ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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氷の城

王都ルグニカの朝は、死のような静寂とともに訪れた。

本来ならば、朝市の活気や馬車の車輪が石畳を叩く音、商人たちの威勢の良い掛け声が響き渡り、生命の躍動が都市の血管に流れ込む刻限である。王選という国家の一大事を控え、都は普段以上の熱気に包まれていたはずだった。

だが、今の王都を支配しているのは、鼓膜が痛くなるほどの無音と、肌を刺すような冷気だけだった。

季節は夏。昨日はうだるような暑さが、石造りの街並みに熱を溜め込んでいた。それなのに、一夜にして世界は反転していた。

鉛色の空からは、灰色の雲が重く垂れ込め、白い欠片が舞い落ちてくる。雪だ。

それは、触れた瞬間に生物の体温を奪い去り、心の臓腑まで凍てつかせるような、魔力を帯びた不自然な雪片。物理的な冷たさ以上に、精神を摩耗させる重みを持っていた。

路地裏の粗末な軒下で、ヒンメルは目を覚ました。

汚水の臭いを塗りつぶすような凍結した空気。瞼を開けた瞬間、白い息が視界を曇らせる。身体の芯まで冷え切っていたが、不思議と震えはなかった。いや、震えることさえ許されないほど、彼の感覚は麻痺していたのかもしれない。

あるいは、幾度となく繰り返した「死」の記憶が、ただの寒さごときを些細な苦痛へと格下げしていたのか。

(……ああ、またか)

ヒンメルは、ぼんやりとした意識の中で、自分の腹部をさすった。そこには何もない。傷一つなく、衣服も破れていない。

恐怖が、足元から冷たい手となって這い上がってくる。叫び出したい衝動。逃げ出したい本能。

だが、彼はそれを深呼吸一つで鉄の仮面の下に押し込めた。

「……おはようございます、ヒンメル様」

すぐ傍らで、鈴のような声がした。レムだ。

彼女は一睡もせずに見張りをしていたのだろう。透き通るような青い髪には薄っすらと霜が降りていたが、ヒンメルを見つめる瞳だけは、暖炉の火のように温かく、そしてどこか悲痛だった。

彼女は自分の外套をヒンメルに掛けていたようだった。メイド服一枚の華奢な身体が、小刻みに震えているのが見て取れた。

「やあ、おはよう、レム。……随分と冷え込むね。僕の心が冷え切っているから、世界が空気を読んで合わせてくれたのかな」

ヒンメルは身体を起こし、外套を彼女の肩に戻しながら、いつものように口角を持ち上げた。

唇が凍りついていて、皮膚が裂けるような痛みが走る。血が滲む感覚がある。だが、そんな顔は見せない。呼吸を整え、前髪を指で払う。

「鏡がないのが残念だ。今の自分の笑顔は、さぞかし青ざめていて、それでも悲劇的に美しいに違いない」

軽口を叩く。それは自分自身への暗示であり、目の前の少女を安心させるための儀式だった。

「……冗談を言っている場合ではありません。この異常気象、ただ事ではありません」

レムは外套を固辞したが、ヒンメルが強引に羽織らせると、少しだけ頬を赤らめて身を縮こませた。彼女の鼻先がひくつくと動く。鬼族特有の鋭敏な感覚が、この異常事態の原因を探っているのだ。

「魔女の匂い……ではありません。いえ、ヒンメル様からは相変わらず、むせ返るような瘴気が漂っていますが……この雪からは、違う気配を感じます」

「違う気配?」

「はい。もっと、純粋で……研ぎ澄まされた、膨大な魔力の奔流です。ルグニカの大気中のマナが、強制的に書き換えられています。こんな芸当ができる存在は、宮廷筆頭魔導士のロズワール様か、あるいは大精霊様くらいしか……」

レムの言葉を聞きながら、ヒンメルは空を見上げた。

舞い落ちる雪の結晶。その一つ一つが、完璧な六角形を描いている。自然現象特有の揺らぎがない。まるで定規とコンパスで設計されたかのような、幾何学的な美しさを持つ雪。

ルグニカの魔法使いや精霊たちが操る、感情や契約に基づく神秘とは異なる、冷徹なまでに論理的な構造。

見覚えがあった。この過剰なまでの整然さ。感情を排した論理の積み重ねによって構築された、魔法という名の数式。

何より、この魔力に含まれる「色」を知っている。

(フリーレン……)

