王都ルグニカを覆い尽くしていた氷結の城は、朝日の訪れとともに跡形もなく消え去っていた。
昨夜、フリーレンの感情の爆発によって引き起こされた猛吹雪が嘘のように、窓の外には初夏の爽やかな日差しが降り注いでいる。小鳥のさえずり。馬車の車輪が石畳を叩く音。商人たちの活気ある声。世界は、何事もなかったかのように「日常」を取り戻していた。
けれど、ヒンメルにとっての朝は、依然として死の冷たさの中にあった。
王都の宿屋の一室。ヒンメルは鏡の前に立ち、自身の顔を見つめていた。
「……よし。今日も僕は、涙が出るほど美しいな」
指先で前髪を払い、口角を上げる。鏡の中の男は、蒼い髪をなびかせ、自信に満ちた笑みを浮かべている。完璧だ。どこからどう見ても、物語の主人公たる勇者の顔をしている。
昨日は死んでいない。フリーレンを止め、生き延びた。だというのに、その笑顔を作っている皮膚の下で、筋肉が微かに痙攣していることを、ヒンメルだけが知っていた。
シャツのボタンを留める指が、小刻みに震えている。
寒い。
部屋には暖かな陽光が差し込んでいる。気温は快適そのものだ。物理的な寒さなど、微塵も残っていない。だが、骨の髄に染み込んだ「かつての死」の記憶が抜けない。
(落ち着け。……落ち着くんだ、ヒンメル)
心の中で、呪文のように繰り返す。恐怖を飼い慣らせ。震えを殺せ。お前は勇者だ。誰よりも強く、気高く、そしてナルシストでなければならない。
そうでなければ、隣にいる彼女が不安がってしまうだろう?
「……ヒンメル、遅い」
不意に、背後から平坦な声がかかった。ヒンメルは弾かれたように振り返る。そこには、ベッドの上でちょこんと座り込んだエルフの少女――フリーレンがいた。彼女は眠たげな目をこすりながら、じっとこちらを見つめている。
「やあ、すまないねフリーレン。僕の美しさが鏡を離してくれなくてね。身支度に手間取ってしまったよ」
ヒンメルは軽口を叩きながら、彼女に近づいた。フリーレンは首を傾げる。
「……変なこと言ってる。ハイターみたい」
「ハイター……。彼のことは覚えているんだね」
「当たり前でしょ。あんな生臭坊主、忘れようがないよ。……アイゼンの石頭も」
フリーレンは淡々と言った。そう、彼女の記憶は喪失しているわけではない。師匠フランメのことも、腐れ縁の生臭坊主のことも、頑固なドワーフのことも覚えている。彼女の千年の旅路の記憶は、鮮明に残っているのだ。
ただ一つ、「勇者」の席だけが、黒く塗りつぶされたように空席になっていた。
「でも、おかしいんだよね」
フリーレンは膝を抱え、自分のつま先を見つめた。
「私の記憶の中にある冒険譚。……ハイターがいて、アイゼンがいて、私がいる。でも、一番前を歩いていたはずの誰かが、思い出せないの」
「…………」
「写真の顔が切り抜かれているみたいに、そこだけ真っ白。……気持ち悪い」
彼女は眉をひそめ、自分のこめかみを指先で突いた。本来なら、そこにいるはずのヒンメルの存在が、ごっそりと抜け落ちている。それが、彼女にとっては耐え難い「違和感」となっていた。
彼女はベッドから降りると、ペタペタと裸足でヒンメルに歩み寄り、その胸元に顔を近づけた。スンスン、と匂いを嗅ぐ。
「……やっぱり」
「どうしたんだい? 僕からいい匂いでもするかい? 王都で一番高い香水を使ったつもりなんだけど」
「違う。……匂うの」
フリーレンは顔を上げ、ヒンメルの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「君が誰なのか、やっぱりわからない。名前はヒンメルって言うんでしょ? 聞いたことない名前」
残酷な言葉だった。けれど、ヒンメルは微笑みを崩さない。
「でも、君の匂いは知ってる気がする」
「匂い?」
「うん。……古くて、懐かしくて、ちょっと埃っぽい、書庫みたいな匂い。あと、陽だまりの匂い。……私の記憶の『空白』と同じ匂いがする」
彼女はそう言うと、無防備にヒンメルの腰に抱きついた。ドキン、とヒンメルの心臓が跳ねる。彼女の体温が、シャツ越しに伝わってくる。
ヒンメルの中にある「死の冷気」と、彼女の「生きた体温」が触れ合い、じわりと境界が溶けていく。
