王都の夜は、底なしの沼のように暗く、そして冷たかった。
石造りの街並みを吹き抜ける風は湿り気を帯びており、ヒンメルの肌に張り付くシャツをじっとりと冷やしていた。彼は、宿屋兼食堂の入り口から通りを挟んだ向かい側、街灯の光さえ届かない建物の陰に、力なく座り込んでいた。
膝を抱え、背中を粗い煉瓦の壁に預ける。その姿勢は、かつて彼が憧れ、演じ続けてきた「勇者」の姿からは程遠い、ただの傷ついた青年のそれだった。
(……僕は、何をしているんだろうな)
自嘲の笑みさえ浮かばない。
数時間前の出来事が、脳裏に焼き付いて離れなかった。彼女の姿を見つけた時の歓喜。心臓が早鐘を打ち、世界が輝いて見えたあの一瞬。
そして、声をかけた瞬間に返ってきた、あの反応。
『……誰?』
翡翠色の瞳には、親愛も、呆れも、あるいは敵意さえもなかった。ただ、路傍の石を見るような、完全なる無関心。
衛兵やユリウスに忘れられていたことなど、比較にならないほどの衝撃だった。世界が彼を忘れても、彼女だけは覚えていると信じていた。その最後の希望が、音を立てて崩れ去ったのだ。
彼女はヒンメルを不審者と判断し、そして興味を失って宿屋に隣接する酒場に入っていった。ヒンメルには、さらに追いすがる気力も、一緒に店に入る勇気もなかった。
だからこうして、亡霊のように外で膝を抱え、ただ時間が過ぎるのを待っている。諦めて立ち去るべきだと理性は告げている。これ以上傷つく前に、どこか遠くへ逃げ出したほうがいいと本能が警鐘を鳴らしている。
だが、足が動かなかった。この扉の向こうに彼女がいる。その事実が、磁石のようにヒンメルをこの場所に縛り付けていた。
目の前の酒場の窓から、暖かなオレンジ色の光が漏れている。ガラス越しに見える人影の中に、あの白い髪と尖った耳があるはずだ。
彼女は今、どんな顔で何を飲み、何を食べているのだろう。
その隣に、僕はいない。
彼女の記憶の中に、僕はいない。
ズキリ、と胸が痛んだ。物理的な痛みではない。心臓を直接手で鷲掴みにされ、冷たい泥水の中に引きずり込まれるような、生理的な苦痛だ。
白鯨の霧。消滅の権能。
それがヒンメルという存在を歴史の織物から引き抜き、ほつれた糸くずのように捨て去った。世界はヒンメル抜きで、何食わぬ顔で回っている。
「……寒いな」
ヒンメルは震える手で二の腕をさすった。勇者の体は、常人離れした耐久力を持っているはずだ。だが、今の彼には、夜風が剃刀のように鋭く感じられた。
孤独が、体温を奪っていく。誰からも認識されないということは、世界から拒絶されているのと同じだ。自分はここに存在しているのに、世界からは無いものとして処理されている。その矛盾が、魂も肉体もさらに冷たく冷やしているような気がした。
その時。
カラン、とベルが鳴った。
酒場の重い木扉が開く。光が路地に溢れ出し、ヒンメルは反射的に目を細めた。
フリーレンが出てきた。
彼女は満足げに小さく息を吐き、夜風に銀髪をなびかせた。月明かりを浴びて輝くその姿は、この薄汚れた世界で唯一、汚れを知らない宝石のように美しかった。
その姿を見た瞬間。ヒンメルの身体が、思考よりも先に動いた。
理屈ではなかった。恐怖も、躊躇いも、先ほどの絶望も、彼女への愛おしさの前ではあまりにも無力だった。
もう一度だけ。もう一度だけ話せば、何かが変わるかもしれない。さっきは驚いていただけかもしれない。ちゃんと説明すれば、思い出してくれるかもしれない。
そんな都合の良い希望に縋りつかなければいけないほど、すでに心は壊れていた。
「……フリーレン」
ヒンメルは立ち上がり、ふらつく足で光の中へと歩み出た。
フリーレンが足を止める。
彼女が振り返るまでのコンマ数秒の間に、ヒンメルは必死に「仮面」を被り直した。
背筋を伸ばし、顎を引き、口角を持ち上げる。震える指先は前髪を弄る仕草で誤魔化す。