ヒンメルの胸が、寒さとは別の理由で軋んだ。昨夜の拒絶。彼女の冷たい瞳。

記憶を失い、ヒンメルという存在を忘却の彼方へ置き去りにした彼女。そして今、この王都を覆い尽くそうとしている銀世界。

直感が告げている。これは彼女だ。彼女の嘆きが、あるいは彼女の混乱が、形を持って世界を侵食しているのだ。彼女自身さえも気づかない、魂の悲鳴が。

「……行こう、レム。心当たりがある」

ヒンメルは立ち上がり、腰の剣帯を締め直し、前髪をかき上げた。震える指先を、髪の中に隠すようにして。

「この雪を止めるには、やはり僕の熱い抱擁が必要なようだからね」

虚勢を吐く。吐いた言葉に自分自身を縛り付けるようにして、ヒンメルは白い絶望に染まりつつある大通りへと足を踏み出した。

***

王都の中心へ向かうにつれて、冷気は殺意を帯びていった。

路上の水たまりは氷の鏡となり、街路樹はクリスタルの彫刻のように凍てついている。

逃げ遅れた人々が、建物の中で息を潜めている気配がした。通りには人っ子一人いない。窓は固く閉ざされ、時折漏れ聞こえる子供の泣き声も、すぐに押し殺されるように消える。

まるで、世界そのものが死に絶えてしまった後のような光景だった。滅びた未来の都を歩いているかのような錯覚。

「これは……ひどい」

レムが低い声で呟く。彼女はモーニングスターを手に、油断なく周囲を警戒している。

その青い瞳は、周囲の脅威を探りながらも、時折ヒンメルの横顔に向けられる。彼女には見えているのだ。ヒンメルが必死に押し殺している「恐怖」が。冷や汗が首筋を伝い、それが凍りついているのを。歩幅が僅かに乱れているのを。

それでも彼女は何も言わない。ただ、彼が倒れそうになったらすぐに支えられる距離を保ち続けている。

彼女だけが、ヒンメルという英雄の「中身」が、傷つきやすい一人の人間であることを知っている共犯者だった。

(ありがとう、レム)

心の中で礼を言いながら、ヒンメルは足を速めた。目指すは、魔力の中心地。昨夜、フリーレンが入っていった宿屋の方角だ。

近づくにつれ、異様な光景が広がっていた。

宿屋を中心とした半径数百メートルが、巨大な「氷の城」と化していたのだ。地面から鋭利な氷柱が突き出し、建物を覆い尽くしている。空気中の水分が凝固し、ダイヤモンドダストとなってキラキラと舞っている。

美しい。皮肉なほどに、幻想的で美しい光景だった。しかし、その美しさは、近づく者すべてを拒絶する城壁だった。一切の熱を許さず、時間を停止させるかのような絶対的な拒絶。

「止まれ! そこの二人!」

怒号が飛んだ。氷結領域の境界線に、数人の衛兵が展開していた。彼らは槍を構えつつも、その切っ先は震え、視線はおびえるように落ち着きなく左右に動く。

「ここは封鎖されている! 王都警備隊の管轄だ。一般市民は直ちに避難しろ!」

「やあ、ご苦労様。避難しろと言われても、この寒さでは家に帰る前に凍えてしまいそうだね」

ヒンメルは足を止めず、衛兵たちに歩み寄った。その態度はあまりに自然で、あまりに場違いだった。

「な、なんだ貴様は……! この先には正体不明の術者がいるんだぞ! 騎士団の方々でさえ、結界に阻まれて近づけないんだ!」

「騎士団が?」

ヒンメルは氷の壁の向こうを見つめた。確かに、微かに剣戟の音や、魔法が弾ける音が聞こえる。だが、それらは氷の壁に傷一つつけることなく、虚しく響いているだけだった。

火系統の魔法が、氷壁に触れた瞬間に、炎そのものが凍り付いて砕け散っているのが見えた。この世界の魔法体系――ゲートを通し、大気中のマナと対話して行使する術式とは、根本的に理が違う。

