熱かった。
焼けた鉄柱を、生きたまま腹の中に突き刺されたような熱だった。
肉が裂けるというよりは、熱量によって組織が蒸発していくような感覚。
骨が砕ける音は、自分の体内から響く不快な振動として脳髄に直接伝わってきた。
視界が赤い。
朱色ではない。鮮烈で、残酷なほどに混じりけのない深紅。
それが視界の全てを覆い尽くしていた。
息ができない。
喉の奥から溢れ出してくるのは空気ではなく、生温かい液体と、ごぼりという不快な泡の音だけだ。
痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
勇者として数多の戦場を潜り抜けてきた。
魔族の放つ腐食魔法を受けたこともある。
ドラゴンの爪にかすり傷を負わされたこともある。
だが、これは違う。
これは、「死」そのものだ。
生命活動を強制的に停止させるための、圧倒的な暴力による破壊。
意識が遠のく。
指先の感覚が消える。
地面の冷たさが頬に触れているはずなのに、それすら感じない。
ただ、最後に見た光景だけが網膜に焼き付いている。
――涙で顔をぐしゃぐしゃにして、僕の名前を叫ぶフリーレンの顔。
ああ、泣かないでくれ。
君のその顔を見るのが、この耐え難い激痛の中で唯一、僕の心を抉る痛みだ。
ごめん、フリーレン。
約束した冒険の終わりまで、連れて行ってあげられなくて。
君に、あの言葉を伝えられなくて。
暗闇が落ちてくる。
思考が断絶する。
僕は、勇者ヒンメルは、ここで終わ――
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「――らっしゃい! 赤いのと青いの、どっちにするんだい?」
唐突に、光が炸裂した。
網膜を焼くような白い光。
鼓膜を叩く、野太い男の声。
そして、鼻腔をくすぐる甘酸っぱい果実の香り。
「……は?」
ヒンメルの口から、掠れた声が漏れた。
世界が反転していた。
先ほどまでそこにあったはずの、薄暗く埃っぽい盗品蔵の天井はない。
鼻をつく血と臓物の腐臭もない。
冷たい石床の感触も、腹を食い破られるような灼熱の痛みも、消え失せていた。
代わりに目の前に広がっていたのは、活気に満ちた往来と、昼下がりの眩しい太陽。
そして、木箱に山積みにされた大量の果物だった。
「どうした兄ちゃん、鳩が豆鉄砲を食らったような顔して。リンガを買うのか、買わないのか。はっきりしてくれよ。」
目の前に立つのは、顔に大きな傷のある強面の店主だ。
見覚えがある。
いや、知っている。
この男には、つい数時間前に会ったはずだ。この世界――王都ルグニカに到着してすぐ、情報収集のために立ち寄った果物屋の店主。
「……夢?」
ヒンメルは呆然と呟き、自分の腹部を見下ろした。
白いマント。青い衣服。
そこには、一滴の血も付着していなかった。
破れた痕跡すらない。
清潔で、仕立ての良い生地が、昼の光を浴びて白く輝いている。
「……」
ヒンメルは震える手で、自分の腹に触れた。
柔らかい感触。
肋骨の下、筋肉の弾力。
その奥にある内臓の、規則正しい収縮。
傷はない。
どこにも、傷ひとつない。
「あ……、ぅ……」
だが、脳は覚えている。
刃が皮膚を切り裂き、脂肪層を断ち、腹膜を突き破って腸を引きずり出した、あのぬるりとした感触を。
幻痛(ファントム・ペイン)。
存在しないはずの傷口が、記憶の中で熱を持ち、脈打っている。
ヒンメルは反射的に口元を押さえた。
胃の腑から、強烈な酸味がせり上がってくる。
――嘔吐感。
血の味だ。口の中に、鉄錆のような血の味が残っている気がする。
「おいおい、大丈夫か? 顔色が真っ青だぞ。貧血か?」
店主が怪訝そうに顔を覗き込んでくる。
ヒンメルは大きく息を吸い込み、肺を満たそうとした。
だが、空気は肺に入ってこない気がした。まるで、横隔膜が機能していないかのように、呼吸が浅い。
(落ち着け。落ち着くんだ、ヒンメル。)
彼は心の中で、自分自身に命令を下した。
(これは、なんだ? 走馬灯か? それとも、あの死の間際に見ている願望夢か? 僕はまだ、あの薄暗い倉庫の床で血を流して倒れていて、これは死にゆく脳が見せている都合のいい幻覚なのか?)