「この匂いのそばにいると、落ち着く。……君がきっと、その空白を埋めてくれる気がする。だから、離れないで」
それは、本能からの懇願だった。記憶を失ってもなお、彼女の魂は知っているのだ。この男こそが、自分の人生の欠けたピースなのだと。
そして、彼女が感じている「匂い」の正体が、彼女自身の魔力の残滓――彼をこの世界に繋ぎ止めている呪いの痕跡だということは、彼女自身も、そしてヒンメルでさえも知る由もなかった。
ただ、二人にとってそれは「懐かしい絆の証」として感じられていた。
「ああ、離れないよ。君が嫌だと言っても、僕は君のそばにいる。それが勇者の務めだからね」
「……また変なこと言ってる」
フリーレンは胸元に顔を埋めたまま、むぐむぐと言った。
その時、控えめなノックの音が響いた。
「ヒンメル様、フリーレン様。……入ってもよろしいでしょうか」
レムの声だ。ヒンメルが返事をすると、扉が静かに開かれた。そこには、真新しいメイド服に身を包んだレムが立っていた。
その表情は努めて平静を装っているが、目の下には薄っすらと隈があり、顔色は紙のように白い。彼女だけが、ヒンメルから漂う「魔女の残り香」――死に戻りのたびに濃くなる瘴気を感じ取っている。
「おはよう、レム。いい天気だね。昨日の嵐が嘘のようだ」
「……はい。本当に、嘘のようです」
レムは部屋に入ると、素早く扉を閉め、鍵をかけた。そして、ヒンメルに近づくと、心配そうに彼の顔を覗き込んだ。彼女の青い瞳が、ヒンメルの作り笑顔の裏側を探ろうとする。
「お身体の具合は、いかがですか。……ヒンメル様の手、震えています」
「武者震いさ。これから大事な商談があるからね」
ヒンメルは手を隠すように組んだ。レムはそれ以上追求しなかったが、悲しげに目を伏せた。彼女は知っている。ヒンメルがただの楽天家ではなく、何か巨大な闇と戦い続けていることを。その体から発せられる、甘く腐ったような瘴気が、それを物語っているからだ。
それでも、彼女はその瘴気ごと、彼を受け入れていた。
「……ご無理だけは、なさらないでください」
「ありがとう、レム。君の淹れてくれる紅茶があれば、僕はどんな地獄でも歩いていけるよ」
ヒンメルは彼女の肩をポンと叩くと、表情を引き締めた。
「さて、行こうか。今日は大事な商談がある。……相手は、次期国王候補の筆頭、クルシュ・カルステン公爵だ」
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王都の大通りを行く竜車の中で、ヒンメルは揺られながら思考を巡らせていた。窓の外では、穏やかな日常の風景が流れていく。
目的は「白鯨」の討伐。この世界を脅かす三大魔獣の一角。あの規格外の魔獣を倒すことができれば、フリーレンも自分を思い出してくれるかもしれない。それは今の自分にとって最大の願いであり、フリーレンにとっても絶対に必要なことなのだと信じている。それに……エミリアの王選における立場を強化するためにも、そして何より、人々の安寧のためにも、あの怪物は放置できない。
だが、軍事力を有するクルシュ陣営との同盟が不可欠だ。問題は、どうやって「白鯨が出現する」と信じさせるかだ。今のヒンメルには、未来を知る術はない。昨日のループでも、白鯨には遭遇していないのだから。
「……で、なんで私がついていかなきゃいけないの」
対面に座るフリーレンが、不満げに口を尖らせた。彼女は膝の上に分厚い魔導書(この世界の古書店でヒンメルが買い与えたものだ)を広げている。
「君が必要だからだよ、フリーレン。君の知識と、その圧倒的な魔力解析がね」
「ふーん。……君のこと、覚えてないのに?」
「覚えていなくても、君の解析能力は世界一だ。そうだろう?」
「……む」
フリーレンは少し顔を赤くして、視線を逸らした。
「まあ、いいけど。……それで、あの大きなクジラの話?」
「ああ。僕たちは、白鯨が現れる時間と場所を特定し、それを材料にクルシュ公爵と交渉する。君が導き出したロジックを、もう一度確認させてくれないか」
ヒンメルは手元の羊皮紙を広げた。そこには、フリーレンが昨晩、気まぐれに書き殴った「計算式」が記されている。ヒンメルが頼んだのは、「巨大な魔獣を見つける方法」ではない。「世界のマナの不自然な欠損を見つける方法」だ。
