王都にあるクルシュ・カルステンの別邸。その一室に割り当てられた客間で、ヒンメルはベッドに腰掛け、自身の左肩を無言で見つめていた。
先刻のユリウスとの決闘で、間違いなく骨が砕け、肉がえぐられた場所だ。
激痛はあった。確かにあったのだ。焼けるような熱さと、神経を直接ヤスリで削られるような鋭い痛み。それが脳髄に焼き付いている。
けれど、今、そこには傷一つなかった。
治癒魔法特有の温かな光に包まれたわけではない。傷口がふさがり、かさぶたができ、それが剥がれ落ちるといった生物学的な治癒のプロセスを経たわけでもない。
ただ、「戻った」のだ。
ビデオテープを逆再生するように。えぐれた肉が何もない空間から湧き出し、砕けた骨が勝手に組み上がり、裂けた皮膚がジッパーを閉じるように融合した。
これまで何度か体験した、その現象。
まるで、世界そのものがヒンメルの死を拒絶しているような、あるいは何者かの冷たい指先が、内臓を直接撫で回して「まだ逝くな」と命じているような、冒涜的な感覚がする
(……やれやれ。せっかくの名誉の負傷が、これでは証明しようもないな)
ヒンメルは独りごちて、震える指先を隠すように前髪をかき上げた。鏡に映る自分は、相変わらず憎らしいほどに整っている。
蒼い髪、白い肌。勇者としての記号を貼り付けたような美貌。
だが、その瞳の奥だけが、澱んだ沼のように暗い。
(痛かったなあ……)
本音が、ポロリと心の中にこぼれ落ちる。
本当は、剣が刺さった瞬間に泣き叫びたかった。地面を転げ回って、許しを乞いたかった。
死ぬのが怖い。痛いのが嫌だ。
そんな当たり前の感情が、波のように押し寄せてくる。
しかし、彼は勇者だ。
エミリアの前で、レムの前で、そして何よりフリーレンの前で、無様な姿を晒すわけにはいかない。
コンコン、と控えめなノックの音が響いた。
ヒンメルは瞬時に表情筋を総動員し、いつもの「余裕のある微笑み」を顔面に貼り付けた。深呼吸を一つ。震えを止める。
「どうぞ。開いているよ」
扉が開き、銀髪の少女が顔を覗かせた。
エミリアだ。彼女の手には、水盆と清潔な布、そして精霊の微かな光を宿した治療道具が抱えられている。
「ヒンメル、入ってもいい? ……その、怪我の具合、見せてもらおうと思って」
彼女の声は沈んでいた。眉尻が下がり、その紫紺の瞳は不安げに揺れている。
「やあ、エミリア。わざわざすまないね。でも、見ての通りさ。僕の回復力はトロール並みでね」
ヒンメルは軽口を叩きながら、左肩をさらけ出した。
「え……?」
エミリアが息を呑む。
彼女は盆をサイドテーブルに置き、恐る恐るヒンメルの肩に触れた。
「嘘……。あんなに深かったのに。骨までいってたはずなのに……」
傷跡すらない。生まれたてのような滑らかな肌が、そこにあるだけだ。
エミリアはこれが異常であることが分かるのだろう。高位の治癒術師でも、ここまできれいに、しかも短時間で治すことは不可能だ。
「……痛く、ないの?」
「痛くも痒くもないよ。言っただろう? 僕は勇者だからね。神様に愛されているのかもしれない」
ヒンメルはウィンクをして見せた。
だが、エミリアは笑わなかった。
むしろ、その顔色はますます蒼白になり、瞳に涙が膜を張り始めた。
「……嘘つき」
「おや」
「嘘つきよ、ヒンメル。だって、あなたの顔……全然笑えてないもの」
エミリアの手が、ヒンメルの頬に触れる。冷たくて、優しい手だった。
