ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

3 / 38
冷たい果実

熱かった。

焼けた鉄柱を、生きたまま腹の中に突き刺されたような熱だった。

肉が裂けるというよりは、熱量によって組織が蒸発していくような感覚。

骨が砕ける音は、自分の体内から響く不快な振動として脳髄に直接伝わってきた。

視界が赤い。

朱色ではない。鮮烈で、残酷なほどに混じりけのない深紅。

それが視界の全てを覆い尽くしていた。

息ができない。

喉の奥から溢れ出してくるのは空気ではなく、生温かい液体と、ごぼりという不快な泡の音だけだ。

痛い。

痛い痛い痛い痛い痛い痛い。

勇者として数多の戦場を潜り抜けてきた。

魔族の放つ腐食魔法を受けたこともある。

ドラゴンの爪にかすり傷を負わされたこともある。

だが、これは違う。

これは、「死」そのものだ。

生命活動を強制的に停止させるための、圧倒的な暴力による破壊。

意識が遠のく。

指先の感覚が消える。

地面の冷たさが頬に触れているはずなのに、それすら感じない。

ただ、最後に見た光景だけが網膜に焼き付いている。

――涙で顔をぐしゃぐしゃにして、僕の名前を叫ぶフリーレンの顔。

ああ、泣かないでくれ。

君のその顔を見るのが、この耐え難い激痛の中で唯一、僕の心を抉る痛みだ。

ごめん、フリーレン。

約束した冒険の終わりまで、連れて行ってあげられなくて。

君に、あの言葉を伝えられなくて。

暗闇が落ちてくる。

思考が断絶する。

僕は、勇者ヒンメルは、ここで終わ――

________________________________________

「――らっしゃい! 赤いのと青いの、どっちにするんだい?」

唐突に、光が炸裂した。

網膜を焼くような白い光。

鼓膜を叩く、野太い男の声。

そして、鼻腔をくすぐる甘酸っぱい果実の香り。

「……は?」

ヒンメルの口から、掠れた声が漏れた。

世界が反転していた。

先ほどまでそこにあったはずの、薄暗く埃っぽい盗品蔵の天井はない。

鼻をつく血と臓物の腐臭もない。

冷たい石床の感触も、腹を食い破られるような灼熱の痛みも、消え失せていた。

代わりに目の前に広がっていたのは、活気に満ちた往来と、昼下がりの眩しい太陽。

そして、木箱に山積みにされた大量の果物だった。

「どうした兄ちゃん、鳩が豆鉄砲を食らったような顔して。リンガを買うのか、買わないのか。はっきりしてくれよ。」

目の前に立つのは、顔に大きな傷のある強面の店主だ。

見覚えがある。

いや、知っている。

この男には、つい数時間前に会ったはずだ。この世界――王都ルグニカに到着してすぐ、情報収集のために立ち寄った果物屋の店主。

「……夢?」

ヒンメルは呆然と呟き、自分の腹部を見下ろした。

白いマント。青い衣服。

そこには、一滴の血も付着していなかった。

破れた痕跡すらない。

清潔で、仕立ての良い生地が、昼の光を浴びて白く輝いている。

「……」

ヒンメルは震える手で、自分の腹に触れた。

柔らかい感触。

肋骨の下、筋肉の弾力。

その奥にある内臓の、規則正しい収縮。

傷はない。

どこにも、傷ひとつない。

「あ……、ぅ……」

だが、脳は覚えている。

刃が皮膚を切り裂き、脂肪層を断ち、腹膜を突き破って腸を引きずり出した、あのぬるりとした感触を。

幻痛(ファントム・ペイン)。

存在しないはずの傷口が、記憶の中で熱を持ち、脈打っている。

ヒンメルは反射的に口元を押さえた。

胃の腑から、強烈な酸味がせり上がってくる。

――嘔吐感。

血の味だ。口の中に、鉄錆のような血の味が残っている気がする。

「おいおい、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ。貧血か?」

店主が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。

ヒンメルは大きく息を吸い込み、肺を満たそうとした。

だが、空気は肺に入ってこない気がした。まるで、横隔膜が機能していないかのように、呼吸が浅い。

(落ち着け。落ち着くんだ、ヒンメル。)

彼は心の中で、自分自身に命令を下した。

(これは、なんだ? 走馬灯か? それとも、あの死の間際に見ている願望夢か? 僕はまだ、あの薄暗い倉庫の床で血を流して倒れていて、これは死にゆく脳が見せている都合のいい幻覚なのか?)