そうだ、きっとそうに違いない。
だって、あんなに鮮明だったのだ。
エルザと名乗った女の、愉悦に歪んだ笑顔。
フリーレンの悲鳴。
自分の命が指の隙間から零れ落ちていく感覚。
あれが現実でなくて、何だというのか。
「ヒンメル、どうしたの? 買うの? 買わないの?」
不意に、横から平坦な声がかけられた。
鈴を転がすような、けれど温度のない、聞き慣れた声。
ヒンメルは、弾かれたように横を向いた。
「……フリーレン。」
そこに、彼女はいた。
白いエルフの少女。
長い耳。透き通るような銀髪。そして、感情の読めない緑色の瞳。
彼女は、店先に並べられた赤い果実――リンガを興味なさそうに眺めながら、片手には分厚い魔導書を開いていた。
いつもの姿だ。
あまりにも日常的な、旅の途中の一コマ。
その頬には涙の跡などなく、服も汚れていない。
「……フリーレン、君は……無事、なのか?」
ヒンメルの問いかけに、フリーレンは魔導書から視線を上げ、小首を傾げた。
「無事? 何が? 転んでもいないし、魔物に襲われてもいないけど。」
「いや、でも、さっき……あの女に……」
「あの女?」
フリーレンの瞳には、純粋な疑問だけが浮かんでいた。
演技ではない。
彼女は、本当に知らないのだ。
黒いドレスの殺し屋のことも。
ヒンメルが腹を割かれて死んだことも。
彼女自身が、その死に顔を見て絶叫したことも。
――全て、彼女の記憶には存在しない。
(認識の……断絶。)
ヒンメルは戦慄した。
孤独だ。
これほどまでにフリーレンが近くにいるのに、彼女と僕の間には、決定的な世界のズレがある。
僕だけが、あの地獄を知っている。
僕だけが、死の淵を見て戻ってきた。
「……は、はは。」
乾いた笑いが漏れた。
膝が震えているのがわかる。
立っているのがやっとだ。
世界の解像度が高すぎる。
太陽の光が眩しすぎて、影の黒さが濃すぎる。
道行く人々の話し声、馬車の車輪が石畳を削る音、風が運んでくる様々な匂い。
それら全てが、暴力的なまでの情報量を持ってヒンメルの脳を圧迫する。
生(せい)が、あまりにも鮮やかすぎる。
死の無機質な冷たさを知ってしまった身には、この世界の生命力は毒のように強すぎた。
「ヒンメル?」
フリーレンが、怪訝そうに眉をひそめて近づいてくる。
彼女の視線が、ヒンメルの顔に向けられる。
まずい。
こんな、怯えた子供のような顔を見せてはいけない。
僕は勇者だ。
彼女を導く、余裕と自信に満ちた英雄でなければならない。
ヒンメルは、必死に表情筋に力を込めた。
奥歯を噛み締め、胃からせり上がる吐き気をねじ伏せる。
震える指先を隠すように、前髪をかき上げた。
「……やれやれ。少し、目眩がしただけだよ。この世界の太陽は、僕の美貌に嫉妬して少し張り切りすぎているみたいだね。」
口をついて出たのは、いつもの軽口だった。
だが、その声は上擦り、喉の奥で微かに震えていた。
鏡がなくともわかる。
今の僕の笑顔は、ひきつって、酷く滑稽なものになっているだろう。
けれど、フリーレンはそんなヒンメルの微細な変化を、別の意味で解釈したようだった。
「……お腹、すいたの?」
「え?」
「人間って、お腹がすくと力が入らなくなるんでしょ。さっきから震えてるし。」
フリーレンは、懐から無造作に何かを取り出した。
硬く焼き締められた、黒パンの欠片だ。
「はい。これあげる。」
彼女はそれを、まるで野良犬に餌をやるような手つきで差し出した。
ヒンメルは、そのパンを見つめた。
ただのパンだ。
