ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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透明な勇者

意識の浮上は、泥沼の底からゆっくりと気泡が昇っていくような、緩慢で不快な感覚を伴っていた。

全身が重い。指先一つ動かすのにも、錆びついた歯車を無理やり回すような抵抗がある。

瞼の裏に残っているのは、あの圧倒的な白だ。世界を塗り潰し、存在を希釈し、記憶も歴史も名前さえも飲み込んでいく、絶対的な虚無の白。

まだ、その中にいるのだろうか。

自分は消滅したのだろうか。それとも、死に戻りのループの中に囚われ、永遠に近い時間を彷徨っているのだろうか。

思考がまとまらない。脳髄が痺れているようだ。けれど、感覚器は少しずつ、外部からの情報を拾い上げ始めていた。

揺れがある。

規則的な、ゴトゴトという振動。

匂いがある。

乾いた藁の匂いと、どこか懐かしい土埃の匂い。そして、微かに漂う獣の体臭。

音がある。

車輪が石畳を噛む音。鞭が空を切る音。男の鼻歌。

(……生きている?)

ヒンメルは、重い瞼をこじ開けた。

最初に飛び込んできたのは、粗末な麻布の天蓋だった。隙間から強烈な日差しが差し込み、空中に舞う塵をキラキラと照らしている。

眩しさに目を細め、彼は上体を起こそうとした。

「ぐっ……」

呻き声が漏れる。体が軋む。だが、痛みではない。激痛も、裂傷の熱さもない。ただ、体が鉛のように重く、自分のものとは思えない違和感があるだけだ。まるで、サイズの合わない着ぐるみを着せられているような、ちぐはぐな感覚。

「お、目が覚めたかい? 兄ちゃん」

野太い声がかかった。

ヒンメルが視線を向けると、御者台の方から、日焼けした中年の男が顔を覗かせていた。恰幅が良く、顎髭を蓄えた、いかにも商人といった風体だ。

「……ここは?」

ヒンメルは自分の喉に触れた。声が掠れている。喉が乾ききっていた。

「もうすぐ王都だ。リーファウス街道を抜けて、今は西門に向かってる最中だよ」

商人は愛想よく笑って、腰の水袋を放り投げてきた。

「ほら、飲みな。随分うなされてたぜ。街道の端っこで倒れてるのを見つけた時は、もう駄目かと思ったけどな」

ヒンメルは水袋を受け取り、震える手で栓を開けた。

ぬるい水が喉を通り抜ける。その生々しい感覚が、彼を現実に引き戻した。

王都。街道。

助かったのか。

あの白鯨の霧、消滅の権能から逃れ、現世に留まることができたというのか。

「……君が、助けてくれたのかい?」

「助けたなんて大層なもんじゃねえよ。行き倒れを見捨てるほど落ちぶれちゃいねえってだけだ。それに、兄ちゃん、その剣」

商人は、ヒンメルの近くにむき出しに置かれている剣――正確に言えばレプリカ剣――を指差した。

「見たところ鞘はどこかにやっちまったようだが……ああ、そのままじゃ危ねえから、後で巻き付ける布をやるよ。んでよ、兄ちゃん、騎士様だろ? もしくは、傭兵か。身なりはボロボロだけど、顔つきが良い。俺は昔、盗賊に襲われた時に通りすがりの騎士様に助けてもらったことがあってな。それ以来、剣を持ってる人間には親切にすることにしてるんだ」

商人は豪快に笑った。

ヒンメルは、曖昧に微笑んだ。騎士。勇者ではなく、騎士。

まあ、今の自分の姿を見れば無理もない。泥にまみれ、装備も貧弱だ。伝説の勇者ヒンメルだと名乗ったところで、狂人の戯言としか思われないだろう。

「……感謝するよ。君の親切は、世界を救う勇者の行いにも等しい」

「ははっ、大きく出たな! 気に入ったよ。王都に着いたら、飯くらい奢ってやる」

商人は機嫌よく前を向き直し、地竜に鞭を入れた。

ヒンメルは、揺れる荷台の縁に背中を預け、深く息を吐いた。

助かった。

その事実に、安堵すべきなのだろう。

だが、胸の奥に巣食う黒い不安が、どうしても拭えない。何かがおかしい。決定的な何かが、欠落しているような気がしてならない。

ヒンメルは自分の手を見つめた。

指は五本ある。爪もある。掌のシワもある。でも、なぜだろうか。自分の存在が、世界という背景から浮いてしまっているような、薄気味悪い感覚がぬぐえない。

(そうだ、レムは……?)