フリーレンの魔法は、対話ではない。支配だ。解析し、構造を理解し、強制的に書き換える。

ルグニカの騎士たちがどれほど精強でも、異世界の理で編まれた「解析不能な防御壁」を突破することは容易ではないだろう。

「通してくれないか。中にいるのは、僕の知り合いなんだ」

「知り合いだと!? 馬鹿を言うな! あれは災厄だ! 中からは問いかけに応答もない。ただ無差別に魔力を垂れ流して……」

「彼女は、泣いているんだよ」

ヒンメルの言葉に、衛兵が言葉を詰まらせた。彼は、自分の頬に触れた。凍りついた涙の跡が、そこにあるような気がした。

「泣いて……いる?」

「ああ。彼女は泣き虫でね。放っておくと、世界を巻き込んで拗ねてしまう。だから、誰かがハンカチを差し出してあげないと」

ヒンメルは衛兵の制止を振り切り、氷の境界線へと踏み出した。

衛兵が慌てて手を伸ばそうとする。「待て、死ぬぞ!」と叫びながら。

だが、レムが静かにその前に立ちはだかる。モーニングスターの鎖が、チャリと音を立てた。

「お下がりください。彼を止められるのは、彼自身だけです」

レムの青い瞳が、衛兵を射竦める。その隙に、ヒンメルは氷の領域へと足を踏み入れた。

瞬間。世界が変わった。

外気とは比較にならない、極寒の暴風。肺の中の空気が一瞬で凍りつき、内側から肺胞を突き破ろうとする。皮膚が悲鳴を上げる。露出した肌が、焼けるように熱く感じた直後、感覚を失っていく。

「ぐ、ぅ……ッ!」

ヒンメルは膝をつきそうになった。

魔力だ。濃密すぎる魔力が、物理的な質量を持って押し寄せてくる。

これは魔法ですらない。ただの魔力放出(オーラ)。フリーレンという規格外の魔導士が、感情の制御を失い、その身に余る魔力を垂れ流しているだけの現象。

それだけで、天候が変わり、都市機能が麻痺する。

改めて思い知らされる。彼女がいかに強大で、いかに人外の存在であるかを。

そして、そんな彼女が、なぜこれほどまでに乱れているのかを。

(……きっと、僕がいないからだ)

ヒンメルは、凍りつく睫毛を瞬かせ、前を見た。

彼女は、覚えていない。ヒンメルという勇者のことを。この世界で再会した彼を、彼女は「知らない人間」として認識している。

だが、記憶が消えても、魂に刻まれた「穴」は消えない。彼女の千年の孤独を埋めた、たった十年の記憶。エルフの長い寿命からすれば一瞬の、しかし永遠のような輝きを持った時間。

それがごっそりと抜け落ちた状態で、彼女の魂はバランスを保てていないのだ。

何かが足りない。何かがおかしい。

その違和感が、喪失感が、彼女自身も理解できない悲しみとなって、この暴走を引き起こしている。あまりにも自分に都合の良い想像。でも、これは確信だ。彼女は僕に助けを求めている。

言葉にできない悲鳴が、この氷の嵐なのだ。

(……待っていてくれ、フリーレン)

ヒンメルは、感覚のなくなった足に力を込めた。

死の恐怖。痛みの記憶。それらが脳内でサイレンのように鳴り響いている。

『引き返せ』『死ぬぞ』『今度こそ魂まで砕けるぞ』

生存本能が叫んでいる。生物としての警鐘がガンガンと頭を殴る。

だが、ヒンメルは笑った。引きつった、凍りついた笑顔で、自分自身を鼓舞する。

「寒いのは苦手なんだけどね。……でも、君が一人で震えているなら、話は別だ」

一歩。また一歩。

勇者ヒンメルは、氷の嵐の中を進んでいく。その背中は、かつて魔王城へ向かった時よりも、ずっと小さく、そして遥かに偉大だった。

***

中心部、凍りついた宿屋の屋根の上。

フリーレンは、体育座りで空を見上げていた。銀色の髪が風になびき、その周囲には数え切れないほどの魔法陣が展開され、複雑な幾何学模様を描きながら回転している。金色の光を放つ幾何学模様。

それらは彼女の意思ではない。彼女の魔力が勝手に溢れ出し、世界を解析し、拒絶し、結界を構築しているのだ。

(……寒い)

フリーレンは、ぼんやりと思った。身体は寒くない。防寒の魔法は常時発動しているし、そもそもエルフの肉体は人間よりも環境適応能力が高い。

けれど、寒い。

胸の奥、心臓の裏側あたりに、ぽっかりと空いた風穴がある。そこから、冷たい風が吹き込んでくる。

(どうして?)