旅の保存食。味気なくて、硬くて、噛みしめると少し酸っぱい、いつものパン。
だが、それが今は、この世界と自分を繋ぎ止める唯一の現実的な物体のように思えた。
「……ありがとう。」
ヒンメルは、右手を伸ばした。
その手は、やはり震えていた。止めようとしても止まらない。
指先がパンに触れる。
その瞬間、フリーレンの指先にも触れた。
「っ!」
フリーレンが、ビクリと手を引っ込めた。
彼女は驚いたように目を見開き、自分の指先をさすりながら、ヒンメルを見た。
「ヒンメル……手、すごく冷たい。」
「あ……」
「氷の魔法でも触ったの? まるで、死人みたいに冷たいよ。」
死人。
その言葉が、ヒンメルの胸を鋭く刺した。
そうだ。
僕は一度、死んだのだ。
心臓は止まり、血流は途絶え、体温は失われた。
これは、その名残なのだろうか。
肉体は再生しても、魂に刻まれた「死の温度」までは戻らなかったということなのか。
ヒンメルは、自分の掌を見つめた。
血色は良い。健康的な肌色をしている。
だが、感覚がない。
自分の手が、他人の肉片のように思える。
「……ごめん。少し、体が冷えてしまったみたいだ。」
ヒンメルは、努めて穏やかに微笑んだ。
その笑顔を作るために、どれだけの精神力を摩耗させたか、フリーレンは知らない。
「変なの。気温は高いのに。」
フリーレンは不思議そうに首を傾げたが、それ以上深く追求することはしなかった。
彼女にとって、ヒンメルの不調は一時的なものであり、解決すべき深刻な問題ではないと判断したのだろう。
彼女は再び魔導書に視線を落とし、ページをめくった。
「早く食べて。あの子――サテラだっけ。探しに行かないと。」
サテラ。
その名前を聞いた瞬間、ヒンメルの脳裏に、次の記憶がフラッシュバックした。
盗品蔵。
エルザ。
惨劇。
あそこに行けば、また殺される。
確実に、殺される。
あの女の強さは異常だった。
フリーレンの魔法すら防ぎきる、理不尽な加護。
そして、視認すら困難な速度。
今の僕たちでは、勝てない。
「……フリーレン。」
ヒンメルは、受け取ったパンを握りしめたまま、声を絞り出した。
「ん?」
「もし……もしも、僕たちがこれから行く場所に、とてつもなく強い敵が待ち構えているとしたら、どうする?」
「強い敵?」
フリーレンは顔を上げずに答えた。
「倒すだけだよ。魔王より強いなら別だけど。」
淡々とした答え。
そこには、恐怖も迷いもない。
彼女は、自分が負けることなど想像もしていないのだ。
数千年の時を生きてきたエルフの、絶対的な自信。
だが、ヒンメルは知っている。
その自信が、あの薄暗い倉庫の中で、無惨に砕け散ったことを。
彼女の魔法が通じず、彼女の目の前で僕が殺され、彼女が絶望の叫びを上げたことを。
(言えない。)
ヒンメルは唇を噛んだ。
(僕が未来を見てきたなんて言っても、彼女は信じないだろう。
いや、信じたとしても……僕があんな無様な死に方をしたと知ったら、彼女は傷つく。)
彼女の記憶に、僕の死に顔を残したくない。
あの、泣き崩れるフリーレンの顔を、二度と見たくない。
そのためには。
僕が、一人で背負うしかない。
この恐怖も、痛みも、冷たさも。
全てを笑顔の下に隠して、何事もなかったかのように振る舞うしかない。
それが、勇者の役目だ。
「……そうだね。君なら、倒せるさ。」
ヒンメルは、パンを口に運んだ。
味はしなかった。
まるで、砂を噛んでいるようだった。
飲み込むたびに、喉が引きつり、胃が拒絶反応を示す。
それでも、彼は無理やり咀嚼し、嚥下した。