思考が、霧の中の記憶を手繰り寄せる。

最後に彼女の手を放した。彼女だけでも逃がすために。

あの時、自分が飲まれたとき竜車は森の直前まで来ていたはずだ。レムは無事に森に逃げ込めただろうか。エミリアの元へ戻れただろうか。

そして……自分はどうなった?

白鯨に飲み込まれたはず。

なのに、なぜここにいる?

死に戻りではない。時間は巻き戻っていない……はずだ。

ヒンメルは、ズキズキと痛む頭を押さえた。

嫌な予感がする。内臓が冷たくなるような、生理的な恐怖。

自分の体が「ここにある」のに、「どこにもいない」。そんな矛盾した感覚が肌を粟立たせる。

「……確かめないと」

ヒンメルは、震える指で前髪をかき上げた。いつもの癖だ。不安を押し隠し、自分を鼓舞するための儀式。

「大丈夫だ。僕は勇者ヒンメル。どんな絶望も、僕の輝きを曇らせることはできない」

誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。

その声は、荷台の藁の中に吸い込まれ、誰の耳にも届かなかった。

王都ルグニカは、今日も平和な喧騒に包まれていた。

大通りを行き交う人々。色とりどりの果実を並べる露店。客引きの声。地竜車の音。

活気がある。人々は笑っている。誰も、世界の危機など知らぬげに。

魔女教の脅威も、白鯨の恐怖も、ここでは遠いお伽話のようだ。

ヒンメルは、西門の広場に立ち尽くしていた。

商人と別れ、雑踏の中に放り出された彼は、広場の警備に立っている衛兵に歩み寄った。

見覚えがある顔だ。数日前、門の近くで派手な格好の女(後で王選候補のプリシラと知った)が揉め事を起こした際、仲裁に入ろうとしてオドオドしていた新人兵士だ。あの時はヒンメルが颯爽と割って入り、場を収めた。その際、彼には名前を名乗り、感謝されたはずだ。

「やあ、精が出るね」

ヒンメルは、努めて明るく、余裕たっぷりに声をかけた。

衛兵が振り返る。

「……はい? 何か御用でしょうか?」

怪訝な顔。

そこには、親愛の情も、敬意も、見知った相手に対する安堵もない。完全なる「初対面の他人」に向ける目だ。

ヒンメルの心臓が、ドクリと嫌な音を立てた。

「つれないな。数日前に会ったばかりじゃないか。ほら、あの赤いドレスの貴族の女性と、チンピラが揉めていた時の」

「はあ……? 赤いドレスの方なら、プリシラ様のことでしょうか。あの方なら毎日のように揉め事を起こされていますが……」

衛兵は首を傾げた。

「それで、貴方は?」

「……僕だよ。勇者ヒンメルだ」

ヒンメルは、真っ直ぐに衛兵の目を見て名乗った。さあ、思い出せ。

あの時、君は言ったはずだ。『貴方のような立派な方がいて助かりました』と。

だが、返ってきた反応は、冷淡なものだった。

「勇者……? はて、聞いたことがありませんね。劇の登場人物か何かですか?」

衛兵は、少し気味悪そうにヒンメルを見た。

「悪いですが、公務中ですので。不審な真似はお控えください」

それだけ言うと、衛兵は興味を失ったように前を向き直した。

ヒンメルは、立ち尽くした。足元の石畳が、急に不安定になった気がした。

(……嘘だろう?)

冷や汗が背中を伝う。

たった数日前だ。あれだけインパクトがある出来事のすべてが、この衛兵の記憶にはない?