昨日、変な人間に会った。私のことを知っているという、青い髪の男。変質者。不審者。敵。

そう判断して追い払ったはずなのに、彼の顔が頭から離れない。彼が泣きそうな顔で笑った時、なぜか自分の胸が締め付けられた。彼に杖を向けた時、なぜか手が震えた。

知らないはずなのに。あんな顔、見たことないはずなのに。

「……解析、不能」

フリーレンは呟く。目の前に浮かぶ魔法陣の解析結果は、すべて「エラー」を示している。

この世界そのものが歪んでいるのか。それとも、私の記憶が破損しているのか。

わからない。わからないことが、こんなに不安だったことはない。

師匠フランメが死んだ時とも違う。一人で旅をしていた数百年の時間とも違う。何かが、決定的に欠けている。

私の旅は、ハイターとアイゼンとの三人旅だった。それは間違いない事実のはずだ。私の記憶にある映像は、そう告げている。

それなのに、思い出す旅の風景には、いつも「不自然な空白」がある。ハイターが誰かにツッコミを入れている空間。アイゼンが誰かを肩車しているような手の位置。私が、くだらない魔法を見つけた時に、一番最初に見せようと振り返る先。

そこには、誰もいない。

誰もいないはずなのに、誰かがいたような「温度」だけが残っている。そこにあったはずの笑顔が、言葉が、塗りつぶされている。

「……気持ち悪い」

フリーレンは膝に顔を埋めた。涙がこぼれた。自分が泣いていることにも気づかないまま、雫は頬を伝い、顎から落ちて、屋根瓦の上で宝石のような氷粒に変わる。

悲しい。寂しい。帰りたい。どこへ?

あの、木漏れ日の差す、穏やかな時間へ。でも、そこには誰がいたの?

感情の揺らぎに合わせて、魔力が爆発的に膨れ上がる。防御本能が過剰に働き、周囲の空間を絶対凍結領域へと書き換えていく。

誰も来ないで。誰も私を見ないで。

この訳のわからない悲しみを、誰にも触れさせたくない。

その時。氷の結界の向こうから、誰かの気配が近づいてくるのを感じた。

騎士たちの粗雑な魔力ではない。もっと微弱で、儚くて、今にも消えそうな命の灯火。けれど、その灯火は、決して揺らぐことなく、一直線にこちらへ向かってくる。

(……また、あの人?)

フリーレンは顔を上げた。吹雪の向こう、白く霞む視界の中に、青い影が見えた。昨日の男だ。

なぜ、まだ来るの。私は貴方を殺そうとしたのに。貴方は私にとって、ただのノイズなのに。

「……来るな」

フリーレンは杖を握った。意思とは裏腹に、迎撃術式が自動起動する。無数の氷の槍が虚空に生成され、侵入者へと狙いを定める。

それはルグニカの魔法使いが使うような、生易しい氷柱ではない。質量と硬度、そして貫通力を極限まで高められた、兵器としての氷。

私の領域を侵さないで。私のこの、大切な「空白」を、土足で踏み荒らさないで。

ヒュン、と音がして、氷の槍が射出された。手加減はない。当たれば死ぬ。

それでも男は止まらない。彼は、まるでダンスを踊るように、最低限の動きで槍を躱した。地面を転がり、雪を蹴り、ボロボロになりながらも前へ進む。

その動きには、迷いがなかった。

なぜ?なぜ、そこまでして?

