ裂きにされる光景をだれもが予見したその瞬間。
「――そこまでだよ」
絶対零度の声が響いた。 ヒンメルの背後から、圧倒的な魔力の奔流が噴き出した。 フリーレンだ。
彼女の瞳は無機質に輝き、手にした杖からは、この場の全員を消し飛ばしかねないほどのマナが渦巻いている。
「ヒンメルに指一本でも触れたら、タダじゃおかない」
その脅威は本物だった。 「剣聖」ラインハルトですら、瞬時に警戒態勢をとるほどの、異次元の魔力。 場が凍りつく。
だが、ヒンメルは涼しい顔でフリーレンの方を振り返った。
「やめなよ、フリーレン。脅しが過ぎる」
「……彼らが悪い」
「それでもだ。僕たちは平和的に解決したいんだ。……まあ、君が僕を心配してくれているのは嬉しいけどね」
ヒンメルは軽口を叩きながら、フリーレンの肩に手を置いた。 その手は、微塵も震えていなかった。 否、震えを完全に制御しきっていた。
その姿を見て、エミリアは涙ぐんだ瞳でヒンメルを見つめた。
「ありがとう、ヒンメル……」
「礼には及ばないよ、エミリア。さあ、顔を上げて。王になる人が、そんな顔をしていてはいけない」
ヒンメルはエミリアの手を取り、優しく促した。 その背中は、どこまでも大きく、そして頼もしく見えた。
謁見が終わり、廊下に出た一行。ヒンメルはどこまでもにこやかに、優雅に歩いていた。 だが、よく見れば額にはうっすらと汗が滲んでいる。
「ヒンメル様……」
レムが心配そうに声をかける。 彼女だけは、彼がどれほどの恐怖と戦っていたかを感じ取っていた。魔女の残り香の揺らぎ、微細な呼吸の乱れ。
だが、ヒンメルはレムに向けて、いつも通りの完璧なウィンクを返した。
「心配ないよ、レム。少し空気が悪かっただけさ。……君の笑顔を見れば、そんな疲れも吹き飛んでしまうけどね」
「……っ、ヒンメル様ったら」
レムは少し顔を赤らめ、それでも嬉しそうに微笑んだ。 この人は強い。人外の力は持たないけれど、強くあろうとするから、どこまでも強い。その姿が、生き方が、レムの心を強く惹きつけていた。
フリーレンは、そんな彼らの後ろ姿を静かに見つめていた。
(……ヒンメル。無理をしてる)
彼の体を蝕む歪みが強まるのを感じて、彼女は杖を握りしめた。
死と再生の螺旋。その中心で、勇者ヒンメルは今日も笑う。
恐怖を隠し、痛みを飲み込み、誰よりも気高く、美しく。
それが、彼が選んだ戦い方なのだから。