王城の空気は、華やかさと冷徹さが同居する特異なものだった。
豪奢なシャンデリアが照らし出すのは、国を憂う者たちの情熱か、あるいは権力を欲する者たちの欲望か。
玉座の間を退出した後も、ヒンメルの背中には無数の視線が突き刺さっていた。侮蔑、嘲笑、そして僅かながらの困惑。 それらを一身に受けながら、ヒンメルはあくまで優雅に、大理石の回廊を歩いていた。
「……ヒンメル、無理してる」
隣を歩くフリーレンが、感情の読めない声で呟く。
「失敬な。僕はいつだって自然体で、最高に格好いい勇者だよ、フリーレン」
ヒンメルは前髪を払い、いつものようにウィンクを投げかける。 だが、そのこめかみには一筋の冷や汗が伝っていた。
それを目ざとく見つけたのは、後ろを歩くレムだ。彼女の青い瞳が、心配そうに揺れる。
彼女の鼻孔をくすぐるのは、ヒンメルから立ち上る独特の芳香。勇者としての清廉な魂の香りと、その奥底にこびりついた、腐った果実のような『死』の残り香。
直前の謁見の間での舌戦。あれは、単なる言葉のやり取りではない。一歩間違えればその場で斬り捨てられても文句の言えない、命を賭した綱渡りだったのだ。
「待ちたまえ」
凛とした、しかし鋭利な刃物のような声が、一行の足を止めた。
回廊の先、窓から差し込む逆光を背に、一人の騎士が立っていた。
整えられた紫の髪、仕立ての良い純白の騎士服。腰に佩いた細身の騎士剣。その立ち姿は、絵画から抜け出してきたかのように洗練されている。
近衛騎士団、ユリウス・ユークリウス。「最優の騎士」と謳われる、この国における騎士の理想像そのものだ。
「やあ、君か。先ほどの会議では随分と熱い視線を送ってくれていたね。僕の美しさに魅了されたのかな?」
ヒンメルは軽口で応じる。
だが、ユリウスの表情は氷のように冷たかった。
「戯言を。……貴公、名をヒンメルと言ったな」
「いかにも」
「勇者を名乗るその不敬、聞き捨てならない」
ユリウスが一歩、踏み出す。たったそれだけの動作で、空気が張り詰めた。
「騎士団長マーコス様は寛大にも見逃したが、私は違う。ルグニカの騎士として、そして王選に関わる者として、貴公のような素性の知れぬ輩が『勇者』などと軽々しく口にすることを、看過するわけにはいかない」
彼の言葉には、騎士としての矜持があった。国を守るために血を流し、鍛錬を重ねてきた者としての自負。だからこそ、どこからともなく現れ、「勇者」を自称するヒンメルが、許しがたい冒涜に見えるのだ。
「訂正を求める。今ここで、そのふざけた自称を取り下げ、エミリア様への加担も謝罪するならば、この場は見逃そう」
「……断ると言ったら?」
ヒンメルが目を細める。
その瞬間、ユリウスの黄金の瞳に、明確な敵意が灯った。
「ならば、騎士の流儀に則り、貴公のそのメッキを剥がすまで」
スゥ、と剣が鞘から半分ほど抜かれる。
金属の擦れる音が、静寂な回廊に響き渡った。
「待って、ユリウス!」
エミリアが慌てて二人の間に割って入ろうとする。
「ヒンメルは、ただ私を助けようとしてくれただけで……!」
「エミリア様、お下がりください。これは、騎士としての誇りの問題です。それに、このような軽薄な男に王選が汚されることを、私は由としません」
ユリウスはエミリアに一礼しつつも、その視線はヒンメルから外さない。
「……やるの? ヒンメル」
フリーレンが杖を構えようとする。彼女の周りで、大気がギチギチと音を立てて軋む。
本気だ。もしユリウスが剣を抜けば、フリーレンは躊躇なく彼を消し炭にするだろう。
だが、それは破滅への道だ。王城で近衛騎士を殺害すれば、エミリアの王選どころの話ではなくなる。
「下がっていてくれ、フリーレン。レムも、エミリアも」
ヒンメルは手で彼女たちを制した。
「ヒンメル様、ですが……!」
レムが身を乗り出す。彼女は知っている。ヒンメルの体が、どれほど「脆い」かを。
「大丈夫さ。売られた喧嘩を買わないようじゃ、勇者の名折れだ」
ヒンメルは腰の剣――勇者の剣のレプリカ――をすらりと抜いた。その刀身は、本物ほどではないにせよ、手入れの行き届いた美しい輝きを放っている。
「いいだろう、最優の騎士殿。その誇り高い剣技、僕の体で味わわせてもらおうか」
「……後悔するぞ、『自称』勇者」
場所は練兵場へと移された。