「私、見たの。戦っている時のあなたの顔。……泣き出しそうな顔をしてた。すごく怖がってた。なのに、どうして無理をするの?」
図星だった。エミリアは、純粋がゆえに他者の感情に敏感だ。ヒンメルの分厚い仮面の隙間から漏れる、本当の恐怖を見抜いていた。
「ヒンメルは、ただの人間なんでしょう? 魔法も使えない、私たちと同じ、傷つけば血が出る人間なんでしょう? なのに、どうして!」
エミリアの声が震える。
「私のために、あんな無茶をしたの? ユリウスは騎士の中でも一番強い人なのよ。死んでたかもしれないのよ!?」
「エミリア」
「もう、いいの。お願いだから……これ以上、私のために傷つかないで。私から離れて。王選なんて、私一人で頑張れるから……っ」
それは拒絶ではない。彼女なりの、不器用で痛切な「守るための選択」だった。
ヒンメルは、エミリアの手に自分の手を重ねた。彼女の手は震えていた。
(ああ、優しい子だ)
ヒンメルは思う。
自分が傷つくことよりも、他人が傷つくことを恐れる。その優しさは、かつて魔王討伐の旅路で見た、多くの理不尽に泣く人々と同じものだ。
だからこそ、彼女は王になるべきなのだ。
そして、だからこそ、ヒンメルは彼女の前に立たなければならない。
「エミリア。君は勘違いをしているよ」
ヒンメルは静かに言った。キザな抑揚を少しだけ抑えて、一人の人間として語りかけるように。
「僕はね、君のために無理をしているわけじゃないんだ」
「……え?」
「目の前に困っている女の子がいる。泣いている友人がいる。なら、助ける。手を差し伸べる。……それは、勇者にとって呼吸をするのと同じことなんだよ」
ヒンメルは、ベッドから立ち上がり、窓の外を見た。王都の空は茜色に染まりかけている。
「それが『無理』に見えるなら、それは世界の方が間違っているんだ。正しいことをして傷つくのが当たり前なんて、そんな悲しいことはないだろう?」
「でも……っ、あなたが死んじゃったら……!」
「死なないさ」
ヒンメルは振り返り、逆光の中で微笑んだ。
「僕は君に約束したはずだ。君の勇者でありたいと。……勇者というのはね、物語の最後まで立っているものなんだよ」
それは、自分自身への呪いのような言葉だった。
死にたくない。怖い。逃げたい。その感情を、「勇者」という概念で押し潰す。
エミリアは、何かを言いかけて、唇を噛んだ。彼の瞳にある決意が、あまりにも固く、そして静かだったからだ。
その時、部屋の扉が乱暴に開かれた。
「――いつまで感傷に浸っているつもりか~なぁ?」
道化の化粧を施した長身の男。ロズワール・L・メイザースが、独特の間延びした口調で入ってきた。
その異様な配色の瞳が、ヒンメルを品定めするように舐め回す。
「ロズワール……」
「急用を思い出してしまってねぇ。領地に戻らなーければならなくなったんだよぉ。エミリア様ぁ、すぐに支度をしてくれたーまえ」
「えっ? でも、まだ王選の会議や、ヒンメルの治療が……」
「治療な~ら、もう終わっているように見えるけれどねぇ? それにぃ、これ以上王都に長居すれば、他の陣営からの干渉も面倒だぁ。……特に、今のヒンメル君は注目の的だーからねぇ」
ロズワールは、ヒンメルに視線を移した。
その目には、明確な警戒心と、計算高い冷徹さが宿っている。
(……この男、僕を遠ざけようとしているな?)