どんなに心がボロボロでも、彼女の前では「格好いいヒンメル」でなければならない。それが、彼の矜持であり、彼女に対する精一杯の誠意だった。
「やあ。食後の散歩かい?」
声が裏返らないように、腹に力を込めてバリトンボイスを紡ぐ。
「奇遇だね。僕も今、夜風に当たりながら君のことを考えていたところだよ。どうやら僕たちの運命は、磁石のように引き寄せ合ってしまうらしい」
完璧だ。これ以上ないほど、いつものヒンメルらしい、キザでナルシスティックな挨拶だ。
さあ、言ってくれ。
ジト目で「またあんた?」と。あるいは、「しつこいよ」と呆れてくれ。
認識してくれ。僕という存在を。
フリーレンは、ゆっくりと顔を上げ、翡翠色の瞳でヒンメルを捉えた。
その瞳には、何の感情も浮かんでいなかった。先ほど路上で会った時と同じ。いや、少しだけ「面倒くさい」という色が混じっているかもしれない。
「……さっきの」
彼女は短く言った。
覚えている。さっき会ったことは覚えているのだ。だが、それだけだ。彼女にとってヒンメルは、「さっき道で声をかけてきた変な人」以上の何者でもない。
「待ち伏せ? 気持ち悪いね」
淡泊な言葉が、矢のように突き刺さる。ヒンメルの笑顔が、ピキリと音を立てて引きつった。
「人聞きが悪いな。僕はただ、夜風を楽しんでいただけだよ。……それに、君に伝えたいことがあってね」
「私にはないよ。知らない人と話す趣味はないから」
フリーレンは踵を返そうとした。
待ってくれ。行かないでくれ。
ヒンメルは焦った。このまま背中を見送ってしまえば、二度と繋がることはできない気がした。
「ハイターとアイゼン!」
ヒンメルは叫んだ。
その名前を出せば、彼女は止まるはずだ。
予想通り、フリーレンの足が止まった。彼女はゆっくりと振り返る。その瞳に、警戒の色が宿っていた。
「……なんで、その名前を知っているの?」
反応があった。ヒンメルの胸に、蛍火のような希望が灯る。やはり、仲間たちの記憶は残っている。彼女の世界に、彼らは存在しているのだ。
「知っているも何も、僕たちは仲間じゃないか! 生臭坊主のハイターと、頑固な戦士のアイゼン。彼らと一緒に、僕たちは旅をした。十年の冒険の末に、魔王を倒しただろう?」
ヒンメルは一歩踏み出した。
そうだ、思い出してくれ。
君はよく朝寝坊をして、僕が起こしに行った。ミミックに食べられそうになる君を、僕が引っ張り出した。くだらない魔法を集める君に、僕が付き合った。それらすべてが、僕たちの絆だ。
「君が『たった十年の旅』と言った時、僕は……」
「私たちの旅は、三人だった」
フリーレンの冷徹な声が、ヒンメルの言葉を遮った。
時が、止まった。夜風の音も、遠くの喧騒も、すべてが真空の中に消えた。
「……え?」
ヒンメルの思考が停止する。何を言われたのか、理解できなかった。
「私と、僧侶のハイターと、戦士のアイゼン。その三人で魔王を倒した」
フリーレンは、事も無げに、歴史の教科書を読み上げるように告げた。
「貴方みたいな人間族の剣士なんて、いなかったよ」
いなかった。
三人だった。
ヒンメルは、口を開けたまま硬直した。それは、「全員が忘れ去られた」ことよりも、遥かに残酷で、悪意に満ちた現実だった。
彼女にとっての歴史は修正されている。勇者一行の冒険譚は存在している。魔王討伐の偉業も残っている。ハイターもアイゼンも、英雄として記憶されている。
ただ、「勇者ヒンメル」という主役だけが、そこから綺麗に切り取られ、最初から存在しなかったことになっているのだ。
パズルのピースが一つだけ欠けたまま、無理やり完成された絵画。世界は、ヒンメル抜きで完璧に成立している。
彼が振るった剣は、アイゼンの斧やハイターの魔法によって代用されたことになっているのだろう。彼がかけた言葉は、誰の発言でもないことになっているのだろう。彼がフリーレンに向けた笑顔は、最初から空虚に向けられていたことになっているのだろう。