急な決闘騒ぎに、城内の騎士たちや、他の陣営の者たちも集まってくる。
「おい、見たか? あの狂言回しの男、ユリウス卿に挑むらしいぞ」
「馬鹿な奴だ。近衛最強の精霊騎士に勝てるわけがない」
「せいぜい、無様に這いつくばるのがオチだろうな」
嘲笑交じりの囁きが、風に乗って聞こえてくる。観衆の中には、フェリスやヴィルヘルム、クルシュの姿もあった。
練兵場の中央。対峙する二人の間には、冬の風のような冷たい緊張感が漂っている。王選への影響を考え、木剣による模擬戦とする。ルールは単純、相手を行動不能にするか、降参させるか。
「準備はいいか」
ユリウスが木剣を正眼に構える。隙がない。まるで城壁の前に立っているような圧迫感だ。
「いつでも」
対するヒンメルは、ややリラックスした構え。
だが、その内心は、外見ほど穏やかではなかった。
(……参ったな。心臓の音がうるさくて敵わない)
ヒンメルの独白は、誰にも届かない。
彼の手のひらは、じっとりと汗ばんでいる。
怖い。本能が、目の前の男を「捕食者」だと告げている。
この世界に来てから、ヒンメルは「死」を経験した。最初は暗殺者に。次は魔獣に。 腹を食い破られる熱さ。首を斬られる浮遊感。血の鉄錆の味。それらが走馬灯のように脳裏を過る。
死ねば、時間は戻るかもしれない。傷は治るかもしれない。だが、「痛み」は消えない。「恐怖」は蓄積する。
死ぬのが怖い。痛いのが嫌だ。逃げ出して、温かいベッドに潜り込みたい。
震えそうになる膝を、ヒンメルは鋼の意志でねじ伏せる。
(ここで逃げれば、エミリアはどうなる? フリーレンは? レムは?)
彼女たちが後ろ指を指される。それだけは、絶対に駄目だ。
(笑え、ヒンメル。お前は勇者だ。恐怖なんて欠片も知らない、物語の中の英雄のように)
ヒンメルは、口角を無理やり吊り上げた。その笑顔は、震えを隠すための仮面。
「手加減はいらないよ。君の本気を、僕に見せてくれ」
「……傲慢な」
ユリウスが地面を蹴った。速い。
瞬きする間に、間合いがゼロになる。
ヒンメルは反射的に木剣を合わせた。
ガッッッ!!
重い衝撃が手首を襲う。骨がきしむ音。「くっ……!」
ただの一撃で、ヒンメルの体勢が崩される。
ユリウスの剣は、速いだけでなく、重い。洗練された技術が、膂力を数倍にも増幅させている。
「どうした、口ほどにもない!」
追撃。袈裟懸け、突き、払い。流れるような連撃がヒンメルを襲う。
「ぐ、ぁ……!」
脇腹に一撃が入る。激痛が走る。あばらが一本、持っていかれたかもしれない。
ヒンメルは地面を転がり、距離を取る。口の中に、鉄の味が広がった。
「終わりか? やはり、口先だけの道化だったようだな」
ユリウスは剣を下ろし、冷ややかに見下ろす。 「君の剣には重みがない。信念がない。ただの棒振りだ」
「……手厳しいね」
ヒンメルはよろりと立ち上がる。呼吸が荒い。視界が揺れる。
「でも、まだ終わってないよ」
「往生際の悪い」
ユリウスが溜息をつくと同時に、彼の周囲に六色の光が舞った。精霊たち。
「アル・クラリスタ」
ユリウスが剣を振るうと、虹色の斬撃が放たれた。魔法と剣技の融合。それは美しく、そして致命的だった。
ヒンメルは回避しようとしたが、反応が遅れた。光の刃が、肩を掠める。
「がぁっ……!」
肉が焼ける音。強烈な衝撃に、ヒンメルの体が宙を舞い、地面に叩きつけられた。
砂埃が舞う。
「勝負ありだ」 審判役の騎士が手を挙げようとする。
その時だ。
土煙の中から、ヒンメルが立ち上がった。
騎士服はボロボロで、肩からは血が滲んでいる。足は震え、顔色は蒼白だ。
それでも、彼は剣を放していなかった。
「……まだだ」
「何故立つ。これ以上やれば、体に障るぞ」 ユリウスの眉がピクリと動く。
「何故、か。……決まっているだろう」
ヒンメルは、血のついた唇を拭い、ニヤリと笑った。その笑顔は、今までで一番無様で、そして一番凄絶だった。
「僕は勇者だ。そして僕の勝利を信じる女の子がいる。だから……絶対にお前に勝つ」
会場がざわめく。
(ヒンメル様……あなたは、いつもそうです。自分の痛みよりも、誰かの心を優先する)
レムの胸が締め付けられる。彼の体からは、先ほどよりも濃密な「死の匂い」が漂っている。
(……治癒魔法じゃない。ヒンメルの体が治ろうとしている……いや、もしかして……時間が、巻き戻ろうとしてる?)