「簡単だよ。……この世界の魔力(マナ)は、大気中を満たす空気みたいなもの」
フリーレンは魔導書を閉じ、淡々と説明を始めた。ヒンメルを見る目は冷ややかだが、魔法理論を語る時だけは、かつての知的な表情に戻る。
「君の話だと、その『白鯨』は『消滅の霧』を出すんでしょ? 存在を消す霧」
「ああ、そうだ」
「存在を消すっていうのは、魔法的に言えば『マナの完全還元』か『因果の切断』にあたる。どちらにせよ、周囲のマナを大量に喰らって、その排泄物として『虚無』を撒き散らす行為だよ」
フリーレンの指が、地図上のルグニカ全土をなぞる。彼女の解説は、この世界の魔法体系とは根本的に視点が異なっていた。彼女は魔法を「神秘」ではなく「構造」として捉えている。
「普通の魔獣なら、マナの反応(ホットスポット)を探せばいい。でも、こいつは逆。マナが不自然に『消えている』場所を探せばいいの」
彼女が指差したのは、フリューゲルの大樹が聳える平原だった。
「ここ数日、風に乗って流れてくる微細なマナの残滓を解析した。このルートで、帯状にマナの空白地帯(ヴォイド)ができてる。まるで、見えない掃除機が空を通ったみたいに」
「なるほど。その掃除機の移動予測が、この場所というわけか」
「うん。フリューゲルの大樹は、この大陸でも有数のレイライン(地脈)の結節点。お腹を空かせた鯨が食事をするなら、一番マナが濃い場所を目指すのは生物として当然の帰結だよ」
「……すごいな」
ヒンメルは感嘆した。予知能力ではない。圧倒的な観察眼と、魔法生物学に基づいたプロファイリング。これなら、合理主義者であるクルシュを説得できる。魔法的な「根拠」があるのだ。
同時に、どうしても気づいてしまう。
彼女が記憶よりも、はるかに強力な魔法使いになっているということを。
「ありがとう、フリーレン。君はやはり天才だ」
「……ふん。褒めても何も出ないよ。終わったら、約束のモンブランだからね」
「わかっているとも。王都中のモンブランを買い占めてもいい」
ヒンメルは苦笑しながら、しかし内心では強く拳を握った。いける。この理論は完璧だ。あとは、この武器をどう使いこなすか。相手は百戦錬磨の公爵だ。生半可な覚悟では、食い殺される。
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カルステン公爵邸の応接室は、極めて重苦しい空気に満ちていた。それはただの緊張感ではない。明確な「警戒」と「畏怖」が混じった空気だ。
対面に座るクルシュ・カルステン、そして彼女を守るように控えるヴィルヘルムとフェリス。
彼らの視線は、『初めて会ったばかりの』ヒンメルではなく、その隣で退屈そうにあくびを噛み殺しているエルフの少女に注がれていた。
「……よくぞ、私の屋敷に来れたものだ、勇者ヒンメル殿」
クルシュが低い声で切り出した。その瞳は、爆発物を扱うかのような慎重さで見開かれている。
「そこにいる少女……昨夜、王都を氷漬けにした『災厄』の本人を連れてくるとはな。騎士団ですら結界を破れず、手出しできなかった怪物だ。……正気か?」
昨日の騒動は、当然ながら彼女の耳にも入っている。いや、耳に入るどころではない。王都中を揺るがした異常事態の中心にいたのが、この小柄な少女であることを、彼らは知っているのだ。
フェリスに至っては、全身の毛を逆立ててフリーレンを威嚇している。
「誤解しないでいただきたい、クルシュ様。彼女は災厄ではありません。少しばかり、感情表現が豊かなだけの、僕の大切な仲間です」
ヒンメルは優雅に紅茶を啜りながら、平然と言ってのけた。クルシュが眉をひそめる。
「感情表現で天候が変わってたまるか。……まあいい。ロズワール殿の代理人であるレム殿の口添えもあることだ。その規格外の戦力を連れてきたということは、それ相応の話があるということだろう」
「ご明察の通りです。単刀直入に言おう。――『白鯨』を討ちませんか」
その単語が出た瞬間、空気が凍りついた。特に、背後に控えるヴィルヘルムの殺気が爆発的に膨れ上がる。しかし、ヒンメルは動じない。