ヒンメルは直感した。
「そういうことなら、仕方がないね。僕たちもお暇しようか」
「それなんーだがねぇ。実に言いにくいことなんだがぁ、私の竜車は私とエミリア様で定員いっぱーいでねぇ。君たちを乗せる余裕はないんだよぉ」
「それに、君のお連れ様の魔法使いー……フリーレン君だったかーな? 彼女、王都の古書店街で『稀覯本を見つけるまで梃子でも動かない』と駄々をこねているそうじゃないかぁ」
「……」
あまりにもその様子が容易に想像できてしまって、ヒンメルは思わず天井を仰いだ。
「まあ、いいだろう。僕とレム、それにフリーレンは、明日適当な竜車を拾って戻るよ。ロズワールたちは先に行ってくれ」
「け ん め い な判断だねぇ。……では、失礼するよぉ」
ロズワールは慇懃無礼に一礼し、エミリアを促した。
「ヒンメル……本当に、大丈夫?」
去り際に、エミリアが何度も振り返る。
ヒンメルはひらひらと手を振って、それに応えた。
「また明日、屋敷で会おう。美味しいお茶を期待しているよ」
扉が閉まる。
静寂が戻った部屋で、ヒンメルは深く息を吐き出し、ベッドに崩れ落ちた。
どっと、脂汗が吹き出した。
(……怖いな、ロズワール)
あの道化師の目は、人間を見ている目ではなかった。盤上の駒を見つめる、遊戯者の目だ。
自分が、とてつもなく巨大な悪意の渦に巻き込まれていることを、ヒンメルは肌で感じていた。
翌朝。
王都の正門付近は、朝霧に包まれていた。
「じゃあね、ヒンメル。私はもう少しここに残るよ」
フリーレンは、自分の背丈ほどもある大きな鞄に魔導書を詰め込みながら、淡々と言った。
「……本当に残るのかい? フリーレン」
「うん。この時代の王都の古書店は宝の山だよ。昨日は『服が透けて見える魔法』の初期稿を見つけたし、今日は『銅像の錆を綺麗に落とす魔法』を探すつもり」
彼女の表情は、いつも通りの無表情。ヒンメルが死にかけたことなど、まるで忘れているかのようだ。
(彼女に、僕の死の記憶はないんだな)
唐突に頭に浮かんだ思い。ヒンメルが何度死に戻りを繰り返しても、フリーレンの時間軸は一本のままだ。その断絶が、少し寂しい。
「分かった。あまり遅くならないようにね。……それと、無駄遣いは程々に」
「分かってるよ。ヒンメルはオカンみたいだね」
フリーレンはむすっと頬を膨らませた。
「じゃあ、またね」
短く手を振り、彼女は雑踏の中へと消えていった。その背中が、どこか遠くへ行ってしまうような予感がして、ヒンメルは無意識に手を伸ばしかけた。
「ヒンメル様」
鈴を転がすような声に、意識を引き戻される。
青い髪のメイド、レムが立っていた。彼女は手配した竜車の扉を開け、恭しく頭を下げている。
「準備が整いました。参りましょう」
「ああ、ありがとうレム。……君も、フリーレンと一緒に残ってもよかったんだよ?」
「いいえ。私の役目は、ロズワール様の屋敷の使用人として、お客様を無事に送り届けることですから」
レムは微笑んだ。完璧な、メイドとしての微笑み。
「それに……ヒンメル様お一人では、ご心配ですから」
その言葉には、メイド以上の温度が含まれていた。
ヒンメルとレムが乗り込むと、雇われた御者が鞭を振るう。地竜が嘶き、車輪が石畳を噛んで回り始めた。
車内は沈黙に包まれていた。ガタゴトと揺れる音だけが響く中、ヒンメルは頬杖をついて外を眺めていた。
「……お辛そうですね」
唐突に、レムが口を開いた。
「え?」
「私には、分かります。ヒンメル様から漂う、魔女の残り香が。……昨日の決闘の後、それは一層濃くなりました」
レムの表情は真剣だった。
「ヒンメル様は、嘘が下手です。……いつも鏡を見て、髪を直して、自信満々な言葉を吐いて。でも、その指先が震えているのを、私は知っています」