そうだ、きっとそうに違いない。

だって、あんなに鮮明だったのだ。

エルザと名乗った女の、愉悦に歪んだ笑顔。

フリーレンの悲鳴。

自分の命が指の隙間から零れ落ちていく感覚。

あれが現実でなくて、何だというのか。

「ヒンメル、どうしたの? 買うの? 買わないの?」

不意に、横から平坦な声がかけられた。

鈴を転がすような、けれど温度のない、聞き慣れた声。

ヒンメルは、弾かれたように横を向いた。

「……フリーレン。」

そこに、彼女はいた。

白いエルフの少女。

長い耳。透き通るような銀髪。そして、感情の読めない緑色の瞳。

彼女は、店先に並べられた赤い果実――リンガを興味なさそうに眺めながら、片手には分厚い魔導書を開いていた。

いつもの姿だ。

あまりにも日常的な、旅の途中の一コマ。

その頬には涙の跡などなく、服も汚れていない。

「……フリーレン、君は……無事、なのか?」

ヒンメルの問いかけに、フリーレンは魔導書から視線を上げ、小首を傾げた。

「無事? 何が? 転んでもいないし、魔物に襲われてもいないけど。」

「いや、でも、さっき……あの女に……」

「あの女?」

フリーレンの瞳には、純粋な疑問だけが浮かんでいた。

演技ではない。

彼女は、本当に知らないのだ。

黒いドレスの殺し屋のことも。

ヒンメルが腹を割かれて死んだことも。

彼女自身が、その死に顔を見て絶叫したことも。

――全て、彼女の記憶には存在しない。

(認識の……断絶。)

