ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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忘却

世界が、白く塗り潰されていた。

音がない。色彩がない。方向感覚すらも曖昧になるほどの、圧倒的な「無」の奔流。

先ほどまで耳を劈く地竜の蹄の音も、車輪が石畳を噛む音も、すべてが分厚い綿布団で包まれたかのように遠ざかっている。いや、遠ざかっているのではない。音という概念そのものが、この空間から剥奪されているような錯覚に陥る。

その中で、唯一鮮明なのは、頭上の巨影が放つ「圧」だけだった。

空を泳ぐ鯨。

メルヘンの住人ならば、それは幻想的で美しい光景だったかもしれない。だが、眼前に存在するそれは、生物としての美的曲線を持ちながらも、その存在の根源にあるものが決定的に間違っていた。

全身を覆う体毛のようなものは、同時に翼であり、無数の口のようにも見える。

純白の巨体は、神々しさの裏側に、生理的な嫌悪感を催す冒涜的な何かを隠し持っていた。

『――――――――――』

再び、咆哮。

鼓膜ではなく、脳髄を直接鷲掴みにされ、力任せに揺さぶられるような感覚。

「が、はっ……!」

勇者ヒンメルは、竜車の御者台の上で片膝をついた。胃液がせり上がる。視界がチカチカと明滅する。

(ああ、まずいな。これは……まずい)

ヒンメルは、脂汗で濡れた前髪をかき上げようとして、指先が痙攣して動かないことに気づいた。

恐怖だ。

かつて魔王と対峙した時でさえ、これほどの絶望は感じなかった。あの時は、隣に仲間がいた。アイゼンがいて、ハイターがいて、フリーレンがいた。

だが今は、この広大な絶望の海に、たった一人。

いや、一人ではない。

「ヒンメル様ッ!」

背後から、悲鳴のような声が届く。

レムだ。

彼女は御者台にしがみつきながら、青ざめた顔で上空を睨みつけている。その額からは一筋の角が伸び、可憐なメイド服からは想像もつかないほどの凄絶な闘気を放っていた。

けれど、その瞳は震えている。

彼女は知っているのだ。この怪物の正体を。そして、この怪物がもたらす結末を。

「霧が……濃くなります! ヒンメル様、お願いです、中に入ってください! 外にいては標的になります!」

「やれやれ、レディを矢面に立たせて自分だけ隠れるなんて、勇者の美学に反するよ」

ヒンメルは、震える膝を叱咤して立ち上がった。

口元に、いつもの不敵な笑みを貼り付ける。頬が引きつりそうになるのを、鋼鉄の理性で押さえつける。

「それに、この霧の中で隠れたところで意味はないだろう? 奴は僕たちを見ているんじゃない。僕たちの『存在』を嗅ぎつけているんだ」

「それは……っ」

レムが言葉を詰まらせる。彼女の鼻――鬼族としての鋭敏な嗅覚は、この霧の中に充満する、甘く腐った死臭を捉えているはずだ。そして、その発生源が、今まさにヒンメル自身から濃厚に漂っていることも。

「来るぞ、レム! しっかり掴まっていろ!」

ヒンメルが叫んだ瞬間、上空の白鯨が身を翻した。

巨大な尾びれが、大気を薙ぎ払う。

物理的な衝撃波が竜車を襲った。地竜が嘶き、車体が大きく傾く。

「くっ……!」

ヒンメルは手すりに足をかけ、どうにか体勢を維持した。

だが、ただの衝撃波ではない。

尾びれが通過した空間から、さらに濃密な霧が噴き出したのだ。それはまるで生き物のように、竜車へと絡みついてくる。

「消滅の霧……!」

レムの警告が聞こえた。

霧が触れた端から、竜車の装飾が、ランタンが、まるで消しゴムで擦られたように消えていく。

破壊ではない。消失。

破片すら残らない。最初から「そこになかった」かのように、空間ごと抉り取られる現象。

(なんてデタラメな……!)

ヒンメルは背筋が凍るのを感じた。

これまでの「死に戻り」の記憶が走馬灯のように巡る。

腹を裂かれた痛み。首を飛ばされた浮遊感。焼かれた熱さ。それらはすべて「肉体の死」だった。死ねば、時間は巻き戻る。痛みは消え、傷は癒え、やり直しの機会が与えられる。

だが、これはどうだ?

もし、この霧に飲み込まれたら?

