ゼロから始める葬送のフリーレン   作:西方物理

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出陣前夜

 夜の帳が、リーファウス街道を静寂で包み込んでいた。

 

 空には満月が浮かび、その蒼白い光が大地に広がる平原を照らし出している。本来ならば、虫の音が響き渡る穏やかな夜であるはずだった。

 

 だが、今宵の空気は張り詰めている。  街道沿いに展開された野営地には、無数の焚き火が焚かれ、火の粉が夜空へと舞い上がっていた。鋼の擦れ合う音、馬のいななき、そして兵士たちの押し殺したような話し声。それらが混じり合い、独特の緊張感を生み出している。

 

 そこには、数百人規模の討伐隊が集結していた。  クルシュ・カルステン公爵が率いる私兵団。アナスタシア・ホーシンが派遣した傭兵団「鉄の牙」。そして、彼らがこれから挑むのは、四百年もの長きにわたり世界を恐怖に陥れてきた伝説の魔獣、「白鯨」である。

 

 死と隣り合わせの夜。  誰もが明日をも知れぬ命に怯え、あるいは覚悟を決めているその只中を、一人の男が歩いていた。

 

 勇者ヒンメル。  彼は、夜風に蒼い髪をなびかせ、優雅な足取りで兵士たちの間を縫って歩く。その姿は、まるで夜会に向かう貴族のように洗練されていた。

 

 外套の裾を翻し、すれ違う兵士一人一人に、自信に満ちた視線を送る。

 

「やあ、いい夜だね。剣の手入れは済んでいるかい?」

 

「顔色が悪いよ。温かいスープでも飲むといい。僕の美しさをおかずにしてもいいが、腹の足しにはならないからね」

 

 軽口を叩き、肩を叩く。  彼の周りだけ、ふわりと空気が緩むようだった。伝説の魔獣への恐怖に凍りついていた兵士たちの顔に、微かな苦笑と安堵が戻る。  誰もが彼を見る。

 

 この絶望的な作戦を立案し、白鯨の出現を予言した英雄。  彼がいれば、あるいは奇跡が起きるのではないか。その背中には、そう思わせるだけの輝きがあった。

 

(……よし。皆、悪くない顔つきだ)

 

 ヒンメルは心の中で安堵の息を吐く。  顔には完璧な「勇者の微笑み」を張り付けたまま、彼は内心で冷や汗を拭った。  怖い。

 

 足が震えそうだ。  兵士たちの視線が集まれば集まるほど、胃の腑に鉛を流し込まれたような重圧がかかる。  彼らは知らないのだ。  この「勇者」が、一度たりとも白鯨に勝ったことなどないという事実を。

 

 いや、それどころか、ヒンメルはこの数週間、何度も何度も無様に死に続けている。魔女教徒の刃に腹を割かれ、見えざる手に首をへし折られ、あるいは狂気に侵された精霊に凍らされ、死の淵を彷徨い続けてきた。

 

 その記憶は、今も鮮明に焼き付いている。  焚き火の爆ぜる音が、肉が焼ける音に聞こえる。  風の音が、刃が空を切る音に聞こえる。  自分の心臓の鼓動が、死へのカウントダウンのようにうるさい。

 

(吐きそうだ……)

 

 奥歯をぐっと噛み締め、ヒンメルは喉元までせり上がってきた酸っぱいものを飲み下した。  鏡を見なくてもわかる。今の自分は、間違いなく顔面蒼白だろう。だが、それを「月光のせい」に見せかける技術だけは、このループの中で嫌というほど上達していた。

 

 彼は立ち止まり、焚き火を囲む一団を見渡した。  若い兵士がいる。歴戦の古強者もいる。  彼らの瞳にあるのは「不安」だ。それを打ち消すために、彼らは英雄という名の偶像を求めている。

 

 ならば、演じなければならない。  世界で一番美しく、強く、そして頼りになる男を。

 

「諸君」

 

 ヒンメルはよく通るバリトンの声で呼びかけた。  ざわめきが止み、数百の視線が一斉に彼に注がれる。

 

「緊張しているようだね。無理もない。相手は四百年間、誰も討ち取れなかった空飛ぶ災厄だ。膝が笑ってしまうのも、夜風がいつもより冷たく感じるのも、君たちが正常である証拠だ」