「嘘だ……」
ヒンメルは呻いた。膝が震える。立っているのがやっとだった。
「そんなはずはない……僕が、君を旅に誘ったんじゃないか。王様の依頼を受けて、僕が君たちを集めたんだ。勇者の剣を抜くために、皆で旅立ったじゃないか!」
必死に訴える。だが、フリーレンの表情は冷ややかになる一方だった。
そこにあるのは、見知らぬ狂人を見る目。あるいは、自分のプライベートな情報を不当に知る変質者への嫌悪感。
「……どこで調べたのか知らないけど、気味が悪いよ」
彼女の声の温度が、氷点下まで下がった。周囲の空気が張り詰める。魔力が、肌を刺すような殺気となって膨れ上がる。
「私たちの旅の詳細を知っている人間は少ない。……貴方、何者? 心を覗く魔法使い? それとも、魔族の残党?」
違う。僕は魔族じゃない。僕は君の勇者だ。
そう叫びたいのに、喉が張り付いて声が出ない。
「証拠は?」
フリーレンは冷徹に問い詰めた。
「貴方が私たちと一緒にいたという証拠はあるの? 貴方の名前は、どの文献にも、誰の記憶にも残っていないはずだよ。私が覚えていないんだから」
証拠。
そんなもの、あるわけがない。世界そのものが彼を抹消しているのだから。装備している剣だって、安物のレプリカだ。
ヒンメルは焦った。冷や汗が背中を伝う。
何か、彼女しか知らないこと。文献には残らない、彼女と僕だけが共有している、決定的な事実。
そうだ。
「蒼月草……」
ヒンメルは、震える声で言った。最後の切り札。
あれだけは、二人だけの秘密だ。
「君の故郷の花だ。君は、それを探していた。そして、僕たちは見つけたんだ。あの廃墟の塔の頂上で。……君は、僕のために魔法を使ってくれただろう? 花畑を出す魔法を」
それは、ヒンメルにとって最も美しく、大切な記憶だった。彼女が初めて、自分のために魔法を使ってくれた瞬間。二人の心が通じ合った証。
これなら、彼女も否定できないはずだ。
だが。
その言葉を聞いた瞬間、フリーレンの表情が一変した。無表情が崩れ、露骨な「敵意」が顔を出した。
「……ッ」
彼女の手が、目にも止まらぬ速さで動いた。腰の杖を抜き放ち、その先端をヒンメルの喉元に突きつける。赤い宝石が、禍々しい光を帯びて明滅する。
魔力が膨れ上がり、周囲の大気が悲鳴を上げた。強烈な風圧が、ヒンメルの髪を乱暴にかき乱す。
「貴方、本当に危険だね」
殺気。純粋で、鋭利な殺意。
「その魔法は、師匠が教えてくれた私の好きな魔法。……でも、私はそれを人前で見せたことなんてない。ましてや、貴方のような男に見せた記憶なんて一度もない」
彼女の瞳が、奥底で揺らいでいた。それは、自分の最も大切で内密な記憶領域に、土足で踏み込まれたことへの怒りだった。
彼女にとって、今のヒンメルは「存在しないはずの過去を捏造して語る、正体不明の敵」でしかないのだ。
「私の記憶を改竄しようとしている? それとも、どこかで私を監視していた?」
杖の先端に、黒い光が収束していく。
ゾルトラーク。
かつて魔王を屠るために研鑽したその力が、今、守り抜いたはずの勇者に向けられている。
「……解析不能な精神干渉を感じる。この世界にいる魔女教大罪司教、あるいはそれと同等の脅威と判断する」
「待ってくれ、フリーレン! 僕は君を傷つけるつもりなんて……!」
「しつこい。消すよ」
彼女の言葉は、絶対零度の宣告だった。
本気だ。彼女は、ヒンメルを排除しようとしている。愛した女性に、害虫として処理される。
その事実に、ヒンメルの心は音を立ててひび割れた。
(ああ……そうか)
ヒンメルは、突きつけられた杖の輝きを見つめながら、どこか他人事のように理解した。
僕だけがいなかったことになっている世界で、僕が彼女との思い出を語れば語るほど、それは彼女にとって「恐怖」でしかないのだ。
愛の言葉は、ストーカーの妄言に変わる。共有した時間は、不気味な情報収集の結果に変わる。