その時、ヒンメルは自らの左腕に違和感を覚えた。

噴き出した霧の飛沫が、ヒンメルの腕をバシャリと洗ったのだ。

「……え?」

見れば、左腕を覆っていたコートの袖が、肩口から綺麗に消失していた。

まるで最初からノースリーブの服を着ていたかのように、糸のほつれ一つ残さず、布地だけが消え失せている。

だが、その下にあるヒンメルの皮膚は――無傷だった。

赤くもなっていない。痛みもない。ただ、そこにある。

それだけではない。

ヒンメルのマントは……そう、あの日この世界に来たときから使っているマントは、霧に当たったはずの部分も失われていない。

(コートは消えた。でも、僕も、マントも消えていない)

ヒンメルは瞬時に思考を巡らせた。

装飾は消えた。ランタンも消えた。マントも消えた。けれど、ヒンメルとマントは霧の侵食を拒絶している。

(硬いからか? いや、違う。魔法防御? そんなものはない)

ならば理由は一つ。

「異物」だからだ。

この世界にとって、異世界から迷い込んだ「勇者ヒンメル」や「勇者ヒンメルが身に着けていたもの」という存在は、システムの外側にあるイレギュラーなのだ。だから、この霧が持つ「消去」を受け付けない。

「ヒンメル様! 右です!」

レムがモーニングスターを振り回し、迫り来る霧の塊を打ち払おうとする。だが、物理的な打撃など霧には通用しない。

「くそっ……!」

ヒンメルは腰の剣を抜いた。

王都の露店で買った、安物のレプリカ剣。魔力も宿っていなければ、聖なる加護もない。ただの鉄の塊だ。

それでも、構えるしかなかった。

「はああああッ!」

ヒンメルは裂帛の気合いと共に、剣を薙いだ。剣圧で風を起こし、わずかに霧を散らす。

「……効かないか」

霧はすぐに凝集し、再び白い壁となって迫ってくる。

視界が、急速に奪われていく。

最初は数メートル先まで見えていた地竜の背中が、今はもう霞んで見えない。

隣にいるはずのレムの姿さえ、白い闇の中に溶け込みそうになっている。

「ヒンメル様……? どこですか、ヒンメル様!」

レムの声が、焦燥に染まる。

すぐそこにいるはずなのに、声が遠い。

空間が歪んでいるのだ。この霧は、距離感すらも狂わせる。

「僕はここだ、レム! 離れるな!」

ヒンメルは手を伸ばした。指先が、冷たい湿気に触れる。

「見えません……! 霧が、霧が濃すぎて……! 手が届きません!」

レムが泣き叫ぶような声を上げた。

彼女の手が、空を彷徨っているのが気配でわかる。

伸ばせば届く距離のはずだ。だが、その数十センチが、永遠のような距離に感じられる。

(これが、白鯨の権能か)

個の分断。

視覚を、聴覚を、そして触覚さえも遮断し、獲物を孤独な深淵へと突き落とす。

『――――――――――』

真上から、圧力が降ってきた。

見上げると、霧の天井を突き破って、白鯨の巨大な口が開かれていた。

そこにあるのは、歯ではない。無限の暗闇だ。

僕たちを、いや、僕を狙っている。

明確な殺意。いや、食欲。

この化け物は、「勇者ヒンメル」という異物を喰らおうとしている。

(……ああ、そうか)

ヒンメルは、唐突に理解した。

何故、自分が狙われるのか。何故、今なのか。

自分の身体に染み付いた「死の匂い」。そして、決して風化することのない「この世界にあらざる者」。それが、この怪物にとって、あまりにも美味しそうな、噛み砕き甲斐のある餌に見えているのだ。