***

死ぬかと思った。ヒンメルは、建物の影に滑り込み、荒い息を吐いた。左腕の感覚がない。かすめた氷の礫が、皮膚を裂き、神経を麻痺させているようだ。袖口から覗く肌は赤黒く変色し、そこから流れる血もすぐに凍りついていく。頬からは血が流れているが、すぐに凍りついて赤い氷柱になっている。

(……相変わらず、容赦がないな、フリーレン)

苦笑いしようとして、顔面が凍りついていることに気づく。

彼女の魔法は、美しい。無慈悲なほどに正確で、無駄がない。かつて魔王軍と戦った時、その魔法は頼もしい味方だった。だが、敵に回すとこれほど絶望的なものはない。

予備動作がほとんどない。視線だけで照準を合わせ、呼吸をするように致死性の魔法を放ってくる。

今のヒンメルには、加護も、聖剣の輝きもない。寒さでなけなしの身体能力さえも発揮できない。あるのは、薄っぺらな鉄の剣と、何度も死んで覚えた「痛みへの耐性」だけ。そして、何よりも重い「死の記憶」という足枷。

それでも、進まなければならない。

「ヒンメル様……ッ!」

背後から、悲鳴のような声が聞こえた。レムだ。彼女は鉄球を振り回し、ヒンメルを狙う氷柱を粉砕しながらついてきている。彼女のメイド服もあちこちが裂け、白い肌が血に濡れている。鬼の治癒力を持つ彼女でさえ、この高濃度の魔力による傷は治りが遅いようだ。傷口が青白く光り、再生を阻害している。

「レム、君はここで待っているんだ。ここから先は、僕一人で行く」

「嫌です! 死にます! 人間が耐えられる魔力濃度じゃありません!」

「だからこそ、だよ。……君まで失うわけにはいかない」

ヒンメルは振り返り、レムの青い瞳を見つめた。彼女の瞳には、恐怖と、それ以上の献身が宿っている。

彼女は知っているのだ。この先に行けば、ヒンメルが本当に「壊れて」しまうかもしれないことを。肉体だけでなく、その魂までもが。

それでも、ヒンメルは首を横に振った。

「これは、僕と彼女の問題だ。……それに、安心してくれ。僕はこれでも勇者だ。君のような可愛い女の子を悲しませるような死に方はしないと決めている」

ウィンクを送る。瞼が重い。視界が霞む。死の淵にいる人間の表情ではない。

それでも、その仕草は完璧にキザで、完璧にヒンメルらしかった。

レムは唇を噛み締め、涙を溜めた瞳で、けれど力強く頷いた。

「……必ず、戻ってきてください。レムは、ここで待っていますから」

「ああ、約束する」

ヒンメルは再び、吹雪の中へと飛び出した。

宿屋は目の前だ。屋根の上に、白い人影が見える。風に煽られる銀髪。華奢な肩。世界を拒絶するように膝を抱える、小さな魔女。

「フリーレン!」

ヒンメルは叫んだ。喉が裂けそうだった。声帯が凍りつき、血の味が口の中に広がる。風音にかき消されそうな声を、必死に張り上げる。

「降りておいで! そんな高いところじゃ、身体が冷えてしまうよ!」

フリーレンが、ゆっくりとこちらを見下ろした。その瞳は、無機質で、がらんどうだった。まるで昆虫を見るような目。

彼女が杖を振るう。巨大な魔法陣が展開される。ゾルトラークではない。もっと広範囲を、質量で圧殺する重力魔法だ。

空気が軋む音。重力が歪み、空間そのものが悲鳴を上げる。

死の予感。

(……ああ、これは避けられないな)

ヒンメルは悟った。今の自分の身体能力では、この範囲攻撃からは逃れられない。直撃すれば、肉片すら残らないだろう。

死に戻るか? ここで死んで、朝の路地裏からやり直すか?