僕はもう、彼女にとっての勇者ではない。
ただの「狂人」だ。
涙が溢れそうになった。けれど、ここで泣いて命乞いをするのは、ヒンメルの美学が許さなかった。
たとえ彼女に忘れられても、たとえ殺されたとしても、彼女の記憶に残る最期の姿は、無様なものであってはならない。
「……わかったよ」
ヒンメルは、両手を挙げてゆっくりと後ずさった。顔に張り付いた笑顔は、能面のように硬直していたが、それでも彼は笑った。
それが、勇者ヒンメルの最後の意地だった。
「君を怖がらせてすまなかった。どうやら、僕の勘違いが過ぎたようだ。……消えるよ」
フリーレンは杖を下ろさない。その冷たい視線に射抜かれながら、ヒンメルは踵を返した。
背中が焼けるように熱い。振り返りたい。行かないでくれと縋り付きたい。
だが、彼は歩き出した。最初はゆっくりと。やがて早足になり、路地の角を曲がった瞬間、彼は走り出した。
走った。
無我夢中で走った。王都の石畳を蹴り、人混みを避け、光の届かない暗がりを求めて。
息が切れる。心臓が破裂しそうだ。だが、身体的な苦痛よりも、精神的な喪失感の方が遥かに大きかった。
路地裏に入り込み、ゴミ捨て場の陰で膝をつく。嘔吐感が込み上げる。胃の中身など何もないのに、激しくえずいた。
「はぁっ、はぁっ、げほっ……!」
口元を手で拭うと、赤い血が付着していた。精神の崩壊が、肉体を蝕み始めているのか。
「……三人、か。……ははは……三人……か……」
ヒンメルは、湿った壁に背を預けて乾いた笑いを漏らした。彼女の言葉が、呪いのようにリフレインする。
『私たちの旅は、三人だった』
ハイターも、アイゼンも、彼女の記憶の中にいる。自分だけがいない。
「痛いな……」
胸を強く握りしめる。物理的な痛みではない。
存在そのものを否定された痛み。孤独という言葉では軽すぎる。
自分はきっと、幽霊になったのだ。誰からも見えず、声も届かず、ただ世界の外側から眺めているだけの呪われた亡霊。
(死ねば、戻れるだろうか……)
相棒の長剣を覆う布を外す。刃をそっと首にあてる。この世界のリセット機能。死に戻り。
今、ここで首を切れば、あるいは時間を巻き戻せるかもしれない。
白鯨に出くわした、あの時より前に戻れれば。
そうすれば、フリーレンはまた「ヒンメルは馬鹿だね」と、きっと笑ってくれる。その可能性に縋りたくなる。この耐え難い孤独から逃げ出せるなら、死ぬことなど怖くない。
剣に力をこめようとした、その時だった。
「……ヒンメル様?」
闇の中から、声が聞こえた。鈴のような、けれどフリーレンのものとは違う、可憐で芯の強い声。
ヒンメルは顔を上げた。
路地裏の入り口に、人影が立っていた。特徴的なメイド服。そして、闇の中でも淡く発光しているかのように見える、水色の髪。
「……レム?」
ヒンメルは目を疑った。幻覚か?極限状態の脳が見せている、都合の良い夢なのか?
彼女は逃げたはずだ。そして、もし生きていたとしても、彼女もまた僕を忘れているはずだ。フリーレンさえも忘れたのだから。
彼女の目には、僕はどう映っている?魔女の残り香を漂わせる不審者か?それとも、ただの浮浪者か?
レムは、一歩一歩、近づいてきた。
その手には、剣の鞘が握られている。それは、ヒンメルが白鯨戦で手放してしまった、彼の愛剣の片割れだった。
「……それを、どうして」
ヒンメルが問いかける前に、レムが駆け寄ってきた。
彼女はヒンメルの前に跪き、その鞘を捧げ持った。そして、顔を上げる。
その大きな瞳からは、大粒の涙が溢れていた。だが、それは恐怖の涙ではなかった。深い安堵と、そして狂おしいほどの思慕に満ちた涙だった。
「探しました……!」
レムの声が震えていた。
「ずっと、探しました。王都中を駆け回って……貴方の匂いを頼りに」
匂い。
死の匂いと彼女が呼ぶ、その異臭。
それを頼りに来たということは、やはり彼女は僕を敵として……?