彼女は、座席から身を乗り出し、ヒンメルの手をそっと握った。その手は、冷たく湿っていた。
「痛いなら、痛いと言ってください。怖いなら、怖いと言ってください。……あなたは勇者かもしれませんが、神様ではありません」
ヒンメルは自嘲気味に笑った。
「……参ったな。君には敵わないよ、レム」
ヒンメルは、握られた手を握り返した。
「怖いよ。本当はね。……夜、目を閉じると、体が壊されたときのことを思い出すんだ。自分の血の匂いで目が覚めることもある」
初めて、他人に本音を吐露した。言葉にすると、胸のつかえが少しだけ取れた気がした。
「でもね、レム。それでも僕は、格好つけなきゃいけないんだ。フリーレンが、エミリアが、不安にならないように。それが僕の選んだ生き方だから」
「……バカです」
レムは、涙ぐみながら微笑んだ。
「本当に、どうしようもないくらい、バカで……素敵な方です」
その時だった。
ふと、窓の外の景色が白く濁り始めた。
霧の濃度が、異常な速さで増している。太陽の光が遮断され、世界が乳白色に塗り潰されていく。
そして、音が消えた。
鳥のさえずりも、風の音も、地竜の足音さえも、分厚い綿の中に吸い込まれるように消滅した。
「……変だ」
ヒンメルの中の警報が鳴り響いた。
「御者さん! 速度を上げてくれ! この霧を抜けるんだ!」
ヒンメルは前方の小窓を開けて叫んだ。
しかし、返事はない。
身を乗り出して、御者台を見る。
そこには、誰もいなかった。
手綱だけが、だらりと垂れ下がっている。人間だけが「最初からいなかった」かのように消滅していた。
背筋が凍りつく。
「ヒンメル様……!」
レムが短く悲鳴を上げた。彼女は青ざめた顔で、上空を見上げている。
「来る……来ます、あれが!」
「あれ?」
ヒンメルもまた、空を見上げた。
霧の海を、巨大な影が泳いでいた。
それは、あまりにも大きすぎた。空を覆い尽くすほどの巨体。白い体躯。全身に生えた無数の体毛のような翼。
クジラだ。
伝説上の怪物、白鯨が、霧の海を悠然と泳いでいた。
『――――――』
声にならない声が、脳髄を直接揺さぶった。精神を削り取る、狂気の波長だ。
「ぐ、ぁ……!」
ヒンメルは頭を押さえてうずくまった。吐き気がする。
「あれは『白鯨』……三大魔獣の一体です! 霧に触れたものを消滅させる、生ける災厄……!」
「消滅……?」
御者が消えたのは、そういうことか。死ぬのではない。存在そのものを消される。
つまり……「死に戻り」すら機能しないかもしれない。
(フリーレンも、エミリアも、僕を忘れるのか?)
(それだけは……ッ!)
恐怖が、逆に怒りとなって着火した。
ヒンメルは、震える足で立ち上がり、御者台へと移った。
「レム! 手綱を取れるか!?」
「は、はい!」
「全速力だ! 街道を外れてもいい、とにかく森へ逃げ込め! あんな化け物とまともにやり合って勝てるわけがない!」
「でも、逃げ場なんて……!」
レムの絶望的な声。周囲を見渡せば、霧は全方位を取り囲み、白い壁となっていた。
そして上空から、白鯨がゆっくりと、その巨大な口を開けた。
ヒンメルは腰の剣を抜いた。魔王を倒した聖剣ではない。レプリカの剣だ。
手の中で、剣の柄が汗で滑る。
「……冗談じゃない」
ヒンメルは、ニヤリと笑った。限界を超えた恐怖が、一周回って彼をハイにさせていた。
「レム、僕の背中を見ていてくれ」
「ヒンメル様!?」
「勇者ヒンメルなら、こんな時どうするか。……震える足で、それでも前に出るのさ!」
ヒンメルは竜車の屋根に飛び乗った。風が、彼の蒼い髪を激しくなびかせる。
白鯨の巨眼が、眼下の羽虫――ヒンメルを捉えた。
「さあ、来いよ、デカ物!! 僕はこの世界で一番、往生際の悪い男だぞ!!」
絶望的な霧の中で、勇者の虚勢(こえ)が響き渡った。
それが、長く苦しい悪夢の始まりだった。