いや、駄目だ。何度やり直しても、彼女の心に触れなければ、この暴走は止まらない。逃げてはいけない。彼女の孤独から、目を逸らしてはいけない。

受け止めなければならない。彼女の絶望を。彼女の殺意を。

それが、彼女を一人残して死んでしまった、僕の罪滅ぼしだ。

ヒンメルは足を止め、剣を捨てた。カラン、と乾いた音が響く。

そして、両手を広げた。

無防備に。まるで、久しぶりに会った友人をハグするかのように。

「撃っていいよ、フリーレン」

彼は呟いた。その声は、届かないかもしれない。けれど、彼は言葉を紡ぐ。

「君が忘れてしまっても、君の魔法は覚えているはずだ。……僕が、君の魔法を一番近くで見てきた男だってことを」

魔法が発動する。圧倒的な圧力。上空から、不可視のハンマーが振り下ろされる。大気が破裂し、地面が陥没する。

だが、その直前。

ヒンメルの身体から、どす黒く、それでいて青白い光が溢れ出した。

ヒンメルにはわかった。

それは彼が何度も死をくぐり抜けるたびに纏ってきた、濃厚な「死の匂い」。あるいは、彼をこの世に縛り付けている「呪い」の光。

それが、フリーレンの純粋な魔力と接触し、化学反応を起こす。

バチィッ!!

強烈な閃光が弾けた。フリーレンの重力魔法が、ヒンメルの直上で霧散する。

相殺されたのではない。魔法そのものが、「対象を認識できない」というエラーを起こして崩壊したのだ。

ヒンメルという特異点は、世界の理からも、魔法の理からも外れた場所にいる。死ぬべき人間が死なず、時を遡るという矛盾。その矛盾塊(バグ)が、理路整然とした魔法式を食い破ったのだ。

「……え?」

屋根の上で、フリーレンが目を見開いた。彼女の完璧な計算が、また狂った。なぜ、死なない。なぜ、あんな無防備な姿で、私の魔法を無効化できる。

ヒンメルは膝から崩れ落ちそうになるのを堪え、屋根を見上げた。鼻からツーと血が流れる。耳からも出血している。あれほどの魔法を消せた理由は、わからない。でも、魔法を無効化した代償として、彼の神経は焼き切れんばかりの負荷を受けていた。

全身の骨がきしむ。内臓が雑巾のように絞られる感覚。

それでも、彼は笑った。血に濡れた顔で、最高の笑顔を作った。

「当たり前だろう。……勇者が、仲間の魔法で死ぬわけがない」

彼は、よろめきながらも一歩を踏み出した。壁に手をかけ、凍りついた雨樋に足をかける。登るつもりだ。あの屋根の上へ。彼女の隣へ。

「しつこい……!」

フリーレンの声に、初めて感情が混じった。焦り。恐怖。理解できない存在への忌避感。

彼女は杖を構え直す。次々と放たれる魔法の光弾。

ヒンメルはそれを、紙一重で、あるいは肉を切らせて骨を断つ覚悟で受けながら、登っていく。肩を撃ち抜かれる。足が凍りつく。皮膚が剥がれ落ちる。あの不気味な再生力がなければ、とっくに凍った肉塊になっていたはずだ。

痛い。痛い。痛い。痛い。

脳内で誰かが叫んでいる。『死ぬぞ』『やめろ』『もう楽になろう』

それでも止まらない。その姿は、もはや人間ではない。ゾンビだ。死に損ないの亡霊だ。ただの執念だけで動く肉人形。

だが、その瞳だけは、青く澄み渡っていた。その瞳だけが、人間としての尊厳を保っていた。

「どうして……どうして、そんなに……!」

フリーレンの叫びが、吹雪を切り裂く。

彼女にはわからない。なぜ、この見知らぬ男は、ボロボロになりながら私に近づくのか。なぜ、そんなに悲しそうに、愛おしそうに私を見るのか。

その視線が、私の胸の「空白」を刺激する。痛い。思い出せないのに、痛い。涙が止まらない。

「君が、泣いているからだ!」

ヒンメルは叫んだ。屋根の淵に手をかける。指の爪が剥がれ、血が瓦を濡らす。

彼は最後の力を振り絞り、身体を引き上げた。

屋根の上。吹き荒れる魔力の中心。二人は対峙した。 千年を生きるエルフの魔法使いと、死を繰り返す人間の元勇者。

「来ないで」

フリーレンは後ずさる。その瞳には、明確な怯えが浮かんでいた。昨夜の無関心さも、先ほどの殺意も消えている。そこにいるのは、ただ訳のわからない現象に怯える、一人の少女だった。