(いや、衛兵一人が忘れているだけかもしれない。彼は忙しいんだ。いちいち全ての通行人を覚えているわけがない)

必死に自分に言い聞かせる。だが、足は勝手に動き出していた。

確かめなければならない。もっと確実な証拠を。

ヒンメルは走った。

人混みをかき分け、貴族街の方へ向かう。目指すは、近衛騎士団の詰所近く。

あそこになら、きっと誰か知っている顔がいるはずだ。

特に、ユリウス・ユークリウス。

彼とは、練兵場で派手な立ち回りをした。多くの騎士が見守る中で剣を交えたのだ。彼を殴った拳の痛みを今もはっきり思いだせる。あれが忘れられるはずがない。

息を切らせて、詰所が見える通りに出る。

そこには、数人の騎士たちがたむろしていた。その中に、見知った顔があった。

紫の髪。優雅な立ち振る舞い。

ユリウスだ。

彼は同僚の騎士と何かを話している。

ヒンメルは、駆け寄りたい衝動を抑え、呼吸を整えた。焦ってはいけない。余裕を見せろ。勇者らしく、堂々と。

彼は乱れた髪を手櫛で整え、衣服の埃を払った。

そして、ゆっくりと、自信に満ちた歩調で近づいていく。

「やあ、ユリウス。奇遇だね」

声をかける。

ユリウスが会話を止め、ゆっくりと振り返った。その琥珀色の瞳が、ヒンメルを映す。

ヒンメルは微笑んだ。

さあ、言ってくれ。『また会ったな、ヒンメル』と。『あの時の決着をつけよう』と。

皮肉でもいい。敵意でもいい。

僕を知っているという証を、その目に宿してくれ。

だが。

「……失礼ですが」

ユリウスの端正な顔に浮かんだのは、礼儀正しいが、氷のように冷たい「拒絶」だった。

「どちら様でしょうか? 私に何か御用で?」

時が、止まった。周囲の音が、スッと遠ざかる。

ヒンメルは、口元に貼り付けた笑みが引きつるのを感じた。

「……冗談が過ぎるよ、ユリウス。僕だ。ヒンメルだ。この前、練兵場で手合わせをした……」

「練兵場?」

ユリウスは眉をひそめ、隣にいた騎士に視線を向けた。

「私は最近、練兵場で部外者と手合わせなどをした覚えはないが」

「ああ。お前はずっと王選の準備で忙しかったからな。誰かと勘違いしているんじゃないか? この男」

隣の騎士が、胡散臭そうにヒンメルを見る。

勘違い。

覚えがない。

部外者。

言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となってヒンメルの精神を削り取っていく。

「……そうか」

ヒンメルは、掠れた声で言った。

「そうか……そういうことか」

理解してしまった。

白鯨の霧。

消滅の権能。

あれは、肉体を消すだけではなかった。

世界から、「ヒンメル」という存在の記録そのものを削除する力だったのだ。

歴史の修正力。

彼がこの世界で積み上げてきた関係性も、名声も、無様な思い出も、すべてが綺麗に拭い去られている。

最初から、いなかったことになっているのだ。

だとしたら、今の自分は何だ?

ここに立っている自分は、亡霊か? 世界という書物から切り取られた、余白の切れ端か?