「ヒンメル様」
彼女は呼んだ。明確に。その名前を。
「ご無事で……本当によかった……っ!」
ヒンメルの思考が停止した。
名前を呼んだ?
ヒンメル様と?
「……君は、僕が誰だか、わかるのかい?」
ガシャン、と音を立てて手から剣が零れ落ちた。
恐る恐る問いかける。
また「誰?」と言われるのが怖くて、声が震える。
レムは首を激しく縦に振った。涙が飛沫となって散る。
「わかります! 忘れるはずがありません! 貴方は、レムの英雄です!」
「でも、フリーレンは……誰も、僕のことを覚えていなかった。世界中が僕を忘れていたんだ。君だって……」
「レムは忘れません!」
彼女は叫ぶように言った。
そして、鞘をヒンメルの腰に押し付けると、彼の手を両手で包み込んだ。
温かい。火傷しそうなほどに温かい、生きた人間の体温。
「他の誰が忘れても、世界中が貴方をなかったことにしても……レムの魂には刻まれています。貴方が、あの霧の中で私たちを逃がしてくれた背中を。貴方が、震える手で剣を握り、それでも笑って見せた強さを!」
彼女の瞳が、ヒンメルを射抜く。そこには、一片の曇りもない信頼があった。
「匂いがします。濃い、死の匂いが。……でも、その奥に、凛としたお花の香りがするんです。貴方の魂の香りです。だからレムにはわかります。貴方が、ヒンメル様だということが」
蒼月草。
彼女は、その香りを幻視している。ヒンメルから漂う絶望的な死臭の奥に、彼の本質を見出している。
世界改変の影響を受けない唯一の特異点。
それが彼女だった。
ヒンメルの膝から力が抜けた。崩れ落ちそうになる彼を、レムが小さな体で支える。
彼女の肩に顔が埋まる。洗いたてのシーツのような、優しい匂いがした。
泣きたかった。子供のように声を上げて泣きじゃくり、「怖かった」「寂しかった」と吐き出したかった。
だが、ヒンメルはそれをしなかった。
奥歯を噛み締め、嗚咽を飲み込んだ。
ここで泣いてしまえば、彼女に甘えてしまえば、それはただの「弱い男」だ。
彼女は今、「英雄」を信じてここに来てくれたのだ。
彼女が信じる「ヒンメル」であり続けること。
それが、今の彼にできる唯一の誠意だった。
「……はは」
ヒンメルの口から漏れたのは、枯れ木のような笑い声だった。
彼は震える手で前髪をかき上げ、レムから身を離した。そして、受け取った剣を腰に差す。
カチリ、と音がして、欠落した半身が埋まる。
「そうか。……そうか、君だけは」
彼は、充血した目でレムを見て、ニヒルに笑おうとした。
だが、その笑顔は歪で、泣き顔よりもずっと痛々しかった。
「やれやれ、世界中が僕の美しさに嫉妬して記憶を消去したとしても、君の愛だけは誤魔化せなかったというわけか。……君は本当に、見る目があるね」
いつものナルシシズム。いつもの虚勢。
それが、今の彼が纏える精一杯の鎧だった。
レムは、そんな彼の強がりをすべて理解した上で、優しく微笑んだ。
「はい。ヒンメル様は、いつだって世界で一番輝いていますから」
その全肯定の言葉が、ボロボロになったヒンメルの心臓を、かろうじて繋ぎ止める。
「……ありがとう、レム」
ヒンメルは、短く言った。
「君がいてくれて、よかった。……本当に」
それは、演技でも虚勢でもない、魂からの言葉だった。
彼女がいなければ、今頃、この路地裏には冷たくなった勇者の死体が転がっていただろう。
ヒンメルは空を見上げた。
路地裏の狭い空に、一番星が光っている。
フリーレンには拒絶された。
かつての仲間たちとの記憶も否定された。
世界は依然として、彼にとっての地獄だ。
けれど、隣には青い髪の少女がいる。
この世界の原理を裏切り、自分の存在を証明してくれる、たった一人の共犯者がいる。
「行こうか、レム。……夜はまだ長い」
「はい、どこまでも」
二人は歩き出した。
闇深い王都の片隅で、消えかけた勇者の灯火が、小さく、けれど確かに揺れていた。