ならば。

僕が囮になれば、レムは助かるはずだ。

「レム! 聞け!」

ヒンメルは叫んだ。腹の底から、声を張り上げる。

「僕は大丈夫だ! この程度の霧、勇者の輝きで吹き飛ばしてみせるさ!」

「嘘です! そんな嘘、もう聞きたくありません!」

霧の向こうで、レムが叫び返す。

「私の手を! 手を掴んでください! お願いです、置いていかないで!」

「……君は、本当に聞き分けがないな」

ヒンメルは苦笑した。

震える手が、剣の柄を握りしめる。

もう、手は届かない。この濃密な霧の中では、互いの位置を正確に把握することすら困難だ。

だが、何かを繋ぐことはできる。

「レム! 剣だ!」

「え……?」

「僕の剣を出す! 鞘の方を向けるから、それを掴め! 僕の手が届かなくても、剣なら届くはずだ!」

ヒンメルは、剣を逆手に持ち替えた。

切っ先を自分の方に向け、鞘走りの要領で、柄と鞘の結合部を外す。

そして、鞘の方を、レムがいるであろう方向へ突き出した。

「掴め、レム! 早く!」

「は、はいッ!」

ガチリ、と硬質な音がした。

見えない霧の中で、レムの手が鞘を掴んだ感触が伝わってくる。

鉄を通じて、彼女の体温と、激しい震えが伝わってきた。

繋がった。

ただ物理的に繋がっただけではない。

ヒンメルは、先ほどの仮説をこの剣に託した。

「僕自身」が霧によって消滅しない特異点であるならば、僕が強く認識し、僕の一部として扱っているこの剣もまた、その「消えない属性」を帯びるはずだ。

もちろん、霧で消えないだけだ。

白鯨に対して無敵になれるわけではない。

それでも、少しでも生き残る可能性は上がるだろう。

(レム、せめて君だけは逃げ延びてくれ)

地竜はまだ走っている。狂ったように駆け抜けている。

このまま森へ突っ込めば、白鯨の巨体では追跡が難しくなるはずだ。

だが、それは「森まで突っ込めれば」の話だ。

頭上の闇が、落ちてくる。

白鯨が、その口を閉じる予備動作に入った。

狙いは正確に、ヒンメルだ。

このままでは、繋がっているレムごと巻き込まれる。

(……まったく、なんて勇者らしい展開なんだ)

ヒンメルは、自嘲気味に笑った。

ここで手を離せば、自分は助かるかもしれない?

いや、そんな選択肢は最初から彼の辞書にはない。

逆に、このまま掴んでいれば、レムを道連れにする。

選択肢は一つしかなかった。

「レム」

ヒンメルは、優しく名を呼んだ。

霧の向こうの彼女に、その表情は見えない。だからこそ、彼は最高の笑顔を作った。

「君に会えてよかった。……あの屋敷での日々は、僕にとって宝物だ」

「な……何を、言って……?」

レムの声が凍りつく。

「ヒンメル様、まさか」

「エミリアによろしく伝えてくれ。……王選、頑張れって」

「嫌です! 放しません! 絶対に、放しませんからッ!」

レムの握力が、鞘を通じて伝わってくる。万力のような力だ。

彼女は鬼族だ。力比べで、人間であるヒンメルが勝てるはずがない。

だが、ヒンメルが握っているのは「剣の柄」だ。

鞘を握っているのはレム。

つまり、ヒンメルは手を放す必要もない。

ただ、抜けばいいのだ。

「……さよならだ、レム」

「ヒンメル様ァァァァァッ!!」

金属が擦れ合う、鋭い音が鳴り響いた。

ヒンメルは、鞘から剣を引き抜いた。

フワリ、と体が軽くなる。

レムとの物理的な繋がりが断たれた瞬間、竜車の揺れがヒンメルの体を空中に放り出した。

「あ……」

視界が回転する。

白い霧と、白い空と、白い怪物。

スローモーションの世界の中で、ヒンメルは見た。

霧の切れ間から、遠ざかっていく竜車を。

そして、御者台から身を乗り出し、絶望に顔を歪めて手を伸ばす、青い髪の少女の姿を。

その手には、まだ黒い鞘が握りしめられている。

勇者の半身とも言えるその鞘は、今も彼女と繋がっている。

(君がそれを持っている限り、君だけは抗えるかもしれない。この理不尽な消滅に)

(泣かないでくれ、レム)

ヒンメルは心の中で呟いた。

(君には、笑顔が似合う)

その思考が完結する前に、世界が暗転した。

白鯨の大口が、ヒンメルを飲み込んだのだ。

痛みはなかった。

牙で噛み砕かれる感触も、消化液で溶かされる激痛もない。

ただ、存在が希釈されていく感覚があった。

自分の輪郭が溶けていく。

喉が、最期の言葉を形作る。

誰にも届かない、けれど決して消えない、空白への独白。

「フリーレン……!」

その名を呼んだ瞬間、ヒンメルの意識は世界の内側から弾き出され、観測不能な領域へと落ちていった。

 