「白鯨が現れる時間と場所を提供する。代わりに、討伐のための戦力を貸してほしい」
「……荒唐無稽だな」
クルシュは冷ややかに吐き捨てた。
「四百年間、誰もその出現を予測できなかった魔獣だ。それを、ぽっと出の自称勇者が知っていると? 何の根拠があって?」
「根拠は、彼女の計算です」
ヒンメルは羊皮紙をテーブルに広げた。そこには、フリーレンが書き記した複雑怪奇な数式と、マナの流動図が描かれている。
「彼女が導き出したのは予言ではありません。物理的、魔法的な観測データに基づいた『解』です。白鯨は明日の夜半、フリューゲルの大樹に現れる」
「計算……だと?」
クルシュは羊皮紙に目を落としたが、そこに書かれているのは見たこともない体系の魔法言語だった。
「信じられませんね。ただの出鱈目を並べて、我々を動かそうとしている可能性が高い」
「クルシュ様。貴女は『風見の加護』をお持ちだ。僕の言葉に嘘がないか、風に訊いていただければわかるはずです」
「……卿が『嘘をついていない』ことはわかっている。だが、狂人は自分の妄想を真実と信じ込むものだ。卿がそうだという保証はない」
もっともな反論だった。ヒンメルが信じていても、その根拠となるフリーレンの計算が間違っていれば意味がない。そして、今のクルシュにとって、フリーレンは「制御不能な破壊兵器」には見えても、「緻密な計算を行う知性派」には見えていない。
「証明しましょう」
ヒンメルは隣のフリーレンに視線を送った。
「フリーレン。君の『解析』がどれほど正確か、彼らに見せてあげてくれないか」
「……えー。面倒くさい」
「モンブラン、二つ追加で」
「……わかった」
フリーレンはだるそうに身を起こすと、クルシュを、そして部屋全体をじっと見回した。その瞳の奥で、何かが煌めいた気がした。
「……ここの空気、マナの流れが面白いね」
フリーレンが呟く。
「外の風精霊(シルフ)たちが騒いでる。……上空三千メートルで、微細な魔力乱流が発生した」
「何?」
クルシュが怪訝な顔をする。フリーレンは窓の外を指差した。
「計算完了。……あと五秒で、庭の風向きが北北西から北へ、角度にして十二度変わる。それに合わせて、窓枠が二回、カタ、カタって鳴るよ」
「は……?」
あまりに些細で、あまりに具体的な予言。クルシュは風を読む加護を持つ。今の風向きは確かに北北西だ。そして、今は安定している。変わる予兆など――
「4、3、2、1……」
フリーレンがカウントを終えた、その瞬間。
ヒュオオオッ……
庭の木々が大きく揺れた。クルシュの加護が、風の急激な変化を感知する。その角度、強さ、すべてがフリーレンの言葉通り。
カタ、カタ。
そして、風圧に押された窓枠が、乾いた音を二回立てた。
「……なッ!?」
ヴィルヘルムが目を見開き、フェリスが口をあんぐりと開けた。魔法を使ったのではない。彼女はただ、座っていただけだ。膨大な大気のマナの動き、遥か上空の気流、建物の構造、それらすべてを瞬時に演算し、数秒後の未来を「計算」したのだ。
「風を読む加護を持つ貴女なら、今の予測の正確さがわかるはずだ」
ヒンメルは静かに告げた。
「彼女が見ているのは、未来ではありません。『現在』の究極的な解析結果としての、必然の未来です。……白鯨という巨大な質量が動けば、マナの海には必ず波が立つ。彼女には、それが見えている」
クルシュは、震える手で扇子を握りしめた。彼女自身、風を読むことには自信があった。だが、これほどの精度で、物理現象まで含めて風を読み切るなど、人知を超えている。
この少女は、ただの破壊兵器ではない。魔法という理(ことわり)そのものを支配する、演算の怪物だ。
「……信じよう」
クルシュは深く息を吐き、ヒンメルを見据えた。
「その少女の解析能力、そしてそれを使いこなす貴公の度量。……賭けるに値する」
彼女が立ち上がり、手を差し出す。
「全軍をもって、白鯨を迎え撃つ。カルステン公爵家の名にかけて」
「感謝します、クルシュ様」
ヒンメルはその手を握り返した。心臓の震えは止まらない。だが、その手は温かく、力強かった。
「さあ、英雄の時間(ショータイム)だ。……あの空飛ぶ化け物に、引導を渡してやろうじゃないか」