 

 彼はゆっくりと歩きながら、言葉を紡ぐ。

 

「だが、安心してほしい。この僕がいる」

 

 彼は胸に手を当て、大袈裟なほどに胸を張った。

 

「歴史が変わる瞬間というのは、いつだって突然だ。そして、その瞬間には必ず、相応しい役者が揃うものさ。……そう、例えば、僕のようなね」

 

 クスクス、と控えめな笑い声が漏れる。  ナルシストな発言。平常時であれば呆れられるような台詞。だが、この極限状態においては、その揺るぎない自己愛が「余裕」として映る。

 

「明日の朝、太陽が昇る頃には、君たちは英雄の仲間入りだ。孫の代まで自慢できるぞ。『俺はあの勇者ヒンメルと共に、白鯨を墜としたんだ』とね」

 

 ヒンメルは腰の剣に手をかけた。  その手が、外套の下で微かに震えていることを悟られないように、強く柄を握りしめる。

 

「約束しよう。僕は誰も死なせないつもりで戦う。だが、もし君たちが傷つき、倒れることがあっても……僕はこの戦いを、君たちがここにいたことを、決して忘れない」

 

 その言葉には、嘘偽りのない実感がこもっていた。  忘れない。  忘れられるはずがない。  たとえ時間を巻き戻し、彼らが生きている「今」を手繰り寄せることができるとしても、それでも一人一人の命の重さを、死の冷たさを、ヒンメルは忘れることなんてできない。

 

「君たちの勇気は、僕が記憶する。……このヒンメルが覚えている限り、君たちの生きた証は永遠だ」

 

 静寂。  やがて、一人の兵士が剣を掲げた。

 

 それに呼応するように、二人、三人と剣が掲げられる。  歓声はない。だが、熱のこもった瞳が、そこにはあった。死地に向かう絶望的な空気は消え、代わりに悲壮なまでの決意と、英雄への信頼が満ちていた。

 

 ヒンメルは満足げに頷き、再び歩き出した。  背後で高まる士気を感じながら、彼は独りごちる。

 

(……やれやれ。大見得を切ってしまったな。これでもう、逃げ出すことすらできなくなったわけだ)

 

 喧騒から少し離れた、物資搬送用の竜車の影。  そこに、周囲の熱気とは無縁の静寂があった。  一人のエルフの少女が、荷台に腰掛け、自分の杖を布で丁寧に磨いている。

 

 フリーレンだ。  彼女の周りだけ、時間が止まったように静かだった。兵士たちが彼女を避けているわけではないが、彼女から放たれる人間離れした冷徹な空気が、不用意な接近を拒んでいるのだ。

 

 ヒンメルは少し離れた場所から、その姿を見つめた。  彼女は、変わらない。  千年以上生きるエルフにとって、数日や数週間の戦いなど、瞬きするほどの時間でしかないのだろう。

 

 だが、ヒンメルは知っている。  この世界に来てから、彼女の中で何かが変質していることを。

 

(……強くなっている)

 

 ヒンメルは目を細めた。  昨夜の出来事が脳裏をよぎる。  王都を襲った「感情の爆発」。フリーレンがヒンメルを失う(と思った)瞬間に放った魔力は、王都の一角を一瞬にして氷の城へと変貌させた。

 

 あれは、かつて魔王討伐の旅をしていた頃の彼女の出力ではない。  もっと底知れない、圧倒的な質量の暴力だった。

 

(この世界の異質なマナ……と呼んでいる大気中の魔力が、彼女を変えているのか)

 

 ヒンメルは推測する。  元の世界に比べ、このルグニカという世界のマナは、濃く、重く、そして粘度が高い。まるで水の中を歩いていたのが、蜜の中を泳いでいるような感覚だ。

 

 普通の魔法使いならば、その重圧に潰されるか、魔力酔いを起こして制御不能になるだろう。  だが、フリーレンは違う。  彼女は、その重いマナを完全に「支配」していた。

 

 高度な解析能力と、千年の研鑽によって磨かれた魔力操作技術。それが、この世界の潤沢すぎるマナという燃料を得て、異常なまでの化学反応を起こしている。  今の彼女は、歩く戦略兵器だ。

 