「おい、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

ユリウスが、心配そうに声をかけてくる。

その優しさが、今は残酷なほど痛かった。

知らない人間に向ける、ただの慈悲。そこには、かつて交わした魂の交流の残滓すらない。

「……ああ、すまない。人違いだったようだ」

ヒンメルは、一歩後ずさった。

「君があまりにも、僕の知っている友人に似ていたものでね。……失礼した」

それだけ言うのが精一杯だった。

ヒンメルは背を向けた。逃げるように。

背後で、騎士たちが何かを囁き合っているのが聞こえたが、振り返ることはできなかった。

吐き気がした。

胃の中が空っぽなのに、強烈な嘔吐感が込み上げてくる。

路地裏に入り込み、壁に手をついてえずく。胃液だけがアスファルトに落ちる。

「はぁ……はぁ……っ」

手が震える。

膝が笑う。

鏡を見なくてもわかる。今の自分は、ひどく無様な顔をしているだろう。

怖い。

死ぬことよりも、ずっと怖い。

忘れ去られること。

自分が生きた証が、どこにも残らないこと。

それは、ヒンメルが最も恐れていたことだった。

だからこそ、銅像を作った。

だからこそ、お伽話を残した。

いつか自分が死んだ後も、誰かが覚えていてくれるように。

そうだ。もし、誰もかれもが自分を忘れたとしても、彼女だけは絶対に覚えていてくれるように。

「……フリーレン」

無意識に、その名を呼んでいた。

彼女なら。

あの悠久の時を生きるエルフなら。

彼女の魔法は、この世界の理とは異なる次元にある。彼女の記憶は、数千年という尺度で刻まれている。

もしかしたら、彼女だけは。

世界が改変されても、彼女だけは僕を覚えているのではないか?