「…………」

王都の宿屋の一室。

窓から差し込む午後の日差しが、古びた木の床を照らしていた。塵が光の中で舞っている。

静かだった。

あまりにも静かで、穏やかな時間。

フリーレンは、粗末な丸テーブルに肘をつき、ぼんやりと虚空を眺めていた。

テーブルの上には、広げかけの魔導書。そして、市場で買ってきたばかりの「リンガ」という果物が二つ、籠に入っている。

赤い果実。甘酸っぱい香りが、部屋に漂っている。

フリーレンはゆっくりと瞬きをして、そのリンガを見つめた。

「……あれ?」

小さな疑問が、口をついて出た。

彼女は首を傾げた。長い銀髪が、サラリと肩から流れ落ちる。

「私、なんでリンガを二つ買っているんだっけ?」

彼女は一人旅だ。

そう、この「異世界」に飛ばされてきたのは、自分一人だったはずだ。

ずっと一人だった。

魔王を倒した後の気ままな旅も、この不思議な世界に迷い込んでからの数日間も。

誰かと会話をしたような気もするが、それはきっと露店の店主や、宿の主人とのやり取りだろう。

なのに、どうして二つ?

一つは自分の分。もう一つは?

「……ああ、そうか」

フリーレンは、自分の中で納得のいく答えを見つけた。

「お腹が空いていたんだね、私」

そうだ。この世界のリンガは美味しいから、つい余分に買ってしまったのだ。

あるいは、保存食にするつもりだったのかもしれない。

合理的な理由だ。矛盾はない。

フリーレンは魔導書に視線を戻した。

『物質の透過と再構築に関する基礎理論』。

この世界特有の魔法体系が記された、興味深い古書だ。これを読み解けば、元の世界に帰る手がかりになるかもしれない。

ページをめくる。

カサリ、と乾いた音が響く。

その音が、やけに大きく聞こえた。

胸の奥に、小さな空洞があるような気がした。

心臓の鼓動が、妙に響く。

何かを、忘れている気がする。

とても大事な、かけがえのない何かを、置き忘れてきたような。

たとえば、そう。

下らない冗談を言って笑う、ナルシストな男とか。

鏡を見るたびに前髪をいじって、自分に陶酔する変な勇者とか。

「…………?」

フリーレンは眉をひそめた。

今、一瞬、脳裏を過ったイメージは何だろう。

青い髪。自信満々の微笑み。

知らない顔だ。

私の記憶には、そんな人間はいない。勇者パーティーの仲間はアイゼンとハイター、そして……誰だっけ?

ああ、そうだ。南の勇者だ。……いや、違う。

思考にモヤがかかる。

まるで、ジグソーパズルのピースが一つだけ足りないまま、無理やり絵を完成させてしまったような違和感。

けれど、世界は整合性を保っている。

空は青く、風は心地よく、リンガは赤い。

何もおかしなことはない。

フリーレンは、リンガの一つを手に取った。ずしりと重い。

それを口元に運び、一口かじる。

シャクッ、という小気味よい音。甘い果汁が口いっぱいに広がる。

「……美味しい」

独り言が、部屋に吸い込まれていく。

「美味しいけど……」

フリーレンは、かじったリンガを見つめた。

なぜだか、味がしないような気がした。

喉の奥が詰まるような感覚。

そして、気づけば、視界が滲んでいた。

「……え?」

フリーレンは、自分の頬に触れた。

指先が濡れている。

涙だ。

自分が泣いていることに気づいて、彼女は驚いたように目を丸くした。

「なんで……?」

悲しくない。

痛くもない。

寂しくもないはずだ。

なのに、涙が止まらない。

ポタポタと、涙の粒が魔導書のページを濡らしていく。インクが滲んで、文字が読めなくなる。

「変なの」

フリーレンは袖で顔を拭った。拭っても拭っても、溢れてくる。

「私、疲れてるのかな」

彼女はリンガをテーブルに置いた。

かじりかけのリンガと、手つかずのリンガ。

その二つが並んでいる様子が、どうしようもなく「間違っている」ように見えて、彼女は視線を逸らした。

窓の外を見る。

王都の空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

その青さが、誰かの髪の色に似ているような気がして、フリーレンはずっと空を見上げていた。

名前の思い出せない誰かの不在が、彼女の心を冷たく締め付けていた。

「……早く、帰らなきゃ」

誰に言ったわけでもない言葉。

帰る場所など、どこにもないのかもしれないのに。

宿屋の部屋に、風が吹き込んだ。

その風は、遠い戦場の霧の匂いを微かに孕んでいるようだったが、すぐに都市の喧騒にかき消された。

 

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