 かつて魔王を倒した時以上の火力を、息をするように行使できる状態にある。  白鯨の位置を「計算」だけで特定したのもそうだ。  彼女には見えているのだろう。この世界の理そのものが。数式と幾何学模様で構成された、魔法の真理が。

 

 それに引き換え――僕はどうだ。

 

 ヒンメルは視線を落とし、自分の手のひらを見つめた。  白く、細く、美しい指。  だが、その手は以前よりも弱々しく見えた。

 

(……弱くなっている)

 

 認めたくない事実が、胸を刺す。  魔王を倒したあの頃。それと比べて、今の自分は明らかに「脆い」。

 

 もちろん、肉体的な年齢は変わっていない。筋肉が衰えたわけでもない。  だが、「魂」が削れている。  そんな感覚があった。  死に戻りを繰り返すたびに、体の中に澱のようなものが溜まっていく。反応速度がコンマ数秒遅れる。直感が鈍る。剣を振るう瞬間の「踏み込み」に、無意識の躊躇いが生まれる。

 

 かつての自分なら、反射的に躱せた刃が、今はかすめる。  かつての自分なら、迷わず踏み込めた死地で、足がすくむ。  死の記憶が、鎖となって体に巻き付いているのだ。

 

 痛み。熱さ。寒さ。絶望。それらが、無意識下で体にブレーキをかける。  「生存本能」という名の錆が、勇者の剣を鈍らせている。

 

(あの頃も、決して僕は一番強いわけじゃなかった)

 

 怪力無双のアイゼンがいた。  圧倒的な火力のフリーレンがいた。  しぶとさと奇跡のハイターがいた。

 

 彼らと比べれば、僕はただの人間だった。それでも、僕には「速さ」があった。迷いのなさがあった。誰よりも早く敵に突っ込み、誰よりも早く決断する。それが勇者ヒンメルの強さだった。

 

 だが今は、その「迷いのなさ」が失われている。  自分が弱い。  フリーレンが強大になればなるほど、自分の矮小さが際立つ。  彼女は神話の領域に足を踏み入れつつあるのに、自分だけが泥の中で摩耗していく。

 

 このままでは、いつか彼女の隣に立てなくなるのではないか。  そんな恐怖が、白鯨への恐怖とは別の冷たさを持って、心臓を鷲掴みにした。

 

「……ヒンメル様」

 

 不意に、鈴を転がしたような声が鼓膜を揺らした。  ハッと我に返る。  いつの間にか、すぐそばに青い髪のメイドが立っていた。

 

 レムだ。  彼女の手には、湯気の立つマグカップが握られている。

 

「考え事を、されていましたか?」

 

「ああ、レムか。……ありがとう。ちょうど喉が渇いていたところだ」

 

 ヒンメルは笑顔を作り、彼女からカップを受け取った。中身は温かいお茶だ。ほんのりと甘い香りがする。  レムはじっとヒンメルを見つめていた。  その瞳は、澄み切った湖のように静かで、そして深い。

 

 彼女だけが知っている。  ヒンメルから漂う「魔女の残り香」を。そして、その香りが濃くなっていることを。  彼女の鼻には、今のヒンメルはどう映っているのだろうか。

 

 死臭を纏った動く死体か。それとも、腐敗臭を香水で誤魔化した道化か。

 

「……怖くありませんか?」

 

 レムが、ぽつりと零した。  それは、周囲の兵士たちには聞こえないほどの、小さな、けれど確かな問いかけだった。

 

「相手は伝説の魔獣です。あのヴィルヘルム様ですら、人生を懸けて挑む相手です。貴方の記憶だって奪ってしまった、正真正銘の化け物……ヒンメル様は、震えていらっしゃいます」

 

 指摘され、ヒンメルはカップを持つ指を見た。  震えている。  紅茶の水面が、小刻みに波紋を描いている。

 

 隠していたつもりだった。前髪をかき上げる仕草で、腕を組むポーズで、必死に隠蔽していた「弱さ」を、この少女は見抜いていた。  彼女の視線は、ヒンメルの仮面の下にある、生傷だらけの素顔を直視している。

 

 否定することは簡単だ。  「武者震いだ」と笑い飛ばすこともできる。  だが、ヒンメルはそうしなかった。  彼女に対してだけは、嘘をつき通せない気がした。彼女もまた、大切な人を守るために、己の弱さと戦っている「共犯者」のような匂いがするからだ。