縋るような希望だった。細く、脆い、蜘蛛の糸のような希望。

だが、今のヒンメルには、それしかなかった。

彼は顔を上げた。

冷や汗を拭い、口元の汚れを拭き取る。そして、前髪をかき上げた。

「……まだだ」

鏡のようなショーウィンドウに映る自分に向かって、彼は言った。

「まだ終わっていない。僕はヒンメルだ。勇者ヒンメルだ」

虚勢を張る。

そうしなければ、心が砕け散ってしまいそうだったから。

彼女を見つけたのは、日が傾きかけた頃だった。

王都の下町にある、少し寂れた宿屋兼食堂。その窓際の席に、彼女はいた。

白い髪。

尖った耳。

小柄な体躯。

周囲の喧騒から切り離されたような静寂を纏い、淡々と食事をしている。

フリーレンだ。

ヒンメルは、宿屋の入り口で立ち止まった。

心臓が早鐘を打つ。

会えた。

その姿を見ただけで、涙が出そうになった。世界中が敵に回っても、彼女さえいればいいと、本気で思った。

彼女が生きていてくれた。それだけで、この悪夢のような世界に色彩が戻ってくる気がした。

ヒンメルは深呼吸をした。

震える手を強く握りしめ、勇気の仮面を被り直す。

いつも通りに。

格好良く。

再会の挨拶は、とびきりキザに決めなければならない。そうすれば、彼女はいつものように呆れた顔をして、「ヒンメルは馬鹿だね」と言ってくれるはずだ。

カツ、カツ、とブーツの音を響かせて、彼は歩み寄った。

食堂にいる他の客は、薄汚れた格好の男が入ってきたことに眉をひそめたが、ヒンメルは気にしなかった。彼の瞳には、フリーレンしか映っていない。

彼女は、テーブルの上に置かれた巨大なハンバーグのような料理を、ナイフで小さく切り分けていた。その所作の一つ一つが、愛おしい。

ヒンメルは、彼女のテーブルの横に立った。

そして、窓から差し込む夕日を背に、一番美しく見える角度でポーズを決めた。

「やあ、フリーレン」

声が裏返らないように注意した。低く、甘く、余裕を含んだバリトンボイス。

「一人での食事は寂しいだろう? 僕が相席してあげてもいいよ。君の瞳に映る夕日よりも、僕の方が輝いているかもしれないけれど」

完璧だ。これ以上ないほど、ヒンメルらしい挨拶だ。

フリーレンの手が止まった。

彼女はゆっくりとフォークを置き、顔を上げた。翡翠色の瞳が、ヒンメルを射抜く。

その瞳に、自分の姿が映る。

ヒンメルは微笑んだ。

さあ、呼んでくれ。

その口で、僕の名前を。

だが。

フリーレンの瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。

驚きも、喜びも、呆れさえもない。そこにあるのは、道端の石を見るような、あるいは実験動物を見るような、無機質な観察眼だけだった。

彼女は首を少しだけ傾げた。サラリと、銀髪が流れる。

そして、淡々と言った。

「……誰?」

ヒンメルの笑顔が凍りついた。

世界が、音を立てて崩れ落ちていく。

「……え?」

間の抜けた声が出た。

フリーレンは、興味なさそうに視線を外した。

「相席なら、他を当たって。私、食事中は静かにしていたいんだ」

そう言って、彼女は再びナイフとフォークを手に取った。まるで、ヒンメルなど最初からそこにいなかったかのように。

拒絶ですらない。

認識の排除。

彼女の世界にとって、今のヒンメルは「見知らぬ不審者」でしかないのだ。

ヒンメルの膝から、力が抜けた。テーブルの端に手をついて、辛うじて転倒を防ぐ。

指先が白くなるほど、テーブルの縁を掴む。

「……フリーレン」

声が震える。

仮面が剥がれ落ちそうになる。

「僕だ……ヒンメルだ。勇者ヒンメルだ」

縋るように訴える。

「一緒に旅をしただろう? 魔王を倒しただろう? この世界に来てからも、ずっと一緒だったじゃないか」

フリーレンは、口に運ぼうとした肉を止めた。面倒くさそうに、再び彼を見る。

「何の話? 私はずっと一人で旅をしている。貴方、頭は大丈夫?」

心臓を、素手で握り潰されたような痛みが走った。

忘れている。

彼女さえも。

あの長い旅路も、交わした約束も、蒼月草の思い出も。

すべて、消えた。

フリーレンの記憶という、永遠の書庫から、ヒンメルのページだけが破り捨てられている。

「……嘘だ」

ヒンメルは呻いた。

「嘘だと言ってくれ、フリーレン。冗談なんだろう? いつものように、僕をからかっているだけなんだろう?」

涙が滲む。視界が歪む。

格好悪い。無様だ。

彼女の前では、常に格好良くありたかったのに。一番見せたくない惨めな姿を、一番愛する人に見せている。

フリーレンは、そんなヒンメルを見て、ふと目を細めた。

一瞬だけ、彼女の瞳の奥に、何か揺らぐような光が見えた気がした。それは既視感のような、あるいは無意識の違和感のようなものだったかもしれない。

だが、すぐにその光は消えた。

彼女は、冷たく言い放った。

「しつこいよ。衛兵を呼ぶから」

拒絶。

それは決定的な最後通告だった。

ヒンメルは、唇を噛み締めた。血の味がした。

これ以上、ここにいてはいけない。

これ以上、彼女を困らせてはいけない。

自分が誰なのかもわからない不審者に絡まれることは、彼女にとって迷惑でしかないのだから。

ヒンメルは、ゆっくりと体を起こした。

ボロボロの精神を、最後のプライドで繋ぎ止める。

涙を飲み込み、引きつった笑顔を作る。

「……そうか。すまない、人違いだったようだ」

声が掠れる。

「君が、あまりにも美しかったから。つい、知人だと錯覚してしまったよ」

フリーレンは何も答えない。ただ、早く立ち去れという目で彼を見ている。

ヒンメルは、踵を返した。

背中が焼けるように熱い。

振り返りたい。

抱きしめたい。

行かないでくれと、足元に縋り付きたい。

だが、彼は勇者だ。

彼女の記憶の中の勇者は死んでも、彼の中の勇者はまだ死んでいない。

ならば、去り際は美しくなければならない。

たとえ、その心が血を流して泣き叫んでいたとしても。

宿屋を出ると、外はもう黄昏時だった。

空が蒼く染まっている。

あの美しい色。

かつて彼女の故郷で見つけた花の色。

そして、今まさに失われた、彼女と繋がる唯一の色。

ヒンメルは、路地裏の影に崩れ落ちた。

膝を抱え、小さく丸まる。

「……痛いな」

呟きは、誰にも届かない。

腹の傷よりも、首の痛みよりも、ずっと深く、鋭い痛みが胸を貫いている。

透明人間。

誰からも認識されず、誰の記憶にも残らない存在。

今の自分は、生きていながら死んでいるのと同じだ。いや、死んでいる方がマシかもしれない。死ねば、少なくとも墓標は残る。

だが、今の彼には墓標さえ許されない。

「フリーレン……」

膝に顔を埋め、その名を呼ぶ。

何度でも呼ぶ。

世界が忘れても、僕だけは忘れない。

君と過ごした日々を。君の温もりを。

それだけが、この冷たい世界で、ヒンメルという存在を繋ぎ止める唯一のよすがだった。

路地の向こうから、冷たい風が吹き抜けていく。

夜が来る。

孤独で、冷たく、終わりのない夜が、透明な勇者を飲み込もうとしていた。

 

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