フリーレンの目には、ヒンメルの傷口が、ジジジと音を立てて、猛烈な痛みとともに塞がろうとするのが見えた。その激痛に耐えながら、ヒンメルは立っている。
「僕は勇者だ。騎士道なんて知らない。でもね、彼女たちが泣かないためなら、僕は何度だって泥を啜るし、何度だって立ち上がる!」
ヒンメルが叫びと共に突っ込んだ。捨て身の突撃。技術もへったくれもない、ただの気迫の塊。
「無駄だ!」
ユリウスが迎撃する――直前。
ヒンメルは、あえて踏み込んだ。肉を切らせて骨を断つ。心臓以外ならくれてやるという、狂気の覚悟。
ドスッ!!
ユリウスの木剣が、ヒンメルの左肩に深く突き刺さる。骨が砕ける音がした。激痛に意識が飛びそうになる。
だが、ヒンメルは止まらなかった。刺された状態で、さらに前へ。ユリウスの懐へ、無理やり潜り込む。
「なっ――!?」
「最優の騎士殿、顔が、がら空きだぜ……!」
ヒンメルの右拳が、渾身の力で振り抜かれた。剣ではない。拳だ。至近距離、予測不能の一撃。
ゴッ!!
鈍い音が響き、ユリウスの美しい顔が歪む。彼はよろめき、数歩後退した。
静寂。
誰もが言葉を失っていた。剣技で劣り、魔法も使えない男が、ただの気迫だけで、「最優の騎士」ユリウスに一撃を入れた。
ユリウスは、殴られた頬に手を当て、呆然としていた。そして、ゆっくりとヒンメルを見る。そこには、もう嘲りの色はなかった。
「……馬鹿な男だ」
ユリウスは、ふっと小さく笑った。
「剣を捨て、己の身を盾にし、泥にまみれて一発殴る。……それが、貴様の言う『勇者』の戦い方か」
「……はは、不格好だったかい?」
ヒンメルは肩で息をしながら、立っているのがやっとの状態だった。それでも、彼は髪をかき上げるポーズを取ろうとして、激痛に顔をしかめた。
「……訂正しよう、ヒンメル」
ユリウスは剣を鞘に収めた。
「貴公の剣技は三流。騎士道精神など欠片もない。……だが」
彼は姿勢を正し、右手を胸に当てた。
「その覚悟、その在り方……。嫌いではない」
決闘が終わると同時に、ヒンメルの膝から力が抜けた。
「っと……」
倒れそうになる体を、柔らかな感触が支えた。
「……無茶しすぎ」
フリーレンだ。彼女はヒンメルの体を支え、その傷口に手をかざす。
「……ごめんよ、フリーレン。かっこ悪いところを見せた」
「かっこ悪くないよ」
フリーレンは静かに言った。その声には、珍しく感情が籠もっていた。
「……ヒンメルは、いつだって私の勇者だから」
彼女の手から、温かな魔力が流れ込んでくる。エミリアも、涙目で駆け寄ってきた。
「ヒンメル! 馬鹿! どうしてあんな無茶なこと……!」
「やあ、エミリア。……君のために戦うと言っただろう?」
ヒンメルは蒼白な顔で、それでも精一杯の笑顔を作った。
「僕は君の騎士にはなれないかもしれない。けど、それでも……君の勇者でありたいんだ」
その言葉に、エミリアは堪えきれずに涙をこぼした。
「……うん。うん……! ありがとう、ヒンメル……!」
彼女の涙が、ヒンメルの頬に落ちる。
それを見て、ヒンメルは思う。
(ああ、悪くない)
体は痛い。吐き気もする。夜になれば、また死の悪夢にうなされるだろう。
それでも、この温かさがあるなら、まだ戦える。
この理不尽で残酷な世界で、まだ僕は、勇者のふりができる。
遠くから、フェリスが走ってくるのが見えた。
騒がしくなる喧騒の中で、ヒンメルはふと空を見上げた。
ルグニカの空は、どこまでも高く、蒼い。
「……さて、旅はまだ始まったばかりだね」
誰に言うでもなく呟き、ヒンメルはフリーレンの肩に体重を預けた。
その背中は、以前よりも少しだけ小さく、しかし以前よりもずっと大きく見えた。
遠くから見つめるロズワールの瞳が、怪しく光ったことは、まだ誰も知らない。
「……勇者、か。私の筋書きを壊す駒になりえるかね?」
道化師は音もなく笑った。新たな物語の幕開けを、呪うように。