 

「……怖いよ」

 

 ヒンメルは、吐息のように呟いた。  その声は、勇者のものではなく、ただの一人の青年のものだった。

 

「本当は逃げ出したい。足がすくんで、一歩も動けなくなりそうだ。……自分が弱くなっているのを感じるんだ。かつての僕なら、もっと堂々としていたはずなのに」

 

 弱音だった。  誰にも見せたことのない、惨めな告白。

 

 だが、それを口にした瞬間、不思議と胸のつかえが少しだけ取れたような気がした。  レムは何も言わず、ただ静かに彼を見つめている。軽蔑の色はない。ただ、痛ましいものを見るような、慈愛に満ちた眼差しがあった。

 

 ヒンメルは顔を上げ、視線を遠くに向けた。  その先には、まだ杖を磨いているフリーレンの姿がある。

 

「でもね、レム。……見られているんだ」

 

 ヒンメルは、カップを口元から離し、口角を吊り上げた。  震える指に力を込め、無理矢理に止める。

 

「彼女が、見ている」

 

「フリーレン様が、ですか?」

 

「ああ。彼女は僕の物語の観客だ。……いや、違うな。彼女こそが、僕が生きた証を未来へ運んでくれる語り部なんだ」

 

 ヒンメルの瞳に、かつての英雄の光が戻る。

 

 それは虚勢かもしれない。  だが、愛する女に格好いいところを見せたいという、男の単純で強固な虚栄心だった。

 

「僕がどれだけ弱くなっていようと、ボロボロだろうと、関係ない。僕は彼女の記憶の中で、一番格好いい勇者でなくちゃいけないんだ」

 

 彼は鏡を見るように、レムの瞳に映る自分に向かって微笑んだ。

 

「だから、僕は戦うよ。たとえ膝が震えていても、ハッタリと美貌でねじ伏せてみせるさ。……それが、勇者ヒンメルという男だからね」

 

 レムは、一瞬だけきょとんとし、それから花が綻ぶように優しく微笑んだ。

 

「……はい。ヒンメル様は、本当に……手の焼ける英雄ですね」

 

「おや、最高の褒め言葉だね」

 

 ヒンメルは茶を一気に飲み干すと、空になったカップを彼女に返した。

 

 もう、震えは止まっていた。  恐怖が消えたわけではない。恐怖を抱えたまま、それを「格好良さ」という名の衣装で着飾る覚悟が決まっただけだ。  彼は踵を返し、前線へと戻っていく。

 

 その背中は、先ほどよりも少しだけ大きく見えた。  レムは、その背中から漂う匂いを嗅ぐ。  死の腐臭と、血の鉄錆の匂い。  けれど、その奥底に確かに香る、雨上がりの草原に咲く「蒼月草」のような、凛とした魂の匂いを。

 

「……ご武運を、ヒンメル様」

 

 彼女は小さく祈るように呟いた。

 

          ***

 

 遠く離れた荷台の上。  フリーレンは、磨き終えた杖を光にかざし、傷一つない紅い宝石の輝きを確かめていた。  そしてふと気が付いて、遠ざかっていくヒンメルの背中を、半眼でぼんやりと眺めた。

 

 蒼い髪の男。  自分を「美しい」と公言して憚らない、ナルシストな勇者。  記憶の中の彼もそうだったのか、彼女にはまだ思い出せない。けれど、今の彼は、まるで硝子細工のように危うくて、それでいて妙に眩しい。

 

 人間という生き物は、どうしてこうも、自分の弱さを隠したがるのだろうか。  合理的ではない。  怖いなら逃げればいい。弱いなら隠れればいい。  生存戦略としては下策だ。

 

 けれど、彼は逃げない。震えながら、笑って前へ進んでいく。

 

「……やっぱり」

 

 フリーレンは杖を抱きしめ、小さく呟いた。

 

 その声には、呆れと、そしてほんの少しの愛おしさが滲んでいた。

 

「やっぱり、変な人間だね。君は」

 

 夜風が吹き抜け、彼女の銀色の髪と、ヒンメルの蒼い髪を、同じ方向へとなびかせていった。

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