ヒンメルは戦慄した。

孤独だ。

これほどまでにフリーレンが近くにいるのに、彼女と僕の間には、決定的な世界のズレがある。

僕だけが、あの地獄を知っている。

僕だけが、死の淵を見て戻ってきた。

「……は、はは。」

乾いた笑いが漏れた。

膝が震えているのがわかる。

立っているのがやっとだ。

世界の解像度が高すぎる。

太陽の光が眩しすぎて、影の黒さが濃すぎる。

道行く人々の話し声、馬車の車輪が石畳を削る音、風が運んでくる様々な匂い。

それら全てが、暴力的なまでの情報量を持ってヒンメルの脳を圧迫する。

生(せい)が、あまりにも鮮やかすぎる。

死の無機質な冷たさを知ってしまった身には、この世界の生命力は毒のように強すぎた。

「ヒンメル?」

フリーレンが、怪訝そうに眉をひそめて近づいてくる。

彼女の視線が、ヒンメルの顔に向けられる。

まずい。

こんな、怯えた子供のような顔を見せてはいけない。

僕は勇者だ。

彼女を導く、余裕と自信に満ちた英雄でなければならない。

ヒンメルは、必死に表情筋に力を込めた。

奥歯を噛み締め、胃からせり上がる吐き気をねじ伏せる。

震える指先を隠すように、前髪をかき上げた。

「……やれやれ。少し、目眩がしただけだよ。この世界の太陽は、僕の美貌に嫉妬して少し張り切りすぎているみたいだね。」

口をついて出たのは、いつもの軽口だった。

だが、その声は上擦り、喉の奥で微かに震えていた。

鏡がなくともわかる。

今の僕の笑顔は、ひきつって、酷く滑稽なものになっているだろう。

けれど、フリーレンはそんなヒンメルの微細な変化を、別の意味で解釈したようだった。

「……お腹、すいたの?」

「え?」

「人間って、お腹がすくと力が入らなくなるんでしょ。さっきから震えてるし。」

フリーレンは、懐から無造作に何かを取り出した。

硬く焼き締められた、黒パンの欠片だ。

「はい。これあげる。」

彼女はそれを、まるで野良犬に餌をやるような手つきで差し出した。

ヒンメルは、そのパンを見つめた。

ただのパンだ。

旅の保存食。味気なくて、硬くて、噛みしめると少し酸っぱい、いつものパン。

だが、それが今は、この世界と自分を繋ぎ止める唯一の現実的な物体のように思えた。

「……ありがとう。」

ヒンメルは、右手を伸ばした。

その手は、やはり震えていた。止めようとしても止まらない。

指先がパンに触れる。

その瞬間、フリーレンの指先にも触れた。

「っ!」

フリーレンが、ビクリと手を引っ込めた。

彼女は驚いたように目を見開き、自分の指先をさすりながら、ヒンメルを見た。

「ヒンメル……手、すごく冷たい。」

「あ……」

「氷の魔法でも触ったの? まるで、死人みたいに冷たいよ。」

死人。

その言葉が、ヒンメルの胸を鋭く刺した。

そうだ。

僕は一度、死んだのだ。

心臓は止まり、血流は途絶え、体温は失われた。

これは、その名残なのだろうか。

肉体は再生しても、魂に刻まれた「死の温度」までは戻らなかったということなのか。

ヒンメルは、自分の掌を見つめた。

血色は良い。健康的な肌色をしている。

だが、感覚がない。

自分の手が、他人の肉片のように思える。

「……ごめん。少し、体が冷えてしまったみたいだ。」

ヒンメルは、努めて穏やかに微笑んだ。

その笑顔を作るために、どれだけの精神力を摩耗させたか、フリーレンは知らない。

「変なの。気温は高いのに。」

フリーレンは不思議そうに首を傾げたが、それ以上深く追求することはしなかった。

彼女にとって、ヒンメルの不調は一時的なものであり、解決すべき深刻な問題ではないと判断したのだろう。

彼女は再び魔導書に視線を落とし、ページをめくった。

「早く食べて。あの子――サテラだっけ。探しに行かないと。」

サテラ。

その名前を聞いた瞬間、ヒンメルの脳裏に、次の記憶がフラッシュバックした。

盗品蔵。

エルザ。

惨劇。

あそこに行けば、また殺される。

確実に、殺される。

あの女の強さは異常だった。

フリーレンの魔法すら防ぎきる、理不尽な加護。

そして、視認すら困難な速度。

今の僕たちでは、勝てない。

「……フリーレン。」

ヒンメルは、受け取ったパンを握りしめたまま、声を絞り出した。

「ん?」

「もし……もしも、僕たちがこれから行く場所に、とてつもなく強い敵が待ち構えているとしたら、どうする?」

「強い敵?」

フリーレンは顔を上げずに答えた。

「倒すだけだよ。魔王より強いなら別だけど。」

淡々とした答え。

そこには、恐怖も迷いもない。

彼女は、自分が負けることなど想像もしていないのだ。

数千年の時を生きてきたエルフの、絶対的な自信。

だが、ヒンメルは知っている。

その自信が、あの薄暗い倉庫の中で、無惨に砕け散ったことを。

彼女の魔法が通じず、彼女の目の前で僕が殺され、彼女が絶望の叫びを上げたことを。

(言えない。)

ヒンメルは唇を噛んだ。

(僕が未来を見てきたなんて言っても、彼女は信じないだろう。

いや、信じたとしても……僕があんな無様な死に方をしたと知ったら、彼女は傷つく。)