生きていくために。
そして、再び訪れるであろう死の運命に抗うために。
「おい、兄ちゃん。結局買うのかい?」
店主の呆れたような声が、現実への楔となる。
ヒンメルは、懐から硬貨を取り出した。
この世界の通貨はまだよくわからないが、フリーレンが「適当に作った金貨」で通用するのは確認済みだ。
「ああ、もらうよ。一番赤くて、綺麗なやつを一つ。」
ヒンメルは店主に金貨を弾き、真っ赤なリンガを受け取った。
その赤色は、やはり血の色に似ていた。
だが、ヒンメルはそれを直視し、強く握りしめた。
逃げない。
この赤色は、死の色ではない。生命の色だ。
そう言い聞かせるように。
「行こうか、フリーレン。僕たちの冒険は、まだ始まったばかりだ。」
マントを翻し、ヒンメルは歩き出した。
その背中は、いつものように堂々としていた。
少なくとも、後ろを歩くフリーレンには、そう見えたはずだ。
すれ違う人々の影が、夕暮れのように長く伸びているような錯覚を覚える。
本当は、足がすくんでいる。
本当は、今すぐにでも逃げ出して、布団の中に潜り込んで震えていたい。
けれど、隣にはフリーレンがいる。
彼女が平然としている限り、僕も平然としていなければならない。
たとえ、この体が内側から壊れ始めていたとしても。
「ねえ、ヒンメル。」
不意に、フリーレンが背後から声をかけてきた。
心臓が跳ねる。
――バレたか?
「……なんだい?」
振り返らずに答える。
「さっきのパン、私の食べかけだったかも。」
「……え?」
ヒンメルは足を止め、振り返った。
フリーレンは、悪びれもせず、少しだけ申し訳なさそうに――いや、ほとんど気にしていない様子で言った。
「お腹いっぱいだったから、あげるの忘れててポケットに入れてたやつ。ちょっと古かったかも。」
「…………」
ヒンメルは、呆気にとられた。
死の恐怖、孤独、決意。
それらが渦巻く張り詰めた心が、彼女のあまりにも緊張感のない言葉で、プツンと音を立てて緩んだ。
「……はは。」
自然と、笑いがこみ上げてきた。
それは虚勢でも、自嘲でもない、心からの苦笑だった。
「君は……本当に、変わらないね。」
「? 褒めてるの?」
「ああ、褒めているよ。君が君でいてくれて、本当に良かった。」
ヒンメルは、目尻に浮かんだ涙をさりげなく指で拭った。
この日常を守りたい。
この、どうしようもなくマイペースで、平和ボケしたエルフの少女が、血に塗れることなく、ただ退屈そうにあくびをしていられる世界を守りたい。
そのためなら。
僕は何度でも、あの地獄に戻れる気がした。
「行くよ、日が暮れてしまう。」
「はいはい。」
二人は歩き出す。
王都の雑踏の中へ。
死の運命が待ち受ける、その中心へ。
ヒンメル・ザ・ヒーロー。
彼だけが、繰り返される時間の牢獄の中で、孤独な戦いを開始していた。
その手は、まだ氷のように冷たかったが、握りしめた剣の柄の温もりだけが、彼を現世に繋ぎ止めていた。
空を見上げると、どこまでも蒼く、高い空が広がっていた。
まるで、何も知らぬ顔で。
「綺麗だね。」
フリーレンが空を見上げて呟く。
「ああ、そうだね。」
ヒンメルは同意した。
だが、彼の目に見えているのは、その蒼穹の向こうに透けて見える、あの粘着質な深紅の絶望だった。
それでも、勇者は笑った。
それが、彼の魔法だったからだ。
「でも、僕の瞳の方が綺麗だろう?」
「……はいはい。」
呆れたようなフリーレンの溜息が、雑踏の騒音に溶けていく。
二度目の「最初の日」が、静かに動き出していた。