「思い出せないの」

彼女の声が震える。

「貴方が誰なのか」

杖を持つ手が下がる。

「なんでこんなに胸が痛いのか……わからないの! 私の時間は、もっと静かで、何も変わらないはずなのに!」

彼女の悲鳴が、氷の城に反響する。 記憶にない男。けれど、魂が拒絶しながらも求めてしまう矛盾した存在。その負荷が、彼女の精神を限界まで追い詰めていた。 彼女は杖を握りしめ、小さく身を震わせている。これ以上近づけば、彼女の心が壊れてしまうかもしれない。

ヒンメルは足を止めた。呼吸を整える。肺が凍りつきそうだ。血の流失で視界が明滅している。立っているだけで精一杯だった。 だが、彼はここで倒れ込むことを選ばなかった。ここで立ち止まれば、彼女はまた、永遠に続く孤独な時間の中に閉じこもってしまうだろう。

かつて、森の奥で世捨て人のように暮らしていた彼女を連れ出した時のように。 今、凍りついた彼女の時間を、もう一度無理やりにでも動かさなければならない。

ヒンメルは、ゆっくりとその場に跪いた。屋根瓦の上、泥と氷と、自分の血にまみれた場所に。 剣を持たない左手を、胸に当てる。 そして、右手をおずおずと、しかし確信を持って差し出した。

「手を取れ、フリーレン」

フリーレンは動かない。だから、強引にその手を握る。

それは、ただの握手ではなかった。 立ち止まっている者を、未知の世界へとエスコートするための手。 平穏という名の停滞に甘んじていたエルフの少女を、騒々しくも輝かしい冒険へと引きずり出した、あの日の再現。

フリーレンが、動きを止める。 デジャヴ。見たことのないはずの光景が、脳裏にフラッシュバックする。 木漏れ日。風の音。そして、『冒険に出よう』と無邪気に笑った青年の、強引で、どこまでも眩しい姿。

ヒンメルは、震える彼女のもう一つの手を、氷と血で汚れた手で力強く掴んだ。 冷たい。震えるその小さい手は氷のように冷たい。 けれど、ヒンメルは決して離さない。その熱で、彼女の凍てついた時間を溶かすように。

「君が旅立つきっかけは、この僕だ。」

ヒンメルは言った。かつてと全く同じセリフを。 けれど、その声色は、若き日の自信に満ちた響きに加え、彼女の未来を誰よりも信じ抜く、王のような威厳を帯びていた。

「君が忘れても構わない。何度だって、僕が君を連れ出す。……こんな冷たい場所で立ち止まっているのは、君には似合わない」

その言葉は、呪文よりも強く、彼女の魂の芯を震わせた。 「旅立ち」。 その響きが、彼女の中で止まっていた時計の針を、カチリと押し進めた。

フリーレンの瞳から、大粒の涙が溢れ出した。意味はわからない。なぜ涙が出るのかもわからない。 ただ、その汚れた手に引かれる感覚が、どうしようもなく「正しい」ことだと理解してしまった。 ここではないどこかへ。この寂しい銀世界ではなく、もっと色彩に溢れた場所へ、この男なら連れて行ってくれるという予感。

魂の空白に、パズルのピースがカチリと嵌る音がした。

ピキリ、と音がした。フリーレンの心を、そして王都を覆っていた分厚い氷に、亀裂が入る音だった。

パリンッ――!!

次の瞬間、世界を閉ざしていた氷の結界が、一斉に砕け散った。無数の氷片が、ダイヤモンドダストとなって空へ舞い上がる。重く垂れ込めていた灰色の雲が割れ、そこから突き抜けるような青空が広がっていく。 太陽の光が、二人に降り注ぐ。 それは、新たな旅の始まりを告げる夜明けの光のようだった。

光の中で、フリーレンは呆然とヒンメルを見つめていた。記憶は戻らない。彼が誰なのか、やはりわからない。 けれど、繋がれた手から伝わる熱だけが、彼女に「進め」と命じていた。

「……変な人」

「そして、イケメンだろう?」

ヒンメルは、力尽きそうになる意識を必死に繋ぎ止めながら、それでも最高に格好いい笑顔を彼女に向けた。

 

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