彼女の記憶に、僕の死に顔を残したくない。

あの、泣き崩れるフリーレンの顔を、二度と見たくない。

そのためには。

僕が、一人で背負うしかない。

この恐怖も、痛みも、冷たさも。

全てを笑顔の下に隠して、何事もなかったかのように振る舞うしかない。

それが、勇者の役目だ。

「……そうだね。君なら、倒せるさ。」

ヒンメルは、パンを口に運んだ。

味はしなかった。

まるで、砂を噛んでいるようだった。

飲み込むたびに、喉が引きつり、胃が拒絶反応を示す。

それでも、彼は無理やり咀嚼し、嚥下した。

生きていくために。

そして、再び訪れるであろう死の運命に抗うために。

「おい、兄ちゃん。結局買うのかい?」

店主の呆れたような声が、現実への楔となる。

ヒンメルは、懐から硬貨を取り出した。

この世界の通貨はまだよくわからないが、フリーレンが「適当に作った金貨」で通用するのは確認済みだ。

「ああ、もらうよ。一番赤くて、綺麗なやつを一つ。」

ヒンメルは店主に金貨を弾き、真っ赤なリンガを受け取った。

その赤色は、やはり血の色に似ていた。

だが、ヒンメルはそれを直視し、強く握りしめた。

逃げない。

この赤色は、死の色ではない。生命の色だ。

そう言い聞かせるように。

「行こうか、フリーレン。僕たちの冒険は、まだ始まったばかりだ。」

マントを翻し、ヒンメルは歩き出した。

その背中は、いつものように堂々としていた。

少なくとも、後ろを歩くフリーレンには、そう見えたはずだ。

すれ違う人々の影が、夕暮れのように長く伸びているような錯覚を覚える。

本当は、足がすくんでいる。

本当は、今すぐにでも逃げ出して、布団の中に潜り込んで震えていたい。

けれど、隣にはフリーレンがいる。

彼女が平然としている限り、僕も平然としていなければならない。

たとえ、この体が内側から壊れ始めていたとしても。

「ねえ、ヒンメル。」

不意に、フリーレンが背後から声をかけてきた。

心臓が跳ねる。

――バレたか?

「……なんだい?」

振り返らずに答える。

「さっきのパン、私の食べかけだったかも。」

「……え?」

ヒンメルは足を止め、振り返った。

フリーレンは、悪びれもせず、少しだけ申し訳なさそうに――いや、ほとんど気にしていない様子で言った。

「お腹いっぱいだったから、あげるの忘れててポケットに入れてたやつ。ちょっと古かったかも。」

「…………」

ヒンメルは、呆気にとられた。

死の恐怖、孤独、決意。

それらが渦巻く張り詰めた心が、彼女のあまりにも緊張感のない言葉で、プツンと音を立てて緩んだ。

「……はは。」

自然と、笑いがこみ上げてきた。

それは虚勢でも、自嘲でもない、心からの苦笑だった。

「君は……本当に、変わらないね。」

「? 褒めてるの?」

「ああ、褒めているよ。君が君でいてくれて、本当に良かった。」

ヒンメルは、目尻に浮かんだ涙をさりげなく指で拭った。

この日常を守りたい。

この、どうしようもなくマイペースで、平和ボケしたエルフの少女が、血に塗れることなく、ただ退屈そうにあくびをしていられる世界を守りたい。

そのためなら。

僕は何度でも、あの地獄に戻れる気がした。

「行くよ、日が暮れてしまう。」

「はいはい。」

二人は歩き出す。

王都の雑踏の中へ。

死の運命が待ち受ける、その中心へ。

ヒンメル・ザ・ヒーロー。

彼だけが、繰り返される時間の牢獄の中で、孤独な戦いを開始していた。

その手は、まだ氷のように冷たかったが、握りしめた剣の柄の温もりだけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。

空を見上げると、どこまでも蒼く、高い空が広がっていた。

まるで、何も知らぬ顔で。

「綺麗だね。」

フリーレンが空を見上げて呟く。

「ああ、そうだね。」

ヒンメルは同意した。

だが、彼の目に見えているのは、その蒼穹の向こうに透けて見える、あの粘着質な深紅の絶望だった。

それでも、勇者は笑った。

それが、彼の魔法だったからだ。

「でも、僕の瞳の方が綺麗だろう?」

「……はいはい。」

呆れたようなフリーレンの溜息が、雑踏の騒音に溶けていく。

二度目の「最初の日」が、静かに動き出していた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。